吉備津の釜 五

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女いふ。「憑(たの)みつる君は、此の国にては由縁(ゆゑ)ある御方なりしが、人の讒(さかしら)にあひて領所(しるところ)を失(うしな)ひ、今は此の野の隈に侘しく住ませ給ふ。女君は国の隣までも聞え給ふ美人(かほよびと)なるが、此の君によりてぞ家・所領(しよりやう)をも亡(なく)し給ひぬれ」とかたる。

此の物がたりに心のうつるとはなくて、「さてしもその君のはかなくて住ませ給ふはここちかきにや。訪(とふ)らひまゐらせて、同じ悲しみをもかたり和(なぐ)さまん。倶(ぐ)し給へ」といふ。「家は殿の来らせ給ふ道のすこし引き入りたる方なり。便りなくませば時時(をりをり)訪(とは)せ給へ。待ち侘(わび)給はんものを」と前(さき)に立ちてあゆむ。

二丁あまりを来てほそき径(みち)あり。ここよりも一丁ばかりをあゆみて、をぐらき林の裏(うち)にちひさき草屋(かやのや)あり。竹の扉(とぼそ)のわびしきに、七日あまりの月のあかくさし入りて、ほどなき庭の荒(あれ)たるさへ見ゆ。ほそき灯火(ともしび)の光り窓(まど)の紙をもりてうらさびし。「ここに待たせ給へ」とて内に入りぬ。苔(こけ)むしたる古井のもとに立ちて見入るに、唐紙(からかみ)すこし明けたる間(ひま)より、火影(ほかげ)吹きあふちて、黒棚のきらめきたるもゆかしく覚ゆ。

女出で来りて、「御訪(とふ)らひのよし申しつるに、『入らせ給へ。物隔(ものへだて)てかたりまゐらせん』と端(はし)の方へ膝行(いざり)出で給ふ。彼方(かしこ)に入らせ給へ」とて、前裁(ぜんざい)をめぐりて奥の方へともなひ行く。二間(ふたま)の客殿を人の入るばかり明けて、低(ひく)き屏風(びやうぶ)を立つ。古き衾(ふすま)の端(はし)出でて、主(あるじ)はここにありと見えたり。

正太郎かなたに向ひて、「はかなくて病にさへそませ給ふよし。おのれもいとほしき妻を亡(うし)なひて侍れば、同じ悲しみをも問ひかはしまゐらせんとて推(おし)て詣で侍りぬ」といふ。

あるじの女屏風すこし引きあけて、「めづらしくもあひ見奉るものかな。つらき報(むく)ひの程しらせまゐらせん」といふに、驚きて見れば、古郷(ふるさと)に残せし磯良(いそら)なり。顔の色いと青ざめて、たゆき眼(まなこ)すさまじく、我を指(さし)たる手の青くほそりたる恐ろしさに、「あなや」と叫(さけ)んでたふれ死(し)す。

現代語訳

女が言う、「ご主人様は此の国では有名なお方ですが、人の讒言にあって領地を失くし、今は此の野の奥に侘しく暮しておいでなのです。また奥方は隣国まで評判のお高い美しい人ですが、それが原因で家・領地をも失くされたのです」と話す。

(正太郎は)生来の浮気心が芽生えたというわけではないが何やら心ひかれて、「さて、其のお方がお住まいになっているのはこの近くですか。訪ねて行って(二人共通の悲しみを)話し合ってお互に心の憂さをなぐさめ合いたいものです。一緒に連れて行ってください」と言う。(女は)「家は貴方様がいつもお出でになる道を少し横に入った方です。奥方は頼る方を失って心細くいらっしゃいますから時々、訪ねてやってください。きっとお待ちかねでいらっしゃいましょうよ」と言うと、先に立って歩きだした。

二百メートルほど進んだところに細い別れ道があり、(さらにこの道を)百メートルほど進むと、薄暗い林の奥に小さな茅葺の家があった。、竹の扉がわびしく、折から七日すぎの月の明かりが差し込んで、それほど広くない荒れた庭もがはっきり見えた。かすかな灯火の光りが、窓の障子から漏れているのもなんとなく淋しい風情である。
「ここでしばらくお待ちください」と言うと女は内に入っていった。苔むした古井戸の傍に立って家の中を覗き見ると、少し開けた襖の隙間から火影が風に吹かれてちらちらし、その光を受けて立派な黒い違い棚がきらきらと輝いて見えるのも奥ゆかしく思われる。

