夢応の鯉魚 二

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興義(こうぎ)枕をあげて路次(ろじ)の労(わずら)ひをかたじけなうすれば、助も蘇生(よみがへり)の賀(ことぶき)を述(の)ぶ。興義(こうぎ)先づ問ひていふ。「君、試(こころみ)に我がいふ事を聞かせ給へ。かの漁夫(ぎょふ)文四に魚をあつらへ給ふことありや」。助、驚きて、「まことにさる事あり。いかにして知らせ給ふや」。

興義(こうぎ)、「かの漁夫三尺(みたけ)あまりの魚を籠に入れて君が門に入る。君は賢弟と南面の所に碁を囲みてをはす。掃守(かもり)傍(かたはら)に侍(はべ)りて、桃(もも)の実(み)の大(おほ)いなるを啗(く)ひつつ奕(えき)の手段(しゅだん)を見る。漁夫が大魚(まな)を携(たづさ)へ来(きた)るを喜(よろこ)びて、高杯(たかつき)に盛(もり)たる桃(もも)をあたへ、又盃(さかづき)を給うて三献(さんこん)飲(のま)しめ給ふ。

鱠手(かしはびと)、したり顔に魚をとり出でて鱠(なます)にせしまで、法師がいふ所たがはであるらめ」といふに、助の人々此の事を聞きて、或いは異(あや)しみ、或いはここち惑ひて、かく詳(つぶら)なる言(こと)のよしを頻(しきり)に尋(たづ)ぬるに、興義(こうぎ)かたりていう。

「我(われ)、此の頃病にくるしみて堪(たへ)がたきあまり、其の死(しし)たるをもしらず、熱(あつ)きここちすこしさまさんものをと、杖(つゑ)に助けられて門を出づれば、病もやや忘れたるやうにて、籠(こ)の鳥(とり)の雲井にかへるここちす。山となく里となく行きゆきて、又江の畔(ほとり)に出(い)づ。

湖水(こすい)の藍(みどり)なるを見るより、現(うつつ)なき心に浴(あび)て遊びなんとて、そこに衣(ころも)を脱去(ぬぎすて)て、身を躍らして深きに飛び入りつも、彼此(をちこち)に游(およぎ)めぐるに、幼(わかき)より水に狎(なれ)たるにもあらぬが、慾(おも)ふにまかせて戯(たはぶ)れけり。今思(おも)へば愚(おろか)なる夢ごころなりし。

されども、人の水に浮かぶは魚(うお)のこころよきにはしかず。ここにて又魚の遊びをうらやむこころおこりぬ。傍(かたはら)にひとつの大魚(まな)ありていふ。『師のねがふ事いとやすし。待たせ給へ』とて、杳(はるか)の底(そこ)に去(ゆく)と見しに、しばしして、冠装束(かむりそうぞく)したる人の、前(さき)の大魚(まな)に跨(また)がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくづ)を牽(ひき)ゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。

『海若(わたづみ)の詔(みことのり)あり。老僧かねて放生(はうじゃう)の功徳(くどく)多し。今江に入りて魚の遊躍(あそび)をねがふ。権(かり)に金鯉(きんり)が服(ふく)を授(さづ)けて水府(すいふ)のたのしみをせさせ給ふ。只餌(ゑ)の香(かん)ばしきに眩(くら)まされて、釣りの糸にかかり身を失ふ事なかれ』といひて去りて見えずなりぬ。

現代語訳

興義が枕から頭をあげて、来てくれたことに礼を言うと、助も(興義が)蘇生したお祝いを述べた。興義は、「殿、試しに私の話を聞きなされ。あの漁師の文四に魚を注文したことがおありかな」とまず聞いた。助は驚いて、「確かにその事実があります。どうしてご存知ですか」。

興義、「あの漁師が身の丈3尺位の魚を籠に入れて貴殿の(屋敷の門)に入った。貴殿は弟君と南向きの面座敷で碁を打っておいででした。掃守殿が傍に居り、大きな桃の実をかじりながら碁の手並みを見ていました。(掃守殿は)漁師が(そこへ)大きな魚を持ってきたのを喜んで、高杯(たかつき)に盛った桃を与え、また、盃を与えて(酒を)三杯お飲ませになりました。

