蛇性の婬 九

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真女児涙を流して、「まことにさこそおぼさんはことわりなれど、妾(せふ)が言(こと)をもしばし聞かせ給へ。君公庁(おほやけ)に召(めさ)れ給ふと聞きしより、かねて憐(あはれ)をかけつる隣(となり)の翁(おきな)をかたらひ、頓(とみ)に野らなる宿のさまをこしらへし。我を捕(とら)んずるときに鳴神(なるかみ)響(ひび)かせしはまろやが計較(たばかり)つるなり。其の後船をもとめて難波(なには)の方に遁(のが)れしかど、御消息(せうそこ)しらまほしく、ここの御仏(みほとけ)にたのみを懸けつるに、二本(ふたもと)の杉のしるしありて、喜(うれ)しき瀬(せ)にながれれあふことは、ひとへに大非(だいひ)の御徳かうむりたてまつりしぞかし。種々(くさぐさ)の神宝(かんだから)は何とて女の盗み出すべき。

前(さき)の夫(つま)の良(よか)らぬ心にてこそあれ。よくよくおぼしわけて、思ふ心の露ばかりをもうけさせ給へ」とてさめざめと泣く。豊雄或(ある)は疑(うたが)ひ、或は憐(あはれ)みて、かさねていふべき詞(ことば)もなし。金忠夫婦、真女児がことわりの明らかなるに、此の女(をんな)しきふるまひを見て、努(ゆめ)疑ふ心もなく、「豊雄のもの語りにては世に恐しき事よと思ひしに、さる例(ためし)あるべき世にもあらずかし。はるばると尋ねまどひ給ふ御心ねのいとほしきに、豊雄背(うけがはず)とも我々とどめまゐらせん」とて、一間(ひとま)なる所に迎(むか)へける。ここに一日二日を過すままに、金忠夫婦が心をとりて、ひたすら嘆きたのみける。

其の志の篤(あつ)きに愛(めで)て、豊雄をすすめてつひに婚儀(ことぶき)をとりむすぶ。豊雄も日々に心とけて、もとより容姿(かたち)よろしきを愛(めで)よろこび、千とせをかけて契るには、葛城(かづらき)や高間(たかま)の山に夜々(よひよひ)ごとにたつ雲も、初瀬(はつせ)の寺の暁の鐘に雨収(をさ)まりて、只あひあふ事の遅(おそ)きをなん恨(うら)みける。

三月(やよひ)にもなりぬ。金忠、豊雄夫婦にむかひて、「都わたりには似るべうもあらねど、さすがに紀路(きぢ)にはまさりぬらんかし。名細(なぐはし)の吉野(よしの)は春はいとよき所なり。三船(みふね)の山、菜摘(なつみ)川、常に見るとも飽(あか)ぬを、此の頃はいかにおもしろからん。いざ給へ、出で立ちなん」といふ。真女児うち笑(ゑみ)て、「よき人のよしと見給ひし所は、都の人も見ぬを恨みに聞え侍るを、我が身稚(をさな)きより、人おほき所、或(ある)は道の長手(ながて)をあゆみては、必ず気のぼりてくるしき病(やまひ)あれば、従駕(みとも)にえ出で立ち侍らぬぞいと憂(うれ)たけれ。山土産(やまづと)必ず待ちこひ奉る」といふを、「そは歩みなんこそ病も苦しからめ。車こそもたらね。いかにもいかにも土は踏(ふま)せまゐらせじ。留(とどま)り給はんは豊雄のいかばかり心もとなかりつらん」とて、夫婦すすめたつに、豊雄も「かうたのもしくの給ふを、道に倒(たふ)るるともいかでかは」と聞ゆるに、不慮(すずろ)ながら出でたちぬ。人々花やぎて出でぬれど、真女児が麗(あて)なるには似るべうもあらずと見えける。

現代語訳

真女児は涙を流して、「本当だとは思われない道理ですが、私が言うことも少しお聞きくださいませ。旦那様がお役所に召捕られたと聞きましたので、かねてから憐れと思って何かと恩を受けていた隣の翁と相談し、家を野原のなかのあばら家のように見せかけるようにしました。私を捕えようとなさいました時に雷鳴が響きましたのはまろやが計画し実行した事でございます。其の後、船を見つけて難波の方に逃げたのですが、(貴方の)その後の様子が知りたくて此処の仏さまに願掛けを行いましたところ、二本杉の御利益があって、初瀬川の瀬でお逢いできましたことは、ひとえに観音様のおかげであります。種々の宝物をどうして女が盗み出しましょうか。

