柿本人麻呂の歌(一)

こんにちは。左大臣光永です。日曜日の夜、心穏やかにお過ごしでしょうか?

私は本日、池袋に出たついでに雑司ヶ谷霊園を歩いてきました。木々の葉が、だいぶもう黄色く赤く染まってますね。夕暮れ時で、墓石の夕陽に向かった面がいっせいに赤く染まって輝いているのが、いい感じでした。

さて、先日再発売しました。「聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良」。すでに多くのお買い上げをいただいています。ありがとうございます。
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本日は『万葉集』より柿本人麻呂の歌(一)です。柿本人麻呂は飛鳥時代の持統・文武天皇の時代に活躍した宮廷歌人です。後世「歌の神様」と言われ、三十六歌仙に数えられます。特に持統天皇の行幸に付き添い多くの歌を残しました。身分の低い役人だったようですが、その生涯についてはほとんどわかっていません。

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近江荒都歌

まずは有名な「近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそん・ひとまろ)の作れる歌」(「近江荒都歌」)です。

667年に天智天皇により琵琶湖のほとり大津に都が遷されますが、672年壬申の乱の後は都は飛鳥にもどり、大津の都は日に日に荒れ果てていきました。

この歌は柿本人麻呂がおそらく持統天皇の時代に、荒れ果てた大津の都を通ったのです。そこで人麻呂は、昔日の大津京の繁栄を想い、かつて君臨した偉大なる帝王・天智天皇を想い歌を詠みました。長歌と付随する反歌二首ならなります。

近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麿(かきのもとのあそん・ひとまろ)の作れる歌

玉襷(たまたすき) 畝傍(うねびの山の 橿原(かしはら)の
日知(ひじり)の御代ゆ 現(あ)れましし 神のことごと
樛(つが)の木の いやつぎつぎに
天(あめ)の下 知らしめししを
天(そら)にみつ 大倭(やまと)を置きて
あをによし 奈良山を越え
如何(いか)さまに 思ほしめせか
天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど
石走(いわばし)る 淡海(おうみ)の国の 楽浪(さざなみ)の 大津の宮に
天(あめ)の下 知らしめしけむ
天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の大宮(おおみや)は
此処(ここ)と聞けども
大殿(おおとの)は 此処(ここ)と言へども
春草の繁(しげ)く生ひたる
霞立つ春日の霧(き)れる
ももしきの大宮処(おおみやどころ) 見れば 悲しも
(巻1・29)

反歌

楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎 幸(さき)くあれど
大宮人の 舟待ちかねつ
(巻1・30)

ささなみの志賀の大曲(おおわだ)淀むとも
昔の人に またも逢はめやも
(巻1・31)

◇現代語訳◇
「美しい襷をかけたような畝傍山の柏原の地に初代神武天皇が即位されてからというもの、代々お生まれになった天皇は大和の地で神のごとく樛の木のように次々と天下を治められたのに、

その大和の地をよそにして、奈良山を越えて、天智天皇は何をお考えになってか、雛びた田舎ではあるけれど、岩の上を水がほと走る淡海の国の、楽浪の大津の宮に天下を治められという、その神のごとく貴い天智天皇の都の跡はここと聞くけれど、

宮殿の跡はここと言うけれど、春草が繁り生えているだけで、霞が立って、春の日はぼんやり霧がかかったようで、そんな大津京の跡を見ると、なんとも悲しいことよ」

次いで反歌一

楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎 幸(さき)くあれど
大宮人の 舟待ちかねつ

楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎は幸いにも昔のままに残っているけれど、そこで舟遊びをした都人の船はもう、いくら待っても見ることはできない。「楽浪」は琵琶湖西岸一帯を楽浪(ささなみ)と言ったことから、「志賀」「大津」「長柄」などの地名にかかる枕詞。「辛崎」は大津京にほど近く、船が出入りしたと思われます。

そして反歌二です。

ささなみの志賀の大曲(おおわだ)淀むとも
昔の人に またも逢はめやも

ささなみの志賀の大曲…琵琶湖から大きく入り込んだ入り江に水は昔のままにたたえられているが、昔の人にふたたび会うことができるだろうか。できない。「大曲」は岸が大きく入り込んだ入り江。そこがどんなに昔のままに水がたくさんあっても、昔の人に会うことはもうできないと、最後は強く否定しています。

