浅茅が宿 二

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此年(ことし)亨徳(きやうとく)の夏、鎌倉(かまくら)の御所(ごしょ)成氏朝臣(しげうじあそん)、管領(くわんれい)の上杉(うへすぎ)と御中(おんなか)放(さけ)て、館(みたち)、兵火(ひやうくわ)に跡なく滅(ほろび)ければ、御所(ごしょ)は総州(そうしう)の御味方(みかた)へ落ちさせ給ふより、関(せき)の東(ひがし)忽ちに乱れて、心々(こころごころ)の世の中となりしほどに、老いたるは山に逃竄(にげかく)れ、弱(わか)きは軍兵(いくさひと)にもよほされ、「けふは此処(ここ)を焼(やき)はらふ」、「明(あす)は敵(かたき)のよせ来るぞ」と、女わらべ等(ら)は、東西(をちこち)に逃げまどひて泣きかなしむ。勝四郎が妻(め)なるものも、いづちへも遁(のが)れんものをと思ひしかど、「此の秋を待(ま)て」と聞えし夫(をつと)の言(ことば)を頼みつつも、安からぬ心に日をかぞえて暮しける。秋にもなりしかど風(かぜ)の便(たよ)りもあらねば、世とともに頼(たの)みなき人心かなと、怨みかなしみおもひくづをれて、

身(み)のうさは人しも告(つげ)じあふ坂の夕(ゆふ)づけ鳥よ秋も暮れぬと

かくよめれども、国あまた隔(へだて)ぬれば、いひおくるべき伝(つて)もなし。

世の中騒(さわ)がしきにつれて、人の心も恐ろしくなりにたり。適間(たまたま)とふらふ人も、宮木がかたちの愛(めで)たきを見ては、さまざまにすかしいざなへども、三貞(さんてい)の賢(かしこ)き操(みさを)を守りて、つらくもてなし、後は戸を閉(たて)て見えざりけり。

一人の婢女(はしため)も去(さり)て、すこしの貯(たくは)へもむなしく、其の年も暮れぬ。年あらたまりぬれども猶(なほ)をさまらず。

あまさへ去年(こぞ)の秋京家(きやうけ)の下知(げち)として、美濃(みの)の国郡上(ぐじやう)の主(ぬし)、東(とう)の下野守常縁(つねより)に御旗(みはた)を給(た)びて、下野(しもつけ)の所領(しるところ)にくだり、氏族(しぞく)千葉(ちば)の実胤(さねたね)とはかりて責(せむ)るにより、御所方(ごしょがた)も固(かた)く守りて拒(ふせ)ぎ戦(たたか)ひけるほどに、いつ果(はつ)べきとも見えず、野伏等(のぶしら)はここかしこに賽(さい)をかまへ、火を放(はな)ちて財(たから)を奪(うば)ふ。八州(はつしう)すべて安き所もなく、浅ましき世の費(つひへ)なりけり。

勝四郎は、雀部(ささべ)に従ひて京(みやこ)にゆき、絹ども残りなく交易(かうえき)せしほどに、当時(このごろ)都は花美(くわび)を好む節(とき)なれば、よき徳(とく)とりて東(あづま)に帰る用意(はかりごと)をなすに、今度(このたび)上杉の兵(つはもの)鎌倉の御所を陥(をと)し、なほ御跡(みあと)をしたうて責討(せめうて)ば、古郷(ふるさと)の辺(ほと)りは干戈(かんくわ)みちみちて、琢鹿(たくろく)の岐(ちまた)となりしよしをいひはやす。

現代語訳

さて、この年亨徳四年の夏、鎌倉公方の足利成氏卿と管領上杉憲忠との主従の仲が割れ、御所の館は戦火に焼き尽くされて跡形も無く滅び、御所は総州の御味方の所へ落ちのびられたのだが、(これを契機として)関東一帯ははたちまち戦乱の巷と化し、諸国の領主もそれぞれ勝手なことをするという乱世になった。老人は山に逃隠れ、若者は兵卒に刈り出され「今日は此処を焼き払うぞ!」「明日には敵が寄せてくるぞ!」と騒ぎ立て、女子供たちは(それぞれ)東に西に逃げまどって泣き悲しんだ。勝四郎の妻も何処かへ逃げなくてはと思っていたが、「此の秋を待て」と言った夫の言葉を信じて、不安な心を抱きながら、その日を指折り数えて元の所に踏みとどまって暮らしていた。(すでに)秋になったのだが(夫からの)ほのかの便りさえもなく、世の乱れと同じで、頼りにならない夫の心だことと、怨み悲しみ気落ちして、

この悲しみを誰も夫に告げてくれない。「逢う」「告ぐ」という名を持つ、逢坂の夕告鳥(ゆうつぐどり)よ、約束の秋も暮れたとあの人に伝えおくれ

とこのように詠んだが、多くの国を隔てた遠方の夫にこれを言い送る手段もない。

世の中が騒々しくなるにつれて、人の心も荒(すさ)んで険悪になっていった。まれに訪ねてくる人は、宮木の美しい顔や容姿を見ると、いろいろに言い寄るのだが、「三貞の賢き操」を固く守って冷ややかにあしらい、戸を閉めて会おうともしなかった。