女が出てきて、「(貴方様のご訪問を)奥様に申し上げましたところ、『入ってもらいなさい。物越しにお話しいたしたい』とおっしゃって、病にもかかわらず、端の方にいざり出ていらっしゃいました。どうぞ、こちらにお通りくださいませ」といって(女は)前庭の植込みを回って奥の方へ案内した。二間の奥座敷を見ると、人が通れるくらい隙間を開けて低い屏風が立っている。そこから古い夜具の端が見えて、奥様はそこにいると思われた。

正太郎はそちらに向かって、「ご主人に先立たれて頼りなくなられたうえに病にかかられたそうですね。私も先日愛妻に死なれましたので、同じ悲しみをたずねたりたずねられたりして心を慰め合おうと思い、たって訪ねてまいりました」と言った。

(すると、)女主人は屏風を少し引き開けて、「久しぶりでお目にかかるものですね。ひどい仕打ちに対する報いがどんなものか思い知らせてあげましょう」と言うので、驚いて見ると、(なんとそれは)故郷に残してきた磯良だったのです。顔色はひどく青ざめ、力なくどろんとした目つきは物凄く、指さす手指が青くやせ細った恐ろしさに、(正太郎は)「うわっ」と叫んで倒れ気を失ってしまった。

語句

■由縁(ゆゑ)ある御方-筋目正しい名家の人。■讒(さかしら)-讒言(ざんげん)。「さかしら」と振り仮名があるので、謀略で陥れられた、の意。■領所(しるところ)-領地。■隈(くま)-奥まった所。■国の隣までも聞え給ふ-隣国にまで評判の高い。■美人(かほよびと)-美しい人。■此の君によりてぞ-この美しい妻が原因で。■心のうつるとはなくて-生来の浮気心が芽生えたというわけではないが何やら心ひかれて。■さてしも-「さて」を強めた語。■かたり和(なぐ)さまん-話し合ってお互に心の憂さをなぐさめよう。■倶(ぐ)し給へ-一緒に連れて行ってください。■すこし引き入りたる方-少し横に入った方。■便りなくませば-奥方は頼る方を失って心細くいらっしゃいますから。■待ち侘(わび)給はんものを-きっとお待ちかねでいらっしゃいましょうよ。■二丁-約二一八メートル。■をぐらき-薄暗い。■草屋(かやのや)-茅葺屋根の家。■竹の扉(とぼそ)-竹で編んだ戸。貧家または草庵ふうの住居をいう。■ほどなき-広くもない。狭い。■七日あまりの月-七日過ぎの上弦の月。月の明るさが増してくる。■あかく云々-明るく。■あふちて-本来は、あおる、の意。ここでは、吹きあおられて、と受け身に転じ用いている。■黒棚-黒漆を塗った三重の違い棚。婚礼道具の一つ。■物隔てて-身分のある女性は、男子と逢うときは、几帳(きちょう)、屏風などを隔てて話すのが普通であった。■膝行(いざり)-膝でにじり進むこと。■前裁(ぜんざい)-前庭の植込み。■二間-柱と柱の間を一間という。■客殿-客を迎える座敷。■はかなくて-ご主人に先立たれて頼りなくなられたうえに。■いとほしき妻-愛妻。■問ひかはしまゐらせんとて-たずねたりたずねられたりして心を慰め合おうと思って。■推(おし)て-たって。招待されたのではなく、自分から進んで訪問したのでいう。男子がひとり住いの女を訪問するのは穏当ではなかった。■つらき報(むく)ひの程しらせまゐらせん-ひどい仕打ちに対する報いがどんなものか思い知らせてあげよう。■手の青くほそりたる-死者であることを表す効果的な表現。■たゆき眼-力なくどろんとした眼。■あなや-悲鳴を表す語。「うわっ」

備考・補足

■此の君とは女君を指しており、故人が国主に仕える名家でこの美しい妻のために、陥(おとしい)れられて地位・領地・家を失った。
■「心のうつるとはなくて」の解も、いくつか成り立つが、ここでは宿命的に磯良の怨霊におびきよせられて行くとみる立場を採りたい。次女の物語はまったくの虚言だが、その内容では裏切りによって滅びていった中世の名家が語られており、正太郎をおびき寄せる何かがあることが一つ。そして、正太郎生来の「立化けたる性」のゆえに、磯良の怨霊のたぐり寄せる目に見えない糸におびき寄せられていくという構成が、その上に重ねられているのである。秋成は怪異の力と同時に、何らかの要因が怪異を招くという考えをしていた。
■待ち給はんものを-美しい未亡人が「待つ」というのは、正太郎の心をそそる設定。ただし、その裏には、磯良の怨霊の影が揺曳する。

朗読・解説:左大臣光永


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