貧福論 五

スポンサーリンク

又身のおこなひもよろしく、人にも志誠(まごころ)ありながら、世に窮(せばめ)られてくるしむ人は、天蒼氏(てんさうし)の賜(たまもの)すくなくうまれ出でたるなれば、精神(せいしん)を労(らう)しても、いのちのうちに富貴を得ることなし。さればこそいにしへの賢(かしこ)き人は、もとめて益(やう)あればもとめ、益なくばもとめず。己(おの)がこのむまにまに世を山林にのがれて、しづかに一生を終(をは)る。心のうちいかばかり清(すず)しからんとはうらやみぬるぞ。

かくいへど富貴のみちは術(わざ)にして、巧(たくみ)なるものはよく湊(あつ)め、不肖(ふせう)のものは瓦(かはら)の解(とく)るより易(やす)し。且(かつ)我がともがらは、人の生産(なりはひ)につきめぐりて、たのみとする主(ぬし)もさだまらず、ここにあつまるかとすれば、その主(ぬし)のおこなひによりてたちまちにかしこに走(はし)る。水のひくき方にかたふくがごとし。夜に昼にゆきくと休(やむ)ときなし。ただ閑人(むだびと)の生産(なりはひ)もなくてあらば、泰山(たいざん)もやがて喫(くひ)つくすべし。江海(がうかい)もつひに飲(のみ)ほすべし。

いくたびもいふ。不徳(ふとく)の人のたからを積(つむ)は、これとあらそふことわり、君子(くんし)は論(ろん)ずる事なかれ。ときを得たらん人の倹約(けんやく)を守りつひへを省(はぶ)きてよく務(つと)めんには、おのづから家富み人服(ふく)すべし。我は仏家の前業(ぜんごふ)もしらず。儒門(じゆもん)の天命にも抱(かか)はらず、異(こと)なる境(さかひ)にあそぶなり」といふ。

左内いよいよ興(きよう)に乗(じよう)じて、「霊(れい)の議論(ぎろん)はきはめて妙(めう)なり。旧(ひさ)しき疑念(うたがひ)も今宵(こよひ)に消(せう)じつくしぬ。試(こころみ)にふたたび問(とは)ん。今豊臣の威風(ゐふう)四海を靡(なみ)し、五幾七道漸(やや)しづかなるに似たれども、亡国の義士彼此(をちこち)に潜(ひそ)み竄(かく)れ、或いは大国の主(ぬし)に身を托(よせ)て世の変(へん)をうかがひ、かねて志(こころざし)を逐(とげ)んと策(はか)る。民も又戦国(せんごく)の民なれば、耒(すき)を釈(すて)て矛(ほこ)に易(かへ)、農事(なりはひ)をこととせず、士たるもの枕を高くしてねむるべからず。今の躰(さま)にては長く不朽(ふきう)の政(まつりごと)にもあらじ。誰か一統(とう)して民をやすきに居(をら)しめんや。又誰にか合(くみ)し給はんや」。

翁云ふ。「これ又人道なれば我がしるべき所にあらず。只富貴をもて論ぜば、信玄がごとく智謀(はかりごと)は百(もも)が百的(あた)らずといふ事なくて、一生の威(ゐ)を三国に震(ふる)ふのみ。しかも名将の聞えは世挙(こぞ)りて賞(しやう)ずる所なり。その末期(まつご)の言(ことば)に、『当時信長(のぶなが)は果報(くわほう)いみじき大将なり。我平生(つね)に他(かれ)を侮(あなど)りて征伐(せいばつ)を怠(おこた)り此の疾(やまひ)に係(かか)る。我が子孫も則(やがて)他(かれ)に亡(ほろぼ)されん』といひしとなり。謙信(けんしん)は勇将(ゆうしやう)なり。信玄(しんげん)死(しし)ては天(あま)が下に対(つい)なし。不幸(ふかう)にして遽(はやく)死(みまか)りぬ。信長の器量人にすぐれたれども、信玄の智に及(しか)ず。謙信の勇に劣(おと)れり。しかれども富貴を得て天が下の事一回(たび)は此の人に依(よざ)す。任(にん)ずるものを辱(はづか)しめて命(いのち)を殞(おと)すにて見れば、文武を兼ねしといふにもあらず。柴田(しばた)と丹羽(には)が富貴をうらやみて、羽柴(はしば)と云ふ氏(うじ)を設(まうけ)しにてしるべし。今竜(りやう)と化して太虚(みそら)に昇(のぼ)り池中(ちちゅう)をわすれたるならずや。

