柿本人麻呂の歌(二)

こんにちは。左大臣光永です。

私は置物を買う人の心理がわからないんですよ。たとえば、カッパの瀬戸物焼きをですね、まあぼんやりした、まぬけな表情のカッパがここにあるわけですよ。これを買って、玄関先に飾っておく。それは、どういうことなのか?

想像すると、その家の子がですね、河童のおだやかな表情を毎日見ることによって、おだやかな、人間性がはぐくまれるとか、そういうことがあるのかもしれないですけども、それにしても7500円ですからね。7500円あったら、カッパの置物よりもためになる買い物もあるだろうと思うんですが。そんなことを、雑貨屋の店先で今日は考えました。

さて、先日再発売しました。「聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良」。すでに多くのお買い上げをいただいています。ありがとうございます。
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本日は『万葉集』より柿本人麻呂の歌(二)です。柿本人麻呂は飛鳥時代の持統・文武天皇の時代に活躍した宮廷歌人です。後世「歌の神様」と言われ、三十六歌仙に数えられます。特に持統天皇の行幸に付き添い多くの歌を残しました。身分の低い役人だったようですが、その生涯についてはほとんどわかっていません。

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阿騎野の狩

東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて
かへり見すれば月傾きぬ
(巻1・48)

東の野を見ると朝日の光が輝いており、振り返って見ると月が沈みかけている。雄大な、朝の景色です。

10歳の皇太子・軽皇子(後が文武天皇)が、奈良の阿騎野(あきの)というところで狩りをされた時に、お供をした柿本人麻呂が詠んだ歌です。長歌に付随する四首の反歌のうちの一首です。

ただし、これはただの狩りではありませんでした。

28歳の若さで亡くなった軽皇子の父・草壁皇子を追悼する意味をもった狩りでした。亡くなった草壁皇子も、昔この阿騎野で狩りをされたことがあったんですね。

この人麻呂の歌は早朝の狩野の雄大な景色を描きながら、景色だけではなく、そこに亡くなった草壁皇子への哀悼の気持、そして来るべき軽皇子の世を祝福する気持を詠み込んでいます。

のぼってくる太陽を軽皇子に、沈んでいく月を亡くなった草壁皇子に、たとえています。この日の阿騎野の狩で詠まれた、他の三首も読んでみましょう。

安騎の野に 宿る旅人 打ち靡き
眠(い)も寝(ね)らめやも 古(いにしへ)思ふに
(巻1・46)

安騎野に野宿する旅人は安らかに横になって眠ることができようか。できない。昔を思って胸がしめつけられるので。

真草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の
過ぎにし君が 形見とぞ来(こ)し
(巻1・47)

草刈をしなければならないほど草が生い茂った荒野ではありますが、黄葉(もみぢば)のように去って行かれた草壁皇子の面影を求めて、また訪ねてきたのです。

日並皇子(ひなみしのみこ)の命(みこと)の 馬並(な)めて
御狩(みかり)立たしし時は来向(きむか)ふ
(巻1・49)

かつて草壁皇子さまが馬を並べて狩りに出発されようとした、その明け方の時間が、まさに迫っている。

日並皇子(ひなみしのみこ)は太陽と並ぶほど貴い皇子で、皇太子のことです。草壁皇子をさします。

草壁皇子を歌う挽歌

草壁皇子は父が天武天皇。母が持統天皇。父天武天皇が亡くなった後は皇太子に立ち、将来を期待されていました。母持統天皇は草壁皇子を溺愛し、ために、競争相手である大津皇子を陰謀により死に至らしめた、とも言われてます。

おだやかで優しい草壁が即位すれば、どんなに世の中はよくなるかしら。持統天皇は期待したでしょう。しかし草壁皇子は病弱でした。689年、28歳の若さで亡くなってしまいます。

