白峯 八

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西行、いよよ恐るる色もなく座をすすみて、「君が告(のら)せ給ふ所は、人道(にんだう)のことわりをかりて欲(よく)塵(ぢん)をのがれ給はず。遠く辰(もろ)且(こし)をいふまでもあらず、皇(くわう)朝(てう)の昔誉田(ほんだ)の天皇(すめらみこと)、兄の皇子(みこ)大(おほ)鷦鷯(ささぎ)の王(きみ)をおきて、季(すゑ)の皇子(みこ)宇治の王(きみ)を日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)となし給ふ。

天皇崩御(かみがくれ)給ひては、兄弟(はらから)相譲(あひゆず)りて位に昇(のぼ)り給はず。

三とせをわたりても猶(なほ)果(は)つべくもあらぬを、宇治の王(きみ)深く憂(うれひ)給ひて、『豈(あに)久しく生(いき)て天(あめ)が下を煩(わずらは)しめんや』とて、みづから宝算(よはひ)を断(たた)せ給ふものから、罷事(やんごと)なくて兄の皇子(みこ)御位(みくらゐ)に即(つか)せ給ふ。

是天業(これてんげふ)を重んじ孝悌(かうてい)をまもり、忠(まこと)をつくして人(にん)欲(よく)なし。
            
堯(ぎゃう)舜(しゅん)の道といふなるべし。本朝(ほんてう)に儒教(じゆけう)を尊(たふと)みて専(もはら)王道(わうだう)の輔(たすけ)とするは、宇治の王(きみ)、百済(くだら)の王(わ)仁(に)を召(めし)て学(まな)ばせ給ふをはじめなれば、此の兄弟(はらから)の王(きみ)の御心(みこころ)ぞ、即(やがて)漢土(もろこし)の聖(ひじり)の御心ともいふべし。

現代語訳

西行は少しも恐れず、更に座をにじり進めて言った。

「君主(おかみ)の仰せのことは、人の道の道理を名目にしながら、私利私欲を免れてはおりませぬ。遠い唐土(もろこし)の例を引くまでもなく、我が国でも昔、応仁(おうじん)天皇は、兄皇子の大(おほ)鷦鷯(ささぎ)王子(みこ)をさしおいて、末弟の宇治の王子(みこ)を皇太子にされました。

応仁天皇が崩御されて後、ご兄弟は互いに譲り合い、どちらも帝位にお即(つ)きにならなかった。三年の歳月を過ごしても、この譲り合いが果てそうにもなかったのを、宇治の王子(みこ)は深くお悩みになって「どうしてこれ以上生きて天下国家を煩わせられようか」と、自らお命をお断ちになったので、やむをえず兄皇子の大(おほ)鷦鷯(ささぎ)王子(みこ)が皇位にお即(つ)きになったのです。

これこそ万世一系の天業を重んじ、孝悌の道を守り、誠実を尽くして私欲がありませぬ。

堯(ぎゃう)舜(しゅん)の道というものでありましょう。わが国では古来、儒教を尊重してもっぱらこれを王道の補佐とするのは、この宇治の王子(みこ)が百済の王(わ)仁(に)博士を召され、学ばれた最初としますからには、このご兄弟皇子の御心こそが、そのまま中国の聖人の御心といえるのであります。

語句

■いよよ-「いよいよ」の略。副詞。■座をすすみて-「すすめて」とあるべきところ。
■欲(よく)塵(ぢん)-「五欲六塵」の略語。五欲は色・声・香・味・食の欲望。此の欲望で眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が汚されることを六塵。人間世界の煩悩や欲望をいう。私欲。■辰(もろ)且(こし)-正しくは「震旦」。中国の異称。■皇(くわう)朝(てう)の昔-「■皇(くわう)朝(てう)」は日本。■誉田(ほんだ)の天皇(すめらみこと)-第十五応仁天皇。■大(おほ)鷦鷯(ささぎ)王子(みこ)-第十六代仁徳天皇。応神天皇の第四皇子。■宇治の王(きみ)-正しくは宇治の稚郎子(わきいらつこ)。応仁の末の皇子。■日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)-皇太子。■宝算(よはひ)-天子の年齢。ここでは寿命。命。■給ふものから-本来「のに」「けれども」の意の逆接の接続助詞であるが、順接の意にも用いて「であるから」「であるので」の意。■罷事(やんごと)なくて-やむをえずして。仕方なく。■天業-天子のご事業。政治。 ■孝悌(かうてい)-「孝」は真心をもって父母に仕えること、「悌」は兄に仕えて仲のよいこと。■儒教-孔子、孟子の教え。■王道-仁義、仁徳をもって治世する儒教の理想的な政治理念。■王(わ)仁(に)-百済の学者。応仁天皇十六年に『論語』10巻、『千(せん)字(じ)文(もん)』1巻を携えて来朝し、帰化した。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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