風姿花伝第四 神儀(じんぎ)に云(い)はく

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原文

風姿花伝第四 神儀(じんぎ)に云(い)はく

一、申楽(さるがく)、神代の始まりといつぱ、天照大神(あまてるおほんがみ)、天(あま)の岩戸(いわと)に籠(こも)り給ひし時、天下常闇(とこやみ)に成りしに、八百万(やほよろづ)の神達、天(あま)の香久山(かぐやま)に集り、大神の御心をとらんとて、神楽(かぐら)を奏し、細男(せいなう)を始め給ふ。

中にも、天(あま)の鈿女(うずめ)の尊(みこと)、進み出(い)で給ひて、榊(さかき)の枝に幣(しで)を付けて、声を上げ、火処(ほどころ)焼き、踏み轟(とどろ)かし、神憑(かんがか)りすと、歌ひ舞ひ奏で給ふ。

その御声ひそかに聞えければ、大神、岩戸を少し開き給ふ。国土また明白たり。神達の御面(おんおもて)白かりけり。その時の御遊び、申楽の始めと、云々(うんぬん)。くはしくは口伝(くでん)にあるべし。

現代語訳

風姿花伝第四 神儀に言う。

一、申楽の神代における始まりというのは、天照大神が天の岩戸に御籠りになったとき、世の中が真っ暗闇となってしまったので、八百万の神々が天の香久山に集り、大神のご機嫌を直そうとして、岩戸の前で神楽を奏し、細男(滑稽な物まねわざ)を演じられた。

中でも天の細女尊が進み出られ、榊の枝に御幣を付けたのを手に持ち、歌声を上げながら、庭火を焚き、足を踏んで足音を響かせ、何かが乗り移ったように、踊り狂いなさると、その楽しげな声が、岩戸の中まで聞こえたので、大神は「なにかしら」と岩戸を少しお開きになった。すると、日本中がまた明るくなり、神達の御顔は光に反射して白く輝いたのである。その時の歌舞が、申楽の始めだと伝えられている。なお詳しいことは口伝にあるだろう。

語句

■神儀-神道の秘伝。■神代の始まり云々-神代における起源。以下、日本書紀の文辞と部分的に共通する。■いつぱ-いうのは。■天照大神-高天原の主神で皇室の祖神。弟神素戔鳴尊の乱暴に怒り、天の岩戸に籠ったとされる。■天の香久山-高天原の山の名。■神楽-神をまつるために神前で奏する音楽舞曲。■細男-神楽の中で行われた滑稽な物まねわざ。才男とも。■天(あま)の鈿女(うずめ)の尊(みこと)-上代宮中の神祇(しんぎ)女官であった猿女の祖神。■榊(さかき)の枝に幣(しで)を付けて-巫女の物狂いの様になぞらえたか。■声を上げ-歌声を上げ。■火処(ほどころ)-神楽の時に焚く庭火。■御面(おんおもて)白かりけり-「面白し」の語源と言われる。■口伝にあるべし-神道の秘伝にあるであろうの意か。

備考・補足

■この巻以下、花伝第六花修までの三巻はすべて、巻名の下に「云(にいはく)」を付し、第七「別紙口伝」古本も内題下には「云」が付くらしい。本巻以降は秘伝色が強まる。
■神儀は翁猿学の歴史を神楽の起源と結び付けて説いている。

原文

風姿花伝第四 神儀(じんぎ)に云(い)はく

一、仏在所(ぶつざいしよ)には、須達(しゆだつ)長者、祇園精舎(ぎおんしやうじや)を建てて供養(くやう)の時、釈迦如来(しやかにょらい)、御説法ありしに、提婆(だいば)、一万人の外道(げだう)を伴ひ、木の枝・篠(ささ)の葉に幣(しで)を付て踊り叫(さけ)めば、御供養延べがたかりしに、仏、舎利弗(しやりほつ)に御目を加へ給へば、仏力を受け、御後戸(みうしろど)にて、鼓(つづみ)・唱歌(しやうが)を調(ととの)へ、阿難(あなん)の才覚、舎利弗の智恵、富楼那(ふるな)の弁舌にて、六十六番の物まねをし給へば、外道、笛・鼓の音を聞きて、後戸に集まり、これを見て静まりぬ。

