平家物語 二十三 烽火之沙汰

『平家物語』第二十三回「烽火之沙汰(ほうかのさた)」です。

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過去配信分
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重盛は、後白河法皇の身柄を拘束しようとする父清盛に対し、自分は法皇を守護すると宣言。

孝忠のはざまに立つ苦しい立場をのべ、いっそ重盛の首をはねよと清盛に求めます。

その後、重盛は小松殿に帰ると各地の武士に招集をかけました。しかしこれは、清盛の悪行を思いとどまらせようという重盛のはかりごとでした。

あらすじ

重盛は清盛に対して、事が起これば法皇を守護すると宣言する。

奉公の忠をしようとすれば父の恩に反することになり、父に報いようとすれば 不忠の逆臣とならねばならない苦しい立場を述べ、いっそこの場で首を刎ねてくれと清盛に訴える。

清盛は狼狽する。

小松殿(自分の屋敷)に帰った重盛は、主馬判官盛国に命じて各地に散らばる侍たちを招集する。

西八条の清盛邸に集まっていた侍たちも、皆重盛の小松殿へ向かい、清盛のもとには一人も残らなかった。

清盛は後白河法皇の身柄を拘束することは諦め、鎧を脱ぎ、心にもない念仏を唱えていた。

重盛は、庭に集まった侍たちに、周の幽王の故事を語る。

周の幽王に、褒妣という最愛の后がいた。天下一の美人だったが、全く笑わなかった。

この頃、外敵が侵入してくると烽火を上げて軍隊を召集するならわしがあった。

ある時、敵が侵入して烽火を上げると、この后が初めて笑った。

幽王はそれ以降、敵が来なくても常に烽火を上げるようになった。

諸侯が来てみると敵はいない。いないのですぐに帰り去った。

こんなことが重なるうち、参る者もなくなった。

ある時、本当に敵が攻めてきた。

烽火を上げても、「またいつものことか」と、誰も集まらない。

ついに周の都は落とされ、幽王は滅ぼされた。この后は狐となって走り失せたのは恐ろしいことであった。

重盛はこの故事を語り、今回の召集は重盛の思い違いであったが、 今後召集しても今回のように集まって欲しいと、侍たちを解散さた。

もともと父と戦うつもりはなかったが、 清盛の悪行を思いとどまらせようと、このような召集をかけた。

後白河法皇は、このことを伝え聞き、「仇に恩で報いられた」と、重盛の人柄に感嘆した。

君(きみ)君たらずと云ふとも、臣(しん)もツて臣たらずンばあるべからず。父(ちち)父たらずと云ふとも、子もツて子たらずンばあるべからず。

原文

「是は君の御理(ことわり)にて候(さうら)へば、かなはざらむまでも、院御所法住寺殿(ゐんのごしよほふぢゆうじどの)を守護し参らせ候べし。其故(そのゆゑ)は重盛叙爵(じよしやく)より、今大臣の大将(だいしやう)にいたるまで、併(しか)しながら君の御恩ならずと云ふ事なし。其恩の重き事を思へば、千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉にもこえ、其恩の深き色を案ずれば、一入再入(いちじふさいじふ)の紅(くれなゐ)にも猶(なほ)過ぎたらん。しかれば院中に参りこもり候べし。其儀にて候はば、重盛(しげもり)が身にかはり、命にかはらんと契りたる侍(さぶらひ)共、少々候らん。これらを召しぐして、院御所法住寺殿(ゐんのごしよほふぢゆうじどの)を守護し参らせ候はば、さすが以(もつ)ての外(ほか)の御大事でこそ候はんずらめ、悲しき哉(かな)君の御ために、奉公の忠をいたさんとすれば、迷盧(めいろ)八万の頂(いただき)より猶たかき、父の恩忽ちに忘れんとす。痛ましき哉不孝(かなふかう)の罪をのがれんと思へば、君の御ために既(すで)に不忠の逆臣(ぎやくしん)となりぬべし。
進退惟谷(しんだいきれきはま)れり。是非いかにも弁(わきま)へがたし。申しうくるところ詮(せん)はただ重盛が頸(くび)を召され候へ。さ候はば、院中(ゐんぢゆう)をも守護し参らすべからず、院参(ゐんざん)の御供(おんとも)をも仕(つかまつ)るべからず。かの簫何(せうが)は大功かたへにこへたるによツて、官太相国(たいしやうこく)に至り、剣を帯し沓(くつ)をはきながら、殿上にのぼる事をゆるされしかども、叡慮(えいりよ)にそむく事あれば、高祖(かうそ)おもう警(いまし)めて、ふかう罪せられにき。か様(やう)の先蹤(せんじよう)を思ふにも、富貴(ふつき)といひ栄花(えいぐわ)といひ、朝恩といひ重職(ちようじよく)といひ、旁(かたがた)きはめさせ給ひぬれば、御運のつきんこともかたかるべきにあらず。『富貴(ふつき)の家には禄位重畳(ろくゐちようでふ)せり。ふたたび実なる木は其(その)根かならずいたむ』と見えて候。心ぼそうこそおぼえ候へ。いつまでか命いきて、乱れむ世をも見候べき。只(ただ)末代に生(しよう)をうけて、かかるうき目にあひ候、重盛が果報の程(ほど)こそ拙(つたな)う候へ。ただ今侍一人に仰せ付けて、御坪(おつぼ)のうちに引き出されて、重盛が首(かうべ)のはねられん事は、安い程の事でこそ候へ。是(これ)をおのおの聞き給へ」とて、直衣(なほし)の袖(そで)もしぼるばかりに涙をながし、かきくどかれければ、一門の人々、心あるも心なきも、皆鎧(よろひ)の袖をぞぬらされける。

