宇治拾遺物語 9-7 大安寺別当(だいあんじのべつたう)の女(むすめ)に嫁(か)する男、夢見る事

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今は昔、奈良の大安寺の別当なりける僧の女のもとに、蔵人(くらうど)なりける人、忍びて通ふ程に、せめて思はしかりければ、時々は昼もとまりけり。ある時、昼寝したりける夢に、にはかにこの家の内に、上下の人とよみて泣き合ひけるを、いかなる事やらんとあやしければ、立ち出でて見れば、舅(しうと)の僧、妻の尼公より始めて、ありとある人、みな大(おほ)きなる土器(かはらけ)を捧げて泣きけり。いかなればこの土器を捧げて泣くやらんと思ひて、よくよく見れば、銅(あかがね)の湯を土器ごとに盛れり。打ちはりて鬼の飲ませんにだにも飲むべきもなき湯を、心と泣く泣く飲むなりけり。辛(から)くして飲み果てつれば、また乞ひ添へて飲む者もあり。下﨟(げらふ)にいたるまでも飲まぬ者なし。我が傍(かたは)らに臥(ふ)したる君を女房来て呼ぶ。起きて往(い)ぬるを、おぼつかなさにまた見れば、この女も大きなる銀の土器に銅の湯を一土器入れて、女房取らすれば、この女取りて、細くらうたげなる声をさしあげて、泣く泣く飲む。目鼻より煙くゆり出づ。あさましと見て立てる程に、また、「客人(まらうど)に参らせよ」といひて、土器を台に据ゑて女房持て来たり。「我もかかるものを飲まんずるか」と思ふに、あさましくて、惑ふと思ふ程に夢覚めぬ。

驚きて見れば、女房食物(くひもの)を持(も)て来たり。舅(しうと)の方(かた)にも物食ふ音してののしる。寺の物を食ふにこそあるらめ。それがかくは見ゆるなりと、ゆゆしく心憂(こころう)く覚えて、女(むすめ)の思はしさも失(う)せぬ。さて、心地の悪(あ)しき由(よし)をいひて、物も食はずして出でぬ。その後(のち)は遂にかしこへ行かずかりにけり。

現代語訳

大安寺別当の娘に通う男が夢を見る事

今は昔、奈良の大安寺の別当をしていた僧の娘の所に、蔵人をしていた人が忍んで通っているうちに、その娘を切に愛おしく思うようになったので、時々は昼間も泊まっていた。ある時、昼寝をしていて夢を見た。急に家の内で、身分の上下を問わず大騒ぎして泣き合ったので、どうしたんだろうと不思議に思い、立ち上がって部屋を出て見ると、舅の僧や妻の尼君を始めとして、そこに居る人がみな、大きな土器を捧げて泣いていた。どうしてこの土器を捧げて泣くのだろうと思い、よくよく見ると、銅を溶かした熱湯を土器ごとに盛ってある。無理やり押さえつけて、鬼が飲ませようとしてさえも飲めるはずのない熱湯を、自分から泣く泣く飲んでいた。やっとのことで飲み終えると、もう一度ついでもらって飲む者もいる。 賤しい召使にいたるまで飲まない者はいない。自分の傍らに寝ている女君を侍女が来て呼び起す。起きあがって行ったのを、気がかりでまた見ると、この女も大きな銀の土器に銅を溶かした熱湯をいっぱい入れて、侍女が手渡すと、受け取って、かぼそく可愛らしい声を張りあげて、泣く泣く飲む。娘の目や鼻から煙がくすぶり出す。あきれたことだと立って見ていると、また、「お客様にさしあげなさい」と言って、土器を台に乗せて侍女が持って来た。「私もこんなものを飲まなければならないのか」と思って驚いてうろたえる思いでいるうちに眼が覚めた。

眼が覚めて見ると、女房が食物を持って来た。舅がいる方でも物を食う音がして騒いでいる。「きっと寺の物を勝手に食っているのだろう。それがこのように夢に見えたのだ」と、疎ましく嫌な気持になり、娘へのいとしさも消えてしまった。そして気分が悪いと言って物も食べずに退出した。その後は、遂にそこへ通う事はなかったということだ。         

語句

■大安寺-南都七大寺の一つ。推古二十五年(617)、聖徳太子が創建、和銅三年(710)、平安遷都により現在地(奈良市大安寺)に移転。三論宗以下諸宗兼学の寺院であったが、空海の別当就任以後、真言宗となった。大寺(おおでら)、南大寺、百済大寺(くだらだいじ)、高市大寺、大官大寺など、さまざまな呼称がある。■別当-大寺院の寺務を統括する僧。■蔵人(くらんど)-ここは上代の蔵人。校書殿で納殿(おさめどの)の出納をつかさどる職員。■せめて思はしかりければ-その娘を、せつにいとしく思うようになったために。■とよみて-大騒ぎして。■いかなることやらんと-どうしたことであろうかと。■あやしければ-不思議であったので。■舅-娘の父親。別当の僧。外舅。■妻の尼公-その別当の妻である尼。■ありとある人-いるかぎりの人が。■いかなれば-どういうわけで。■銅(あかがね)の湯-銅を溶かした熱湯。地獄の責め苦として飲まされる拷問材。■打ちはりて-押えつけて(無理やりに)。■鬼の飲ませんにだにも-鬼が飲ませようとしてさえも。■飲むべくもなき-飲めそうにない。■心と-自分の意思で。自分から。■からくして-やっとのことで。■また乞ひそへて-もう一杯ついでもらって。■下﨟-賤しい召使。■女房-別当の家に仕える侍女。■往ぬるを-行ったのを。■おぼつかなさに-気がかりで。心配になって。■細くらうたげなる-かぼそく可愛らしい。■さしあげて-「さし」は接頭語で、それに続く動詞の意味を強調。張り上げて。■煙くゆり出ず-娘の身体を焦がした煙がくすぶって出てくる。■あさましと-あきれたことだと。■客人に参らせよ-お客様にさし上げよ。■飲まんずるか-飲まねばならないというのか。■惑ふと思ふほどに-あわてていると。■驚きて見れば-眼が覚めてみると。■ののしる-騒いでいる。■寺の物を食ふにこそあるらめ-きっと寺の物を食べているのであろう。寺物私用の罪は、仏教の教義上、重罪とされている。蔵人は、この寺の人々がその罪を犯していることに気づいた。■ゆゆしく心憂く覚えて-(別当の一家全体が)忌まわしく情なく思われて。■思はしさ-いとしさ。■かしこへ-あの所へ。そこへ。

朗読・解説:左大臣光永

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