そのひまに、如来供養を延べ給へり。それより、天竺(てんぢく)にこの道は始まるなり。

現代語訳

風姿花伝第四 神儀に言う。

一、インドでは、須達長者が祇園精舎を建立し、その落成祝いの法会が営まれた時、釈迦如来が御説法をなさったところが、弟子の提婆が仏教以外の邪宗の徒1万人をそそのかして、木の枝や、笹の葉に幣を付けて踊り叫んで大騒ぎをし邪魔をしたので、法会を継続することが困難になった。これを憂え、釈迦仏は、もう一人の弟子舎利仏に目くばせをされたので、舎利仏に仏の霊力が乗り移り、祇園精舎の須屋壇の御後戸で鼓を打ち、笛を吹き、別の仏弟子阿難の記憶力、舎利仏の智慧、富楼那の弁舌をもって六十六番の物まねを演じられた。

すると、外道達はこの笛や鼓の音を聞いて、後戸に集り、夢中になってこれを見物したので、騒ぎは治まり、静まりかえってしまった。

その間に如来は法会を続けられた。それ以来、インドにこの申楽の道は始まったのである。

語句

■仏在所-天竺。釈迦如来のいる場所の意。■須達(しゆだつ)長者-天竺舎衛国の富豪。■祇園精舎-中インド舎衛城南郊の祇陀太子庭園中に、釈迦の為に建てられた寺。■供養-祇園精舎落成のために法会を営むこと。■提婆-釈迦の従兄で仏弟子となったが後に離反し釈迦に対抗。■外道-仏教以外の邪宗の徒。■叫めば-叫べば。■延べる-法会を営むこと。■舎利弗-智慧第一とされる釈迦十大弟子の一人。■御目を加え-目くばせをすることか。■仏力をうけ-釈迦如来の意を受けの意で、その霊力に感応するような言い回しをしたか。■後戸-仏殿後方の戸。須屋壇の後ろ側にある戸。■唱歌-笛の事。■阿難-多聞(教説を記憶すること)第一とされる十大弟子の一人。■富楼那-弁舌第一とされる十大弟子の一人。

原文

風姿花伝第四 神儀(しんぎ)に云(い)はく

一、日本国においては、欽明(きんめい)天皇の御宇(ぎよう)に、大和(やまと)国泊瀬(はつせ)の河に洪水の折節、河上より一つの壷(つぼ)流れ下る。三輪(みわ)の杉の鳥居のほとりにて、雲客(うんかく)この壷を取る。中にみどり子あり。かたち柔和にして玉のごとし。これ、降(ふ)り人(びと)なるがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、みかどの御夢にみどり子の云(い)はく、「我はこれ、大国秦(しん)の始皇(しくわう)の再誕なり。日域(じちゐき)に機縁ありて今現在す」といふ。みかど奇特(きどく)に思(おぼ)し召し、殿上(てんじやう)に召さる。成人に従ひて、才智人に越えば、年十五にて大臣の位に上り、秦の姓(しやう)を下さるる。「秦(しん)」といふ文字、「はだ」なるがゆゑに、秦河勝(はだのかうかつ)これなり。

上宮太子(じやうぐうたいし)、天下(てんが)少し障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番の物まねをかの河勝に仰(おほ)せて、同じく六十六番の面(めん)を御作(ごさく)にて、すなはち河勝に与へ給ふ。

橘(たちばな)の内裏(だいり)紫宸殿(ししんでん)にてこれを勤(きん)ず。天下治まり、国静かなり。上宮太子、末代のため、神楽(かぐら)なりしを、「神」といふ文字の偏(へん)を除(の)けて、旁(つくり)を残し給ふ。これ、日暦(ひよみ)の「申(さる)」なるがゆへに、「申楽(さるがく)」と名づく。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または神楽を分(わ)くればなり。

かの河勝、欽明(きんめい)・敏達(びだつ)・用明(ようめい)・崇峻(しゆしゆん)・推古(すいこ)・上宮太子に仕え奉り、この芸をば子孫に伝へ、化人(けにん)跡を留(と)めぬによりて、摂津(せつつ)の国難波(なには)の浦より、うつほ船に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨(はりま)の国坂越(しやくし)の浦に着く。浦人船を上げて見れば、かたち人間に変はれり。諸人に憑(つ)き祟(たた)りて奇瑞(きずい)をなす。すなはち、神と崇(あが)めて、国豊かなり。

