吉備津の釜 三

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磯良これを悲(かな)しがりて、朝夕の奴(つぶね)も殊(こと)に実(まめ)やかに、かつ袖が方へも私(ひそか)に物を餉(おく)りて、信(まこと)のかぎりをつくしける。一日(あるひ)父が宿にあらぬ間(ひま)に、正太郎磯良をかたらひていふ。「御許(おもと)の信(まこと)ある操(みさを)を見て、今はおのれが身の罪をくゆるばかりなり。

かの女をも古郷(ふるさと)に送りてのち、父の面(おもて)を和(なご)め奉らん。渠(かれ)は播磨の印南野(いなみの)の者なるが、親もなき身の浅ましくてあるを、いとかなしく思ひて憐(あはれ)をもかけつるなり。我に捨てられなば、はた船泊(ふなどま)りの妓女(うかれめ)となるべし。おなじ浅ましき奴(つぶね)なりとも、京(みやこ)は人の情もありと聞けば、渠(かれ)をば京に送りやりて、栄(よし)ある人に仕へさせたく思ふなり。

我かくてあれば万(よろづ)に貧(まづ)しかりぬべし。路(みち)の代(しろ)、身にまとふ物も誰(た)がはかりごとしてあたへん。御許(おもと)此の事をよくして渠(かれ)を恵み給へ」と、ねんごろにあつらへけるを、磯良いとも喜(うれ)しく、「此の事安くおぼし給へ」とて、私(ひそか)におのが衣服調度(いふくてうど)を金(かね)に貿(かへ)、猶香央(かさだ)の母が許(もと)へも偽(いつわ)りて金を乞(こひ)、正太郎に与(あた)へける。此の金を得て密(ひそか)に家を脱(のが)れ出で、袖なるものを倶(ぐ)して、京(みやこ)の方へ逃(にげ)のぼりける。

かくまでたばかられしかば、今はひたすらにうらみ嘆(なげ)きて、遂(つひ)に重(おも)き病(やまひ)に臥(ふし)にけり。井沢・香央の人々、彼を悪(にく)み此(これ)を哀(かなし)みて、専医(もはらい)の験(しるし)をもとむれども、粥(もの)さへ日々にすたりて、よろづにたのみなくぞ見えにけり。

ここに播磨の国印南郡荒井(いなみのこほりあらゐ)の里に、彦六といふ男あり。渠(かれ)は袖とちかき従弟(いとこ)の因(ちなみ)あれば、先(まず)これを訪(とふ)らうて、しばらく足を休めける。彦六、正太郎にむかひて、「京(みやこ)なりとて人ごとにたのもしくもあらじ。ここに駐(とどま)られよ。一飯(はん)をわけて、ともに過活(わたらひ)のはかりことあらん」と、たのみある詞に心おちゐて、ここに住むべきに定めける。彦六、我が住むとなりなる破屋(あれや)をかりて住ましめ、友得たりとて怡(よろこ)びけり。

しかるに袖、風のここちといひしが、何となく悩(なや)み出でて、鬼化(もののけ)のやうに狂(くる)はしげなれば、ここに来りて幾日もあらず、此の禍(わざはひ)に係(かか)る悲(かな)しさに、みづからも食(もの)さへわすれて抱(いだ)き扶(たす)くれども、只音(ね)をのみ泣きて、胸窮(むねせま)り堪(たへ)がたげに、さむれば常にかはるともなし。

現代語訳

磯良は、このことを悲しんで、朝夕の仕えも更にまめまめしく精を出し、そのうえ、袖の元へ自分一人の計らいで生活に必要なものを送るなど、損得の心を離れた信実の妻としての道の限りを尽くした。ところがある日、庄太夫が留守の間を見計らって、正太郎は、磯良を傍へ呼び(甘い言葉でそそのかして)言った。「お前の誠実な心情を見て、今、罪深い自分の身を恥じるばかりだ。(このうえはあの女と手を切り)生まれ故郷に帰し、それでわが父の怒りをなだめ和らげるとしよう。袖は播磨の印南野(いなみの)の出身だが、親の無い身でかわいそうなのを、ひどく憐れに思い(つい)情をかけてしまったのだ。もしもいま私に捨てられたら、結果、港町の元の遊女に戻るしかない運命なのだ。同じ浅ましい妾奉公をする身であっても京の人は情が厚いと聞いているので、京へ連れて行き、身分のよい人の許で仕えさせてやりたいと思っているのだ。

(それにしても)私はこのような軟禁状態にあり(訪ねてもやれないので)、さぞ万事につけて不自由で困っていることだろう。(京へのぼる)旅費や衣類といっても誰が工面してくれようか。そなた、このことをよく考えて彼女に恵んでくれないだろうか」と熱心に説得すると、磯良にしてみればこのうえなく嬉しく、「此の事なら安心してください」と言い、自分の衣服や家財道具を金に代え、そのうえ実家の母の許へも嘘を言って、金の工面を頼み、正太郎に与えた。(正太郎は)このお金を手にすると密かに家を脱出し、袖を連れて京の方角を目指して駆け落ちしたのである。

