浅茅が宿 三

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まのあたりなるさへ偽(いつはり)おほき世説(よがたり)なるを、ましてしら雲の八重(やえ)に隔(へだ)たりし国なれば、心も心ならず、八月(はづき)のはじめ京(みやこ)をたち出でて、岐曾(きそ)の真坂(みさか)を日ぐらしに、踰(こえ)けるに、落草(ぬすびと)ども道を塞(ささ)へて、行李(にもつ)も残りなく奪(うば)はれしがうへに、人のかたるを聞けば、是より東(ひがし)の方(かた)は所々に新関(しんせき)を据(すゑ)て、旅客(たびびと)の往来(いきき)をだに宥(ゆる)さざるよし。さては消息(おとづれ)をすべきたづきもなし。家も兵火(ひゃうかわ)にや亡(ほろ)びなん。妻も世に生(いき)てあらじ。しからば故郷(ふるさと)とても鬼(おに)のすむ所なりとて、ここより又京(みやこ)に引きかへすに、近江(あふみ)の国に入りて、にはかに心地あしく、熱(あつ)き病を憂(うれ)ふ。

武佐(むさ)といふ所に、児玉嘉兵衛(こだまかへゑ)とて富貴の人あり。是(こ)は雀部(ささべ)が妻の産所(さと)なりければ苦(ねんごろ)にたのみけるに、此の人見捨てずしていたはりつも、医(い)をむかへて薬の事専(もはら)なりし。ややここち清(すず)しくなりぬれば、篤(あつ)き恵(めぐみ)をかたじけなうす。されど歩(あゆ)む事はまだはかばかしからねば、今年は思ひがけずもここに春を迎ふるに、いつのほどか此の里にも友を求めて、揉(ため)ざるに直(なほ)き心を賞(しやう)ぜられて、児玉をはじめ誰々も頼もしく交(まじは)りけり。此の後は京(みやこ)に出でて雀部(ささべ)をとぶらひ、又は近江に帰りて児玉(こだま)に身を托(よせ)、七とせがほどは夢のごとくに過しぬ。

寛正(くわんしやう)二年、畿代(きだい)河内の国に畠山(はたけやま)が同根(どうこん)の争(あらそ)ひ果さざれば、京(みやこ)ぢかくも騒(さわ)がしきに、春の頃より瘟疫(えやみ)さかんに行(おこな)はれて、屍(かばね)は衢(ちまた)に畳(つみ)、人の心も今や一劫(いちごふ)の尽(つく)るならんと、はかなきかぎりを悲しみける。勝四郎、熟(つらつら)思ふに、かく落魄(おちぶれ)てなす事もなき身の、何をたのみとて遠き国に逗(とど)まり、由縁(ゆゑ)なき人の恵(めぐ)みをうけて、いつまで生(いく)べき命なるぞ。古郷(ふるさと)に捨てし人の消息(せうそこ)をだにしらで、萱草(わすれぐさ)おひぬる野方(のべ)に長々しき年月を過しけるは、信(まこと)なき己(おの)が心なりける物を。たとへ泉下(せんか)の人となりて、ありつる世にはあらずとも、其のあとをももとめて塚(つか)をも築(つく)べけれど、人々に志を告(つげ)て、五月雨(さみだれ)のはれ間(ま)に手をわかちて、十日あまりを経(へ)て古郷(ふるさと)に帰り着きぬ。

此の時、日(ひ)ははや西に沈(しづ)みて、雨雲(あまぐも)はおちかかるばかりに闇(くら)けれど、旧(ひさ)しく住みなれし里なれば迷(まよ)ふべうもあらじと、夏野わけ行くに、いにしへの継橋(つぎはし)も川瀬におちたれば、げに駒(こま)の足音(あおと)もせぬに、田畑は荒(あれ)たきままにすさみて旧(もと)の道もわからず、ありつる人居(いへゐ)もなし。