「大きに荒るる」と書きて、大荒(たいくわう)大明神と名づく。今の代に霊験あらたなり。本地(ほんぢ)毘沙門天王(びしゃもんてんわう)にてまします。上宮太子、守屋(もりや)の激臣(げきしん)を平らげ給ひし時も、かの河勝が神通(じんづう)方便(はうべん)の手にかかりて守屋は失(う)せぬ、と云々(うんぬん)。

現代語訳

風姿花伝第四 神儀に言う。

一、日本国における猿楽の起源は、欽明天皇の御代に、大和の国泊瀬川が洪水に見舞われたとき、河上から一つの壷が流れ下ってきた。三輪の神杉の鳥居のほとりで貴族の一人が拾ってみると、中には嬰児が入れられており、顔が優しく、玉のように美しい子供であった。

これは、天からの授かりものだとして、朝廷にその旨をお知らせになった。その夜、みかどの夢に赤子が現れて、「私は、中国秦の始皇帝の生まれ変わりである。日本に縁があって今現れた」といった。

帝は不思議なこともあるものだとお思いになり、宮中に召された。その嬰児は大きくなるに従い、その才能を発揮し、わずか十五歳にして大臣の位に上り、帝より秦の姓を下されたのである。「秦」という文字は「はだ」と読まれるので、「秦河勝(はだのかわかつ)」がその人である。

聖徳太子は、世の中に災害や凶事がいくらか続いた時、神代やインドの吉例に従って、六十六番の物まねの作成をその河勝にお命じになり、同じく六十六番の面を自ら作られ、そのまま河勝にお与えになった。

河勝は、この六十六番の猿楽を橘の内裏紫宸殿において演じることになったが、その結果、天下の災害や凶事も治まり、国も静かになった。そこで、聖徳太子は、釈迦の時代からずっと下って「末代」になっているからというので遠慮され、元は神を祭るから「神楽」と呼ばれていたものを、「神」という文字の示偏(しめすへん)を取り除き、旁(つくり)のみを残された。これが、十二支の申と同じであることから、「申楽」と名付けられた。すなわち、楽しいことを申すということでもあり、神楽の芸から枝分かれしたことを示すために、文字を分割したのである。

その河勝は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古の五天皇並びに聖徳太子に仕え、この芸を子孫に伝えた後、「権化の人は遺骸を残さないと」いうことわざのとおり、摂津の国難波の浦から丸木舟に乗って、風にまかせて瀬戸内海に船出した後、播磨の国、坂越に漂着したが、浦人が船を引き上げて中を見ると、姿は人間とは似ても似つかぬものに変化していた。それが多くの人々に憑き祟って色々と不思議なことが起こったので、神として祭ると、あたり一帯が豊かになった。この神は「大に荒れる」と書いて、大荒大明神(たいこうだいみようじん)と名を付けた。今の世でも霊験あらたかな神として崇められている。この神の本体はインドの毘沙門天で、それが日本に荒神様となって現れなさったものだ。

