第百三十二段 鳥羽の作道は、

鳥羽の作道は、鳥羽殿建てられて後の号(な)にはあらず。昔よりの名なり。元良親王、元日(がんにち)の奏賀の声、甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作道まで聞えけるよし、李部王(りほうおう)の記に侍るとかや。

口語訳

鳥羽の作道は、鳥羽殿が建てられて後の呼び名では無い。昔からあった名である。元良親王が、元日の賀詞(がし。祝詞)を奏上する声が、たいへん立派であったので、大極殿から鳥羽の作道まで聞こえたいということが、李部王の日記にございますとかいうことです。

語句

■鳥羽の作道 羅城門から京都南鳥羽に続く道。まっすぐの道だった。新しく作られたので「作道」と言われたが、実は院政期以前からあった。 ■鳥羽殿 洛南鳥羽の離宮。応徳3年(1086年)白河院が建造。鳥羽院が増改築を繰り返した。百八十町にわたる広大な領土だった。その後、鎌倉時代に入って後嵯峨院・後深草院がおおいに利用されたが、南北朝時代以降すたれた。 ■号 呼び方。 ■元良親王 陽成天皇第一皇子。天慶6年(943年)没。54歳。百人一首に「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしてもあはんとぞ思ふ」が採られる。 ■奏賀 元日、大極殿で行われる節会で、群臣の代表が天皇に賀詞を奏上すること。 ■殊勝にして 立派で。ここでは声がよく通ったこと。 ■李部王(りほうおう)の記 「李部」は「式部省」の唐名。醍醐天皇第四皇子、式部卿重明親王。「李部王の記」は親王の日記。現存しているわずかな部分に、本文に該当する記述は見られない。

メモ

■元良親王は、陽成天皇が光孝天皇に譲位した後生まれた。
■白河法皇の夢の後
■鳥羽伏見戦い、新選組

朗読・解説:左大臣光永


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