蛇性の婬 十二

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かくて閏房(ねや)を免(のが)れ出でて庄司にむかひ、「かうかうの恐ろしき事あなり。これいかにして放(さけ)なん。よく計り給へ」といふも、背(うしろ)にや聞くらんと声を小(ささ)やかにしてかたる。庄司も妻も面(おもて)を青(あを)くして嘆きまどひ、「こはいかにすべき。ここに都の鞍馬寺の僧の、年々熊野に詣づるが、きのふより此の向岳(むかつを)の蘭若(てら)に宿りたり。いとも験(げん)なる法師にて凡そ疫病(えやみ)・妖災(もののけ)・蝗(いなむし)などをもよく祈(いの)るよしにて、此の郷(さと)の人は貴(たふと)みあへり。此の法師請(むか)へてん」とて、あわただしく呼(よび)つげるに、漸(やや)して来りぬ。しかじかのよしを語れば、此の法師鼻を高くして、「これらの蠱物(まじもの)らを捉(とら)んは何の難(かた)き事にもあらじ。必ず静まりおはせ」とやすげにいふに、人々心落ちゐぬ。

法師まづ雄黄(ゆうわう)をもとめて薬の水を調(てう)じ、小瓶(こがめ)に湛(たた)へて、かの閏房(ねや)にむかふ。人々驚隠(おぢかく)るるを、法師嘲(あざみ)わらひて、「老いたるも童(わらは)は必ずそこにおはせ、此の蛇(をろち)只今捉(とり)て見せ奉らん」とてすすみゆく。閏房(ねや)の戸あくるを遅しと、かの蛇(をろち)頭(かしら)をさし出だして法師にむかふ。此の頭何(いか)ばかりの物ぞ。此の戸口に充満(みちみち)て、雪を積みたるよりも白く輝々(きらきら)しく、眼(まなこ)は鏡(かがみ)の如く、角(つの)は枯木(かれき)の如(ごと)、三尺(みたけ)余りの口を開き、紅(くれなゐ)の舌(した)を吐(はい)て、只一呑(のみ)に飮(のむ)らん勢(いきほ)ひをなす。「あなや」と叫(さけ)びて、手にすゑし小瓶(こがめ)をもそこに打ちすてて、たつ足もなく、展転(こいまろ)びはひ倒(たふ)れて、からうじてのがれ来り、人々にむかひ、「あな恐し、祟(たた)ります御神にてましますものを、など法師らが祈(いのり)奉らん。此の手足なくば、はた命失(うし)なひてん」といふいふ絶(たえ)入りぬ。人々扶(たす)け起(おこ)すれど、すべて面(おもて)も肌(はだ)も黒(くろ)く赤(あか)く染(そめ)なしたるが如(ごと)に、熱(あつ)き事焚火(たきび)に手さすらんにひとし。毒気(あしきいき)にあたりたると見えて、後(のち)は只眼(め)のみはたらきて物いひたげなれど、声さへなさでぞある。水灌(そそ)ぎなどすれど、つひに死(しに)ける。これを見る人いよよ魂(たましひ)も身に添はぬ思ひして泣惑(なきまど)ふ。

豊雄すこし心を収(をさ)めて、「かく験(げん)なる法師だも祈り得ず。執(しふ)ねく我を纏(まと)ふものから、天土(あめつち)のあひだにあらんかぎりは探(さが)し得られなん。おのが命ひとつに人々を苦しむるは実(まめ)ならず。今は人をもかたらはじ。やすくおぼせ」とて閏房(ねや)にゆくを、庄司の人々「こは物に狂い給ふか」といへど、更に聞かず顔にかしこにゆく。戸を静かに明くれば、物の騒(さわ)がしき音(おと)もなくて、此の二人ぞむかひゐたる。富子(とみこ)、豊雄にむかひて、「君何の讐(あた)に我を捉(とら)へんとて人をかたらひ給ふ。此の後も仇(あた)をもて報ひ給はば、君が御身のみにあらじ。此の郷(さと)の人々をもすべて苦しき目みせなん。ひたすら吾(わが)貞操(みさを)をうれしとおぼして、徒々(あだあだ)しき御心(みこころ)をなおぼしそ」と、いとけさうじていふぞうたてかりき。

豊雄いふは、「世の諺(ことわざ)にも聞ゆることあり。『人かならず虎(とら)を害(がい)する心なけれども、虎返(かへ)りて人を傷(やぶ)る意(こころ)あり』とや。爾人ならぬ心より、我を纏(まと)うて幾度かからきめを見するさへあるに、かりそめ言(こと)をだにも此の恐しき報(むく)ひをなんいふは、いとむくつけなり。されど吾を慕(した)ふ心ははた世人にもかはらざれば、ここにありて人々の嘆(なげ)き給はんがいたはし。此の富子(とみこ)が命ひとつたすけよかし。然(さて)我をいづくにも連(つれ)ゆけ」といへば、いと喜(うれ)しげに点頭(うなづき)をる。

現代語訳

朝になって寝間を抜け出し、舅の庄司に向って、「このような恐ろしいことがありました。この災いからどうすれば逃げることができましょうか。よく考えてください」と言うのも、後ろで聞いてはいないかと声をひそめて話す始末であった。庄司も妻も青い顔をして、悲しみ、悩んで、「これはどうしたらいいことやら。さいわい此の向こうの山の寺に、京の鞍馬寺の僧で、毎年、熊野に詣でられる人が、昨日からお泊りなのだ。たいそうあらたかな祈祷僧で凡そ疫病・妖災・蝗などをもよく祈祷してくださるそうで、此の里の人は尊敬しあっているそうだ。この僧をお招きしよう」といって、あわただしく告げ知らせるとまもなくその僧はやって来た。しかじかと事の次第を話すと、この僧は鼻を高くして、「これらの蠱物(まじもの)を捉えるのはそれほど難しいことではない。どうぞ落ち着いておられるがよい」と、簡単に言うので人々はほっとした。

