花伝第七 別紙口伝

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この口伝に花を知る事。まづ、仮令(けんりやう)、花の咲くを見て、よろづに花とたとへ始めし理(ことわり)をわきまふべし。

そもそも、花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得てめづらしきゆゑに、もてあそぶなり。申楽(さるがく)も、人の心にめづらしきと知る所、すなはち面白き心なり。花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり。能も、住する所なきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。

ただし、やうあり。めづらしきといへばとて、世になき風体をし出すにてはあるべからず。花伝に出だす所の条々を、ことごとく稽古(けいこ)し終りて、さて申楽をせん時に、その物数(ものかず)を、用々に従ひて取り出だすべし。花と申すも、よろづの草木において、いづれか四季折節の時の花のほかにめづらしき花のあるべき。そのごとくに、習ひ覚えつる品々を極めぬれば、時折節の当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風体を取り出だす、これ、時の花の咲くを見んがごとし。花と申すも、去年(こぞ)咲きし種なり。能も、もと見し風体なれども、物数を極めぬれば、その数を尽くすほど久しし。久しくて見れば、まためづらしきなり。

その上、人の好みも色々にして、音曲・振舞・物まね・所々に変はりてとりどりなれば、いづれの風体をも残してはかなふまじきなり。しかれば、物数を極め尽くしたらん為手(して)は、初春の梅より、秋の菊の花の咲き果つるまで、一年中の花の種を持ち足らんがごとし。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、取り出だすべし。物数を極めずば、時によりて花を失ふ事あるべし。たとへば、春の花の頃過ぎて、夏草の花を賞翫(しやうぐわん)せんずる時分に、春の花の風体ばかりを得たらん為手が、夏草の花はなくて、過し春の花をまた持ちて出でたらんは、時の花に合ふべしや。これにて知るべし。

ただ、花は、見る人の心にめづらしきが花なり。しかれば、花伝の花の段に、「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬ所をば知るべし」とあるは、この口伝なり。されば、花とて別にはなきものなり。物数を尽くして、工夫を得て、めづらしき感を心得るが花なり。「花は心、種は態(わざ)」と書けるも、これなり。

物まねの鬼の段に、「鬼ばかりをよくせん者は、鬼の面白き所をも知るまじき」と申したるも、物数を尽くして、鬼をめづらしくし出したらんは、めづらしき所花なるべきほどに、面白かるべし。余の風体はなくて、鬼ばかりをする上手と思はば、よくしたりとは見ゆるるとも、めづらしき心あるまじければ、見所(みどころ)に花はあるべからず。

「巌(いはほ)に花の咲かんがごとし」と申したるも、鬼をば、強く、恐ろしく、肝を消すやうにするならでは、およその風体なし。

これ、巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と人の思ひ慣れたる所に、思ひの外に鬼をすれば、めづらしく見ゆるる所、これ、花なり。

しかれば、鬼ばかりをせんずる為手は、巌ばかりにて、花はあるべからず。

現代語訳

この口伝において、能の花の何たるかを知るということについて。まず、例えば、花が咲くのを見たときの感動をもって、能の美的感動を「花」とたとえるに至った理由を理解せねばならぬ。

そもそも花というのは、あらゆる草木において、季節ごとに咲くものだから、丁度よい時節に当たって新鮮な感動を呼び、その美を愛し、味わうことができる。申楽の場合でも、観客が心の中で新鮮な魅力を感じることが、そのまま面白いということだ。「花」と「面白さ」と「めづらしさ」、この三つは同じものだ。どんな花が、散らずにいつまでも咲いているであろうか。そんな事はあり得まい。散るからこそ、咲いた時にはめづらしさを感じるのだ。

能も停滞しないことを花の第一条件とせよ。いつまでも同じことばかりやっていないで、別の演目に変えていくことで新鮮さが出るのだ。ただし、留意すべき事がある。めづらしさを表すために、能としてはありえない、突飛な演技をしてはならない。「花伝」で取り上げた物まねの条々を、すべて稽古し尽して、申楽をしようとするときに、その演目の数々を、観客の好みに応じて上演するがよい。花というものも、あらゆる草木において、四季折々の時の花以外に何のめづらしいと感じるもの花があろうか。そのように習い覚えた物まねの数々を極め尽したならば、その時その時の流行を意識し、観客の好みにあった演目を選んで見せることができる。それは、時の花が咲くのを見るようなものだ。花というのも、去年咲いた同じ花の種が元になっている。能も、それと同じで以前に見た演技が元になっているが、演目を数多く習得すればするほど、同じ演目が再演されるまでの期間は長くなる。その期間が開いているほど、それが再演された時、観客はめづらしく思うのだ。