太政入道も、たのみきツたる内府(だいふ)はかやうに宣(のたま)ふ、力もなげにて、「いやいやこれまでは思ひもよりさうず。悪党共が申す事につかせ給ひて、僻事(ひがこと)なンどやいでこむずらんと、思ふばかりでこそ候へ」と宣へば、大臣(おとど)、「縦(たと)ひいかなるひが事出でき候とも、君をば何とかし参らせ給ふべき」とて、ついたツて中門に出でて、侍共に仰せられけるは、「只今重盛が申しつる事共をば、汝等(なんぢら)承らずや。今朝(けさ)よりこれに候うて、かやうの事共申ししづめむと存知つれども、あまりにひたさわぎに見えつる間、帰りたりつるなり。院参(ゐんざん)の御供(おんとも)においては、重盛(しげもり)が頸(くび)の召されむを見て仕れ。さらば人参れ」とて、小松殿へぞ帰られける。

語句

■叙爵 五位に叙せられること。重盛は久安7年(1151)14歳で叙爵。 ■併しながら ことごとく、すべて。 ■千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉 千粒万粒の玉。 ■一入再入の紅 何度も染めた紅。 ■迷盧八万の頂 「迷盧」は蘇迷盧(そめいろ、Sumeru)の略。須弥山。仏典にある高い山。 ■申しうくるところの詮は 申し上げたいことの要点は。 ■簫何(せうが) 樊噲、韓信、彭越とならび漢の高祖劉邦の臣。高祖の死後、讒言を受けて捕らえられた。 ■かたへに 方辺へ。他の人々と比較して。 ■太相国(たいしやうこく) 中国で天子を補佐する役職。太政大臣の唐名。 ■『富貴(ふっき)の家には禄位重畳せり。ふたたび実なる木は、其根必ずいたむ』 「常ニ富貴ノ家ヲ観ルニ、禄位重畳セリ。猶再ビ実ナル其根必ズ傷ムガゴシ」(『後漢書』明徳馬皇后紀)。富み栄える家には官位がかさなり、どんどん栄える。しかし一年に二度実のなる木はその根が必ずいたむように、富み栄える家も必ず衰えるの意。 ■果報 前世の行いの報い。「果報拙し」は前世からの運が悪い、不幸であること。 ■御坪 中庭。

■さうず 「候はず」の転。 ■ひたさわぎ ひたすらの騒ぎ。 ■院参 院に参ること。清盛が後白河を捕らえるために。

原文

主馬判官盛国(しゆめのはんぐわんもりくに)を召して、「重盛こそ天下(てんか)の大事を、別して聞き出(い)だしたれ。『我を我とも思はん者共は、皆物具(もののぐ)して馳(は)せ参れ』と、披露(ひろう)せよ」と宣へば、此由披露す。おぼろけにてはさわがせ給はぬ人のかかる披露のあるは、別(べつ)の子細(しさい)あるにこそとて、皆物具(もののぐ)して我も我もと馳(は)せ参る。淀(よど)、羽束師(はつかし)、宇治(うぢ)、岡(をか)の屋(や)、日野(ひの)、勘修寺(くわんじゆじ)、醍醐(だいご)、小黒栖(をぐるす)、梅津(むめづ)、桂(かつら)、大原(おほはら)、しづ原、芹生(せれふ)の里にあぶれゐたる兵(つはもの)共、或(あるい)は鎧(よろひ)着ていまだ甲(かぶと)を着ぬもあり、或は矢おうていまだ弓をもたぬもあり、片鐙(かたあぶみ)ふむやふまずにてあわてさわいで馳せ参る。

