菊花の約 六

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あら玉の月日はやく経(へ)ゆきて、下枝(したえ)の茱萸(ぐみ)色づき、垣根の野ら菊艶(にほ)ひやかに、九月(ながつき)にもなりぬ。

九日はいつもより疾(はや)く起(おき)出(いで)て、草の屋の席(むしろ)をはらひ、黄菊しら菊二枝三枝小瓶(こがめ)に挿(さし)、嚢(ふくろ)をかたふけて酒(しゆ)飯(はん)の設(まうけ)をす。

老母云ふ。「かの八雲たつ国は山陰(やまぎた)の果(はて)にありて、ここには百里を隔(へだ)つると聞けば、けふとも定めがたきに、其の来(こ)しを見ても物(もの)すとも遅(おそ)からじ」。

左門云ふ。「赤(あか)穴(な)は信(まこと)ある武士(もののべ)なれば必ず約(ちぎり)を誤(あやま)らじ。其の人を見てあわたたしからんは思はんことの恥かし」とて、美酒(よきさけ)を沽(か)ひ、鮮魚(あさらけき)を宰(に)て厨(くりや)に備(そな)ふ。

此の日や天晴(そらはれ)て、千里(ちさと)に雲のたちゐもなく、草枕旅ゆく人の群々(むれむれ)かたりゆくは、「けふは誰(たれ)某(がし)がよき京(みやこ)入(いり)なる。此の度(たび)の商物(あきもの)によき徳とるべき祥(さが)になん」とて過ぐ。  

現代語訳

月日は矢のように早く過ぎ去り、下枝の茱萸の実が赤く色づき、垣根の野菊も色美しく(咲いて)九月ともなった。

(左門は)九日はいつもより早く起きだして、粗末な草ぶきの家を掃除して、黄菊や白菊を二枝三枝小瓶に挿して、有り金全部をはたいて酒や飯の支度をした。

老母が言う。「あの出雲の国は、山陰の果にあり、ここからは百里も離れている遠い所と聞いているので、今日(来る)かどうかもわからず、其の人が来たのを見て支度をしても遅くはないだろうに」。

左門言う、「赤穴は信義の厚い武士なので必ず約束を守ります。其の人を見てからあわただしくすれば、(赤穴は)どう思うか。その思惑が恥しい。」と言って、上等の酒を買い、新鮮な魚を煮て、厨房に準備をする。

此の日は晴れて、空一面に雲のひとつもなく、旅ゆく人の群は、「今日は誰かの縁起のいい京入になるだろう。今度の商売でもうかるまえぶれだ」と言って通り過ぎていく。

語句

■あら玉の-「年」「月」などにかかる枕詞。■下枝の茱萸-「下枝」は、下の方の枝。茱萸の実は、秋に赤く色づく。■野ら菊-「ら」は接尾語。野菊。■艶(にほ)ひやかに-色美しく。「艶ふ」は花の色が美しく映えること。■草の屋-粗末な草ぶきの家。あばら家■席- 座席のこと。■嚢- 銭嚢。財布。■八雲たつ国-出雲の国。「やくもたつ」は、「出雲」の枕詞。■山陰の果-山陰道の果。「陰」は、山の場合は北を指すので「やまぎた」と読んだ。■も物す-支度をする。「物」はあることを漠然と指すが、ここは「饗応の支度をする」の意。「も」は強意の助詞。■鮮魚(あさらけき)-新鮮な魚。■思はんことの恥かし-どう思うか、その思惑が恥しい。■此の日や-「や」は感動を表す助詞。約束の当日を強めている。■千里-非常に広い空間を示す。■草枕-「旅」の枕詞。■よき京(みやこ)入(いり)なる-縁起の良い入京。■商物(あきもの)-商売。■徳-利益。■祥-前兆。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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