蛇性の婬 二

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女「しばし宥(ゆる)させ給へ」とて、ほどなき住ひなればつひ並(なら)ぶように居るを、見るに近(ちか)まさりして、此の世の人とも思はれぬばかりに美しきに、心も空(そら)にかへる思ひして、女にむかひ、「貴(あて)なるわたりの御方とは見奉るが、三山詣(まうで)やし給ふらん。峰の温泉(ゆ)にや出で立ち給ふらん。かうすさまじき荒磯(ありそ)を何の見所ありて、狩(かり)くらし給ふ。ここなんいにしへの人の、

くるしくもふりくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに

とよめるは、まことけふのあはれなりける。此の家賤(あや)しけれどおのれが親の目かくる男なり。心ゆりて雨休(やめ)給へ。そもいづ地旅の御宿りとはし給ふ。御見送(みおく)りせんも却(かへり)て無礼(なめげ)なれば、此の傘(かさ)持て出で給へ」といふ。

女、「いと嬉(うれ)しき御心を聞え給ふ。其の御(み)思ひに乾(ほし)てまいりなん。都のものにてもあらず、此の近き所に年来(としごろ)住みこし侍(はべ)るが、けふなんよき日とて那智(なち)に詣侍(まうではべ)るを、暴(にはか)なる雨の恐(おそろ)しさに、やどらせ給ふともしらでわりなくも立ち寄りて侍る。ここより遠からねば、此の小休(をやみ)に出で侍らん」といふを、強(あながち)に「此の傘持ていき給へ。何(いつ)の便(たより)にも求(もとめ)なん。雨は更に休(やみ)たりともなきを、さて御住(すま)ひはいづ方(べ)ぞ。これより使奉らん」といへば、「新宮の辺(ほとり)にて県(あがた)の真女児(まなご)が家はと尋ね給はれ。日も暮れなん。御恵(めぐみ)のほどを指戴(さしいただき)て帰りなん」とて、傘とりて出づるを、見送りつも、あるじが蓑笠(みのかさ)かりて家に帰りしかど、猶俤(おもかげ)の露忘れがたく、しばしまどろむ暁(あかつき)の夢(ゆめ)に、かの真女児(まなご)が家に尋ねいきて見れば、門も家もいと大きに造(つく)りなし、蔀(しとみ)おろし簾垂(すだれたれ)こめて、ゆかしげに住みなしたり。

真女児(まなご)出で迎(むか)ひて、「御情(なさけ)わすれがたく待ち恋(こひ)奉る。此方(こなた)に入られ給へ」とて、奥の方にいざなひ、酒菓子(くだもの)種々(さまざま)と管待(もてな)しつつ、喜(うれ)しき酔(ゑひ)ごごちに、つひに枕をともにしてかたるとおもへば、夜明けて夢さめぬ。現(うつつ)ならましかばと思ふ心のいそがしきに朝食(あさげ)も打ち忘れてうかれ出でぬ。新宮の郷(さと)に来て「県(あがた)の真女児(まなご)が家は」と尋ぬるに、更に知りたる人なし。午時(ひる)かたふくまで尋ね労(わずら)ひたるに、かのわらは東の方よりあゆみ来る。豊雄(とよお)見るより大いに喜(よろこ)び、「娘子(むすめ)の家はいづくぞ。傘もとむとて尋ね来る」といふ。

現代語訳

女は「では、しばらくお邪魔させてくださいませ」といって入って来た。狭い家なので、女は豊雄と向いあうように座ったが、近くで見るといっそう見栄えして此の世の人とも思えない美しさに心がうわの空になって、女に向って言った。「失礼ですが都あたりの高貴な御身分の方とお見うけしますが、三山詣でにお出でになったのですか。それとも峰の湯へでも湯治にお出でになったのですか。このように殺風景な荒れた磯でどこがお気に召してお遊びにお越しになったのですか。もっとも、ここが昔の人の、

くるしくも…

(こまったことに降って来た雨だ。この三輪崎の佐野の渡し場には雨宿りする家もないのに)

と詠んだところですが、まことに今日のこの風情と変わりがありません。此の家はみすぼらしい家ですが、私の親が目をかけているいる男の家なのです。心おきなく雨宿りをなさってください。それにしてもどこを旅の宿とお定めですか。御見送りするのもかえって失礼かと存じますので、此の傘をお持ちになってお帰りください」といった。