そのうえ、人の好みも様々で、謡・所作・物まねといった諸要素は、興業ごとに変化して多様だので、どの演目においても演じ残しがあってはならない。さて、すべての演目に習熟したような役者は、初春の梅から、秋の菊の花が終わるまで、一年中の花の種を持っているようなものだ。どんな花であっても、観客の好みや、時に合わせて演じなければならない。特異な演目の数が少なければ、時によっては、その花を失う事があろう。例えば、春の花の頃を過ぎて、夏草の花に感動を覚える頃に、春の花の演目ばかりを演じる役者は、夏草の花が無く、過ぎてしまった春の花を演じるならば、時の花にふさわしいといえようか。このことでわかることだが、要するに、花は、見る人の心にめづらしいと感じることが花だ。そこで、「花伝」の花の段に、「演目を数多く自分のものとし、工夫を重ねて後、花が失せない事を認識すべきであろう」と述べておいたのは、このことだ。だが、花といっても特別に存在するわけではない。多数の持ち芸を保有し、演出を工夫して、観客に新鮮さを感じさせる勘どころわきまえることが花だ。「花は心、種は技」と言ったのも、このことだ。

「物学条々」の鬼の段に、「鬼の物まねばかり上手に演じるような者は、その鬼能も面白く見せられないものだ」と述べたのも同じ道理で、様々な演目をやりつくした後、鬼をめづらしく演じたならば、そのめづらしさが魅力となって、面白いものとなろうが、他には何も出し物もなく、鬼ばかりを得意芸とする役者だと観客が見なすならば、うまく演じているように見えても、新鮮さを感じるはずがないから、見ていても魅力を感じないのだ。

これも前に、鬼の能は、「大きな岩に花が咲くようなものだ」と述べたのも、鬼を強く、恐ろしく、肝をつぶすように演じるのでなければ、鬼というものの演技はありえない。これが、鬼能を、大きな岩に例える由縁だ。花というのは、すべての演目演じ切り、この上ない優美な芸風の上手と観客が思い込んでいるところに、思いがけず、鬼能を演じるならば、そのめづらしさが観客の心に残り、花となる。だから、鬼ばかりを演じようとする役者は、岩ばかりで、花はあるはずがなく、いかめしいばかりで面白くもないのだ。

語句

■別紙口伝-「花伝」本体に対する補足的な口伝の意味で、実質は、「年来稽古}「物学」「問答」の各条々に対する補足。巻四~六が個別の主題でまとまっているのに対し、様々の側面から花とは何かを論じる。■仮令-例えば。■花の咲くを見て云々-開花に対する新鮮な驚きを能の美的感動にたとえた、その理由。能の花の分析を正面から取り上げる。■その時を得て-丁度よい時節に当たって。■知る-認識する。■住する-同じ状態に止まること。ここはいつまでも咲いていて珍しさを失ってしまうことを比喩的に述べている。■余の風体に移れば-いつまでも同じ演目ばかりを演じるのではなく、別演目を演じれば。■世になき風体-能としてはありえない、突飛な演技。■し出だす-発明する。■花伝に出だす所の条々-「花伝」で取り上げた物まねの数々の意であろう。■その数々-稽古した演目の数々。■用々に従ひて-必要に応じて。■時の花-季節に咲く花。■習ひ覚えつる品々-習得した物まね(演目)の数々。■時折節の当世-その時々にふさわしい演目。その時その時の流行。■時の人-その時の観客。■花と申すも、去年(こぞ)咲きし種なり-新奇な物が創出されたわけではないこと。■物数を極めぬれば-あらゆる演目を網羅すること。■振舞-「振り・風情」に同じか。所作のこと。■所々に-観客ごとに。■残しては-やり残しては。自分の演目に欠けていること。■花の種-舞台で上演する以前なので「花の種」と言ったもの。■花を失ふ-観客の喝采を得られないこと。■時の花-その時の流行・好み。役者の若いころの「時分の花」のことではない。■花伝の花の段に-以下、「問答条々」第九条の再説。■物数を尽くして、工夫を得て-多数の演目を保有し、演出を工夫して。■めづらしき感を心得る-観客が新鮮な感動を覚える、その勘どころ。■「花は心、種は態(わざ)」-花の段の結語。■物まねの鬼の段に云々-「物学条々」の鬼の条で論じた「鬼の面白からん楽しみ」の詳説。■申したるも-前節からの展開として鬼能の花のあり方に言及したのも。■物数を尽くして-様々な演目をやり尽した後に鬼能を演じるということで、世阿弥の鬼能演出の基本。■「巌に花の咲かんがごとし」云々-「物学条々」では鬼能の困難さの比喩ともとれる内容であったのが、恐ろしさと面白さが両立する境地の比喩に限定している。■肝を消すようにする-観客がびっくりして肝をつぶすようにすること。■およその風体-基本的な鬼能らしさ。■余の風体を残さず-すべての演目を演じ尽すこと。■幽玄-鬼能以外を「幽玄能」とすることに注意。■せんずる-しようとする。

