菊花の約 十

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老母目さめ驚(おどろ)き立ちて、左門がある所を見れば、座上(とこのべ)に酒(さか)瓶(がめ)魚(な)盛(もり)たる皿(さら)などもあまた列(なら)べたるが中に臥(ふし)倒(たふ)れたるを、いそがはしく扶(たすけ)起(おこ)して、「いかに」ととへども、只声を呑(のみ)て泣(なく)なくさらに言(ことば)なし。
    
老母問ひていふ。「伯(あ)氏(に)赤(あか)穴(な)が約(ちかひ)にたがふを怨(うらむ)るとならば明日(あす)なんもし来るには言(ことば)なからんものを。汝かくまでをさなくも愚(おろか)なるか」とつよく諫(いさむ)るに、左門漸(やや)答へていふ。
         
「兄(この)長(かみ)今夜(こよひ)菊花の約(ちかひ)に特(わざわざ)来る。酒肴(さかな)をもて迎(むか)ふるに、再三(あまたたび)辞(いなみ)給ふうて云ふ。しかじかのやうにて約(ちかひ)に背(そむ)くがゆゑに、自(みづから)刃(やいば)に伏(ふし)て陰魂(なきたま)百里を来(きた)るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母の眠(ねむり)をも驚(おどろ)かしたてまつれ。只々赦(ゆる)し給へ」と潸然(さめざめ)と哭(なき)入(い)るを、老母いふ。
       
「『牢(らう)裏(り)に繋(つな)がるる人は夢(ゆめ)にも赦(ゆる)さるるを見え、渇(かっ)するものは夢に漿(しやう)水(すい)を飲(の)む』といへり。汝も又さる類(たぐひ)にやあらん。よく心を静(しづ)むべし」とあれども、左門頭(かしら)を揺(ふり)て、「まことに夢の正(まさ)なきにあらず。兄(この)長(かみ)はここもとにこそありつれ」と、又声を放(あげ)て哭(なき)倒(たふ)る。老母も今は疑(うたが)はず、相(あい)呼(よび)て其の夜は哭(なき)あかしぬ。

明(あく)る日、左門母を拝していふ。「吾、幼(をさ)なきより身を翰(かん)墨(ぼく)に托(よす)るといへども、国に忠義の聞えなく、家に孝信をつくすことあたはず、徒(いたづら)に天地のあひだに生(うま)るるのみ。兄(この)長(かみ)赤(あか)穴(な)は一生を信義の為に終(をは)る。小弟けふより出雲に下り、せめては骨を蔵(をさ)めて信を全(まつた)うせん。公(きみ)尊体(おほんみ)を保(たもち)給うて、しばらくの暇(いとま)を給ふべし」。  

現代語訳

(その声で)老母が目を覚まし、驚いて起き、左門の居る所を見ると、客席のあたりに酒瓶や、肴を盛りつけた皿などをたくさん並べた中に、(左門が)うつ伏せに倒れており、(それを)急いで助け起こし、「どうしたのです」と聞くが、 只声を呑んで泣いているだけで、いっこうにものを言わない。

老母が問いただして言うには、「義兄赤穴が約束を守らなかったのを怨むなら、もしも明日にでもやって来たなら、言い訳の言葉もないでしょにう。おまえはこんなにまで幼稚で、愚かだったのですか」と強く、いいきかせたところ、左門がやっと答えて言った。「兄上は、今夜、菊花の約を果しにわざわざ来てくれました。酒肴を用意して迎えましたが、何度も、それを拒み、言われました。『しかじかのようなわけで約束に背くことになったので、自刃し、魂となって百里をやってきた』と言って、見えなくなりました。それで、母上の眠りをお覚まししてしまったのです。ただただお許しください」。とさめざめと泣き悲しんでいるのを見て、老母が言うには、

「『牢に繋がれた人は夢にまでも許されて牢から出る夢を見、のどが渇いているものは夢の中で水を飲む』と言います。おまえも又、そんな人たちと同類じなのでしょう。よく心を落ちつけなさい」と言うけれども、左門は、頭を横に振って、「本当に夢のような虚言ではございません。兄上はここに居られたのです」と、又大声を上げ、泣き伏した。もう老母も(そのことを)疑わず、お互いに、呼び合って、其の夜は、泣き明かした。

次の日、左門は母に礼をつくして言った。「私は幼い時から、学問の道を目指しましたが、国に尽すとこもかなわず、家に孝行をつくすこともできませんでした。いたづらに天地の間に生まれただけです。義兄の赤穴は一生を信義にために終わりました。私は、今日から出雲に下り、せめて、(赤穴の)屍を葬って、信義を尽したいと思います。母上はお身体を大事になさって、しばらく(私に)暇をいただかせてください」。

語句

■「座上」は席上の意。■再三-たびたび■いかに-この下に「せし」などの述語が省略されている。■声を呑みて-声を立てずに。■明日なんもし来るには-明日もしやって来たら。「なん」は強意の助詞。■言なからんものを-いいわけの言葉もないでしょうに。■驚(おどろ)かしたてまつれ-眠りをお覚まししたのです。■漿水-飲み水。■陰魂-亡魂。魂魄(こんばく)。■さる類-それと同類。「さる」は「さある」の略。■夢の正なきにあらず-夢のような虚言ではありません。「の」は7「のような」の略で、連帯詩。■翰(かん)墨(ぼく)-筆墨。転じて、学問・文字の道。■潸然(さめざめ)と哭(なき)入(い)る-涙がはらはらとこぼれるさま。■牢裏-牢獄の中。■骨を蔵して-屍(しかばね)を葬って。     

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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