菊花の約 二

スポンサーリンク

  
一日(あるひ)左門同じ里の何某(なにがし)が許(もと)に訪(とふら)ひて、いにしへ今の物がたりして興ある時に、壁(かべ)をを隔(へだ)て人の痛楚(くるしむ)声いともあはれに聞こえければ、主(あるじ)に尋ぬるに、あるじ答ふ。

「これより西の国の人と見ゆるが、伴(とも)なひに後(おく)れしよしとて一宿(ひとよ)を求めらるるに士家(しか)の風(ふう)ありて卑(いや)しからぬと見しままに、逗(とどめ)まゐらせしに、其の夜邪熱(じやねつ)劇(はなはだ)しく、起伏(おきふし)も自(みずから)はまかせられぬを、いとほしさに三日四日は過ごしぬれど、何地(いづち)の人ともさだかならぬに、主(あるじ)も思ひがけぬ過(あやまり)し出でて、ここち惑(まど)ひ侍りぬ」といふ。

左門聞きて、「悲しき物語にこそ。あるじの心安からぬもさる事にしあれど、病苦(びやうく)の人はしるべなき旅の空にこの疾(やまひ)を憂(うれ)ひ給ふは、わきて胸窮(くる)しくおはすべし。其のやうを看ばや」といふを、あるじとどめて「瘟(をん)病(びやう)は人を過(あやま)つ物と聞ゆるから家(わら)童(べ)らもあへてかしこに行かしめず。立ちよりて、身を害(がい)し給ふことなかれ」。

左門笑ひていふ。「死(し)生命(せいめい)あり。何の病か人に伝(つた)ふべき。これらは愚俗(ぐぞく)のことばにて吾們(わがともがら)はとらず」とて、戸(と)を推(おし)て入りつも其の人を見るに、あるじがかたりしに違(たが)はで、倫(なみ)の人にはあらじを病深きと見えて、面(おもて)は黄(き)に、肌(はだへ)黒(くろ)く痩(やせ)、古き衾(ふすま)のうへに悶(もだ)へ伏(ふ)す。人なつかしげに左門を見て、「湯ひとつ恵(めぐ)み給へ」といふ。

 

現代語訳

ある日、左門は同じ里の某氏の許を訪ね、古今の話をして、興が乗ってきた時に、壁越しに人の苦しく呻く声がとてもあわれに聞えたので、主人に尋ねると、主人が答えた。

「ここより西の人に見えますが、伴の者に遅れたと言って、一夜の宿を求められたが、武士のようでもあり品性もよいように見えたので、お泊めしたのですが、其の夜、悪性の高熱を出して、寝起きも自分ではままならないようすで可哀想で三四日が過ぎてしまいましたが、何処の人かもわからず、とんだ間違いをしてしまったと、困っています」と言う。

左門はそれを聞いて、「気の毒な話です。ご主人が心配されるのはもっともですが、病気に苦しんでいる人は、知り人もいない旅の空でこの病にかかられたのは、とりわけ心をいためておられるでしょう。その容態を見たいものだ」というのを、主人が止めて「瘟病は人に感染するものと聞いておりますので子供たちもあえてあそこには行かせておりません。立ち寄って、自分の身に病気がうつるようなことがあってはなりません。

左門は笑って言う。「人間の命は天の定めるところで人力によって左右されるものではない。どんな病気が人にうつることがありましょうか。こんなことは物の道理のわからない俗人の言うことで、私は問題にしません」と言って、戸を開けて入りながら、其の人を見ると、主人の言うとおりで、普通のひとではなく、深い病にかかっているようで、顔は黄色で、肌は黒く、やせ細り、古い布団の上に悶えながら横たわっている。人懐かしそうに左門を見て、「お湯をいっぱいいただけないか」と言う。

語句

■一日-ある日。■見ゆるが-「見えるのであるが」の意。■見しままに-見えたので。「ままに」は形式名詞の「まま」に格助詞「に」のついたもので連語。「ので」の意。■伴(とも)なひに後(おく)れしよし-「伴ひ」は道連れ、同伴者。「よし」はわけ。理由。■求めらるるに-求められたのであるが。「らるる」は受け身。
■士家(しか)の風(ふう)-武士の風格。■邪熱(じゃねつ)-悪性の熱病。■さる事にしあれど-もっともなことではあるが。「さる」は「さある」の略で、「そういう」、「そのとおり」の意。「し」は強意の副助詞。「ど」は逆説の接続助詞。■しるべなき旅の空-知人もいない旅先。■わきて-とりわけ。殊に。■胸窮(くる)しくおはすべし-心を痛めておられるでありましょう。■やうを看ばや-容態を看たいものだ。「やう」は容態。様子。「ばや」は願望の終助詞。■瘟(をん)病(びやう)-悪性の急性伝染病。■人を過(あやま)つ-人に感染する。■あへて-無理に。■かしこ-あそこ。■死(し)生命(せいめい)あり-人間の死は天の定めるところで、人力によって左右されるものではない。■何の病か人に伝(つた)ふべき-どんな病が人にうつることがありましょうか。「か」は反語。「べき」は推量の助動詞の連体形で、係り結び。■愚俗(ぐぞく) のことばにて-物の道理のわからない俗人のいうことで。■吾們(わがともがら)はとらず-私は問題にしない。■倫(なみ)の人-氏、素性のない平凡な人物。■衾(ふすま)-布団。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


スポンサーリンク

音声つきメールマガジン「左大臣の古典・歴史の名場面」のご案内

現在18000人以上が購読中。

メールアドレスを入力すると、日本の歴史・古典について、楽しくわかりやすい解説音声を無料で定期的に受け取ることができます。毎回10分程度の短い解説で、時間を取りません。楽しんで聴いているうちに、日本の歴史・古典について、広く、立体的な知識が身につきます。スマートフォン・Androidでもお聴きになれます。不要な場合はいつでも購読解除できます。

いつも使っているメールアドレスを入力して、 「無料メルマガを受け取る」ボタンをクリックしてください。次回からお使いのメールアドレスにメルマガが届きます。

≫詳しくはこちら


スポンサーリンク