小松殿にさわぐ事ありと聞えしかば、西八条(にしはつでう)に数千騎(すせんぎ)ありける兵(つはもの)共、入道にかうとも申しも入れず、ざざめきつれて、皆小松殿へぞ馳せたりける。すこしも弓箭(きゆうせん)に携(たづさは)る程(ほど)の者、一人(いちにん)も残らず。其時(そのとき)入道大きに驚き、貞能(さだよし)を召して、「内府(だいふ)は何と思ひてこれらをばよびとるやらん。是(これ)でいひつる様(やう)に、入道が許へ討手(うつて)なンどやむかへんずらん」と宣(のたま)へば、貞能涙をはらはらとながいて、「人も人にこそよらせ給ひ候へ。争(いか)でかさる御事候べき。今朝是にて申させ給ひつる事共も、みな御後悔(ごこうくわい)ぞ候らん」と申しければ、入道、内府に中たがうては、あしかりなんとや思はれけん、法皇むかへ参らせんずる事も、はや思ひとどまり、腹巻ぬぎおき、素絹(そけん)の衣に袈裟(けさ)うちかけて、いと心にもおこらぬ念珠(ねんじゆ)してこそおはしけれ。
小松殿には、盛国承ツて、着到つけけり。馳せ参りたる勢(せい)ども、一万余騎とぞ記(しる)いたる。着到被見の(ひけん)の後、おとど中門に出でて、侍(さぶらひ)共に宣ひけるは、「日来(ひごろ)の契約をたがへず、参りたるこそ神妙(しんべう)なれ。異国にさるためしあり。周(しう)の幽王(いうわう)、褒姒(ほうじ)と云ふ最愛(さいあい)の后(きさき)をもち給へり、天下第一の美人なり。されども幽王の心にかなはざりける事は、褒姒(ゑみ)をふくまずとて、すべて此后(このきさき)わらふ事をし給はず。異国の習(ならひ)には、天下に兵革(ひやうがく)おこる時、所々(しよしよ)に火をあげ、太鼓(たいこ)をうツて兵(つはもの)を召すはかり事(こと)あり。是(これ)を烽火(ほうくわ)と名づけたり。或時(あるとき)天下に兵乱(ひやうらん)おこツて、烽火をあげたりければ、后(きさき)これを見給ひて、『あなふしぎ、火もあれ程(ほど)おほかりけるな』とて、其時(そのとき)初めてわらひ給へり。

この后、一たびゑめば、百(もも)の媚(こび)ありけり。幽王(いうわう)うれしき事にして、其事となう、常に烽火をあげ給ふ。諸侯来(きた)るにあたなし。あたなければ則(すなは)ちさんぬ。かやうにする事度々(どど)に及べば、参る者もなかりけり。或時隣国より凶賊おこツて、幽王の都をせめけるに、烽火をあぐれども、例の后の火にならツて、兵(つはもの)も参らず。其時都かたむいて、幽王つひに亡びにき。さてこの后は、野干(やかん)となツてはしりうせけるぞおそろしき。か様(やう)の事がある時は、自今(じごん)以後もこれより召さんには、かくのごとく参るべし。重盛(しげもり)不思議の事を聞き出(いだ)して、召しつるなり。されども其事聞きなほしつ、僻事(ひがごと)にてありけり。とうとう帰れ」とて、皆帰されけり。実(まこと)にはさせる事をも聞き出されざりけれども、父をいさめ申されつる詞(ことば)にしたがひ、我身に勢(せい)のつくかつかぬかの程(ほど)をも知り、又父子軍(いくさ)をせんとにはあらねども、かうして入道相国の、謀反(むほん)の心をもややはらげ給ふとの策(はかりこと)なり。