僧はまづ石黄を取り寄せて、水薬を調合し、小瓶に一杯にして、真女児がいる寝間に向う。人々が恐れて逃隠れするのに、僧は嘲り笑い、「老人も子供もそのままそこに居られるがよい。その大蛇を只今私が、取り押さえてお目にかけよう」と言って部屋に入って行った。寝間の戸を開けるやいなや、今や遅しと待ち構えていた大蛇が頭をもたげて僧に立ち向う。その頭はなんとまあどんなに大きかったことか。戸口一杯に満ちるほどで積雪よりも白くきらきらと輝いており、眼は鏡のように反射して角は枯木のように突き出し、三尺くらいの大きな口を開き、真っ赤な舌を吐いて、只一飲みに飲み込もうとする凄まじい勢いであった。僧は「うわっ」と叫んで持っていた小瓶さえそこに取り落とし、腰を抜かし、横に倒れ、やっとのことで逃げ帰り、人々に向い「あぁ恐ろしや。蠱物(まじもの)どころか人に祟りをなす鬼人でいられたぞ。どうして拙僧に祈り捉ることができようか。もしも此の手足が無かったら間違いなく命を落としていたであろう」と言いながら気絶してしまった。人々が助け起こそうとするが、顔も肌もすべて黒く赤く染めたようになっており、焚火に手をかざしたように全身が熱くなっていた。蛇の毒気にあたったと見えて、後は只、眼だけが動いて物言いたそうな様子であったが、声が出ないのだ。水を全身に灌いだりして助けようとしたが、ついに死んでしまった。これを見た人々はますます魂が抜けたように呆然として泣き惑うばかりであった。

豊雄は、ここで少し心を落ち着かせ「このように霊験あらたかな祈祷僧であっても祈り捉えることができず、執念深く私に纏わりつくものから、現世にあるかぎりは探しだされてしまうことでしょう。私一人の命の為に多くの人々を苦しめるのは不実であります。こうなっては他を頼りにすることはできません。ご安心ください」と寝間に行くのを、庄司の人々が「これは物に狂われたか」と言えども、まったく聞えぬような顔をして寝屋に向って行く。戸を静かに開けると、騒がしい物音もなく、此の二人が迎えた。富子は豊雄に向い「貴方は何のために私を捉えようと人を頼りにするのか。此の後も、敵意を持ってお報いなさるならば、貴方の御身だけではありませんよ。此の里の人々をもすべて苦しめて見せますよ。ひたすらに私の貴方への思慕の気持ちを嬉しく思われて、おかしなことをお考えなさいますな」と、たいそうな媚びを作って言うのである。豊雄は次のように言った。「世の諺にもあるとおり、『人は必ずしも虎を害しようとする心はないが、虎は反対に人を傷つける心がある』と。おまえが人には非(あら)ざる心から、私に纏わりついて離れず何度も辛い目に遭わせた上に、かりそめの言葉にしても、聞くも恐ろしい復讐(むくい)を言うのは、きわめて恐ろしくあさましい。しかしながら、私を慕う気持ちは世の人間とは変わらない上は、その気持ちに応えよう。ただこの家にいると、人々が嘆き悲しむのが痛ましい。この富子の命ひとつを助けてほしい。その上で、自分をどこにでも連れて行くがいい」と言うと、真女児はとても嬉しそうにうなづいた。

語句

■あなり-「あるなり」の略。■鞍馬寺-松尾山金剛寿命院。京都市右京区鞍馬にある天台宗の名刹。■向岳-向いの山。■蘭若-寺。■妖災(もののけ)-『雨月物語』ではかなり多義に使われているが、ここでは、「妖災」とあるように、人について祟りをなすもの一般をいう。■蝗-稲の害虫。「蝗を祈る」といえば、いわゆる「虫送り」の祈祷。■祈る-加持・祈祷して退散させる。■てん-「て」はここでは強意。「ん」は意志。■蠱物(まじもの)-妖術・呪詛(じゅそ)をもって人に災いを与えるもの、の意だが、ここでは人に取りついて惑わせる魔性といった意。■雄黄-石黄に同じ。砒素の硫化物。橙貴色の鉱物。■眼は鏡の如く云々-以下、鬼人の戦慄すべき姿の伝統的な形容。■あなや-物が切なる時に「あぁ」などと嘆くこと。■たつ足もなく-足も立たず。■展転(こいまろ)びはひ倒(たふ)れて云々-這いずるようにして逃げたさま。■神-この場合、祈祷の及ばぬ強烈な魔力をいう。■面(おもて)も肌(はだ)も黒(くろ)く云々-道成寺伝説では、清姫の蛇が安珍の入った鐘に巻き付いて炎を吐き、安珍は焼死して黒い遺体を残す。その連想もあるか。■手さす-手をかざす。「らん」は仮定。■天地のあひだ-ここでは「現世」と同意。■今は人をもかたらわじ-もはや他人を頼むまいという気持ちを表している。■徒々(あだあだ)しき-いたづらな。■けさうじて-媚びを作って。■人ならぬ心-魔性の者の持つ執念を指す。■からきめ-苦難。■かりそめ言-ほんの軽い戯れ言。■むくつけ-恐ろしいという心に用いる言葉。■慕ふ心-愛情。■点頭-うなづくこと。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


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