平家物語 七 二代后

こんにちは。左大臣光永です。

液晶タブレットを買ったので、絵の練習をしています。私が漫画家のアシスタントをしていた20年前に比べて、絵を描くのがはるかにやりやくなっていることを実感します。

当時は作画資料を集めるのがまず大変でした。自分で写真を撮るか、本や雑誌などから切り抜いていたんです。写真を撮るといってもデジカメがないので、いちいち現像しなければなりませんでした。

今は電柱だろうが、猫だろうが、車だろうが、googleの画像検索で一発で見られる。ここが何より、全然違いますね。

また当時はぜんぶ紙に描いたので、何度も消し、何度も描きを繰り返すと、紙がボコボコになりました。デジタルは無限にやり直しがきくので、すばらしいです。

本日は『平家物語』の第7回「二代后(にだいのきさき)」です。近衛天皇と二条天皇、二代の天皇に后として嫁いだ、藤原多子のお話です。

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鳥羽法皇が亡くなって以来、世情は落ち着かず、後白河上皇と二条天皇の父子の対立も深刻であった。

二条天皇は後白河上皇の仰せにいつも反対しておられたが、中にも世間を驚かせたのは、天皇が亡き近衛天皇の后、藤原多子を后として迎えたことだった…

二代后 藤原多子
二代后 藤原多子

抜粋

「天子に父母(ふぼ)なし。吾十善の戒功によッて、万乗の宝位をたもつ。是程の事、などか叡慮に任せざるべき」

(天子に父も母もない。吾は仏教の十戒を犯さなかった善行によって、天子の位を保っている。この程度のこと(后選び)、どうして自身の意思で決められないことがあろうか)

うきふしに沈みもやらでかは竹の世にためしなき名をやながさん

(先帝が亡くなったあの悲しい時に一緒に死にもしないで、世に例のない「二代后」の名を流すことよ。浮きと憂きを掛ける。浮き、沈み、川、流すは縁語。節、竹、よは縁語。「かは竹の」は「世」にかかる枕詞。)

思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲居井の月を見むとは

(思いもよらなかった。出家もしない俗人の身のままで、ふたたび宮中に巡りきて、先帝が生きていらっしゃったあの頃と同じ雲居の月を見ることになろうとは)

解説

前提として、後白河上皇と二条天皇父子の関係は、かなり悪かったのですね。

後白河は今様をたしなんだりお忍びで町に出かけて庶民と交わったり、かなり風変わりな君主でした。対して二条天皇は折り目正しい、生真面目な性格でした。

そういう性格の違いもありましたが、

そもそも「院政」という仕組み自体が、「上皇派」と「天皇派」の対立を生みやすいシステムだったと言えます。

「院政」とは、譲位した天皇が上皇となって政治を行う支配体制のことです。応徳3年(1086)、白河天皇が息子の堀河天皇に譲位したのが始まりと言われます。

一方に上皇方の機関である「院庁(いんのちょう)」があり、一方に天皇方の機関である「太政官(だじょうかん)」があり、

いわば2つの政府が並立しているような形ですので、どうしても上皇派と天皇派で対立が起こります。

二条天皇はなにかにつけて父後白河上皇に逆らい反発しました。ここでは二条天皇が父後白河上皇に逆らったことの例として、先々代の近衛天皇の后・藤原多子を后としたことが挙げられています。

近衛天皇が亡くなったのが久寿2年(1155)。翌年の保元元年(1156)、天下分け目の保元の乱が起こり、後白河天皇方が勝利しました。

そして保元の乱の2年後、保元3年(1158)後白河は息子の二条天皇に譲位します。藤原多子が二条天皇のもとに入内したのは永暦元年(1160)。夫近衛天皇が亡くなって5年目のことでした。

近衛天皇と二条天皇、5年を隔てて二代の天皇に后として嫁いだわけです。ために、藤原多子は「二代后」と呼ばれました。

本文中、藤原多子が入内した後、宮中の紫宸殿・清涼殿の障子に書かれている絵のことがズラズラーーッと列挙されていて、ナンノコッチャと面食らいますが、これらは先帝近衛天皇との思い出のエピソードを語るための、前ふりです。

清涼殿の障子に、巨勢金岡が描いた「遠山の有明の月」があった。亡き近衛天皇が幼い頃、筆先でいたずら描きして、月が隠れたようになった。その絵が、当時のままそこにあり、多子は亡き近衛天皇を思い出してしみじみ歌を詠むのです。

こういう、ちょっとしたエピソードが光ってますね!

ちなみに藤原多子は藤原氏の中でも徳大寺家といわれる家の、徳大寺公能の娘です。小倉百人一首に歌を採られている後徳大寺実定は、多子の弟です。実定は『平家物語』にも主要な登場人物として出てきます。