現代語訳

又、品行も正しく、他人への誠実さも備えた人柄でありながら、金銭上の不遇で世の中に狭められて苦しい生活を送る人は、天の造物主からの恵みが少なく生まれついたのであり、どんなに精を出して頑張っても、生きているうちに富貴を得ることはない。だからこそ、昔の賢い人は望んで利益があるものであれば、それを求め、利益が無いとすれば強いて求めようとはせず、自分の気の向くままに、俗世間から逃れて山林に隠遁し、静かに悠々自適の一生を送るのである。そういう人の心のうちはどれほど清らかなことであったことかとうらやましく思われる次第だ。

しかしそうは言っても、富貴への道は蓄財の技術であって、それが上手なものはよく財貨を集め、下手な者は瓦が壊れるよりも容易く財貨を失うのだ。そのうえ、我等非情物の類は、それぞれの人の生業にまとわりついて、特定の主も持たず、ここに集まると思えば、その主の行いによってたちまち他所へ走り去る。水が低い所へ流れるように。昼夜休みなく流動してやまないのだ。ただ一定の職もなく遊ぶ暮らす人がおれば泰山の富もついには食いつくしてしまうだろうし、江海の富もついには飲み干してしまうだろう。

何度も繰り返して言うが、徳の無い人が財を築くのは、こうした金銭の集散の論理と反する道理であり、その人の徳・不徳とは関係がないことなので徳のある人はこのことを論ずるべきではない。時の利を得た人が倹約を守り、無駄を省いてよく仕事に精を出せば、おのずから富み、人は従うようになるのだ。自分は仏教で説く、前世の因縁などわからず、儒教でいう天命というものにもかかわりはない。それらとは全く違った次元に遊行するものである」と言った。

左内はますます興に乗って、「精霊の論説はまことにすばらしい。長い事抱いていた疑念も今夜はすっかり消えてしまいました。ついでにもう一度お聞きしたい。今豊臣家の威風は天下をなびかせ、日本全国もようやく静まって平穏になったように見えるが、国を失った義士があちこちに潜み隠れ、或いは大国の主に身を寄せて世の変化を望み、かねての志を遂げようとねらっておる。民も戦国の民の事、農具を捨てて武器に変え、農耕を事とせず機を窺っておる有様で、武士たるもの枕を高くして眠る事も出来ぬ。今の有様では此の政権も長く不朽ではなさそうだ。誰が天下を統一して民を安らかな境地に居らせることができるだろうか。又、精霊は誰に見方をなさるのであろうか」。

老翁は答えた。「これ又人間界のことゆえ自分が知るはずのないところである。只、富貴の道理から言えば、武田信玄のごときは、其の智謀は百が百当たりながら、生涯のうちに、わずかにその威勢を甲斐・信濃・越後の三国に振うだけであったが、名将の聞えは高く世間はこぞってこれを誉めたのである。信玄の末期の言葉は、『当代にあって信長こそひときわ果報に恵まれた武将である。自分はいつも彼を侮(あなど)り、征伐(せいばつ)しようとしなかった。今、この病にかかってしまった。自分の子孫もやがて彼に滅ぼされるだろう』とあったそうだ。上杉謙信は勇将であり、信玄が死んだあとは天下に匹敵するものがないが不幸にして早くに亡くなってしまった。信長の器量は人よりも優れていたが、智は信玄の智に及ばず、勇は謙信のそれに劣っていた。しかし富貴になって天下統一の事も、一度は此の人の下に成ったのである。しかし、家臣をを辱め、これによって命を落としたのを見れば、文武を兼ねていたとは言いがたいであろう。秀吉の志も大きかったが、初めから天地に広がり満ちるというものでもなかった。柴田勝家と丹羽長秀の富貴を羨んでおり、羽柴という性に変えたことがその証拠である。今は竜になって大空に昇りつめたが、かっての身分、境遇を忘れてしまったのではないだろうか。