聖徳太子が物部守屋という謀反人を滅ぼされた時も、あの河勝の霊妙不可思議な矢に当たって、守屋は討ち死にした、と言われている。

語句

■欽明天皇-在位五三九年~五七一年。第二十九代の天皇。紀、即位前紀に霊無により秦大津父を召したことが見える。『明宿集』には推古天皇の時代というが、『円満井座系図』にも、欽明天皇御宇とする。■御宇(ぎよう)-〔「宇」は世界の意〕ある天皇が天下を治めた期間。御治世。御代(みよ)。■泊瀬-長谷寺の東を流れる川。佐保川・飛鳥川と合流して大和川となる。■三輪-『明宿集』には「磯城島(桜井市)のあたりにて」という。磯城島(しきしま)は欽明天皇遷都の地。■雲客-殿上人(清涼殿(せいりようでん)の殿上の間(ま)に昇殿を許された人。四位・五位で昇殿を許された人、および六位の蔵人(くろうど))。■柔和-優しく穏やかな様。■降り人-天上の世界から地上に降りてきた人。天人。■みどり子-嬰児。子供。■大国-中国のこと。■秦の始皇-秦帝国の初代皇帝。在位前二四七~前二一○。帰化人秦氏は始皇帝末裔と称した。■日域-日本のこと。■現在す-現に存在すること。■成人に従ひて-成人する従って(明宿集)。■上宮太子-聖徳太子の異称。■障り-災害や凶事。■御作-貴人の手に成る作品。■すなはち-すぐに。即座に。■橘の内裏-太子誕生の地で、太子により仏頭山菩提寺(橘寺)が建てられ、又、欽明天皇の皇居があったと伝えるところから、太子在世当時の内裏と誤解したか。■紫宸殿-内裏の正殿。■末代のため-末代の衆生((仏教語)「すじやう」とも。仏の救済の対象となる、いっさいの生き物。特に、すべての人間。)のため、の意か。時代を錯誤した表現。■神楽-『明宿集』に、「その(神代)の神楽といつぱ、猿楽なり。昔は神楽と申しけるを、上宮太子の御時、神の字の旁をあそばされて、申楽と号す」といい、「かの河勝に猿楽の業を仰せ下されて、橘の内裏紫宸殿にて翁を舞い初む」ともいう。■日暦-十二支。■敏達天皇-第三十代(在位五七二~五八五)。■用明天皇-第三十一代(在位五八五~五八七)。■崇峻天皇-第三十二代(在位五八七~五九二)。■推古天皇-第三十三代(在位五九二~六二八)。■聖徳太子-六二二年没。■化人-化生の人。ここは変化の意味ではなく、権化(仏神が仮に人間の姿をとったもの)。■難波の浦-もと大阪市上町台地の西側に面していた海域。■うつほ船-丸木舟。■西海-瀬戸内海のこと。■坂越の浦-兵庫県赤穂市にある坂越港近辺。■託宣-神のお告げ。■奇瑞をなす-霊験をあらわすこと。■大荒大明神-坂越にある大避(おおさけ)神社。寛文四年序の神社便覧に「風姿花伝抄」を引いて考証する。現在は祭神を、秦河勝とするが、世阿弥当時からそうした伝承があったものか。■本地-神明(神の異称)の本体である仏菩薩。■毘沙門天王-多聞天とも。仏法の守護神で四天王の一。禅竹氏信(室町時代中期の能役者・能作者。名は七郎氏信(うじのぶ)。禅竹は法名。能の大成者・世阿弥の娘婿で、金春流中興の大夫として、奈良を中心に広い範囲で活躍した。)の曽祖父が毘沙王権守、大伯父が毘沙王次郎と名乗ったのもこの伝説によるか。■守屋-物部守屋(古代の豪族。物部尾輿の子。敏達1 (572) 年大連 (おおむらじ) となり,排仏派として,崇仏派の大臣蘇我馬子と対立していた。同 14年諸国に疫病が流行すると,守屋は,この疫病の流行を馬子が仏像を礼拝し寺塔を建立したためであるとして,寺塔を焼き,仏像を難波堀江に捨てた。)五八七年没。河勝に討たれたことは太子伝の類に詳しい。■神通方便-神技。霊妙不可思議な手段。河勝が射た矢に当たって討ち取られたことをいう。

原文

風姿花伝第四 神儀に云はく

一、平(たひら)の都にしては、村上天皇の御宇(ぎよう)に、昔の上宮太子の御筆の申楽延年(さるがくえんねん)の記を叡覧(えいらん)なるに、まづ、神代・仏在所の始まり、月氏(ぐわつし)・震旦(しんだん)・日域(じちゐき)に伝はる狂言綺語(きやうげんきぎょ)を以(も)て、讃仏転法輪(さんぶつてんぽうりん)の因縁(いんねん)を守り、魔縁(まゑん)を退け、福祐(ふくいう)を招く。申楽(さるがく)舞を奏すれば、国穏やかに、民静かに、寿命長遠(ちゃうをん)なりと、太子の御筆(ぎよしつ)あらたなるによって、村上天皇、申楽を以て天下の祈祷(きたう)たるべしとて、その頃、彼(かの)河勝この申楽の芸を伝ふる子孫、秦氏安(はだのうじやす)なり。六十六番申楽を紫宸殿(ししんでん)にて仕る。そのころ、紀(き)の権(ご)の守(かみ)と申す人、才智の人なりけり。これは、かの氏安が妹婿(いもうとむこ)なり。これをもあひ伴ひて申楽をす。