語句

■為義 源為義。源義朝の父。保元の乱で崇徳上皇方について破れ、少納言入道信西のはからいで、息子の義朝によって処刑された。 ■義朝 平治の乱に破れ、東国へ逃れる途中、尾張国知多半島で味方の裏切りで殺された。 ■鳥羽院 堀河天皇皇子。嘉祥2年(1107)即位。保安4年(1123)譲位。白河院崩御後、大同4年(1129)より院政。永治元年(1142)法皇。保元元年(1156)7月2日崩御。54歳。 ■御晏駕(ごあんか) 天子が亡くなること。 ■兵革 兵器と甲冑から戦乱。保元の乱と平治の乱をさす。 ■闕官停任(けっかんちょうにん) 官吏をクビにし、職をやめさせること。 ■落居 落ち着くこと。 ■永暦応保の頃 二条天皇の時代の元号。永暦(1160-1161)。応保(1161-1163) ■院の近習者をば、内より御いましめあり 後白河院の近臣たちを二条天皇が処罰したこと。 ■内の近習者をば、院よりいましめらるる… 二条天皇の側近(藤原経宗・惟方)を後白河院が処罰したこと。 ■深淵にのぞんで薄氷をふむに同じ 深い淵にのぞんで薄氷をふむと同じビクビクした気持ち。「戦々兢々、如臨深淵、如履薄氷」(詩経・小雅) ■澆季(ぎょうき) 乱れた時代。末の世。 ■梟悪 性質が悪く、人の道に背いていること。 ■申しかへさせおはしましける 反対される。言い返される。 ■世もッて大きにかたぶけ申す事ありけり 世間の人がその事で、大いに非難申し上げることがあった。 ■太皇太后宮 先々代の天皇(近衛天皇)の后藤原多子。物語の時点では二条天皇の御世。二条→後白河→近衛とさかのぼる。 ■大炊御門の右大臣 徳大寺公能。永暦元年(1160)右大臣。邸が大炊御門(郁芳門)の北、高倉の東にあったため。徳大寺家は藤原兼家の弟・公季にはじまる閑院流藤原氏の一派。初代は徳大寺実能。 ■近衛河原 上京区近衛殿北口町あたり。同志社大学新町キャンパス西。 ■后宮(きさいのみや) 皇后の御所。 ■永暦のころほひ 永暦元年、多子21歳。永暦2年22歳。 ■色にのみそめる御心 ひたすら色にふける御心。多子の色香に強く惹かれている様子。 ■高力士 玄宗皇帝に楊貴妃を引き合わせた宦官の高力士。 ■大宮 皇太后宮、太皇太后宮の異称。多子は「近衛河原の大宮」と呼ばれる。 ■早穂にあらはれて 早くもそのことを表に表わして。 ■勝事 大事件。 ■公卿詮議 公卿たちの会議。 ■震旦 中国の異称。 ■則天皇后 則天武后。唐の太宗・高宗の皇后。その後自ら即位。仏教を篤く信仰した。 ■こしらへ申させ給ふ さとされる。 ■十善の戒功 仏教にいう十悪をしない戒めをまもった功徳。 ■叡慮 天子の意思。自敬表現。 ■御入内の日 永暦元年(1160)正月26日。 ■先帝 近衛天皇。久寿二年(1155)7月23日崩御。17歳。 ■うき耳 嫌な知らせを聞くこと。 ■世にしたがはざるをもッて、狂人とす 「世にしたがへば身くるし。したがはねば狂するに似たり」(『方丈記』)。 ■詔命 天子の命令。 ■子細を申すに所なし 細かいことを言う余地がない。 ■外祖 天皇の母方の祖父。 ■かは竹 河辺に生えている竹。 ■上達部 公卿の別称。三位以上くは四位の参議。 ■出車の儀式 飾りとして車を並べる儀式。 ■出したて参らせ給ふ =い出したて参らせ給ふ ■とよにも奉らず すぐには車に乗らない。 ■麗景殿 内裏の殿舎の一つ。 ■朝政(あさまつりごと) 天子の政務。朝行ったことが多いことから。  ■紫宸殿 紫震殿とも。宮中の公式な儀式が行われる御殿。 ■賢聖の障子 げんじょう。中国の賢人聖人32人を描いた襖障子。紫宸殿の北側に立てた。 ■伊尹 殷の湯王の宰相。 ■第五倫 後漢の光武帝に仕えた。 ■虞世南 唐の太宗に仕えた。 ■太公望 周の文王に仕えた。 ■甪里先生 秦の始皇帝の悪政を避けて商山にこもった。 ■李勣 唐の太宗に仕える。 ■司馬 官職名。 ■手長足長 手が長いのと足が短いのの、コンビの妖怪。清涼殿の荒海の障子に描かれる。 ■馬形の障子 馬の絵が描かれた障子。 ■鬼の間 清涼殿西南の庇の間。白沢王(はくたおう)が鬼を斬る絵が壁に描かれていた。白沢王は古代インドの波羅奈国(はらなこく)の王。 ■李将軍 李広。漢の文帝・景帝・武帝に仕えに仕えた。武勇に優れ「飛将軍」の異名をもつ。中島敦の小説で有名な李陵は孫。 ■尾張守小野道風 平安時代中期の能書家。宮中の殿舎や門の扁額を多く手掛けた。延長6年(928)清涼殿の南庇の間に、中国の賢君名臣について書いた(『日本紀略』)。 ■七廻賢聖の障子 七回、賢聖の障子を書いたという、その障子。「然而て紫震殿の皇居に、七廻、賢聖障子を書く(然而紫震殿の皇居、七廻書賢聖障子)」(『本朝文粋』六) ■金岡 巨勢金岡(こせのかなおか)。平安時代初期の宮廷画家。宇多天皇や藤原基経の恩顧を受け、菅原道真や紀長谷雄と交流があった。 ■故院 近衛天皇。 ■幼主 天子の場合は「ゆうしゅ」と読む。あるいは「ゆう」とも「よう」とも聞こえぬように語ると。(『平家物語集解』『平家物語指南抄』) ■御手まさぐり 手すさび。 ■かきくもらせ給ひしが 筆先で月の上にいたずら描きして、月が隠れたようになった。 ■ありしながらにすこしもたがわぬを御覧じて 近衛天皇が生きていらっしゃった時に少しも違わぬのを。 ■御なからへ 近衛院と藤原多子との間柄。

次回「額打論」に続きます。

朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永