「昔の人」は天智朝の人々。天智天皇や大友皇子、草壁皇子、額田王や軽皇子(文武天皇)を指すのでしょう。それら華やかなりし「昔の人」を宮廷歌人として間近に見てきた人麻呂ですから、「昔の人」この一言には万感の思いがこめられていることでしょう。

◇語句◇
■玉襷(たまたすき) 「襷」の美称。畝傍山の「うね」を導く。 ■日知 初代神武天皇。橿原宮で即位。 ■御世ゆ その時代からずっと。 ■樛の木 マツ科の木。同音により「次々に」を導く。 ■天にみつ 大倭にかかる枕言葉「そらみつ」。 ■大倭を置きて 大和をよそにして。 ■あをによし 奈良にかかる枕詞。 ■天離る 雛・夷(ひな)にかかる枕詞。 ■石走る 岩の上を水がほとばしっている様子をいう。 ■楽浪の 琵琶湖西岸一帯を楽浪(ささなみ)と言ったことから、「志賀」「大津」「長柄」などにかかる。準枕詞? ■神の尊 天皇の尊称。 ■ももしきの 「大宮」(皇居)にかかる枕詞。「ももしき」自体も皇居をさす。 ■大曲 岸が大きく入り込んだ入り江。

伊勢行幸を想像する歌

持統天皇が伊勢に行幸した際、柿本人麻呂は藤原京で留守を命じられます。持統天皇4年(690)3月のことでした。

ああ…天皇は今頃伊勢にお着きになられただろうか。伊勢の海はどんなだろうかと、想像をふくらませて、柿本人麻呂は三首の歌を詠んでいます。

伊勢行幸
持統天皇の伊勢行幸

伊勢国に幸(いでま)しし時に、京(みやこ)に留まれる柿本朝臣人麿の作れる歌

嗚呼見(あみ)の浦に 船乗りすらむ
おとめらが 珠裳の裾に 潮満つらむか
(巻1・40)

嗚呼見の浦で、今ごろは船遊びをしていらっしゃるかもしれないな。持統天皇のお伴をする乙女たちの美しい裳の裾が潮で濡れたりしているだろうか。想像をふくらませているのです。嗚呼見の浦は三重県鳥羽市の小浜町(おはまちょう)と言われています。

さらに柿本人麻呂の想像は続きます。

「天皇一行は今日はどのあたりまで進んだかな。嗚呼見(あみ)の浦から海をわたって、登志島(とうしじま)まで行ったかもしれないな。都人が、伊勢の海女たちにまじって、海藻を採ったりも、してるかもしれないな」

伊勢行幸
持統天皇の伊勢行幸

くしろ着く 手節(てふし)の崎(ざき)に 今日もかも
大宮人の 玉藻刈るらむ
(巻1・41)

「くしろ」は石や鉄でできた腕輪のことで、次の「手節の崎」を導く枕詞になっています。腕輪だから、手を導くというわけです。その、腕輪を巻く手節の崎で、今日は都人たちが美しい海藻を刈っているだろうかなあ。

手節の崎は鳥羽湾の東北に浮かぶ登志島(とうしじま)。さきほどの嗚呼見の浦から海を渡ったところです。

さらに人麻呂の空想は続きます。

「登志島に行ったら次は伊良湖崎だろう。私の愛しい人もその船に乗っているのだろうなあ」

伊勢行幸
持統天皇の伊勢行幸

潮騒に伊良虜(いらご)の島辺(しまへ)漕ぐ船に
妹(いも)乗るらむか荒き島廻(しまみ)を
(巻1・42)

潮騒の響く伊良虜の島のあたり、漕ぎ渡る船に、私の愛しい人も乗っているのかなあ。荒々しく波が打ちつける中を、島巡りをして。それにしても、持統天皇なんで人麻呂を連れて行ってあげなかったのか…そこが気になります。

明日は柿本人麻呂の歌(二)です。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話ししました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

朗読・解説:左大臣光永

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