現代語訳

目前のことでさえ嘘の多いのが世間の噂話だから、まして白雲が八重に重なったように遠く離れた故郷の恐ろしい噂に、、気が気でなく、(勝四郎は)とるものもとりあえず八月はじめに京を出立したのだが、木曾の真坂を一日がかりで超えたとき、野盗どもに道をふさがれ、荷物を残らず奪われてしまったのである。そのうえ、人の話によれば、此処から東は新関が所々に設けられ、旅人の行き来すら許さないということである。「これでは便りをする手段もない。わが家も戦火で焼け失せたに違いない。妻ももう生きてはいないだろう。それなら、故郷といっても鬼の棲むような恐ろしい所になっているに違いない」と考え、気落ちして仕方なく京へ引き返したが、近江の国に入ったら、急に気分が悪くなり、高熱を発して病にかかってしまった。

武佐(むさ)というところに、児玉嘉兵衛という金持ちがいた。此の人は雀部の妻の実家だったので、(訳を話して)一心に頼んでみると此の人(児玉嘉兵衛)は(勝四郎を)見捨てることなく慰めながら、医者を呼び迎えて、薬を処方させ療養に専念させたのだった。

しばらくして気分がよくなったので、謹んで、懸命に介抱してくれた御恩へのお礼を述べた。しかし、歩くのは、まだ困難で、今年は此処武佐(むさ)で春を迎えたが、いつのころか此の里でも友人ができ、生来のまっすぐな気性が認められて児玉をはじめほかの人々とも親しく交際した。此の後は、京へ出ては雀部をたづね、あるいは近江に戻っては児玉に身を寄せたりしながら、七年ほどの歳月がいつのまにか夢のように過ぎていった。

寛正二年のこと、畿代の河内の国で家督相続をめぐる畠山兄弟の、血で血を洗う合戦が果てしなく続き、京の近くも、物騒になって,春の頃から悪性の伝染病が起こり広がり、行き倒れた死者の遺骸が街路に積み重なるという有様で、人の心は荒み果て、今こそこの世の終わりであろうかと、はかない運命(さだめ)を嘆き悲しんだ。

勝四郎はよくよく考えてみると、このように落ちぶれてすることもない自分の身の上では、何を頼りにして故郷から遠く離れた国に居て、縁者でもない児玉や雀部の庇護を受けて、いつまで生きればいいのか、故郷に置いてきた妻の消息さえわからず、わすれ草の茂る野辺に長々と年月を重ねているのは、誠実さのない自分の心なのだなあ。たとえ死者になって、この世にいなくなっていたとしても、妻の跡を探して、塚を建てるべきだろうと、人々にその思いを伝え、五月雨の晴れ上がった日に世話になった人に別れを告げた勝四郎は、十日ほど経ってから懐かしい故郷に帰り着いたのだった。

の時、太陽は早くも西に沈んで、雨雲は落ちかかるように低く垂れ、暗いが、長いこと住み慣れた里なので、迷うことはないだろう、と夏草が茂るの野に分け入って歩いていくと、古歌で名高い真間の継橋も朽ちて川の瀬に落ちており、実際に古歌のように馬の足音が聞えるというような趣も無く、田畑は荒れすさみ、元の道もわからず、もとあった人家はもうそこには無かった。

