蛇性の婬 七

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武士らかしこまりて、又豊雄を押したてて彼処(かしこ)に行きて見るに、厳(いか)めしく造りなせし門の柱も朽(くち)くさり、軒の瓦(かはら)も大かたは砕(くだけ)おちて、草しのぶ生(おひ)さがり、人住むとは見えず。豊雄是を見て只あきれにあきれゐたる。武士らかけ廻(めぐ)りて、ちかきとなりを召(めし)あつむ。木伐老(ききるをぢ)、米かつ男ら、恐れ惑(まど)ひて、跪(うすずま)る。

武士他(かれ)らにむかひて、「此の家何者が住みしぞ。県(あがた)の何某が女(め)のここにあるはまことか」といふに、鍛冶の翁はひ出でて、「さる人の名はかけてもうけ給はらず。此の家三とせばかり前(さき)までは、村主(すぐり)の何某といふ人の、賑(にぎ)はしくて住み侍るが、筑紫に商物積てくだりし、其の船行方なくなりて後は、家に残る人も散々(ちりぢり)になりぬるより、絶(たえ)て人の住むことなきを、此の男のきのふここに入りて、漸(やや)して帰りしを竒(あや)しとて、此の塗師(ぬし)の老(をぢ)がまうされし」といふに、「さもあれ、よく見極(みきわめ)めて殿に申さん」とて、門押ひらきて入る。家(いへ)は外(と)よりも荒(あれ)まさりけり。なほ奥の方に進(すす)みゆく。前栽(せんざい)広く造りなしたり。池は水あせて水草(みくさ)も皆枯(かれ)、野ら藪生(やぶおひ)かたふきたる中に、大きなる松の吹き倒(たふ)れたるぞ物すさまじ。客殿(きやくでん)の格子戸(かうしど)をひらけば、腥(なまぐさ)き風のさと吹きおくりきたるに恐れまどひて、人々後(あと)にしりぞく。

豊雄只声を呑(のみ)て嘆(なげ)きゐる。武士の中に巨勢(こせ)の熊檮(くまがし)なる者胆(きも)ふとき男にて、「人々我が後に従(つき)て来れ」とて、板敷(いたじき)をあららかに踏(ふみ)て進(すす)み行く。塵(ちり)は一寸ばかり積(つも)りたり。鼠の糞(くそ)ひりちらしたる中に、古き帳(とばり)を立てて、花の如くなる女ひとりぞ座(を)る。熊檮(くまがし)、女にむかひて、「国の守(かみ)の召(めし)つるぞ。急ぎまゐれ」といへど、答(こた)へもせであるを、近く進みて捕(とら)ふとせしに、忽(たちまち)地も裂(さく)るばかりの霹靂(はたたがみ)鳴響(なりひび)くに、許多(あまた)の人逃(にぐ)る間(ひま)もなくてそこに倒(たふ)る。

然(さて)見るに、女はいづち行きけん見えずなりにけり。此の床の上に輝々(きらきら)しき物あり。人々恐る恐るいきて見るに、狛錦(こまにしき)、呉(くれ)の綾(あや)、倭文(しづり)、かとり、盾(たて)、槍(ほこ)、ゆき、鍬(くは)の類(たぐひ)、此の失せつる神宝なり。武士らこれをとりもたせて、怪(あや)しかりつる事どもを詳(つぼら)に訴(うつた)ふ。助も大宮司も妖怪(もののけ)のなせる事をさとりて、豊雄を責(さいな)む事をゆるくす。

現代語訳

武士たちは慎んで命を受け、又豊雄を引っ立ててそこへ行って見ると、厳めしく造られていたはずの門は、柱も朽ち腐り、軒の瓦もおおかたは砕け落ちて、忍ぶ草が生え下がり、とても人が住んでいるようには見えない。豊雄は、これを見て、只信じられず唖然としていた。武士たちは周辺を駆け巡って、近所の住民を呼び集めた。集められた木こりの老人、米つき男らは恐れ惑い、うずくまった。

