蛇性の婬 四

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豊雄もとよりかかるをこそと乱心(みだれごころ)なる思ひ妻なれば、塒(ねぐら)の鳥の飛び立つばかりには思へど、おのが世ならぬ身を顧(かへりみ)れば、親兄弟(おやはらから)のゆるしなき事をと、かつ喜(うれし)み、且(かつ)恐(おそ)れみて、頓(とみ)に答ふべき詞(ことば)なきを、真女児(まなご)わびしがりて、「女の浅き心より、嗚呼(をこ)なる事をいひ出でて、帰るべき道なきこそ面(おも)なけれ。かう浅ましき身を海にも没(いら)で、人の御心(みこころ)を煩(わずら)はし奉るは罪深(つみふか)きこと、今の詞(ことば)は徒(あだ)ならねども、只酔ひごこちの狂言(まがこと)におぼしとりて、ここの海にすて給へかし」といふ。

豊雄、「はじめより都人の貴(あて)なる御方とは見奉るこそ賢(かしこ)かりき。鯨(くじら)よる浜に生立(おひた)ちし身の、かく喜(うれ)しきこといつかは聞ゆべき。即(やがて)の御答(こた)へもせぬは、親兄(おやはらから)に仕(つか)ふる身の、おのが物とては爪髪(つめかみ)の外なし。何を禄(ろく)に迎へまゐらせん便りもなければ身の徳なきをくゆるばかりなり。何事をもおぼし耐(たへ)給はば、いかにもいかにも後見(うしろみ)し奉らん。孔子(くじ)さへ倒(たふ)るる恋の山には孝をも身をも忘(わす)れて」といへば、「いと喜(うれ)しき御心を聞きまゐらするうへは、貧(まづ)しくとも時々(をりをり)ここに住ませ給へ。ここに前(さき)の夫(つま)の二(ふた)つなき宝(たから)にめで給ふ帯(おび)あり。これ常に帯(はか)せ給へ」とてあたふるを見れば、金銀(をがねしろがね)を餝(かざ)りたる太刀(たち)の、あやしきまで鍛(きた)うたる古代の物なりける。

物のはじめに辞(いなみ)なんは祥(さが)あしければとてとりて納(をさ)む。「今宵(こよひ)はここに明(あか)させ給へ」とて、あながちにとどむれど、「まだ赦(ゆる)しなき旅寝(たびね)は親の罪(つみ)し給はん。明日(あす)の夜よく偽(いつは)りて詣(まうで)なん」とて出でぬ。其の夜も寝(いね)がてに明けゆく。

太郎は網子(あご)ととのほるとて、晨(つとめ)て起き出でて、豊雄が閨房(ねや)の戸(と)の間(ひま)をふと見入れたるに、消(きえ)残りたる灯火(ともしび)の影(かげ)に、輝々(きらきら)しき太刀(たち)を枕(まくら)に置(おき)て臥(ふし)たり。「あやし。いづちより求(もとめ)ぬらん」とおぼつかなくて、戸をあららかに明くる音に目さめぬ。

太郎があるを見て、「召給ふか」といへば、「輝々(きらきら)しき物を枕に置きしは何ぞ。価貴(あたひたか)き物は海人(あま)の家にふさはしからず。父の見給はばいかに罪(つみ)し給はん」といふ。

現代語訳

(この夢のような女の求婚に対し)豊雄は、もともとこうなることを思い望み、気も狂わんばかりに恋焦がれていた女のことだから、飛び立つばかりに嬉しく思ったものの、親がかりで一人前でない我が身を顧みて、親兄から許しをもらっていない事をと、一方では喜び、一方では恐れて、すぐに答えることもできないでいた。(その沈黙を)真女児は辛く思って、「浅はかな女心から取り返しのつかないおろかな事を言い出し、引っ込みのつかないのが恥しいことです。このように頼る人もなく、人に疎(うと)まれる立場にいながら、海に身を投げもせず、御心を煩わせたのも罪深いこと。今申し上げたことは偽りごとではありませんが、ただ、酔った挙句のたわごととお取りになって、さらりとこの海の水に流してくださいませ」と言った。