語句

■我を我と思はん者共は 私を私と思って仕えてくれる者共は。 ■物具して 鎧を着て。 ■おぼろけにては 並たいていのことでは。 ■淀 京都市伏見区内。 ■羽束師 京都市伏見区内。 ■岡の屋 岡谷。京都府宇治市内。 ■日野 京都市伏見区内。 ■勧修寺 かんじゅじ。かじゅうじ。京都市山科区。 ■小黒栖 おぐるす。小栗栖。醍醐の北。 ■梅津 京都市右京区。桂川東岸。松尾橋付近。 ■桂 桂川西岸。 ■大原 京都市左京区内。 ■しづ原 静原。左京区静市静原町。
大原と鞍馬の間。 ■芹生 大原の西。左京区大原草生町のあたり。寂光院がある。 ■あぶれゐたる あふれるほどたくさんいた ■片鐙ふむやふまずにて 鐙の片方だけを踏むか踏まないかという状態で。非常にあわているさま。 ■ざざめきつれて ざわざわと騒いで連れ立って。 ■むかへんずらん 向かわせるのだろうか。 ■念珠して 数珠をつまぐりながら念仏することか。 ■着到つけけり 到着した者の姓名をしるした。 ■周の幽王 以下の故事は『史記』「周本紀」に。『保元物語』『十訓抄』『太平記』『曽我物語』に引用されている。 ■兵革 ひょうがく。戦争。 ■烽火 のろし。急を知らせるために一定間隔ごとに設置した高台にのろしを上げて本国に伝聞するもの。武田信玄の築いたものが有名。 ■あなふしぎ なんと面白い ■一たびゑめば百の媚ありけり 白楽天『長恨歌』の語句をもじる。美人をあらわす慣用句。 ■其事となう なんということもなく。 ■あたなし 敵はいない。 ■さんぬ 「去りぬ」の音便。 ■野干 やかん。狐。 ■其事聞きなほしつ その事(大事)を聞き直したところ。 ■君君たらずと伝ふとも… 「君雖不君、臣不可以不臣、父雖不父、子不可以不子」(『古文孝経』孔安国序)。 ■君のためには忠あッて… 出典不明。 ■文宣王 孔子の諡。 ■容義 態度、姿。 ■体はい 身のこなし。 ■世にこたえるべしやは 世間に飛び抜けていることができようか、いやできない。 ■国に諌むる臣あれば… 『古文孝経』孔安国序。

原文

君(きみ)君たらずと云ふとも、臣(しん)もツて臣たらずンばあるべからず。父(ちち)父たらずと云ふとも、子もツて子たらずンばあるべからず。君のためには忠あツて、父のためには考(かう)ありと文宣王(ぶんせんわう)の宣ひけるにたがはず。君も此よしきこしめして、「今にはじめぬ事なれども、内府(だいふ)が心のうちこそ恥づかしけれ。怨(あた)をば恩をもツて報ぜられたり」とぞ仰せける。果報こそめでたうて、大臣(だいじん)の大将(だいしやう)にいたらめ、容儀体(ようぎたい)はい人に勝(すぐ)れ、才智才学(さいちさいがく)さへ世にこえたるべしやとはぞ、時の人々感じあはれける。「国に諫(いさ)むる臣あれば、其国必ずやすく、家に諫むる子あれば、其家必ずただし」といへり。上古(しやうこ)にも末代(まつだい)にもありがたかりし大臣なり。

現代語訳

君が君の資格なしといえども、臣が臣下の務めを果たさないという事があってはならない。父が父の資格なしといえども。子が子の務めを果たさないという事があってはならない。君の為に忠義があり、父の為に孝行ありと文宣王(孔子)が言われたことに間違いはなく、君もこの事をお聞きになられて「今始まった事ではないが、内府の心の内はこちらが恥ずかしくなるほど立派であったぞ。恨みを恩で報いたのだ」と仰せられた。前世からの運が良くて、大臣兼大将に上ることはあろうが、礼儀にかなった態度・姿、身のこなしは人より優れ、才知才学までもが飛び抜けているという事ができようかと、当時の人々は感じ合われたそうである。「国に諫める臣あれば、その国は安定し、家に諫める子がいれば、その家は必ず正しい」といえる。上古にも末代にもめったにない大臣である。

次回「大納言流罪」は5/2(日)の配信です。

朗読 平家物語

朗読・解説:左大臣光永