吉備津の釜 二

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「我が女子(むすめ)既(すで)に十七歳になりぬれば、朝夕によき人がな娶(あは)せんものをと、心もおちゐ侍(はべ)らず。はやく日をえらみて聘礼(しるし)を納(いれ)給へ」と、強(あながち)にすすむれば、盟約(ちかひ)すでになりて井沢にかへりことす。即(やがて)聘礼(しるし)を厚くととのへて送り納(い)れ、よき日をとりて婚儀(ことぶき)をもよほしけり。

猶幸(さいはひ)を神に祈るとて、巫子(かんなぎ)・祝部(はふり)を召(めし)あつめて御湯(みゆ)をたてまつる。そもそも当社に祈誓(いのり)する人は、数の祓物(はらへつもの)を供(そな)へて御湯(みゆ)を奉り、吉祥(よきさが)凶祥(あしさが)を占(うらな)ふ。巫子(かんなぎ)祝詞(のつと)をはり、湯の沸上(わきあが)るに及びて、吉祥(よきさが)には釜の鳴音(なるこゑ)牛(うし)の吼(ほゆ)るが如し。凶(あし)きは釜に音なし。是を吉備津の御釜祓(みかまばらひ)といふ。さるに香央(かさだ)が家の事は、神の祈(うけ)させ給はぬにや、只秋の虫の叢(くさむら)にすだくばかりの声もなし。

ここに疑(うたが)ひを起して、此の祥(さが)を妻にかたらふ。妻、更に疑はず、「御釜の音なかりしは祝部等(はふりたち)が身の清からぬにぞあらめ。既に聘礼(しるし)を納(をさ)めしうへ、かの赤縄(せきじよう)に繋(つな)ぎては、仇(あだ)ある家、異なる域(くに)なりとも易(かふ)べからずと聞くものを。ことに井沢は弓の本末(もとすゑ)をもしりたる人の流(すゑ)にて、掟ある家と聞けば、今否(いな)むとも承(うけ)がはじ。

ことに佳婿(むこがね)の麗(あて)なるをほの聞きて、我が児も日をかぞへて待ちわぶる物を、今のよからぬ事(こと)を聞くものならば、不慮(すずろ)なる事をば仕出さん。其のとき悔(くゆ)るともかへらじ」と言(ことば)を尽(つく)して諫(いさ)むるは、まことに女の意(こころ)ばへなるべし。香央も従来(もとより)ねがふ因(ちな)みなれば深く疑はず、妻のことばに従(つき)て、婚儀(ことぶき)ととのひ、両家の親族氏族、鶴の千とせ、亀の万代(よろづよ)をうたひことぶきけり。

香央(かさだ)の女子(むすめ)磯良(いそら)かしこに往(いき)てより、夙(つと)に起(おき)、おそく臥(ふし)て、常に舅姑(おやおや)の傍(かたへ)を去(さら)ず、夫(をっと)が性(さが)をはかりて、心を尽(つく)して仕へければ、井沢夫婦は孝節(かうせつ)を感(めで)たしとて歓(よろこ)びに耐(たへ)ねば、正太郎も其の志に愛(めで)てむつまじくかたらひけり。されどおのがままのたばけたる性(さが)はいかんせん。いつの比(ころ)より鞆(とも)の津の袖といふ妓女(あそびもの)にふかくなじみて、遂(つひ)に贖(あがな)ひ出だし、ちかき里に別荘(べつや)をしつらひ、かしこに日をかさねて家にかへらず。

磯良(いそら)これを怨(うら)みて、或は、舅姑(おやおや)の忿(いかり)に托(よせ)て諫(いさ)め、或いは徒(あだ)なる心をうらみかこてども、大虚(おほぞら)にのみ聞きなして、後は月をわたりてかへり来らず。父は磯良が切なる行止(ふるまひ)を見るに忍びす、正太郎を責(せめ)て押籠(おしこめ)ける。

現代語訳

「私の娘も、もう十七歳になりました。毎日、いい相手はいないものか、そういう人のもとへ嫁がせたいものだと、私はそればかり考えて気の休まる暇もございませんでした。早く、吉日を選んで結納(ゆいのう)を取り交わしてください」と、しきりにすすめたので、話しは決まり、(この旨を)井沢に返事した。そしてすぐに、結納を手厚く整えて取り交わし、吉日を選んで結婚式をあげることになった。

(香央は)そのうえ(娘の)幸せを神に祈ろうと、巫女や祝部を呼び集めて御湯を(神前に)供え、御釜祓いの神事を行った。そもそも、この神社で願い事をする人は、数々の供え物を備えて、御湯を準備し、吉や凶を占うのが常であった。巫女が祝詞を奏し終り、お湯が釜から湧き上がる時に、吉兆の場合は釜が牛の吼えるような音で鳴り、凶兆の場合は、鳴らないのである。これを吉備津の御釜祓いというのである。それなのに香央(かさだ)が家の事は、神が(その願いを)お聞き届けにならなかったのか、秋の虫のすだくばかりの小さな音さえも出さないのである。