一、細かなる口伝にいはく。音曲・舞・はたらき・振り・風情、これまた同じ心なり。

これは、いつもの風情・音曲なれば、「さやうにぞあらんずらん」と、人の思ひ慣れたる所を、さのみに住(ぢゆう)せずして、心根(こころね)に、同じ振りながら、もとよりは軽々(かるがる)と風体をたしなみ、いつもの音曲なれども、なほ故実(こしつ)をめぐらして、曲(きよく)を色どり、声色をたしなみて、我が心にも「今ほどに執する事なし」と、大事にしてこのわざをすれば、見聞く人、「常よりもなほ面白き」など、批判に合ふ事あり。これは、見聞く人のため、めづらしき心にあらずや。

しかれば、同じ音曲・風情をするとも、上手のしたらんは、別に面白かるべし。下手は、もとより習ひ覚えつる節博士の分なれば、めづらしき思ひなし。上手と申すは、同じ節がかりなれども、曲を心得たり。曲といふは、節の上の花なり。同じ上手、同じ花の内にても、無上の公案を極めたらんは、なほ勝つ花を知るべし。およそ、音曲にも、節は定まれる形木、曲は上手のもの也。舞にも、手は習へる形木(かたぎ)、品かかりは上手のものなり。

現代語訳

一、細部に亙る口伝になるが、謡・舞・荒々しい狂乱の演技・その他の所作・型、といった事柄に関する心得もまた、めづらしさが花の基本という点で、前条とまた同じ事が言える。

これは、いつもの演技、いつもの謡ということで、「きっとあんなふうにやるだろう」と観客が思い込んでいるところに、いつものやり方にはこだわらず、心の奥底で、同じ演技ながら、いつもより軽快に能姿を工夫し、いつもの謡いながら、さらに、様々な謡の心得を総動員して工夫を凝らし、節回しを飾り、声調を工夫して、自分やり方を変えて、心の中でも、「いまほど、一生懸命な時はなかった」というほど、細心の注意を払ってこの演技を行えば、観客から、「いつもよりはかなり面白い」などと、褒められることがある、これは観客にとって、新鮮な感動があったということではなかろうか。

こういうわけで、同じ謡や演技をやっても、上手がそれをやった場合は、とくに面白いという事になるのだ。下手は、もともと、習い覚えた節付けどうりに歌うのがせいいっぱいだから、観客にも新鮮な感動は起こり得ない。これに対して上手といわれる人は、同じ節の謡でも、どう歌えば面白いかという音楽的な効果を心得ている。「曲」というのは、節付けにおける花なのだ。

同じ程度の上手と言われ、同じような花の持ち主であっても、無上の工夫を極めた者は、さらに勝を収める花のありようを知っているであろう。そもそも、謡においても、節というものはあらかじめ決められた規範であり、曲というのは上手ならではの持ち味だ。舞でも、型というのは習った規範であり、品格ある舞姿は上手のものなのだ。

語句

■細かなる口伝-具体的なわざに関する口伝。■音曲・舞云々-以下、能の演技全般をいう。■同じ心-めづらしさが花を生むという点で、前条と同じこと(心得)だ、の意。■いつもの音曲・風情-いつもやる通りの、演技や謡。すでに観客が知っている作品を演じていることが前提となる説。■振り-古本は「ふぜい」。型どころではなく、一般的な所作の心得だことを強調するための改定。■故実(こしつ)をめぐらして-様々な謡の心得を総動員して工夫を凝らすこと。■曲-節回し。■声色-声調。声の扱い。■わざ-謡や舞、ハタラキ、振り、風情を総称したもの。■もとより-初めに、最初に、の意であろう。■節博士-節付・曲譜(墨譜)のこと。■曲-この「キョク」は音楽的な効果。■品かかり-品格ある舞姿。


一、物まねに、似せぬ位(くらゐ)あるべし。物まねを極めて、その物にまことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、面白き所ばかりをたしなめば、などか花なかるべき。

たとへば、老人の物まねならば、得たらん上手の心には、ただ、素人の老人が風流延年なんどに身を飾りて舞ひ奏でんがごとし。もとより己(おの)が身が年寄りならば、年寄りに似せんと思ふ心はあるべからず。ただその時の物まねの人体ばかりをこそたしなむべけれ。