一人いた下女も逃げ去り、わずかな貯えも底をつき、その年も暮れた。年が変わってもなお戦火はおさまらない。

そのうえ、去年の秋に京の将軍家からの命令だといって美濃国郡上(みののくにぐじゃう)の領主の東野下野守常縁(とうのしもつけのかみつねより)に宮旗(みはた)が下賜され、旗と共に下野(しもつけ)の知行地に下り、一族の千葉実胤(ちばさねたね)と計って公方(くぼう)側を責め立てる。公方側も固く守って戦う有様で戦(いくさ)は広がる一方、いつ終わるかわからない。野伏野党の類(たぐい)がここかしこに山塞(さんさい)をかまえては放火略奪し、関東八カ国、安らかなところは一つもなく、全く浅ましいかぎりの世の損失であった。

勝四郎は、雀部に従って京に着き、(持ってきた)絹などの品を残らず売りさばいたのだが、このごろの京は華美なものが好まれた時世で、思いがけずいい儲けをして、すぐに東に帰る準備にとりかかったところ、此の度、管領上杉の軍が鎌倉御所を責め落し、さらに公方を追って攻め込んだので、故郷下総のあたりは、軍兵の振りかざす、干(たて)・戈(ほこ)で溢れかえり、全くの戦場になってしまったという噂があちこちに流れた。

語句

■此年亨徳の夏-亨徳四年(1455)夏。■鎌倉の御所成氏朝臣-鎌倉の関東管領足利成氏(1434~1497)。「御所」は将軍。もともと京の室町将軍をいったが、のち関東の管領も「将軍」を僭称した。足利幕府に背き、のち自刃した持氏の第四子。宝徳元年(1449)鎌倉公方となるが、関東管領上杉憲実・憲忠父子との争いが絶えず、亨徳三年十二月、憲忠殺害により幕府に追われて古河に逃れ、幕府方の伊豆堀越の公方に対応、「古河公方」といわれた。■管領の上杉-上杉憲忠。関東管領は幕府任命。「管領」は室町幕府の職名で将軍を補佐して執務する者で、其の管領の補佐に執事があり、これを上杉氏が務めたが、管領が「御所」と僭称したのに習って執事も「管領」と僭称した。■御中放けて-不仲になって。■兵火-戦火。■総州の御味方-史実では総州下河辺城(現茨城県古河市内)に逃れた。■関の東-ここでは関東地方。■心々(こころごころ)の世の中-めいめいが勝手なことをする世の中。■老いたるは-「老いたる者は」の意。次の「弱き」(弱き者)、若者に対す。■軍民にもよほされ-兵卒に刈りだされ。■東西-あちこち。■心々の-混乱状態になった人心。■頼みなき-あてにならない。■人心-ここでは夫の心。■あふ坂-京から近江への最初の関所。■夕づけ鳥-鶏の異名。■すかしいざなへども-騙して誘うのであるが。■適間-稀に。■三貞の賢き操-一人の男に殉ずる貞操。兵乱の迫るに及んで水に身を投げて貞節を守った三人の女性と言う説もあるが…。■婢-下女。召使の女。■あまさへ-「あまつさへ」と同じ。そのうえ。■京家-京都足利将軍家。当時は八代将軍義正。「鎌倉御所」に対して京家という。■郡上-現岐阜県郡上郡八幡町周辺。東氏の居城は郡上城と赤岩城であった。■東の下野守常縁-下総の国香取郡東の庄を領したところから「東(とう)」を名乗った豪族。武人としてではなく当時一流の歌人としても有名。亨徳四年(1455)幕府の命を受け、千葉一族の内紛を解決するため関東へ下り、千場実胤を援助して馬加(まくわり)城を攻略した。■御旗-征東将軍の印の旗。■千葉の実胤-市川城主。胤直の弟で上杉方に属し、成氏方となった一族の原・馬加(まくわり)と争い、将軍の援護を乞うた。■責-「攻」の当て字。■野伏-野武士。主君に仕えることもなく、禄を離れ山野にさまよう夜盗山賊のような武士。土民。戦国時代におおかった。■八州-関東八国。相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野■浅ましき世の費(つひへ)なりけり-あきれかえるばかりの世の損失であった。■費-損失・無駄。■交易せしほどに-売りさばいたので。■華美を好む節-人々が華美の風俗を好む時代。■よき徳とりて-よい儲けをして。■干戈-「干」は「たて」、「戈」は「ほこ」。武器、戦闘を意味する語。■琢鹿の岐-中国の太古、黄帝が蚩尤(しゆう)と戦った河北省東南部の古戦場。転じて戦場一般。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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