その後(のち)、六十六番までは一日に勤めがたしとして、その中を選びて、稲経(いなつみ)の翁<翁面>、代径(よなつみ)の翁(三番申楽)、父の助(ぜう)、これ三つを定む。今の代の式三番、これなり。すなはち、法(ほつ)・報(ぼう)・応(おう)の三身(さんじん)の如来をかたどり奉る所なり。式三番の口伝、別紙にあるべし。秦氏安より、光(みつ)太郎・金春(こんばる)まで、二十九代の遠孫なり。これ、大和(やまと)国円満井(ゑんまんゐ)の座なり。同じく、氏安よりあひ伝へたる聖徳太子の御作の鬼面、春日(かすが)の御神影(ごしんえい)、仏舎利(ぶつしやり)、これ三つ、この家に伝はる所なり。

現代語訳

風姿花伝第四 神儀に言う。

一、平安京になってからは、村上天皇の時代に、帝が、昔の聖徳太子の御自筆で書かれた申楽のめでたさを記した『申楽延年の記』をご覧になったところが、それによると、最初に神代やインドでの申楽の起源から始まり、そのインドから西域・中国を経て日本に伝来した申楽が、戯れの技である申楽を演奏することによって仏をたたえ、仏教を流布させるために役立ち、幸運をもたらすということ、また、申楽舞を演奏すると、国は穏やかになり、民の生活も平穏で、寿命も長久であるということが太子の筆ではっきりと書いてあった。太子が書かれた通り、効験あらたかであったから、村上天皇も申楽を以て、天下を平穏にすべきだと祈祷の芸能にしようとなされた。丁度その頃、かの河勝がこの申楽芸を伝えた子孫に、秦氏安というものがいて、紫宸殿において六十六番の申楽を上演した。またその頃に、紀の権の守という人がいてこれもまた芸達者であったが、この人はかの氏安の娘婿であったので、氏安は彼とともにに猿楽を演じた。

ところが、その後、六十六番までは一日では演じきれないというので、その中から抽出して、稲経の翁すなわち翁面の役、代径の翁すなわち三番申楽の役、父の助の三つの芸を基本とした。今の代の式三番がそれである。これはつまり、仏陀の法身・報身・応身になぞらえたものなのである。式三番の口伝は別の書物に記すであろう。秦氏安以来、光太郎・金春まで二十九代を数えている。これが大和の国の円満井座の祖先である。同じく、氏安から合わせ伝えられた、聖徳太子が作られた鬼面、春日大明神の御姿絵、仏舎利の三つがこの家に伝わる家宝である。

