五月 皐月

皐月

皐月は田植えが始まるころなので「早苗月」を略したものとされます。旧暦の5月は現在の6月あたりで梅雨の季節。梅雨に降る雨を五月雨といい、多くの句や歌に詠まれています。

皐月の他、「雨月」、雨ばかりで月が見えないことから「月不見月(つきみずつき)」といった言い方もあります。

現在の5月はゴールデンウィークがあり、さわやかな気候です。ゴールデンウィーク明けが立夏で、暦の上では夏となります。

ゴールデンウィーク

黄金週間。4月29日から5月5日まで。前後に土日が来ると休みが長くなります。ゴールデンウィーク中は4月29日昭和の日、5月3日憲法記念日、5月4日みどりの日、5月5日子供の日が国民の祝日で、5月1日はメーデーで休みになる会社が多く、その間の平日を休みにすることで長期休暇となります。

昭和60年以前は休日が飛び飛びであったため「飛び石連休」といいましたが、昭和60年に5月4日がみどりの日として設定されたことにより、345が国民の祝日で連続する形となり、飛び石連休とは言わなくなりました。

憲法記念日やみどりの日が日曜日と重なった場合、6日以降が振替休日とされます。

「ゴールデンウィーク」という呼び方は、もともと映画業界から始まりました。正月や盆とならびこの時期の興行成績がよかったためにゴールデンウィークといったのが、やがて業界を超えて一般に使われるようになりました。

メーデー

5月1日、労働者のために行われる祭礼。労働祭とも。1886年5月1日にアメリカはシカゴを中心に8時間労働制を求めるデモとゼネストを行ったのが始まりです。

日本初のメーデーは大正9年(1920)5月2日の日曜日に上野公園で開催されました。

ストライキを制限する治安警察法第十七条の撤廃や、八時間労働制、シベリアからの即時撤兵などを訴えました。

八十八夜

八十八夜は茶摘の時期。立春から数えて88日目、5月2日ごろ。 「八十八夜の別れ霜」といって、この時期をすぎると気候も暖かく落ち着く、遅霜の心配もなくなります。

そのため、稲の種まきや茶摘みが行われるのです。この日に摘み取った茶の葉は「八十八夜の新茶」として特別に扱われます。

3-4日後が立夏で、暦の上ではもう夏になります。

お茶は平安時代に最澄などの留学僧が持ち込み、はじめ貴族の飲み物でした。

鎌倉時代、禅僧の栄西が『喫茶養生記』を書き、茶を飲むことは禅の修行にも役立つと説きました。以後、お茶文化が一般にも広がりました。

憲法記念日

昭和22年(1947)5月3日、日本国憲法が施行されたのを記念します。

戦後、GHQから「新しい憲法をつくれ」と指示を受けた幣原内閣は、憲法問題調査委員会を設け、憲法制定に乗り出しました。

ところが委員会のつくった草案は、大日本帝国憲法(明治憲法)をちょちょっといじったくらいの、なにも民主的でない、保守的なものでした。

「こんなんダメだよ!」

GHQ民生局のコート・ホイットニー准将は、この松本案に激しくダメ出しします。

「話にならない…」

そこでGHQ民生局は九日間という猛スピードで、しかも憲法には素人ばかりのメンバーで、憲法草案(マッカーサー草案)を作成。

このマッカーサー草案に基づいて議論を重ね、民間の意見も汲み取りながら、日本国憲法は制定されました。

1946年11月3日発布。翌47年5月3日、施行されます。

庶民はおおかた新憲法を歓迎したようですが、作家の永井荷風などは

「米人の作りし日本国憲法今日より実施の由。笑ふべし」

と、著作「断腸亭日乗」の中で冷淡な感じで書いています。

みどりの日

「自然に親しみその恩恵に感謝し豊かな心をはぐくむ」という趣旨の日です。

みどりの日は現在、5月4日ですが、もとは4月29日でその日はもと昭和天皇の誕生日でした。

昭和天皇崩御後の平成元年から「みどりの日」となり、さらに平成19年に4月29日が「昭和の日」に変更になったのに伴い、「みどりの日」は5月4日に移されました。

こどもの日・端午の節句

5月5日こどもの日として知られる端午の節句は五節供のひとつ。

古代中国では五月は物忌の月とされ、特に五日は「五」が重なるため「重五」とよばれ、厄除けの行事が行われました。

それが日本につたわり宮中で「端午節会(たんごのせちえ)」として催され、さらに日本古来の田植え前の行事…田植えを前に、早乙女たちが菖蒲や蓬をふいた屋根の下で身を清め、厄払いをするという行事と結びつきます。

