【無料配布 本日限定】『方丈記』~挫折したエリートのぼやき

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ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。


下賀茂神社

有名な鴨長明『方丈記』の書き出し。学校で習った、暗記させられたという方も多いことでしょう。

しかし、書き出し以降の内容をちゃんと読んだことがある方は、意外と少ないのではないでしょうか?


糺の森

「無常観」

学校で、そう習ったと思います。

『方丈記』をつらぬくテーマは、「無常観」であると。

ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。

あの書き出しには、すべてのものがうつろいゆく、すべては無常だという感慨がこめられていると。

しかし『方丈記』は抽象的な「無常観」を説いた説教臭い話ではありません。

当時の都を襲った五つの災害…

大火・辻風・福原京への遷都・飢饉・地震。

これら五つの災害を通して、「無常」のありようを、きわめて具体的に、生々しく描き出します。

たとえば、養和年間(1181年~2年)の飢饉では…

「ついに食べ物がなくなってきて、売り物も無い者は、自分の家を切こわして、その家の木端を市に出て売った。

しかし、一人が持って出たものについた値段は、その人が一日暮らす生活費にも満たない」

……

「愛する妻や夫がある者は、その思いがまさって深い者が必ず先立ちて死んだ。

なぜならば、わが身は次にして、相手をいたわしく思っている間に、たまに得た食糧をも、相手に譲るためであった。

当然のこととして、親子連れでは親が先立った。

母の命が尽きたことを知らずに幼い子がなお乳を吸いつつ臥している姿もあった」

このように、実際に現場に足を運び、見聞きした者でなければ書きえない生生しさで、災害の様子を描き出します。

元暦2年(1185年)7月に都を襲った大地震については、

塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内にをれば忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。

羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや雲にも乗らむ。

「塵や灰が立ち上って、盛んなる煙のようだ。地の動き家の壊れる音はまるで雷の音と変わらない。

家の中にいればすぐにつぶされそうになる。走り出れば、地面が割れ裂ける。

羽が無いので空を飛ぶこともできない。竜であれば雲にも乗れよう。しかし人間はどうにもならない」

このように迫力の筆でつづりつつも、

すなはちは人みなあぢきなき事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、
ことばにかけて言ひ出づる人だになし。

「地震があった直後は「ああ人の世ははかないものですね」などと、神妙なことを言っていたのに、少し月日が重なり時間がたつと地震のことなどケロリと忘れてしまい、
言葉に出す者もいなくなる」

…こんな感じで、地震が鎮まった後の人の心の軽薄さについても述べています。

鴨長明の生きた時代

『方丈記』の作者鴨長明が生きた平安末期~鎌倉初期という時代は、まさに現在に通じる…いやそれ以上の、先行き不透明な、混迷の時代でした。

長きにわたった貴族の支配が終わり、武士による新しい支配が始まりますが、保元の乱・平治の乱・そして源平の争いがはじまり、その混乱の中、400年の栄華をほこった平安京は荒れ果てていきました。

古い価値観が滅び、新しい価値観はいまだ見えてこない。何を信じたらいいのかサッパリわからない。先行き不透明な時代。

何かに、頼りたい。すがりたい。確かなものがほしい。でも、どうしたらいいのか……行き詰った空気。

法然や親鸞といった宗教界・思想界の巨人がこの時期にあらわれたのも、うなづける気がします。

戦争や政治不安に加え、さまざまな天変地異が襲います。

火事、大風、地震、

誰もが行き場を失い、明日も知れず、途方に暮れていた時代です。

そんな混迷した時代の中、

鴨長明は久寿2年(1155年)下鴨神社禰宜・鴨長継の次男として生まれました。

当時、下鴨神社は全国70か所以上に所領を持ち、たいへんな権勢を誇っていました。

長明はその下鴨神社の御曹司という恵まれた立場に生まれました。

保元・平治の乱とうち続く京都の内乱をよそに、長明は何不自由ない裕福な子供時代を過ごしたと思われます。

7歳にして従五位下という位を得て、また琵琶や和歌などの芸術にも通じていた長明は、将来を期待されていました。

本人も、父の跡をついで下鴨神社の神官になるつもりでいました。

しかし18歳で父と死に別れて以後、運命は急転します。父の跡を継ぐことは他の親族によってはばまれてしまい、順風満帆だったはずの人生は、調子が狂ってきます。

母方の祖母の家を継いだものの、何があったのか縁が切れてしまい、家を出なければ、ならなくなります。

長明は30代前半にして鴨川のほとりに庵を結び、以後20年ほど独居生活を送りました。

エリートの転落

長明49歳の時。

下鴨神社の摂社である河合社(ただすのやしろ)の欠員ができました。時の後鳥羽上皇は長明をその禰宜として推薦しました。

時に宮中で和歌を取扱い、『新古今和歌集』の編纂を目的とした「和歌所」という部署が、村上天皇の御世以来350年ぶりに後鳥羽上皇の下復活していました。

長明はその「和歌所」の職員として抜擢されていました。

長明は非常に熱心に和歌所の職務にはげんだので、後鳥羽上皇は何とか長明の働きに報いてやりたいと考えていたのです。

それで、かねてから長明が希望していた河合社に欠員が出た時、ここぞと長明を推薦したのでした。

ようやく機会がまわってきた!

這い上がれる!

胸躍る長明。

しかし、

同族の鴨佑兼(かものすけかね)から横やりが入ります。

「長明は神社の仕事に熱心ではありません。
ふさわしくありません」

結局、この横やりによって長明は、河合社の禰宜になることをはばまれてしまいます。

若くして父と死に別れ、父が与えてくれた従五位下から上にはまったく出世せず、家を追われ、かつては大きなお屋敷に住んでいたものが、みすぼらしい庵に住むことになり…

最後の希望であった河合社の禰宜になることもふいになったのです。

長明は特に任官活動をした様子もなく、神社の仕事もまじめでなかったので、自業自得といえばそれまでですが、何不自由ない御曹司としての生まれを考えると、その落ちぶれっぷりは…

悲惨、の一言です。

挫折感・屈辱感はそうとうなものだったでしょう。

世をはかなんだ長明は50歳を迎えた春、出家隠遁し洛北の大原に庵を結びます。

大原にすまうこと五年。肌にあわなかったのか、その後、京都郊外の日野に移ります。

方丈(3メートル四方)の庵を結び、琵琶をかきならしたり子供と遊んだりという自由きままな暮らし。その隠遁生活の中『方丈記』は書かれました。

世に従えば身苦し。従はねば狂せるに似たり。

いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

先行き不透明なこの時代だからこそ、『方丈記』を読み直し、800年前の未曾有の大混乱の時代を、作者鴨長明がどう考え、どう生きたか。しばし耳を傾けてみるのは、いかがでしょうか?

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