語句

■平の都-平安京。■村上天皇-在位(九四六~九六七)。■申楽延年の記-『明宿集』に神代仏在所の説を要約して、「これらの説は、みな上宮太子の自筆の目録なりと云々」という、架空の書。■なるに-「あるに」の連声(れんじょう)<前の音節の末尾の音が、後の音節の頭母音(または半母音+母音)に影響して、後の音節が変化すること>。■月氏-秦漢時代に中央アジアで栄えた遊牧民族で、ここは西域のこと。■震旦-古代中国の異名。■狂言綺語(きやうげんきぎょ)を以(も)て云々-神代・仏在所より伝来した猿楽が、仏をたたえ仏教を流布させるのに役立つということ。(白紙文集)■綺語-みだりに飾って,うわついて誠実さのない言葉。戯れ言。仏教にいう 10種の悪の一つ。■讃仏転法輪-仏の功徳をたたえ、仏教を広めること。■福祐-天のめぐみ。幸福。幸運。■天下の御祈祷-国家鎮護の祝祷。■紀の権の守-観阿弥以前、紀州猿楽に権守を名乗る役者がいた。■御筆あらたなる-筆ではっきりと書かれているさま。■稲径の翁-翁猿楽に登場する白式尉。翁面はその古名。いなつみは稲積み(収穫した稲を積み上げること)。■白式尉(はくしきじょう)-恒久平和、五穀豊穣を祈る能「翁」に用いられる能面で、その中で最も古いとされる面。白い眉と顎鬚、なんともいえぬ優しい表情で、そっと私たちに微笑みかけ癒してくれます。■代径の翁-よなつみは米積か。■三番申楽-三番叟の古名。黒式尉(こくしきじょう)。■黒式尉(こくしきじょう)-三番目に舞う翁の意。①能楽の祝言曲、式三番(しきさんば)で、第一に千歳(せんざい)が舞い、第二に翁が舞った後、三番目に狂言方が出てつとめる老人の舞。黒い面をつけて舞うところから、その面をもいう。②能から歌舞伎、人形浄瑠璃に移入し、序幕の前に祝儀として舞うもの。特に歌舞伎では、「三番叟物」として発達し、晒(さらし)三番、舌出し三番、式三番、子宝三番、操(あやつり)三番などの種目がある。 翁面の一種で、三番叟の面であり、御祈とうを千秋万歳めでたく舞い納める式三番目の尉という意味である。翁にくらべると田になじんだ庶民的な強健さがどことなく感じられる。■父の助-古態の翁猿楽に登場する延命冠者とともに登場する役柄。■式三番-翁と三番猿楽と父尉の三種の舞が揃った、完結の翁猿楽。これに露払いと延命冠者が付随する。観世父子の時代には父尉・延命冠者を割愛し、冒頭の露払いの舞(千歳)を代わりに数えた略式の式三番が行われた。■法・報・応-仏身の三種。真理そのもの、衆生を救うために種々に変じた仏身、菩薩が誓願成就の暁に得る仏身の三身をいう。■式三番の口伝、別紙にあるべし-式三番の口伝の書物化。■光太郎-円満井座第二十七代の棟梁。世阿弥の物心つく以前に没していたらしい鬼面の名手。■金春-禅竹の父弥三郎。金春権守の子。円満井座第二十九代で金春座の太夫。■円満井-金春太夫の能座とともに大和国内の祭礼に勤仕した翁猿楽の座。■これ三つ-『明宿集』に河勝が猿楽に携わるに際し、太子より賜った御作の鬼面、守屋追討の賞に賜った仏舎利を伝えること、翁面と翁御影共々、それぞれ毎月の定日に礼拝すべきことをいう。春日御神影とはこの御影をいうか。

原文

風姿花伝第四 神儀に云はく

一、当代において、南都興福寺(こうぶくじ)の維摩会(ゆいまゑ)に、講堂(かうだう)にて法味(ほふみ)を行ひ給ふをりふし、食堂(じきだう)にて舞延年(まひえんねん)あり。外道(げどう)を和らげ、魔縁を静む。その間に、食堂前にてかの御経(おんきやう)を講じ給ふ。すなはち祇園精舎(ぎをんしやうじや)の吉例なり。

しかれば、大和(やまと)春日(かすが)興福寺神事(じんじ)行ひとは、二月二日、同じく五日、宮寺(みやてら)において、四座(よざ)の申楽(さるがく)、一年中の御神事(ごじんじ)始めなり。天下泰平の御祈祷(きたう)なり。

現代語訳

風姿花伝第四 神儀に言う。

一、現代においても、奈良興福寺の維摩会の際に、講堂で法事を挙行されるちょうどその時、食堂では舞延年が行われる。これは邪教の者どもや魔物をおとなしくさせるためである。その間に、食堂前の講堂において維摩経を講じられるのである。すなわち、これも祇園精舎の吉例に従ったものである。

さて、春日神社及び興福寺での神事の行いとは、薪(たきぎ)猿楽をいうのであって、二月二日同じく五日、春日神社と興福寺南大門前において、四座の猿楽が芸能を勤めるのが一年中のご神事の最初なのである。これは天下泰平の御祈祷の芸である。

語句

■当代において-世阿弥の時代をいうのであろう。■南部-奈良。■維摩会-例年十月に行われる維摩経(大乗仏教経典の一つ)を講じる法会。■講堂-興福寺では中金堂の背後にあった。法会(仏教儀式。仏、菩薩あるいは祖師、先祖の供養や、罪障の懺悔、経典の講説、法の伝授など、ある目的をもって多くの僧侶が集り、説法を行う会のこと。)を執り行う場所。■法味-法要(住職にお経をあげてもらうこと)の事。■舞延年-寺院で、法会のあと僧侶・稚児たちが行った遊宴の歌舞。維摩会に付属する余興であろう。■食堂(じきだう)-講堂東側の、現在は国宝館のある場所にあった、僧徒の食事の為の堂舎。■食堂前にて-講堂は食堂の西側に位置する。隣り合った建物であるので、食堂の前にあたる講堂といったものか。■かの-維摩経のこと。■祇園精舎-第二条参照。■神事-薪猿楽を神事と称したもの。■春日興福寺-春日大社と興福寺を一体視した言い回し。■宮寺-神社と寺。ここでは春日大社と興福寺。■四座-大和申楽四座。次頁参照。