また、老人の、花はありて、年寄りと見ゆるる口伝(くでん)といふは、まづ、善悪、老したる風情をば心にかけまじきなり。

そもそも、舞・はたらきと申すは、よろづに、楽の拍子に合はせて、足を踏み、手を指し引き、振り・風情を拍子に当ててするものなり。年寄りぬれば、その拍子の当て所、太鼓・歌・鼓の頭(かしら)よりは、ちちと遅く足を踏み、手をも指し引き、およその振り・風情をも、拍子に少し後るるやうにあるものなり。この故実、何よりも年寄りの形木なり。

このあてがひばかりを心中に持ちて、そのほかをば、ただ世の常に、いかにもいかにも花やかにすべし。

まづ、仮令(けんりやう)も、年寄りの心には、何事も若くしたがるものなり。さりながら、力なく、五体も重く、耳も遅ければ、心は行けども振舞のかなはぬなり。この理(ことわり)を知る事、まことの物まねなり。わざをば、年寄りの望みのごとく、若き風情をすべし。これ、年寄りの若き事を羨(うらや)める心・風情を学ぶにてはなしや。年よりは、いかに若振舞をすれども、この拍子に後るる事は、力なく、かなはぬ理なり。年寄りの若振舞、めづらしき理なり。老木(おいき)に花の咲かんがごとし。

現代語訳

一、物まねには、意図的に似せることをしない境地というものがあるであろう。物まねの奥義を極めて、物まねの対象となる劇中人物に成り切ってしまえば、似せようと思う心はなくなる。そうすると、劇中の人物として面白さだけを工夫することになるから、どうして花が咲かないはずがあろうか。

例えば、老人の物まねであれば、熟練の上手の心には、ただ、芸人でもない普通の老人が祭礼の仮装行列などに着飾って、舞を舞うようなものだ。もともと、自分が年寄りなのだから、年寄りに似せようと思う心を持っているはずがない。ただその場で自分が扮する仮装の人物に成りきることだけを考えるであろう。

また、老人で、花があり、しかも、年寄りに見える口伝というのは、まづ、決して年よりじみた所作をやろうとしてはならない。そもそも。舞とかはたらきとかの器楽伴奏の演技は、万事につけて、リズムに合わせて、足踏みをしたり、手を指し引いたりしたりといった、所作・動作を囃子のリズムに合わせて演じるものだ。年寄りであれば、その拍子に合わせる場所が、太鼓や謡や鼓の頭よりは、ちょっとづつ遅く足を踏み、手を指し引き、すべての所作・動作でも、囃子のリズムに少し遅れるようになるものだ。

これを知ることが何よりも年寄りの演技の基本だ。

この工夫ばかりを心の中に持ち、それ以外を、ただ世間の人のように、いかにもいかにも花やかにすべきだ。

まづたいがいは、年寄りの気持ちとして、何事も若く見せたがるものだが、力はなく、五体の動きも重く、耳も遠いので、気持ちばかりで動きがついていかないのだ。

この道理を知ることが、物まねの真髄だ。やることは老人の望むように若やいだ演技をするがよい。これは、老人が若さを羨(うらや)むという心理や動作を学ぶということではなかろうか。

年寄りが、いかに若く振舞おうとしても、この拍子に遅れてしまうのは、残念ながらどうしようもないことだ。この老人の若振舞というのは、めづらしさを生む道理だ。これはまさに老木に花が咲くようなものだ。

語句

■似せぬ位あるべし-意図的に似せることをしない境地。似せるという意識を超越した演技。■その物-物まねの対象となる劇中人物。■成り入りぬれば-なり切ってしまえば。■さるほどに云々-そうすると、面白さだけを工夫することになるから、物まねに徹することによって役作りの意識を超越し、劇中人物として個々の演技の面白さをひたすら追求することが花を生むと考えたものか。■素人の老人-芸人でない普通の老人。■風流延年-延々風流(寺院で行われた舞踊劇)のことではなく、」祭礼などに際して囃し物と共に演じられた華麗な仮装行列。■物まねの人体-風流で仮葬した役どころ。■花はありて年寄りと見ゆるる-花があってしかも老人らしく見えること。老人の物まねで花を咲かせる難しさは「物学条々」でも指摘。■善悪-とにかく。決して。■老したる風情-よぼよぼした動作。■楽の拍子-伴奏音楽のリズム。■足を踏み-足拍子ではなく、鬼の歩行などに際しての足踏みか。■拍子に当てて-楽器に合わせて。■太鼓-二本の撥(ばち)で打つ能の打楽器。舞などに際して伴奏のリズムを主導する。■歌-謡のこと。■頭-能の囃子で目印になるような段落を示す手。■ちちと-ちょっと。■およその振り・風情-すべての所作や型。■年寄りの形木-老人の演技の基準。■世の常に-世間並みに。■仮令も-たいがいは。■耳も遅ければ-耳も遠いので。■心は行けども-心では動いているつもりでも。■わざ-動作・振舞。■若き風情-若々しい所作。■めづらしき理-めづらしさを生む道理。■老木に花の咲かんがごとし-老人の演技の要諦を比喩的に述べたもの。