次は柿本人麻呂が亡くなった草壁皇子の殯宮(あらきのみや)の儀式の席で歌った長歌です。

殯宮(あらきのみや)とは、人が亡くなってから、埋葬までの一定期間、遺体を安置しておくことで、死者の復活をねがう意味がありました。

天地(あめつち)の 初めの時 ひさかたの 天(あま)の河原に 八百万(やおよろづ) 千万神(ちよろづかみ)の 神集(かむつど)ひ 集(つど)ひいまして 神分(かむわ)かち 分かちし時に 天照(あまて)らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天地(あめつち)の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命(みこと)と 天雲(あまぐも)の 八重かき別(わ)けて 神下(かむくだ)し いませまつりし 高照(たかてら)す 日の御子(みこ)は 明日香(あすか)の 清御原(きよみ)の宮(みや)に 神(かむ)ながら 太敷(ふとし)きまして すめろきの 敷きます国と 天(あま)の原 岩戸(いわと)を開き 神上(かむあ)がり 上がりいましぬ 我が大君 皇子(みこ)の命(みこと)の 天(あめ)の下 知らしめす世は 春花の 貴くあらむと 望月の 満(たたわ)しけむと 天(あめ)の下 四方(よも)の人の 大船(おおぶね)の 思ひ頼みて 天(あま)つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷(ふとし)きいまし 御殿(みあらか)を 高知(たかし)りまして 朝言(あさごと)に 御言(みこと)問はさぬ 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子(みこ)の宮人 ゆくへ知らずも 
(巻2・167)

天地のはじめの時、天の河原に八百万・千百万の神々がお集まりになり、それぞれが統治する場所を決めた時、アマテラスオオミカミは天界を統治するということで、葦原の瑞穂の国(地上世界)を、地の果てまで統治する神として、八重の雲をかき分けて、(孫であるニニギノミコトを)地上世界にお下しになった。

その子孫たる天武天皇は、飛鳥の清御原の宮で神として世を統治され、わが国を天皇が統治する国とされてから、天の岩戸を通って天上界にお上がりになられたのである。

わが大君・草壁の皇子さまが天下を統治される世となったならば、春の花のように貴いことであろうと、望月が満ちるように素晴らしいことになろうと、天下万民が大船のように頼みにし、恵みの雨を期待するように待ち望んでいたが、

草壁皇子さまはいったいどうお思いになってだろう。縁もゆかりも無い真弓の岡に殯宮(あらきのみや)を築かれて柱も立派に宮殿を建ててお住まいになり、宮殿を高々とお作りになって、朝いただくお言葉もおっしゃらない日々が多くなり、それ故に、草壁皇子さまの宮にお仕えする人々は、どうしていいか、もうわからないのです。

語句
■天地の寄り合ひの極み 地の果てまで。 ■神ながら 神として。 ■太敷きまして 統治して。 ■つれもなき 縁もゆかりもない。 ■真弓の岡 草壁皇子の陵は奈良県高市(たかいち)郡高取町(たかとりちょう)佐田(さだ)にある。 ■みあらか 草壁皇子の遺体をおさめた殯宮の御殿。 ■高知りまして

草壁皇子の殯宮の儀式は真弓の地で行われました。この歌は草壁皇子の殯宮の儀式で柿本人麻呂が詠んだ歌です。

天地創造のアマテラスオオミカミからゆったりと歌いだし、ニニギノミコトが天孫降臨して、その末裔である天武天皇が飛鳥清御原宮で天下を治められた。その皇太子である草壁皇子が即位すれば、どんなにすばらしいことになったろうと、人々は期待したのに。ああそれなのに、殯宮にて、草壁皇子さまは蘇るられることもない。我々はどうしたらいいんですか…。そんな内容です。

これで長歌で、二首の反歌が続きます。

ひさかたの 天(あめ)見るごとく 仰ぎ見し
皇子(みこ)の 御門(みかど)の 荒れまく惜しも
(巻2・168)

はるかの空を見るように仰ぎ見ていた草壁皇子さまの宮殿が荒れ果てていくだろうことが、惜しいなあ。

あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの
夜渡る月の 隠(かく)らく惜しも
(巻2・169)

茜色に輝く太陽…持統天皇は世を統治されているが、後継者であった草壁皇子さまは夜を渡る月のようにお隠れになってしまった。それが、惜しいなあ。

明日は柿本人麻呂の歌(三)です。お楽しみに。

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第一部「飛鳥時代篇」は、蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・大化の改新を経て、壬申の乱まで。

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本日も左大臣光永がお話ししました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

朗読・解説:左大臣光永

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