料理人は得意顔をして、魚を(籠から)取り出し、鱠(なます)に料理するまで、私の言っていることに間違いはないでしょう」と言うので、助の(屋敷の)人々は話を聞いてある者はいぶかり、ある者は戸惑って、どうしてこんなに詳しく知っているのかと、しきりにそのわけを(興義に)尋ねると、(興義は)それに答えて次のような話をした。

「わしは此の頃、病気に苦しんで、辛さに堪え難いあまり、自分が死んだこともわからなかった。熱っぽい気持ちを少しでも冷まそうと、杖をついて門を出ると、病気がすこし軽くなったようで、籠の中の鳥が放たれて大空に帰るような(自由で晴れ晴れとした)気分になりました。山となく里となく行き進んでいくうちに、又湖に出ました。

湖水の青い色を見ると、夢心地に、水浴びをして遊びたくなり、(そこに)着ているものを脱ぎ捨て、跳躍して飛び込みながら、あちらこちらと泳ぎ回り、小さい時から水に慣れていたわけでもないのに、好きなように遊び惚けました。今思えば愚かな夢見心地でした。

けれども、人が泳ぐのは魚が気持ちよく泳ぐのにはかないません。ここでまた魚が気持ちよく遊ぶのをうらやましく思う気持ちが起きました。かたわらに一匹の大きな魚がよって来て言うには、『師の願いを(かなえる)事はとても簡単なことですよ。待っていてください』といって遙な水の底に消えて行ったと見えたのに、しばらくすると、冠を被り装束をした人があの大魚に跨り、たくさんの魚類を引き連れ、浮かび上がってきた。そして私に向って、(こう)言ったのです。

『海神のお告げがあった。老僧は日頃から捕えられた魚を放す善行を多くしている。今、湖に入って魚のように泳ぎたいと願っている。(そこで)一時的に金の鯉の服を授けて水の中の楽しみをおさせになる。只、香ばしい餌の臭いに惑わされて釣り人の糸にかかり身を滅ぼすことがないように』と言って、(どこかへ)去り、見えなくなってしまった。

語句

■枕をあげて-枕から頭をあげて。■路次(ろじ)の労(わずら)ひ-単純には、道中の苦労。ここでは、これは当方の頼みを聞き入れ「わざわざの訪問」を指す。■かたじけなうする-感謝する。■蘇生の賀-生き返ったことへの祝辞。相互に礼を尽くしたのである。■先ず問ふて-ここでの「問ふ」は質問ではなく、口を切ったという程度の意。■かの-あの。後でわかるが特定のものを指す。■漁夫-「漁夫」と同じ。「父」は元来老人の意だが、老漁夫ととる必要はない。■文四-架空の人物■あつらへる-注文する。■賢弟-他人の弟に対する敬称。■三尺(みたけ)あまりの魚-目の下三尺(1メートル弱)の大きな魚。■門に入る-庭先へ回ったのである。■南面の所-南に面した座敷。普通は正座敷。■啗(く)う-大きな口をあけて食うこと。■奕(えき)‐碁のこと。■奕(えき)の手段-碁の手並み、勝負。■大魚(まな)-「ま」は接頭語。「巨魚」。■高杯(たかつき)-食物を盛る腰高の小さな台。正しくは「高坏」。■三献(さんこん)-「献」は盃をさすこと。正式の飲み方では一献で三盃、三献で九盃。■鱠手(かしはびと)-料理人。■したり顔-得意げな顔つき。■たがはであるらめ-違っていないでしょう。「たがはでぞあるらむ」とあるべきところで、係り結びの破格。■助の人々-十郎、掃守を指す。(先に「十郎、掃守をの召具して」とあった)■ここち惑いて-とまどいして。あまり変な話なので、おかしな気持ちになったのである。■死(しし)-病熱のため正気がなく、生死など判別できない。■籠(こ)の鳥(とり)の雲井にかへる-束縛を脱して自由になる例え。「雲井」は大空。■行きゆきて-どんどん行って。動詞の連用形を重ねて行為の進行を示す。■藍-青色■現(うつつ)なき心-正気のないぼんやりした心地。■つも-「つつも」と同意。■しかず-…に及ばない。…に勝ることはない。■鼇魚(うろくづ)-魚類。■海若-海神。ここは湖水の神。■権(かり)に-しばらく。
■金鯉(きんり)が服-金色の鯉の服。■水府-水神のいる所。竜宮。ここでは「水の中」ぐらいの意。■眩まされて-思慮分別を失わされて。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永

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