一、能に十体(じつてい)を得べき事。十体を得たらん為手(して)は、同じ事を一回り一回りづつするとも、その一通りの間久しかるべければ、めづらしかるべし。十体を得たらん人は、その内の故実・工夫にては、百色(ももいろ)にわたるべし。まづ、五年・三年の内に一遍づつも、めづらしくし替ふるやうならんずる宛てがひを持つべし。これは大きなる案立(あんりう)なり。

または、一年の内、四季折節をも心にかくべし。また、日を重ねたる申楽(さるがく)、一日の内は申すに及ばず、風体の品々を色どるべし。かやうに、大綱より初めて、ちちとある事までも、自然自然(しぜんしぜん)に心にかくれば、一期(いちご)、花は失せまじきなり。

また、曰(いは)く、十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。年々去来の花とは、たとへば、十体とは物まねの品々なり。年々去来とは、幼かりし時のよそほひ、初心の時分のわざ、手盛(てざか)りの振舞、年寄りての風体、この、時分時分の、おのれと身にありし風体を、みな当芸に一度に持つ事なり。ある時は児(ちご)・若族(にやくぞく)の能かと見え、ある時は年寄りの為手かと覚え、または、いかほども﨟(らふ)たけて、功(こう)入りたるやうに見えて、同じ主(ぬし)とも見えぬやうに能をすべし。これすなはち、幼少の時より老後までの芸を、一度に持つ理(ことわり)なり。さるほどに、年々(としどし)去り来たる花とはいへり。

ただし、この位に至れる為手、上代・末代に、見も聞きも及ばず。亡父の若盛りの能こそ、﨟たけたる風体、ことに得たりけるなど、聞き及びしか。四十有余の時分よりは、見慣れし事なれば、疑ひなし。自然(じねん)居士(こじ)の物まねに、高座の上にての振舞を、時の人、「十六七の人体に見えし」なんど、沙汰(さた)ありしなり。これは、まさしく人も申し、身にも見たりし事なれば、この位に相応したりし達者かと覚えしなり。かやうに、若き時分には行く末の年々去来の風体を得、年寄りては過ぎし方の風体を身に残す為手、二人とも、見も聞きも及ばざりしなり。

されば、初心よりのこのかたの、芸能の品々を忘れずして、その時々、用々(ようよう)に従って取り出だすべし。若くては年寄りの風体、年寄りては盛りの風体を残す事、めづらしきにあらずや。しかれば芸能の位あがれば過ぎし風体をし捨てし捨て忘るる事、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる枝の花のごとし。種あらば、年々時々の頃に、などか逢(あ)はざらん。ただ返すがへす、初心を忘るべからず。されば、常の批判にも、若き為手をば、「早く上(あが)りたる」「功入りたる」など褒め、年寄りたるをば、「若やぎたる」など批判するなり。これ、めづらしき理ならずや。

十体の内を色どらば、百色にもなるべし。その上に、
年々去来の品々を一身当芸に持ちたらんは、いかほどの花ぞや。

現代語訳

一、能の世界で、十体(すべての演目)を習得することについて。あらゆる演目を演じ得る役者は、全演目を一回りづつ何度演じたとしても、すべてを演じ切る期間が長いので、新鮮味を失うことはないであろう。

全ての演目を自分のものにした役者は、自分の演目内での演出や工夫をしただけでも、百種類もの演じ方が可能になるのだ。とりあえず、数年に一度くらいの割合で、新鮮味をもたらす改定に取り組むべきだ。これこそは重要な工夫だ。またこの他でも、一年の内でも、季節の移り変わりに合わせて演目を変えるよう心がけるがよい。また、連続公演の申楽で、一日の演目は言うに及ばず、毎日上演の曲目の取り合わせを工夫するがよい。このように、全体の大づかみから、すみずみの子細なことまでも、絶えず心くばりをしていれば、生涯にわたり芸の花がなくなることはないのだ。