鎌倉時代から武士の間で「菖蒲」を「勝負」「尚武」とかけて、男子の武運、立身出世を願う祭ともなり、江戸時代には庶民の間にも広がりました。

現在では男の子の成長を願って、鯉幟や絵幟を上げ、鎧兜や五月人形をかざり、粽や柏餅を食べ、菖蒲湯に入るなどの習わしが続いています。

端午の節供の端午とは、「月のはじめの午の日」という意味。5月に限ったことではありませんが、しだいに「五月はじめの午の日」をいうようになり、日にちも五日に固定されていきました。

「午」と「五」の音が同じであることと、奇数月のゾロ目の日が節供とされたためのようです。

(3月3日上巳の節供、7月7日七夕、9月9日重陽の節句も同様)

菖蒲

端午の節句でいちばん重要なのが菖蒲です。

菖蒲を軒にさす「軒菖蒲」、菖蒲の葉を浮かべた「菖蒲酒」、菖蒲を入れた「菖蒲湯」。菖蒲を枕の下にしく「菖蒲枕」など。

いずれも邪気払いの風習です。

(端午の節供に使う菖蒲はサトイモ科の菖蒲。きれいな花が咲くアヤメ科の菖蒲とは別物です)

『枕草子』37段に「菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし。九重の御殿の上をはじめて、言ひ知らぬ民の住家まで、いかでわがもとにしげく葺かむと葺きわたしたる、なほいとめづらし」

菖蒲湯の言われは、蛇と契った女性が菖蒲湯に入って邪気祓いをして助かったとも、

武士が出陣前に武運を祈って菖蒲湯につかったともいわれます。

端午の節供の粽は、子供の成長を祝ったり邪気払いの意味があります。

粽のゆえんは、中国戦国時代楚の国の忠臣、屈原が汨羅江(べきらこう)に身を投げた、民衆は彼を傷んで川に粽を投げ入れた、それが5月5日であったと。

それから漢の時代に屈原の霊があらわれ、粽が自分のとこに届く前に蛟龍(中国の竜の一種)に食われてしまうと訴えたので、粽を楝(おうち)の葉で包み、五色の糸で止めるようになったのが端午の節供における粽のはじまりといわれます。

日本の端午の節句で使う粽はもち米や上新粉を練ったものを植物の葉で巻いたものです。関西ではういろうや葛を包みます。葉は、チガヤ、笹、マコモ、ヨシなど。

鯉幟・絵幟

鯉幟は、江戸時代にはすでにあらわれていました。鯉が滝をのぼると龍になるという中国の故事に基づき、立身出世を願ってのものです。

鯉幟の一番上につける「吹き流し」は中国の陰陽五行説に基づき、緑(青)、赤、黄、白、黒の配色です。五色があわさると魔を祓うとされます。

鯉幟のほか、絵幟を上げる地域もあります。武田信玄や鎮西八郎為朝、武蔵坊弁慶など、武勇にすぐれた人物の絵を描きます。

鯉幟も絵幟も男子の初節供のお祝いとして、主に母方が用意します。

五月人形

五月人形は「武者人形」ともよばれ、鎧兜を飾ったり、金太郎や武蔵坊弁慶など力持ちで知られる人物、徳川家康や伊達政宗といった、地域やかりの武将の像を飾る場合もあります。

