【藤裏葉 07】紫の上、御阿礼詣での後、賀茂祭を見物 源氏、昔日の車争いを回想

かくて六条院の御いそぎは、二十余日のほどなりけり。

対の上、御阿礼《みあれ》に詣《まう》でたまふとて、例の御方々いざなひきこえたまへど、なかなかさしもひきつづきて、心やましきを思して、誰も誰もとまりたまひて、ことごとしきほどにもあらず、御車二十ばかりして、御前《ごぜん》などもくだくだしき人数多くもあらず、事そぎたるしもけはひことなり。

祭の日の暁《あかつき》に詣でたまひて、帰さには、物御覧ずべき御|桟敷《さじき》におはします。御方々の女房、おのおの車ひきつづきて、御前《おまへ》、所しめたるほどいかめしう、かれはそれと、遠目《とほめ》よりおどろおどろしき御|勢《いきほひ》なり。大臣は、中宮の御母|御息所《みやすどころ》の車押しさげられたまへりしをりの事、思し出でて、「時による心おごりして、さやうなることなん情《なさけ》なきことなりける。こよなく思ひ消《け》ちたりし人も、嘆き負《お》ふやうにて亡くなりにき」と、そのほどはのたまひ消《け》ちて、「残りとまれる人の、中将はかくただ人《うど》にて、わづかになりのぼるめり。宮は並びなき筋にておはするも、思へばいとこそあはれなれ。すべていと定めなき世なればこそ、何ごとも思ふままにて、生けるかぎりの世を過ぐさまほしけれど、残りたまはむ末の世などの、たとしへなきおとろへなどをさへ、思ひ憚らるれば」とうち語らひたまひて、上達部《かむだちめ》なども御桟敷に参り集《つど》ひたまへれば、そなたに出でたまひぬ。

現代語訳

こうして六条院がご準備中の姫君の入内は、二十日すぎ頃のことであった。

対の上(紫の上)は、賀茂の御阿礼《みあれ》にお詣でになるということで、いつものように御方々をお誘い申し上げなさるが、なまじそうやって後に続いて行くのは、おもしろくなかろうとお思いになって、誰も彼も同行をお思いとどまりになったので、仰々しいというほどでもなく、御車二十ばかりで、御先駆などもわずらわしく人数が多いわけでもなく、簡素なようすが、かえって格別にすばらしく思えるのだ。

葵祭の日の明け方に賀茂社にご参詣なさってて、帰りには、行列をご見物になるための御桟敷においでになる。御方々の女房たちは、おのおの車をひきつづけて、上(紫の上)の車が、それらの桟敷の御前に場所を占めているようすは、威厳があり、あれぞ六条院の対の上(紫の上)であるよと、遠目にも仰々しいご威勢である。

大臣(源氏)は、いまの中宮(秋好中宮)の御母御息所(六条御息所)が車を押し下げられなさった折の事をお思い出されて、(源氏)「時勢に乗っていたからといって驕り高ぶった気持ちをもって、あのような仕打ちをしたのは情けないことであったのです。あの時、御息所をまったく無視した人(葵の上)も、その恨みを負うようにして亡くなったのです」と、その時のことは言葉をおにごしになり、「残りとどまっている人のうち、中将(夕霧)はこうして臣下の位にあり、少しずつ昇進しているようです。宮(秋好中宮)は並びなき中宮の御位に立っていらっしゃるのも、思えばまことに感慨深いことですよ。万事まことに定めなき世であるからこそ、何ごとも思うままに、生きている限りの世を過ごしたいものですが、私が亡き後、残っていらっしゃる貴女の晩年などは、たとえようもなく落ちぶれでもしないかとまでも、心配されるので」とお語らいになって、上達部なども御桟敷に集まって参ったので、大臣は、そちらにお出ましになられた。

語句

■六条院の御いそぎ 六条院で準備をすすめている姫君(明石の姫君)の入内。 ■二十日余日 四月下旬(【梅枝 05】)。 ■御阿礼 上賀茂神社の祭神、賀茂別雷神を神山よ