また、言う。全ての演目を習得するよりも大事なことは、年々去来の花のことを忘れてはならないということだ。「年々去来の花」というのは、例えば、「十体」というのは個々の演目だが、これに対し「年々去来」とは、子供時代の芸風、役者として舞台に出始めの演技、脂の乗り切った三十代の技量、老後の演目、といった年代ごとの、自然に身につけた芸を、すべて今の演目として一度に身につけているということだ。そうすれば、ある場合には少年や若者の演技に見え、ある時には充実しきった達人の役者に見え、場合によっては、年功を積んで洗練の極致にあるような、大ベテランという印象を与えて、それぞれが同じ役者の芸には見えないように、演じるべきだ。

これが、子供時代から老後までの演目をすべて、その時に身に付けているということなのだ。だからこそ「年々去り来る花」と名付けるのだ。

ただし、この芸域に達した役者は、昔から今まで、見たことも聞いたこともない。亡き父観阿弥の若い盛りの頃の能は、年功を積んだ気品のある役柄を特に得意としたなどと聞き及んだものであった。四十過ぎの頃からは、私自身も見慣れたことだから、間違えようのない事実だ。<自然居士>の能に、高座に上がって説法する段での演技を見た当時の人々は、「十六七の役者に見えた」などと、評判したことであった。これはまさしく観客も言い、自分自身も見たことだから、「年々去来の花」にふさわしい達人かと思った次第だ。このように、若い時代には老人を主人公とするような、やがていつかは演じることになる演目をこなし、老後には過去の若やいだ主人公の能を演目に保持している役者は、父以外には二人と見も聞きもしたことがないのだ。

さて、未熟な初心時代以来のこれまでの演目の数々を忘れずにいて、その時その場の必要に応じて出し物にするがよい。若い時分には老人の役、老後には盛り演目を演じ得るようにしておくことは、芸のめづらしさではなかろうか。さて、芸格が上がるにしたがって、今まで演じてきた作品をやり捨てにして忘れてしまうことは、まったくもって花の種を失うものだ。その時々に咲いた花だけで、種がなければ、手折られた枝に咲く花のようなもので後が続かない。種さえあれば、年ごと、時期ごとに花を咲かせる機会にどうして逢わないことがあろうか。そこで、未熟な時代の芸を忘れてはならないのだ。こういうわけで、世間一般の批評にも、若く未熟な役者を、「早く完成した」「年季が入っている」、などと褒めあげ、老人年寄った役者を「若やいでいる」などと批評するのだ。こうした意外性こそが、珍しさを生む道理ではないだろうか。

現在のすべての演目に演出上の工夫を加えれば、効果は十倍になるであろう。その上に、年々去来の花を常に保持し続けたならば、どれほどの花を咲かせることができるであろうか、大変なことだ。

語句

■十体(じつてい)-あらゆる種類の演目。「奥義」篇の十体のように、田楽や近江申楽の演目までは意識されておらず、自座の演目の全てという程度の範囲。■同じ事-同じ出し物。■その内の故実・工夫-多様な演目内容ごとの演出上の工夫。■五年・三年の内に云々-たんに演出を変えるのみならず、改定・改作の可能性までも念頭に置いた文言か。「五年・三年」は数年の意。■案立(あんりう)-考え出された工夫。■日を重ねたる申楽-いわゆる日数能(ひかずのう)。■風体の品々-その日演じる演目のそれぞれ。■大綱-重大な基本的要件。■ちちとある事-細部にわたる事。■自然自然に-「自然に」と同じ。■年々去来の花-その年ごとに咲いては散る花。すなわちその時その時で喝采を博した演目。■手盛り-技術的に最も脂の乗り切った頃の事。■当芸-当時の芸。現在の芸。■若族(にやくぞく)-若集。若者。■年盛り-三十代半ばの「盛りの極め」の時代。■﨟(らふ)たけて-年功で磨き上げた洗練された美しさ。■年々去り来たる花-年々去来の花を読み下したもの。■亡父-観阿弥の事。■若盛り-年盛りと同意か。■四十有余の時分-世阿弥が十代の始めの頃。■自然(じねん)居士(こじ)の物まね-「自然居士の能」に同じ。<自然居士>は観阿弥作の遊狂能。人商人に自らを売って亡親の供養をした子供を居士(出家をせずに 家庭において修行を行う仏教の信者)が助けるという内容。■高座-自然居士の説法の段の演技を言う。■沙汰-評判。■この位-年々去来の花を体現した位。老後に少年の姿を好演すること。■達者-達人の意。■行く末の年々去来の風体-老人の役。■芸能の品々-かっての所演曲の数々。■用々に従って-その時その時の必要性に応じて。■芸能の位上がれば-年数を経てベテランになれば。■過し風体-その時のレパートリー。それを忘れる事の非は、『花鏡』「師となり弟子になること」の条に、能の転読(不完全な芸)として戒めるところ。■ひたすら-まったくの意。■初心を忘るべからず-「奥義」篇に「能に初心を忘れずして」とあることの基礎になる文言。■常の批判-世間一般の能評。批判は単に批評の意。■上がりたる-完成している。■一身当芸-自身の今現在の芸。