語句

■世にせばめられて-経済的不遇のため世間を狭くされること。■天蒼氏-天帝、造物主。■賜(たまもの)-お恵み。下され物。■いのち-一生。生涯。■術-技術。
■巧-うまい。たくみ。能力が優れる。■不肖-愚か者。■たのみとする-主とたのむの意。■ゆきく-往来。■閑人(むだびと)-一定の職もなく遊び暮らす人。■泰山-中国山東省にある名山。諺に「座して食えば泰山も空し」。■江海-大河と海。■これ-たからの集散の道理。■あらそふ-対抗する。■君子-不徳の人の反対で「徳のある人」。■妙-いうにいわれぬほどすぐれていること。きわめてよいこと。また、そのさま。■豊臣の云々-豊臣秀吉が関白となったのが天正十三年(1585)、六十三歳で没が慶長三年(1598)、豊家滅亡が元和元年(1615)、蒲生氏郷が会津藩主であったのが天正十八年(1590)~文禄四年(1595)で、本篇がどの項を措定して書かれたがわかる。■四海-天下。■靡(なみ)し-正しい読みは「なびかし」。なびかせ。■五幾七道-日本全国。「五幾」は山城・大和・河内・和泉・摂津。「七道」は東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の各道。■亡国の義士云々-乱世の武士の志だから「失地回復」の義心の他、諸国制覇の野心も秘められていただろう。■耒(すき)-中国で用いられた鋤の一種についている柄。これを「鋤」と同意に用いた。■矛(ほこ)-両刃の剣に長い柄をつけた古代武器だが、これを「槍」と同意で用いた。■合(くみ)し-味方する。■人道-ここでは人間世界のこと。■信玄(しんげん)-武田信玄。戦国時代、一方の雄であった武将。権謀術数で知られ、実父信虎を退けて甲斐一円の主となった。天正元年(1573)没。五十三歳。■三国-ここでは甲斐・信濃・越後の三国。■信長-織田信長。戦国時代群雄の競り合いの中から一頭地を抜いた剛毅果断な武将。東海地方を征服。入京を果たしたが、天下統一を目前にして家臣に殺された。天正十年(1582)没、四十九歳。■信長の果報云々-『市井雑談集』に信玄末期の言として「とにもかくにも信長は果報いみじき者也」とある。若くして京都まで進出、右大臣にまで任じられたはなばなしい台頭を幸運と見たのである。■「我信長を弱将なりと侮り、討伐を延引せり。我が子孫彼が為に滅亡せんか」(同書)。■我が子孫も云々-この予言は的中した。天正十年、武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗死。武田氏滅亡。■謙信-上杉謙信。信玄と生涯にわたって敵対した。武勇抜群の越後の武将。天正六年(1578)没、四十九歳。■器量-人物の大きさ、能力。■天が下の事-天下制覇のこと。■秀吉-豊臣秀吉。足軽から立身し、天下を握った英雄。■柴田-柴田勝家-織田の武将。■丹羽-丹羽長秀。織田の武将。柴田とともに秀吉のかっての同僚。■羽柴-天正三年改姓■池中も云々-竜はもともと池・海などの水中に潜むものと言われる。ここでは以前の身分・分際(ぶんざい)をいう比喩。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永


スポンサーリンク

音声つきメールマガジン「左大臣の古典・歴史の名場面」のご案内

現在18000人以上が購読中。

メールアドレスを入力すると、日本の歴史・古典について、楽しくわかりやすい解説音声を無料で定期的に受け取ることができます。毎回10分程度の短い解説で、時間を取りません。楽しんで聴いているうちに、日本の歴史・古典について、広く、立体的な知識が身につきます。スマートフォン・Androidでもお聴きになれます。不要な場合はいつでも購読解除できます。

いつも使っているメールアドレスを入力して、 「無料メルマガを受け取る」ボタンをクリックしてください。次回からお使いのメールアドレスにメルマガが届きます。

≫詳しくはこちら


スポンサーリンク