備考・補足

■薪猿楽-奈良興福寺の修二会(しゆにえ)に付した神事猿楽で、薪猿楽、薪の神事とも称され、東・西両金堂、南大門で数日間にわたって行われた。

原文

風姿花伝第四 神儀に云はく

一、大和(やまと)の国春日(かすが)の御神事(ごじんじ)にあひ随(したが)ふ申楽(さるがく)四座。
外山(とび) 結崎(ゆふざき) 坂戸 円満井(ゑんまんゐ)

一、江州日吉(がうしうひえ)の御神事にあひ随ふ申楽三座。
山階(やましな) 下坂(しもさか) 比叡(ひゑ)

一、伊勢(いせ)、呪師(しゆし)、二座。

一、法勝寺(ほつしようじ)御修正(みしゆしやう)参勤申楽三座。
新座<河内住> 本座<丹波> 法成寺(ほふじやうじ)<摂津>
この三座、同じく加茂(かも)・住吉(すみよし)の御神事にもあひ随ふ。

現代語訳

風姿花伝第四 神儀に言う。

一、大和の国春日の御神事に参勤する猿楽四座
外山・結崎・坂戸・円満井。

一、江州日吉の御神事に参勤する猿楽三座
山階・下坂・比叡。

一、伊勢の、呪師の二座。

一、法勝寺御修正会に参勤する猿楽三座。
河内に居住する新座、丹波の本座、摂津の法成寺座。
この三座は同じく上加茂神社、住吉大社の神事にも参勤する。

語句

■春日の御神事-厳密には二月の薪猿楽のみであろうが、実際には室町時代には十一月に行われた春日若宮御祭の猿楽も重要な行事であった。■外山-室生座とともに参勤した翁猿楽座。桜井市内の名前。■結崎-観世座とともに参勤した翁猿楽座。磯城郡川西町の地名。■坂戸-金剛座とともに参勤した翁猿楽座。生駒郡平群(へぐり)町の地名。■江州日吉の御神事-日吉大社の祭礼。元旦から七日まで山階(やましな)が一人で翁を演じた由(申楽談義)だが、詳細不明。■山階-山階と下坂は上三座の一で三兄弟の流れという(『猿楽談義』)。いずれも長浜市内の地名。下坂は衆徒の命で日吉と改名した由(同書)だが、比叡座との関連不明。■比叡-大津市坂本が本拠か。このほか下三座として、大森・酒人・敏満寺の座があった。■伊勢(いせ)、呪師(しゆし)-和屋・勝田(苅田・狩田)の両座であろう。四巻本に「和屋・勝田。又今主司一座あり」という。和屋は松坂市和屋町、勝田は度合郡玉城町勝田、今呪師一座は松坂市阿波曽町の青苧座か。和谷・勝田の両大夫は江戸中期に喜多流門下となり、幕末明治期に至るまで活動した。■法勝寺-京都岡崎にあった白河天皇の御願寺で六勝寺の一。その修正会に参勤した猿楽が以下の三座。■新座-実は摂津猿楽。榎並座。大阪市城東区近辺が本拠か。世阿弥時代に京都で活躍したが世阿弥晩年に廃絶。■本座-丹波在住の矢田座。亀岡市付近が本拠か。伏見御香宮猿楽の楽頭。■法成寺-摂津の宿猿楽のこととすれば茨木市付近が本拠か。早くに廃絶したらしい。■加茂(かも)・住吉(すみよし)の御神事-京都の上加茂神社で七月に行われる御戸代祭、大阪の住吉大社で六月に行われる御田植神事に参勤の猿楽。

備考・補足

<参考文献>

・風姿花伝・三道 現代語訳付き  世阿弥・竹本幹夫訳注
・花伝書(風姿花伝) 世阿弥編 川瀬一馬校注、現代語訳
・風姿花伝 世阿弥編 野上豊一郎・西尾実校訂
・現代語訳 風姿花伝 世阿弥著 水野聡訳
・風姿花伝 世阿弥 現代語訳:夏川賀央

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朗読・解説:左大臣光永

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