一、能に、よろづ用心を持つべき事。仮令(けりやう)、怒れる風体にせん時は、柔らかなる心を忘るべからず。これ、いかに怒るとも、荒かるまじき手立(てだて)なり。怒れるに柔らかなる心を持つ事、めづらしき理(ことわり)なり。また、幽玄の物まねに、強き理を忘るべからず。これ、一切、舞・はたらき・物まね・あらゆる事に住(ぢゆう)せぬ理なり。

また、身をつかふ内にも心根あるべし。身を強く動かす時は、足踏みを盗むべし。足を強く踏む時は、身をば静かに持つべし。これは筆に見えがたし。相対しての口伝(くでん)なり。是は花習(くわしゆ)の題目にくはしく見えたり。

現代語訳

一、能の世界で、万事に通用する演技上の心得について。たとえば、鬼人の能を演じるときは、(相反する心の働き)柔和だ事を忘れてはならない。これはどんなに狂乱の演技をしたにしても、荒々しくならぬようにする手段だ。鬼人の物まねに柔和な心を持つ事は珍しさを生む工夫だ。また、幽玄の能に、強さに繋がる演じ方があることを忘れてはならない。以上は、すべて、舞・所作・物まねなど、あらゆる演技に珍しさを忘れぬための工夫だ。

また、激しく身体を動かす鬼神の演技にも注意が肝要だ。上半身を強く動かす時は、足踏み(下半身の動き)の音がせぬようにするがよい。足を強く踏むときは、上半身は静かに保つがよい。これは文章では説明しにくい。直接対面して口頭で伝えるべき口伝だ。これは『花習』の題目六箇条の一つとして詳しく説明する所だ。

語句

■よろす用心を持つべき事-万事に通用する演技上の心得。■柔らかなる心-強さ一辺倒にならぬようにする配慮。■強き理を-幽玄に対して、強きということを配するという道理。幽玄の物まねを正確に写実することが「強き」につながるとの説が「花修」第三条にみえる。■身をつかふ内-激しく身を動かす鬼神の演技のこと。■花習-題目六箇条・事書八箇条から成る、『花鏡』の前身。応永二十五年以前の成立。『花鏡』の題目第三条「強身動宥足踏 強足踏宥身動」の説に相当する説。


一、秘する花を知る事。秘すれば花なり。秘せずば花なるべからずとなり、この分け目を知る事、肝要の花なり。

そもそも、一切の事(じ)、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用(たいよう)あるがゆゑなり。しかれば、秘事といふことをあらはせば、させる事にてもなきものなり。これを、「させる事にてもなし」と言ふ人は、いまだ秘事といふ事の大用を知らぬがゆゑなり。

まづ、この花の口伝(くでん)におきても、「ただめづらしきが花ぞ」と皆人知るならば、「さてはめづらしき事あるべし」と思ひ設けたらん見物衆(けんぶつしゆ)の前にては、たとひめづらしき事をするとも、見手(みて)の心にめづらしき感はあるべからず。

見る人のため花ぞとも知らでこそ、為手(して)の花にはなるべけれ。されば、見る人は、ただ思ひの外に面白き上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが、為手の花なり。さるほどに、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手立(てだて)、これ花なり。

たとへば、弓矢の道の手立にも、名将の案計(あんはか)らひにて、思ひの外なる手立にて、強敵(がうてき)にも勝つ事あり。これ、負くる方のためには、めづらしき理(ことわり)に化かされて破らるるにてはあらずや。これ、一切の事(じ)、諸道芸において、勝負に勝つ理なり。かやうの手立も、事落居(ことらつきよ)して、かかるはかり事よと知りぬれば、その後はたやすけれども、いまだ知らざりつるゆゑに負くるなり。さるほどに、秘事とて、一つをば我が家(いへ)に残すなり。

ここをもて知るべし。たとへあらはさずとも、かかる秘事を知れる人よとも、人には知られまじきなり。人に心を知られぬれば、敵(かたき)人油断せずして用心を持てば、かへつて敵に心をつくる相なり。敵方(てきほう)用心をせぬ時は、こなたの勝つ事、なほたやすかるべし。人に油断をさせて勝つ事を得るは、めづらしき理の大用なるにてはあらずや。さるほどに、我が家の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主(ぬし)になる花とす。秘すれば花、秘せねば花なるべからず。

