『万葉集』より大津皇子の歌

こんにちは。左大臣光永です。10月最後の土曜日、いかがお過ごしでしょうか?

私は昨日、多摩で「足利将軍家の興亡」第一回の講演をしてきました。楠正成が討ち死にする所だったので、最後は会場の皆さまと唱歌「大楠公」を合唱し盛り上がりました。まあここまではおなじみの話ですが楠正成の死後は非常に話が入り組んでくるんですよね…。次回以降、どういう切り口で話していこうかと、思案中です。

さて、先日再発売しました。「聴いて・わかる。日本の歴史~飛鳥・奈良」。すでに多くのお買い上げをいただいています。ありがとうございます。
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本日は『万葉集』より大津皇子の歌です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Manyo02_107.mp3

大津皇子(663-686)

天武天皇の第三皇子。母は天武天皇皇后ウ野讃良の姉大田皇女で、早くに亡くなりました。大津皇子は背が高くイケメンで、度量が広く、しかも文武両道。性格はのびのびとして、規則にしばられず、ざっくばらんに人と交わったので、人望がありました。

対してライバルの草壁皇子は病弱で、線が細い感じだったようです。

大津皇子と草壁皇子
大津皇子と草壁皇子"

誰の目にも次の天皇としては草壁皇子より大津皇子がふさわしいと映ります。草壁皇子の母ウ野讃良皇女(後の持統天皇)は焦ります。

(これではいけない。なんとしても大津皇子を排除しなくては)

讃良がそう考えるのは、自然なことだったかもしれません。

石川郎女をはさんだ三角関係

大津皇子と草壁皇子。

二人の性格の違いをよくあらわしている万葉集の歌のやり取りがあります。

石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性をはさんで、大津皇子と草壁皇子で三角関係になってる感じでしょうか。

大津皇子、草壁皇子、石川郎女
大津皇子、草壁皇子、石川郎女"

まず大津皇子から石川郎女にあてた歌。

あしひきの 山のしづくに 妹待つと
我(あれ)立ち濡れぬ 山のしづくに(巻2・107)

(山のしづくに濡れて貴女を待っていると、私は立ち濡れてしまったよ。山のしづくでね)

ズバリと言い切って、自信に満ちた感じです。しかも山で露に濡れて待ち合わせをしないといけない。密通してる感じです。。なにしろ皇太子である草壁皇子の思い人と通じているので。

石川郎女の返し。

我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの
山のしづくに ならましものを(巻2・108)

(私を待っていて貴方が濡れたという、山のしづくに、私はなりたかったものです)

こちらも、まんざらじゃないという感じですね。

ところが、その後状況はよくわかりませんが、津守連(つもりのむらじ)という占い師が大津皇子と石川郎女の密通を占いの中に言い当ててしまいます。

「大津皇子さま、あなた、大変なことをなさってますね!皇太子さまの想い人にそんな手を出して、よくないですよ…」

「フ…バレてしまったか」

大船(おおぶね)の 津守が占(うら)に 告(の)らむとは
まさしに知りて 我が二人寝し(巻2・109)

(津守の占いにあらわれることは、ちゃんとわかっていて、俺たちは二人で寝たんだ)

「大船の」は「津守」を導くための即興の枕詞であまり意味は無いです。ようするに、たしかに二人で寝ましたが、それが何か?開き直っているわけです。自信に満ちた感じです。草壁が何だ。俺たちの関係を邪魔できるなら、やってみろとよと自信満々の表情も伝わってきそうです。

次は、草壁皇子が石川郎女にあてた歌です。

大名児(おおなこ)を 彼方野辺(おちかたのへ)に 刈る草(かや)の
束の間も 我忘れめや(巻2・110)

大名児(おおなこ)は、石川郎女のあだ名、愛称です。大名児を、むこうの野辺で刈っている草の一束のように、束の間も私は忘れるものか。

草の一束と、束の間をかけているわけですが、いかにも頭でっかちというか、技工に走りすぎで、空回りしてる感じです。ズバリと言い切る大津皇子の歌と比べるとやはり、弱い感じがしますね。

母の讃良皇女も、さぞかし地団太を踏んだんじゃないでしょうか。草壁!お前は大津に彼女を奪われて、あんな歌まで詠まれて、悔しくないのですか!

母上、でも私はそんな、無理やり奪うなどはイヤです。大名児が大津のほうを選ぶなら、仕方のないことと思います。まったく、御前はどこまで情けないのじゃ、などと母と子のやり取りも浮かんできそうです。

大津皇子の変

686年10月2日、大津皇子の親友である川島皇子が讃良に密告します。

「大津皇子は謀反を企てています」
「なんと!それはまことですか」

事情はまったくわかりません。(『懐風藻』によれば)新羅の僧行心(こうじん)が大津皇子をたきつけたということです。

「あなたは臣下の地位に甘んじている人相では無い。必ず上に立たれるお方です」と。

讃良は即刻、大津皇子の舘に軍勢を差し向けます。

大津皇子は一味の者30名とともに捕えられ、翌10月3日、絞首刑にされます。

「では、皇子さま、このあたりで」

「ああ…なぜこんなことに…」

ふと見ると、磐余の池に鴨が鳴いている。ああ…あの鴨を見るのも、今日が最後で、私は死んでいくのだなあ。

大津皇子、死を被(たまわ)りし時に、磐余(いわれ)の池の堤にして涙を流して作らす歌一首

ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ(巻3・416)

24歳でした。

「あああ!あなた!」

知らせを受けた妃・山辺皇女(やまのべのひめみこ)は髪を振り乱し裸足のまま駆けつけ、夫の遺体に取りすがり、殉死しました。

大津皇子の遺体はいったん磐余の地に埋葬され、その後、大阪と奈良の境にある二上山(ふたかみやま)の山頂に移されました。その頃、大津皇子の姉・大伯皇女が伊勢の斎宮の勤めを終えて倭に戻り、弟の死について歌を詠みます。

うつそみの 人なる我(われ)や 明日よりは
二上山(ふたがみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む

(かりそめのこの世の人間である私は、明日からは二上山を弟と私は見ましょう)

磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど
見すべき君が ありといはなくに

(岩のそばに生えている馬酔木を手折りたいと思うけれど、見せてあげる貴方は、もういないのに)

この事件は讃良の謀略であろうという見方が有力です。

わが子草壁皇子を帝位につけるため、
潜在的な敵・大津皇子を廃除したものと思われます。

大津皇子と草壁皇子
大津皇子と草壁皇子"

明日は、万葉集随一の女流歌人・大伴坂上郎女(おおともの・さかのうえのいらつめ)の歌についてお届けします。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話ししました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

朗読・解説:左大臣光永

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