女は、「とても嬉しいことをおっしゃることよ。その思いに甘んじて濡れた着物を乾かしていくことにしましょう。(私は)都人などではなく、この近くに数年住んでおりますが、(今日は)那智詣でにはいい日和だと思い、(神社に)参拝してまいりましたが、(帰る途中)突然の激しい雨に見舞われ、恐ろしく、(貴方が)先に雨宿りをされていることも知らず、わきまえもなく立ち寄りました。(我が家は)ここからそう遠くはないので、この雨が小雨の間に帰ります」というのを、しきりに「この傘をお持ち帰りください。何かのついでに返していただきましょう。雨はいっこうに止む気配はありませんよ。さて、御住いはどちらでしょうか。当方から使いをだしましょう」と言うと、「新宮の近くですが県(あがた)の真女児(まなご)の家といって尋ねてください。日も暮れました。ご親切のほどをありがたくいただいて帰りましょう」と言って、傘をさして出ていくのを見送りながらも、(豊雄自身は)主の箕傘を借りて家に帰ったが、それからどうにも(その女の)面影を忘れられず、夜も眠れず、しばらくまどろんだ夜の暁に見た夢の中で、あの真名児の家を訪ねて行って見ると、門も家もとても大きな構えで作られていて、蔀(しとみ)を下し、簾(すだれ)はきっちりと垂れて、奥ゆかしく住んでいる様子であった。真名児は出迎えて、「お情けを忘れられず、恋しくお待ちしておりました。こちらにお入りください」といって、奥の方に誘い、酒や果物などさまざまなものを出してでもてなした。豊雄は嬉しくなり、酔いもまわり、ついに枕を共にして契を結んだと思ったとき夜が明けて夢が覚めた。

これが夢でなく現実であったならどんなにうれしかろうと思えば、なんとなしに心がウキウキして朝食も忘れて家を出た。新宮の里にやって来て「県の真女児の家はどこですか」と聞いてまわるが、知っている人は誰もいなかった。昼すぎまで尋ねまわっていると、あの少女が東の方から歩いて来るのに出会った。豊雄はそれを見るなり大いに喜んで、「お嬢様の家はどこですか。傘を返してもらおうと思って尋ねて来たんだが」と言った。

語句

■ほどなき-広くない。狭い。■つひ並ぶ-向いあうように。■近まさりして-近くで見ればいっそう見栄えがして。■此の世の人とも思はれぬばかり-天上の人ともいいたいほどの。■心も空にかへる思ひして-心がぼーっとして。ウキウキにした気分になって。■貴(あて)なるわたりの御方-高貴の家の御方。■峰の湯-和歌山県田辺市の西、四村にある湯の峰温泉の別名。■すさまじき-殺風景な。■狩(かり)くらす-終日、見物して歩くこと。■いにしへの人-万葉歌人の長忌寸奥麻呂(ながのいみおきまろ)■佐野-三輪崎のなかの地名。■けふのあはれなりける-今日のこの風情と同じである。■目かくる-世話をする。■心ゆりて-気を楽にして。心おきなく。くつろいで。■聞え給ふ-おっしゃってくださる。■其の御思ひに乾(ほし)てまいりなん-御親切なあたたかい御情けで濡れた着物をほしてまいりましょう。思ひの「ひ」を「火」にかけ、乾すは縁語。■那智(なち)-熊野三山の一つ。和歌山県那智勝浦町にある那智権現と青岸渡寺。■わりなくも-見境もなく。分別もなく。■強(あながち)に-強いて。無理に。■何(いつ)の便(たより)にも求(もとめ)なん-何かのついでにいただきにまいりましょう。■更に休(やみ)たりともなきを-いっこうに小雨になったとも思えないのに。■使奉らん-使いを出しましょう。■指戴(さしいただき)て-傘の縁語「さす」を掛けている。■見送りつも-見送って。■しばしまどろむ云々-興奮のために眠れず、明け方になってようやく寝たことを示す。■露忘れがたく-どうしても忘れられず。■蔀(しとみ)-日光を避け、風雨を防ぐための横戸。ふつう上下二つになっていて、上はあげさげができ、下はとりはずせる。寝殿造りなどの高貴な家に多い。■簾垂(すだれたれ)こめて-簾をふかくおろして。簾は蔀(しとみ)の内側にかける。■菓子(くだもの)-一般には果実。ここでは酒肴としての菓子か。■かたる-寝語りする意で、単なる「話し合う」意ではなく愛を交わすことを示す。■ましかば-もし…だったら、(どんなにうれしかろう)■いそがしきに-そわそわとして落ち着かないので。■うかれ出でぬ-心もそぞろにうきたって家を出た。■新宮の郷-熊野速玉(はやたま)神社の周辺の町並み。■午時(ひる)かたふくまで-昼過ぎまで。■娘子(むすめ)-お嬢様。

備考・補足

■男女が巡り逢う機縁としての「雨宿り」は説話的な定型で世間知らずの豊雄に対して、美貌の都風な女という身分差のようなものが暗示されることに「雨月物語」第一の長篇らしく浪漫的志向が見られる。
■真女児の言にもかかわらず、誰も彼女の家を知るものがいないこと自体、奇怪千万だが、豊雄の「心のいそがしきに朝食も打ち忘れ」た浮かれ心地には、その分別もできない。このあたり、原拠の叙述を多く採っているが、また豊雄の夢見がちな人柄も現れている。

朗読・解説:左大臣光永


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