語句

■まのあたりさるさへ-目の前の出来事ですら。副助詞「さへ」は「すら」「だに」の意に用いられている。■世説(よがたり)-うわさ話。■しら雲の八重に隔たりし国-白雲が何重にも重なっているような遠い国。■心も心ならず-気が気でなくて。自分の心でありながら自分の心でないように、心の落ち着かない状態をいう。連用中止法。■岐曾(きそ)の真坂(みさか)-長野県木曽郡山口村の馬篭峠の古名。木曾街道中の難所。■日ぐらしに-ここは夕暮れにの意であろう。一日かけての意もある。■落草(ぬすびと)-野盗。■行李(にもつ)-旅荷物。竹または柳などで編み,衣類や旅行用の荷物などを入れるのに用いるかぶせ蓋(ぶた)つきの入れもの。■旅客(たびびと)の往来(いきき)をだに宥(ゆる)さざるよし-旅人の通行すら禁止したということである。「だに」は警小のものをあげて、それより重大なものを類推させる副助詞であるから、言外に、「不審なものはいうまでもなく」の意がある。■さては-それでは。■消息(おとづれ)をすべき-便りをする。■たづき-てだて。方法。■兵火にや滅びなん-戦火のために焼けてしまったであろう。
「に」は原因、理由の格助詞。「…のために」の意。「亡びなん」は、前後の関係からみると「亡びぬらん」とあるべきところ。「亡びぬらん」は完了(過去)推量の意。■鬼のすむ所-鬼の棲むような恐ろしい所。また鬼のような不人情の人の住む所でなつかしい所でもないと解釈することができる。■武佐-滋賀県近江八幡市武佐。中仙道の宿場。■児玉嘉兵衛-架空の人物であろう。■苦(ねんごろ)に-一心に。心をつくして。■いたはりつも-いたわり(慰め)ながら。「つも」は「つつも」と同意。■かたじけなうす-厚く感謝して礼を述べる。■揉(ため)ざるに直(なほ)き心-生来の素直な心。「揉(ため)ざる」は、矯正しない元の意で、生まれつき。■頼もしく交りけり-親しく交際した。「頼もしく」は勝四朗の性格と考えて「頼もしい男であると思って交際した」と解釈することもできるが、「頼もしく」は「児玉をはじめ誰々」の態度を修飾したものととって、「親しく」くらいの意。■夢のごとく-またたく間に、とも、はかなくとも解される。戦乱下になすすべもなく過ごした、いわば失われた七年間であるから「夢のごとく」なのである。■寛正二年-1461年。後花園天皇の時代。亨徳四年から七年目。■畿代-京都とその周辺の国々。大和・山城・河内・和泉・摂津を五畿代という。■同根-兄弟のこと。共に官僚職の相続を望み、亨徳年間から戦い続けていたが、この年から河内(大阪府内)や奈良で激突、将軍家まで巻き込み、天下を二分した応仁の大乱に至った。■騒がしきに-物騒になった上に。■瘟疫-悪性の伝染病。■衢-道の分岐点、転じて、街、街路。
■一劫(いちごふ)の尽(つく)るならん-今にもこの世も終わるのであろうか。「劫」は仏教語で、非常に長い年月のこと。世界の初めから滅亡までを成劫(じょうごう」・住劫(じゅうごう)・壊劫(えごう)・空劫(くうごう)の四劫に分けて、これを一大劫という。ここの一劫とは、この一大劫と考えてよい。■由縁なき人-親戚関係のない人。ここは児玉や雀部を指す。■生くべき命なるぞ-生きられる命であろうか。言外にいつまでも生き永らえても仕方がないの意がある。■萱草おひぬる野方に-わすれ草の生えている野辺に。■泉下の人-あの世の人。死者。「泉下」は、「黄泉下」の略で、冥途。■ありつる世にはあらずとも-かってのように、この世に生きていなくても。「ありつる」はかってのように。■此の時-故郷真間への到着時。以下の文章は勝四郎と共に読者を浅茅が宿にいざなう効果がある。■迷ふべうもあらじと-迷うはずもあるまいと。「べう」は当然の助動詞「べく」のウ音便。「も」は強意の係助詞。■いにしへの継橋-昔から有名な真間の継橋。「継橋」は、川の中に向い合わせに柱を二本立てて、それに横木を結び、その上に板を継渡した橋。■げに駒の足音もせぬに-まことに古歌にあるように馬の足音も聞えないばかりか。「に」は添加の意の接続助詞。ここは『万葉集』巻十四東歌の「足の音せず行かむ駒もが葛飾のままの継橋やまず通はむ」に拠った表現。■ありつる人居-もとあった人家。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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