そこで疑念を抱いた香央(かさだ)は、此のお告げについて妻に相談した。妻は少しも疑わず、「御釜の音が聞えなかったのは、祝部等(はふりたち)の身が汚(けが)れているからでしょう。もう、結納の儀式も済んで、夫婦の縁を結んだ以上は、(相手がたとえ)仇敵となる家の人であったり、異国の人であったとしても約束を変えることはできないと聞いております。ことに井沢は誉(ほま)れある部門の後裔(こうえい)で、厳格な家風の家だと聞いております。今、こちらから断っても決して承知なさらないでしょう。

ことに(娘は)婿になる人が美男であることをどこからか小耳にはさみ、(胸ときめかし)指折り日を数えて婚礼の日をを楽しみに待ちわびているものを、今の凶兆の事を聞いたなら、思いがけないことをしでかすかもしれません。其の時、後悔してもとりかえしがつかないでしょう」と言葉を尽して(夫を)説き伏せようとしたが、これも母親の立場からすれば当然の気持ちであろう。(これを聞くと父親の)香央も、もとより望んでいた(娘の)縁組だったので、深くは疑わず、妻の言葉に従って、婚儀が整い、両家の親類縁者相集まって、鶴は千年、亀は万年と謡い(新夫婦の末永い幸せを)祝ったのである。

香央(かさだ)の娘磯良(いそら)は嫁いでから後、早く起き、遅く寝て、いつも舅姑の傍に居てその場を離れず、まめまめしく仕え、夫の性格を飲み込んで、夫に気に入られるよう心を尽くして仕えたので、井沢夫婦は(磯良の)親孝行と(夫への)貞節に感じ入って歓びに絶えなかった。正太郎もその誠意に感心していとおしく思い、契も細やかに仲睦まじく暮らしたのであった。しかし、生来の浮気っぽい性格はどうしようもなく、いつの頃からか、鞆(とも)の津の袖といふ遊女と深い仲になり、とうとう身請けして、近くの里に別宅を準備し、そこへ入りびたりになって家には帰らなくなった。

磯良(いそら)はこれを怨んで、或は、舅姑の怒りにかこつけて諫め、或は(正太郎の)浮気心を怨み嘆いたが、うわの空に聞き流して耳を傾けず、その後、一月以上も帰って来なくなった。舅の庄三郎は磯良(いそら)のいじらしふるまいを見るに見かねて、正太郎をきつく叱り、ついに一室に閉じ込めてしまったのである。

語句

■がな-「もがな」の略。願望を表す助詞。下の「ものを」と呼応。■強(あながち)に-むやみに、無理にが普通の意だが、ここでは、早急に事をすすめる形容。
■聘礼(しるし)-結納。■巫子(かんなぎ)-舞、神事などの奉仕で神に仕える巫女(みこ)。■祝部(はふり)-神人の一種で禰宜(ねぎ)の下位者。■御湯を奉る-御釜祓いをする。■数の-数々の。■祓物(はらへつもの)-本来は罪過の償いに捧げる物。ここでは「供物」の意。■御釜祓(みかまばらひ)-現在はこれを御釜神事と呼び、吉備津神社独特の神事。■祈(うけ)させ-受納する。■身の清からぬにぞあらめ-神は不浄を忌むという考えから、凶兆を神官の身の不浄と解した。「ぞ」のかかり結びは「あらむ」が正しい。■更に-少しも。いっこうに。ちっとも。■赤縄(せきじよう)に繋(つな)ぎては-夫婦の縁を結んだ上は。(赤縄足繋の故事『幽怪録』)■易(かふ)-他と取り替える。■弓の本末(もとすゑ)もしりたる人-弓の本弭(もとはず)と末弭(うらはず)。弓矢の道に長ずること、ひいては部門の誉れ高い家。■承(うけ)がはじ-{肯がはじ}承知しないでしょう。■佳婿(むこがね)-やがて婿になる人。■麗(あて)-美貌。■不慮(すずろ)なる事-思いがけないこと。無分別な出奔や自害などの行動を暗示。■磯良-この女主人公の名は秋成の自由な命名であろうが、磯良といえば醜怪な容貌を持つ海神として知られ、浮世草紙でも奇形的容貌をさす名。当時の読者は「いそら」という名からそれを連想したはずである。■夙(つと)に起(おき)、おそく臥(ふし)て云々-「朝は早く起き、夜は遅く寝て」、「もっぱら舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)をわが親よりも重んじて厚く愛しみ敬い」、また「夫を主人と思ひ、敬ひ、謹(つつしみ)て、事(つか)ふべし」。以上当時守るべき婦道であった。『女大学宝箱(享保十八年刊)』■おのがままの-生来の。「わがままな」とする説もあり。■鞆(とも)の津-広島県福山市内。沼隈半島に古くからあった港町。「庭妹」の西南方約60キロメートル。古くから遊女町があった。■袖-架空の人物。■妓女(あそびもの)-遊女。■舅姑(おやおや)の忿(いかり)云々-「男淫乱ならば諫べし。…若も夫不義(ふぎ)過(あやまち)有らば、わが色を和らぎ、声を雅(やはらか)にして諫べし」(女大学宝箱)。■徒(あだ)-浮気。■大虚(おほぞら)にのみ聞きなして-ないがしろにする意の「虚(そら)に」に、「空ふく風と聞き流す」(諺)の「そら」を合せ、うわの空に聞き流すの意。■行止(ふるまひ)-振る舞い。行動。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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