白峯 十一

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院長(ながき)嘘(いき)をつがせ給ひ、「今、事を正(ただ)して罪を問ふ、ことわりなきにあらず。されどいかんせん。

この島に謫(はぶら)れて、高遠(たかとほ)が松山の家に困(くるし)められ、日に三(み)たびの御膳(おもの)すすむるよりは、まゐりつかふる者もなし。
     
只天(あま)とぶ雁(かり)の小夜(さよ)の枕におとづるるを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、暁(あかつき)の千鳥の洲崎(すさき)にさわぐも、心をくだく種(たね)となる。烏(からす)の頭(かしら)は白くなるとも、都(みやこ)には還(かへ)るべき期(とき)もあらねば、定(さだめ)て海(あま)畔(べ)の鬼とならんずらん。
        
ひたすら後世(ごせ)のためにとて、五部(ごぶ)の大乗(だいじょう)経(ぎやう)をうつしてけるが、貝(かひ)鐘(がね)の音(ね)も聞えぬ荒磯(ありそ)にとどめんもかなし。

せめては筆の跡ばかりを洛(みやこ)の中(うち)に入れさせ給へと、任和寺(にんわじ)の御室(みむろ)の許(もと)へ、経にそへてよみておくりける、

B浜千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音(ね)をのみぞ鳴(な)く
      
しかるに少納言(せうなごん)信西(しんぜい)がはからひとして、若(もし)呪詛(じゅそ)の心にやと奏(そう)しけるにより、そがままにかへされしぞうらみなれ。

現代語訳

新院は長い溜息(ためいき)をもらして、「汝は今、事の筋目を明らかにして、朕(われ)の罪を責めた。道理がないわけではない。しかし何としようぞ。

この土地に流刑になって、松山の高遠邸に幽閉され、日に三度の食事を届ける以外には、誰一人参り仕えるものはいなかった。

ただ夜の枕辺に空飛ぶ雁の鳴き声を聞いては、都に行くのだろうかと懐かしく、暁の浜辺で鳴き騒ぐ千鳥の声も心を砕きさいなむ憂いの種となった。烏の頭が白くなっても、朕が都へ帰る折はないであろうから、きっとこの海辺の死霊となるにちがいない。

ならば、ひたすら朕が後世を祈らんがためにと、五部の大乗経を写経し終えたけれど、これを貝・鐘の音も聞こえぬ、この荒々しい漁村にとどめ置くのも悲しい仕業。

せめて、わが筆の跡、写経だけでも都の内に入れて給えと、任和寺の門跡の許へ、経に歌一首を添えて送り届けた。

B浜千鳥…
(書き写したわが文字のみは、あの千鳥と同じように都へ辿り着くことができるが、当の自分はこの松山でただ泣き沈むばかりである)

しかるに、少納言信西が処置をはかって、「もしや帝に対する呪詛のお心からでは」と上奏したことからそのまま送り返されたのこそ、恨めしいことであったぞ。

語句

■長(ながき)嘘(いき)-中国小説の頻用語。激情やや収まっての長嘆息。■事を正して-ものごとの善悪の道理をはっきりさせて。■罪を問ふ-罪過を咎(とが)める。■いかにせん-どうにもならない。■謫(はぶら)れて-流刑にされて。■高遠-「高遠」は讃岐国綾歌郡の名家。「保元物語」では松山の津、「在庁師太夫高遠が御堂」に新院を入れたとある。■御膳(おもの)すすむる-お食事を給仕するもの。■天(あま)とぶ雁(かり)-雁が手紙を届けたという漢臣蘇武の故事をふむ表現。■暁(あかつき)の千鳥の-「暁の千鳥の洲崎にさはぐも御心をくだく種となる」(保元)■州崎-「洲」は土砂が堆積して、水面に出ているとところ。「州崎」は、その洲が長く水中に出ているところ。■心をくだく種-心を苦しめる原因。もの思ひに沈む原因。■烏(からす)の頭(かしら)は白くなるとも云々-帰郷不可能な事のたとえ。『史記』刺客列伝注が出所だが、直接には「烏の頭が白くなるとも帰京の斯を知らず」(保元)による。この辺の文章は、流布本「保元物語」が直接の典拠。■定めてうんぬん-「定めて望郷の鬼といでならんずらん」{保元}。「鬼」は命を失ってその地の死霊となること。■五部(ごぶ)の大乗(だいじょう)経(ぎやう)-大乗に属する、華厳・大集・大品般若・法華・涅槃の五経をいう。■貝(かひ)鐘(がね)-法螺貝と釣鐘。寺院の存在を示す。■洛(みやこ)の中(うち)に入れさせ-「都の内に納させ」(霊場記)■任和寺-京都市右京区の真言宗の名刹。■御室-御室門跡。歴代法親王が住す。当時は新院の弟、覚性(かくしょう)法親王の代で、ここではその人。■浜千鳥跡はみやこに-出典は『保元物語』の「新院御経沈付崩御事」。「浜千鳥」「かよふ」「松山」「音」「鳴く」と一連の縁語で構成されている。■少納言信西-藤原通憲の入道名。新院の敵対者で後白河帝の権臣。■若(もし)呪詛(じゅそ)の心にや云々-「若し呪詛の心にやあらん」の略。新院の写経が、世を呪い、君を呪うためのものであると考えたのである。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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