いずれも男子の健やかな成長を願ってのものです。

柏餅

柏餅は、江戸時代には東日本を中心に端午の節句に食べられるようになりました。

柏は冬の間も葉がおちず、そのまま越冬して新芽が出ることから、子孫繁栄してめでたいというわけです。

鰤・鰹

鰤(ぶり)や鰹を食すことも多いです。鰤は大きくなるにつれてイナダ、ワラサ、ブリと名前が変わる出世魚であることから、

鰹は「勝つ」に通じることから、いずれも縁起物です。

凧揚げ

関東から東海にかけて、端午の節供に凧揚げをする地域もあります。男子の初節供に、親類や村の者が協力して凧を上げて、成長を願うものです。

静岡県浜松市では凧を上げるだけでなく、互いに糸を切り合う凧合戦が行われ、観光行事になっています。

薬玉

端午の節供に薬玉を飾る風習もあります。菖蒲や蓬をボール状に編んだもので、邪気払いの効果があるとされます。式典などで使われるくす玉は端午の節供の薬玉がルーツです。

「空のけしき、くもりわたりたるに、中宮などには、縫殿より御薬玉とて、色々の絲を組み下げて參らせたれば、御帳たてたる母屋のはしらに、左右につけたり」

『枕草子』39段

立夏

立夏は二十四節気のひとつ、5月5日頃にあたります。この日から立秋の前日までが暦の上では夏になります。新緑の季節。一年でもっともさわやかで、天気の日が多く、過ごしやすい時期です。

九州地方では麦が穂を出し、北海道ではじゃがいもや豆の種まきが始まり、全国で田に水がはられます。

母の日

5月の第二日曜日は母の日。お母さんに日頃の感謝をつたえる日です。

母の日の起源や日程は国によって違いますが、日本の母の日はアメリカからきています。

アメリカ南北戦争の時、ウェストバージニア州でアン・ジャービスという女性が負傷兵のために活躍しました。

アン・ジャービスが亡くなった後、娘のアンナ・ジャービスが母が生前日曜学校の教師をしていた教会で追悼式を開きました。その時、アンナは母の生前好きだった白いカーネーションを参列者に贈りました。

これを知ったデパート経営者が「母の日の礼拝」を広め、1914年、ウィルソン大統領が5月の第二日曜日を「母の日」と定めました。

日本では昭和6年に香淳皇后の誕生日である3月6日(地久節)が母の日とされましたが、昭和24年(1949)からアメリカにならって5月の第2日曜日とされました。

アンナ・ジャービスの故事にもとづき、生前は赤いカーネーションを、没後は白いカーネーションを贈る習慣でしたが、現在はピンクや黄色などさまざまな色のカーネーションが贈られています。

葵祭

京都市北区上賀茂神社(賀茂別雷神社)・左京区下鴨神社(鴨御祖神社)の祭礼。祇園祭・時代祭りと並び京都三大祭の一つです。

現在は5月15日に行われますが、古くは4月中の酉の日に行われていました。

古くは賀茂祭といい、皇室出身の女子(内親王・女王)が「賀茂の斎院」として祭の中心となりました。現在は京都在住の一般女性から「斎王代(さいおうだい)」が選ばれ、祭りの中心となります。

祭神である賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)が生まれた御形山(みあれやま)に双葉の葵が生じたという伝承から、祭に参加する人々の衣冠や牛車を葵の葉で飾り、また家々の軒にも葵を飾る習慣があります。

祭は宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀からなります。京都御所で宮中の儀をすませると、平安時代の装束をまとった神幸行列が堺町御門から丸太町通りへ出て、下鴨神社まで向います。この道中が、路頭の儀です。藤の花で飾った牛車や、平安装束をまとった行列は、王朝絵巻そのものです。

一行は鴨川を越え、川端通りを通って下鴨神社に到着。社頭の儀を行った後、行列は上賀茂神社へ。上賀茂神社につくと境内で東遊びと走馬があります。午後3時頃、神幸行列は御所に戻ります。

葵祭の歴史は古く、1400年前の欽明天皇の時、五穀豊穣を願って始まったと言われます。もっとも盛んだったのは平安時代で、「祭り」といえば賀茂祭りをさしました。『源氏物語』「葵」の帖に、賀茂祭見物の車争いの場面はよく知られています。中世には中断しましたが、明治17年(1884)、復活して今に至ります。

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おぼえておきたい年中行事 音声解説つき

朗読・解説:左大臣光永