(磯良は)これほどひどく欺かれ、今はひたすら怨み嘆くあまり、遂に重病にかかり寝込んでしまった。井沢並びに香央両家の人々は正太郎を憎み、この事を悲しんで医者に診てもらうものの、病人は日々の粥さえ喉を通らなくなり、なにごとにおいても弱々しく、命さえおぼつかない有様であった。

さて、ここ播磨の国印南郡荒井(いなみのこほりあらゐ)の里に彦六という男がいた。この男は袖と近しい従弟(いとこ)の関係だったので、(二人は)まず彼を訪ねて、しばらく滞在した。彦六が正太郎に向って言うには、「京だとてみんながみんな信頼できるということはないでしょう。ここにお住まいなさい。一つ釜の飯を分け合って、お互い協力して暮しの工夫をしようではありませんか」と。その頼もしい言葉に、ほっとして正太郎もその気になり、ここに住もうと心に決めたのだった。彦六は自分の住んでいる家の隣のあばら家を借りて(二人を)住まわせ、いい話し相手ができたと喜んだのだった。

ところがその矢先、袖は最初風邪気味だということだったが、どこがどうということもなくひどく病気がちになって、物の怪にでも憑かれたように気ちがいじみてきた。まだこの地へ来て幾日も経たないのに、こんな災難にあった悲しさに、(正太郎は)自分の食事さえ忘れて懸命に介抱したが、(袖は)只、声をあげて泣くばかりで、胸が締め付けられ堪え難そうに悶えながらも、反面、熱が引き発作が止むと普段と変わらない様子である。

語句

■奴(つぶね)-朝夕の仕え。奉仕。「奴」は忠実に仕えること。■袖が方へも云々-近世では男が妾を持つのは一般的風習であり、その場合、妻が妾をいたわるのが婦道にかなうとされていた。「私」は自分一人のはからい。「物」は生活の資。■信(まこと)-損得の心を離れた信実な婦道。■かたらひて-甘言を持って手なづけて。■御許-話し相手を指す対称代名詞。■面を云々-怒りに緊張した表情を謝罪によって和らげ笑みを浮かべさせる。■印南郡荒井(いなみのこほりあらゐ)の里-兵庫県高砂市の一部。庭瀬からは東八十余キロ。■はた-結果を予測する副詞。■同じ浅ましき奴-ここでの「奴」は賄い業(妾奉公)を指す。■栄(よし)ある人-身分や名誉、財のある人。■路の代-路銀(ろぎん)、旅費。■此の事-袖の旅費、衣服などの調達の事。■調度-身の回りの諸道具。妻が処分できる私有財産。■かくまでたばかられしかば-婦道に従ってよくよくの忍従に耐えた磯良の誠実さが逆用され、欺かれた点に注意。■専医(もはらい)の験(しるし)-医術の効験。「専」とあるので、病気治療のため周囲の人々が全力を尽くした、の意。■粥(もの)-病人食。■荒井の里-兵庫県高砂市荒井町。「謡曲」高砂の「高砂の浦」にあたる。■彦六-架空の人物。■ちかき-因(ちなみ)にかかる。■因(ちなみ)-血縁、縁者。■人ごと-人という人がみんな。■一飯(はん)をわけて、ともに過活(わたらひ)のはかりことあらん-一つ釜の飯を分け合って、協力して暮しの工夫をしようではないか。■過活(わたらひ)-世わたり。■住むべきに-「べき」は意志。住むこと。■友-ここでは、心許せる話し相手位の意。■鬼化(もののけ)-本来は疫神を指す言葉。病は死霊一般や生霊が取りついたものとする日本固有の考え方から、平安期あたりでは、人に取りつき祟る死霊・生霊を一般に指し、更に妖怪などをも呼ぶ語となった。■風のここち-風邪気味。■何となく悩(なや)み出でて-何ということなく患(わずら)いだして。■鬼化(もののけ)のやうに-もののけでもついたように。■みずからも-正太郎を指す。■抱(いだ)き扶(たす)く-介抱する。看病する。■音(ね)をのみ泣きて-声をあげて泣くばかりで。■胸窮(むねせま)り堪(たへ)がたげに-胸がさしこんできて、たえられない様子で。■さむれば-熱が引き発作がやむと。

備考・補足

■磯良は非難の余地のないすぐれた貞女として、けなげに振舞おうとするが、正太郎はその誠実を二重に裏切る。磯良が貞淑であればあるほど、運命的な男女の悪縁の相は露わになった。
■磯良の死の前後は「もののけ」「生霊」など「源氏物語」の用語を多用しているが、趣向としては、六条ご息女の生霊による六条廃院での女の急死を描いた「夕顔巻」の趣を採ったと考えられる。

朗読・解説:左大臣光永

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