現代語訳

一、秘して花となるという道理を知る事が大切だ。人に隠せばそれが花となり、、秘せねば花にはならないということだ。この秘するか秘さぬかで花の有無が分かれるという道理を知ることが、花にとって大事なことだ。

そもそもすべての物事、あらゆる芸能芸術の分野において、それぞれの専門の家において、秘事というのがあるが、それを隠すことによって大きな効用があるからやるのだ。それゆえに、秘事ということの内容を暴露してみると、別にどうということもないものだ。これを「大したことでもない」と言う人は、まったく秘事ということの大きな効用を知らないがために、そう言うのだ。

まず、この花の口伝でも、「珍しい、花だ」と皆知っているならば、「きっと珍しいことがあるだろう」と期待して待つことになるが、そんな観客の前では、たとえ珍しい能を演じても、観客の心には珍しいという感動が生まれてくるはずがない。観客にとっては、それが花だと知らずにいてこそ、役者にとっての花なのだ。だから、観客はただ意外と面白い上手な役者だとばかり見て、これが花だとは気づかないのが、役者にとっての花なのだ。

要するに、人の心に思いもよらぬ感動を与える工夫、これこそまさに花というものだ。

例えば、合戦においての戦術でも、優れた大将の計略で、敵の意表をついて、思いのほか大きな手柄を立て、強敵にも勝つ事があるであろう。これは、敗者側にとっては、相手方の意外性という道理に目くらまされて破れたということではなかろうか。

これが、あらゆる物事、すべての芸道において、勝負に勝つための道理だ。このような計略も、すべてが終わって、こんな謀(はかりごと)だったのかとわかれば、その後は何でもないけれども、まだ知らなかったために負けたのだ。このようなわけで、秘伝として、この教え一つを我が家に残しておくのだ。

ここでさらに考えておかなければならぬことがある。たとえ、秘事の内容を明らかにしなくても、それだけでは不十分で、このような秘密のやり方を知っている人間だとも、人に知られてはならないのだ。人に自分の心中を知られれば、敵は油断せず心構えをするので、かえって敵に用心させる結果になる。

敵方が用心をしない時は、こちらが勝つ事は、さらにたやすくなるであろう。人に油断をさせて勝つのが、意外性という道理の大きな効用ではないだろうか。以上の理由から我が家の秘伝として、人に知らせぬことを条件として、生涯にわたって花の主になる手立てとするのだ。秘すればこその花であり、秘密にしなかったなら花にはならないのだ。

語句

■秘する花-秘する(隠す)ことによって有効になる花。■この分け目-秘するかどうかで花となるかならぬかが決まる事。■肝要の花-花の肝要と同意。■道芸-あらゆる芸道。■家々-専門の家。■大用(たいよう)-大きな効用。■あらはせば-明かしてみると。暴く意味ではなく自分から明かす事。■させる事-どうということもないもの。■花の口伝-能の花を咲かせるための教え。■めづらしき事-珍しい能。珍しい演出の意味にも解しうる。■思ひ設けたらん-はじめから期待しているような。■見る人のため-観客にとって。■為手の花-役者にとっての花。花が役者主体だことを示す語。■弓矢の道の手立-戦術。「問答条々」第三問答の勝負の立合の手立にも、戦術的な観点が共通する。■名将-優れた将軍の意。普通は「名大将」と同じで名のある将軍の意。■案計らひ-計略。■負くる方-敗者側。■めづらしき理-意外性という道理。■一切の事-すべての物事。■諸道芸-すべての専門の道の意。■事落居して-すべてが終わって。■一つ-花を秘するという最後の教え。■たとえあらわさずとも-たとえ秘事を明かさなかったとしても。次分への接続が完結しない文章。■相-そのような結果になること。■生涯の主になる花とす-生涯にわたって花の主になる、というほどの意。世阿弥が時々用いる、語順の転倒による一種の強調表現。


一、因果(いんぐわ)の花を知る事、極めなるべし。

一切みな因果なり。初心よりの芸能の数々は因なり。能を極め、名を得る事は果なり。しかれば、稽古(けいこ)する所の因おろそかなれば、果を果たすことも難し。これをよくよく知るべし。

また、時分にも恐るべし。去年(こぞ)盛りあらば、今年は花なかるべき事を知るべし。時の間にも、男時(をどき)・女時(めどき)とてあるべし。いかにすれども、能にも、よき時あれば、かならず悪(わる)き事またあるべし。これ、力なき因果なり。これを心得て、さのみに大事になからん時の申楽(さるがく)には、立合(たちあい)勝負に、それほどに我意執(がいしふ)を起こさず、骨をも折らで、勝負に負くるとも心にかけず、手をたばひて、少な少なと能をすれば、見物衆も、「これはいかやうなるぞ」と諮!^f粋