武士は彼らに向って、「此の家には誰が住んでいるのか。県の何某の妻がここに居るというのは本当か」と言うのに、鍛冶屋の老人が這い出して、「そのような人の名は聞いたことがございません。此の家は三年ばかり前までは、村主(すぐり)の何某という人が住んでおり、家は豊かで、多くの使用人も居りましたが、九州の販路へ商品を積んで船出し、其の船が行方不明になった後は、家に残っていた人たちも散り尻になっていなくなりました。その後からは人が住んだことはございません。(そんな家に)昨日此の男の方が入り、しばらくして帰られたのを、不審なことだとこの漆塗り職人が言ったんですよ」と言うのに、「ともかく、よく見定めて殿さまに報。しよう」と言って、門を押し開いて中に入る。家は外よりもさらに荒れていた、さらに奥の方に進んで行く。前庭の植込みがかなり広く造られている。池は水枯れし、、水草も皆枯れてしまっており、荒れ野の如く生い茂った草木が傾いて高く延びている中に、大きな松の木が吹き倒されており、ものすごい物であった。表座敷の格子戸を開くと、生臭い風がさっと吹き送られてきたので、恐れ戸惑い、人々思わず後に退いた。

豊雄は、只、声をあげることもできず嘆いている。武士の中に巨勢(こせ)の熊檮(くまがし)という大胆な男がおり、「方々、我についてこられよ」と言って、板敷を荒々しく踏んでどんどん中に入って行く。塵は一寸ほど積もっていた。鼠の糞が散乱する中に、古い几帳を立てて、花のように美しい女が一人で座っている。熊檮(くまがし)は女に向い、「国司様からのお召しである、急ぎ同行せよ」と言うが答えもしない。近づいて捕えようとしたが、忽ち地も裂けんばかりの雷鳴鳴り響き、多くの人は逃げる間もなくその場に倒れてしまった。さて、見まわしてみると、女はどこに行ったのか姿が消えていた。女が座っていた床の上に、キラキラと光るものがあり、人々が恐る恐る行って見ると、狛錦(こまにしき)、呉(くれ)の綾(あや)、倭文(しづり)、かとり、盾(たて)、槍(ほこ)、ゆき、鍬(くは)の類(たぐひ)であり、それは全て、失くなった神宝であった。武士たちは、これらの物を取り上げ、人々の持たせて帰り、この怪しい事象を詳しく、国司に報告した。
(これを聞いた)次官も大宮司も(今までの事は)妖怪の仕業だったのを覚り、豊雄への責をゆるくした。

語句

■厳(いか)めしく造りなせし門の柱-「し」は過去助動詞の連体形。一昨日まで門が立派に構えられていたのが、現在と違うので過去としたのである。■草しのぶ-忍ぶ草。■あきれにあきれゐたる-信じられず唖然としている様。■跪(うすずま)る-本来は「うずすまる」で、土下座する意だが、秋成は「うずくまる」意で用いている。■木伐老(ききるをぢ)-木こりの老人。■米かつ男-米搗(つ)く男。<杵で餅を搗く男>■他(かれ)ら-彼ら。■かけても-「かけても」は下に打消しを伴って、ちっとも、いささかも、の意を示す。■村主(すぐり)-村長の意ではなく、固有名詞。古代の姓。■賑(にぎ)はしく-家豊かに人も多く使って、の意。■筑紫(つくし)-福岡県の意ではなく九州路一般であろう。■絶(たえ)て-下に打消しを伴い、全く、ちっとも、の意を示すが、ここでは人が絶える意もかける。■塗師(ぬし)-塗物師。漆職人。■さもあれ-それはそれ、ともかく。■前栽(せんざい)-前庭の植込み。■野ら藪-生え放題に生えた雑草。■吹き倒れたるぞ-荒らしなどに吹き倒されているのである。常緑樹の「松」の倒壊は廃屋の象徴なのである。■客殿(きやくでん)-正殿。表座敷。■腥(なまぐさ)き風-妖怪の出現時に吹く風。■巨勢(こせ)の熊檮(くまがし)-架空の人物。■胆(きも)ふとき-大胆な。■板敷(いたじき)-板の間。■帳(とばり)-几帳。平安時代以降公家の邸宅に使われた、二本のT字型の柱に薄絹を下げた間仕切りの一種。■花の如くなる女ひとりぞ座(を)る-荒廃した室内に「花の如」き美女を置いた凄まじい効果と美に注意。■此の床-真女児の座っていた畳。■狛錦(こまにしき)-高麗渡の錦。■呉(くれ)の綾(あや)-呉(南中国)地方産の綾織物。■倭文(しづり)-「倭文織」の略。古代布。■かとり-固い織。目のつんだ絹織物。■盾(たて)~ゆき-武器。「ゆき」は矢を入れて背に負う器。■鍬の類-大鋤(おおすき)。古代農具だが武器にもなった。■
もののけ-妖怪。後代になるほど多義化。■

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永

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