(そこではじめて)豊雄は答えた。「はじめから都の高貴な御方と思っていたが、見誤りではなかった。鯨が泳ぐこのあたり辺鄙な浜育ちの私にとって、こんなにもうれしい言葉はまたと聞く日があろうとは思えません。即座の返事ができないのは、親兄に養われている身であり、自分の物といってもこの身一つ。何を結納の金品として迎えるかのあてもなく、徳の無い身を嘆くばかりです。何事も耐え忍んでいただけるならもちろん夫となりお世話しましょう。『孔子でさえ恋につまづく』という諺のように恋のためには親への孝行も、自分の身の無力さも忘れるばかりです」と言うと、「とても嬉しい心の内を聞かせていただいたうえは、むさ苦しい家ですが、夫として時々、ここに御通いください。これは前夫が腰に帯びていた太刀で、二つとない宝物でございます。これをいつも帯びていてください」といって与えようとする太刀を見ると、金銀で飾られており、ものすごいまで立派に鍛えられた古代がかった太刀であった。

めでたいことの初めから断るのは縁起が悪いと思い、太刀を受け取り、腰に帯びた。(真女児は)「今夜はこちらにお泊りください」と言って、無理に止(とど)めようとしたが、「まだ許しのない外泊は親に叱られます。明日の夜はいい口実を作ってこちらにお邪魔することにします」と言って、真女児の家を出たのであった。その夜もよく寝られないまま夜が明ける。

大宅の太郎は、漁師たちを呼び集めようと早朝に起きだし、ふと、豊雄の寝屋の戸の隙間に見入ると、(豊雄は)消え残った灯火の影の中で輝々(きらきら)と輝く太刀(たち)を枕辺に置いて寝込んでいる。「おかしい。どこで手に入れたんだろう」とあやしみながら、戸を荒々しく開けると、その音で豊雄は目を覚ました。

(豊雄は、目覚めたのち)太郎が戸口に立っているのを見て、「お呼びでございますか」というと、(太郎は)「その枕元に置いている輝々(きらきら)したものは何だ。そんな高価なものは漁師の家にはふさわしくない。父上がご覧になったらさぞや嘆かれることであろう」

語句

■思ひ妻-恋焦がれた女。■おのが世ならぬ身-戸主として独立していない身分。■頓に-すぐに。■わびしがりて-辛く思って。■嗚呼(をこ)なる事-おろかな事。■帰るべき道なきこそ面(おも)なけれ-ひっこみのつかないのが恥しい。■没-身投げする。女の恥を告白した後での、やや捨てばちな言い方。■狂言(まがこと)-冗談。たわむれごと。■浅ましき-頼る人もなく、人に疎まれる立場。■ここの海にすて給へかし-前述、「海にも没(いら)で」から出た表現。なかったことにしてください、の意。女のすねた気持ちを表している。■賢(かしこ)かりき-自分の推測が当たっていた。■禄-一般には生活の資をいうが、ここでは結納の金品。■おぼし耐え-耐え忍ぶ。■いかにもいかにも-どんなにしてもの意と相手の話に応じる意味のいうまでもなくの意が込められている。■後見し奉らん-男(夫)として世話をすること。■孔子(くじ)さへ倒(たふ)るる恋の山-聖人でも恋には過つ、という意味の諺。■帯-腰に帯びる物。ここでは太刀をいう。■あやしきまで-物凄いまで立派に。■祥あしきこと-縁起の良くないこと。■あながちに-無理に。強いて。■旅寝-古くは外泊を一般に旅寝といった。■よく偽りて-いい口実を作って。■寝(いね)がてに-「寝がたくして」の意。■網子(あご)-網を引く漁師。■ととのほる-呼び集め、持ち場に着かせること。■つとめて-早朝。■おぼつかなくて-心もとなく不確かで。■輝々(きらきら)しき物-太刀を指す。

備考・補足

■男女の結びつきを、女の方からしかも本人が持ちかけるのは、近世では歌舞伎・浄瑠璃・浮世草子などで珍しくはないが、それにしてもこの女には不審が残るはず。だが真女児の告白は、古歌を詠み、優雅に自らの不幸を訴え、豊雄の夢心をかきたてるものであり、彼は少しもそれを疑わない。
■「孝をも身をも忘れて」と、ついに夢の実現に踏み切った豊雄は、翌朝たちまちに否応なしの現実に引き戻される。理想を夢見る豊雄の現実は、無権利の次・三男のみじめな立場である。

朗読・解説:左大臣光永


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