前夫の悪い心から起きたことなのです。よくよくお考えになられ、私が貴方をお慕いする気持ちを少しでもご理解ください」といってさめざめと泣くのであった。豊雄は疑いながらも、憐れにも思い、続けて言う言葉もなかった。金忠夫婦は真女児の言い分が道理にかなって筋が通っているうえに、その女らしいふるまいを見てすっかり疑念を取り払い、「豊雄の話を聞き、世の中にこんなに恐ろしいことはないと思っていましたが、妖怪変化が人間に化けて出てくるようなことのある今の世の中でもありますまい。はるばる遠くから尋ねあぐねていらしたご心根はほんとうにお気の毒です。たとえ、豊雄が聞き入れなくても私たちが、此処に留めることにいたしましょう」と言って、奥の一間に迎え入れた。真女児はそこに一日二日過している間に金忠夫婦の気に入るようにつとめ、豊雄の怒りが溶けるようにと、女心の憐れさをおもてに出してひたすら夫婦に取りすがって哀願した。

(金忠夫婦は)、真女児の篤い志を愛で、豊雄にすすめて、とうとう正式に夫婦の固めをさせた。豊雄の心も日々に溶けて、初めから真女児の美しさを愛していたので、幾久しく変るまいと深く契れば、葛城の高間山に夜ごとに立つ雲は雨を降らし、その雨は初瀬の寺の朝の鐘の音で止むというように、毎夜夫婦の愛がこまやかに交わされ、互いに、只、回り逢ったのが遅かったことを恨むほどであった。

そのうち三月になった。金忠夫婦は、豊雄に向って、「都辺りの気色には比べようもないが、さすがに紀州路には勝っているよね。吉野は春の季節にはとてもいい所ですよ。三船の山、菜摘川、いつ見ても飽きることがないのに、此の頃はどんなにか楽しいことでしょう。さあおいでなさい。共にでかけましょう」と誘った。真女児は微笑んで、「『よき人のよし』とご覧なされた吉野は、都の人もひとめ見ぬことを恨みにすると聞いていますが、私は稚い時から、人の多い所や長い道のりを歩くと、血がのぼって苦しくなる持病がありますので、お供ができないのが悲しゅうございます。お土産をお待ちしております」と言うのを「それは、徒歩だから病気に悩まされるのでしょう。車こそありませんがどうしても歩かせはしませんよ。残られると豊雄がどんなに気がかりに思うことでしょう」と言って、夫婦で勧める上に、豊雄も「このように頼もしくおっしゃる上は、たとえ途中で倒れることがあっても行かないで済まされようか」と言うので、意に反して出発した。人々は賑やかに出ていたが真女児の美貌に勝るものはいないようであった。

語句

■かねて憐(あはれ)をかけつる-その貧窮を憐み、恩を施していたことをいう。■頓(とみ)に-にわかに、急に、いきなりの意。■こしらへし-「し」は過去の助動詞の連体形。秋成慣用の連体形止め。■捕(とら)んずる-捕えようとする。「んず」で推量の助動詞。■計較(たばかり)-企み騙す。■難波-今の大阪地方。■消息(せうさく)-その後の貴方の様子。■ここ-長谷寺。御本尊は十一面観音像。■二本(ふたもと)の杉-初瀬の川辺に立つ二本の杉。愛する者の出会いや再会にたとえて、古歌にうたわれて有名。ここでは、祈りの効験で、この二本の杉のように一所になった、の意になる。■瀬-「瀬」は一般に、機会、場合の意があるが、ここでは初瀬川の縁語として使用。■大非の-長谷観音の。■御徳-後利益、おかげ。■思ふ心-慕情。■女しき-女らしい。■努(ゆめ)-「ゆめ」は下に打消しや禁止の語を伴い、決して、必ず、の意を表す副詞。■例(ためし)-ここでは事実、出来事をいう。■かし-終助詞 念を押す ① …よ。…ね。② 強め  …よ。■御心ね-「心根」で、お気持ちの意。■婚儀(ことぶき)-婚礼。■千とせをかける-幾久しく未来を掛けること。■葛城-奈良県南西部の葛城連山。高間山はその最高峰。■初瀬の寺の暁の鐘-石柘市で朝毎に聞く鐘。■名細-吉野の枕詞。■吉野-奈良県吉野郡吉野町。昔から桜の名所。■三船-吉野川上流の歌枕。■菜摘川-吉野町菜摘のあたりを流れる吉野川の称。■いざ給へ-この「給へ」は出発を促す意。いらっしゃい。■長手-長い道中。■気のぼりて-血がのぼって。■従駕(みとも)-本来は行幸に従う、の意であるが、ここではただ「お供」の意。■車-牛車をいう。■いかにもいかにも-どんなにしても。■心もとなかりつらん-不安に思う。■すずろに-意に反して。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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