宇治拾遺物語 13-1 上緒(あげを)の主、金を得る事

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今は昔、兵衛佐(ひやうゑのすけ)なる人ありけり。冠(かぶり)の上緒(あげを)の長かりければ、世の人、上緒の主(ぬし)となんつけたりける。西の八条と京極との畠(はたけ)の中にあやしの小家(こいへ)一つあり。その前を行く程に、夕立のしければ、この家に馬よりおりて入りぬ。見れば、女一人(ひとり)あり。馬を引き入れて、夕立を過(すご)すとて、平(ひら)なる小唐櫃(こからびつ)のやうなる石のあるに尻をうちかけてゐたり。小石をもちてこの石を手まさぐりに叩(たた)きゐたれば、打たれて窪(くぼ)みたる所を見れば、金色になりぬ。

「稀有(けう)の事かな」と思ひて、はげたる所に土を塗り隠して、女に問ふやう、「この石はなぞの石ぞ」。女のいふやう、「何の石にか侍らん。昔よりかくて侍るなり。昔長者の家なん侍りける。この家は倉どもの跡にて候(さぶら)ふなり」と。まことに見れば、大きな礎(いしずゑ)の石どもあり。さて、「その尻かけさせ給へる石は、その倉の跡を畠に作るとて、畝(うね)掘る間に、土の下より掘り出されて侍るなり。それがかく屋(や)の内に侍れば、かき退(の)けんと思ひ侍れど、女は力は弱し。かき退(の)くべきやうもなければ、憎(にく)む憎むかくて置きて侍るなり」といひければ、「我(われ)この石取りてん、後に目癖(めくせ)ある者もぞ見つくる」と思ひて、女にいふやう、「この石我(われ)に取りてんよ」といひければ、「よき事に侍り」といひければ、その辺(へん)に知りたる下人を、むな車を借りにやりて、積みて出でんとする程に、綿衣(わたぎぬ)を脱ぎて、ただに取らんが罪得がましければ、この女に取らせつ。心も得で騒ぎ惑ふ。「この石は女どもこそよしなし物と思ひたれども、我が家に持(も)て行(い)きて、使ふべきやうのあるなり。されば、ただに取らんが罪得がましければ、かく衣を取らすなり」といへば、「思ひかけぬ事なり。不用の石のかはりに、いみじき宝の御衣(おんぞ)の綿のいみじき賜(たまは)らんものとは、あな恐ろし」といひて、さをのあるにかけて拝む。

さて車にかき載せて家に帰りて、うち欠きうち欠き売りて、物どもを買ふに、米、銭、絹、綾(あや)などあまたに売り得て、おびたたしき徳人(とくにん)になりぬれば、西の四条よりは北、皇嘉門(くわうかもん)より西、人も住まぬうきのゆぶゆぶとしたる、一町ばかりなるうきあり。「そこは買ふとも価(あたひ)もせじ」と思ひて、ただ少しに買ひつ。主(ぬし)は不用のうきなれば、「畠にも作らるまじ、家もえ建つまじ。益(やく)なき所」と思ふに、価(あたひ)少しにても買はんといふ人を、いみじきすき者と思ひて売りつ。

上緒(あげを)の主(ぬし)、このうきを買ひ取りて、津国(つのくに)に行きぬ。舟四五艘ばかり具(ぐ)して難波(なには)わたりに往(い)ぬ。酒、粥(かゆ)など多く設(まう)けて、鎌(かま)また多う設けたり。行きかふ人を招き集めて、「この酒、粥参れ」といひて、「そのかはりに、この葦(あし)刈りて少しづつ得させよ」といひければ、悦(よろこ)びて集りて、四五束(そく)、十束、ニ三十束など刈りて取らす。かくのごとく三四日刈らすれば、山のごとく刈りつ。舟十艘ばかりに積み、京へ上(のぼ)る。酒多く設けたれば、上(のぼ)るままに、この下人どもに、「ただに行かんよりは、この綱手(つなで)引け」といひければ、この酒を飲みつつ綱手を引きて、いととく賀茂川尻に引き着けつ。

それより車借(くるまかし)に物を取らせつつ、その葦にてこのうきに敷きて、下人どもを雇ひて、その上に土はねかけて、家を思ふままに造りてけり。南の町は大納言源貞といひける人の家、北の町はこの上緒の主の埋(う)めて造りける家なり。それをこの貞(さだ)の大納言の買ひ取りて、二町(ふたまち)にはなしたるなりけり。それいはゆるこの比(ごろ)の西の宮なり。かくいふ女の家なりける金の石を取りて、それを本体として造りたりけるなり。

現代語訳

今は昔、兵衛府の次官をしていた人がいた。冠の上緒が長かったので、世間の人は、「上緒の主」と呼んでいた。ところで西の八条と京極との畑の中に粗末な小さな家が一軒ある。ある時、上緒の主がその前を通っていた時に、夕立が降ってきたので、この家に馬から降りて入った。見ると女が一人いる。馬を引き入れて夕立が止むのを待とうと、平らな小唐櫃のような石があるのに腰をかけていた。小石で手持ちぶたさにこの石を叩いていると、打たれて窪んだところが金色になった。

「珍しいことだ」と思って、はげた所に土を塗り隠して、女に尋ねる。「この石はどういう石だ」。すると女が答えて言う、「さあ、何の石でしょうか。昔からこうしてあるのです。昔、ここには長者の家があったのです。そして、この家はその倉かなにかの跡でございます」と。実際に見てみると、大きな土台の石などがある。女はさらに、「その腰かけられている石は、その倉の跡を畑にしようとして、畝を掘る間に、土の下から掘り出されたものでございます。それがこのように家の中に置いてあるので、どけようと思っておりますが、なにせ、女は力が弱いので、取り除く術もなく、目障りだ目障りだと思いながらもしかたなく置いているのでございます」と言う。そこで上緒の主は、「俺がぜひこの石を手に入れよう、後で目利きの者を見つける事にしよう」と思って、女に言う。「この石は私がいただきたい」と言うと、「ありがたいことです」と言う。そこでその辺りで見知りの下人に荷車を借りに行かせ、石を積んで家を出ようとする時に、ただで取り上げるのは後ろめたく感じて、着ていた綿入れの着物を脱いでこの女に与えた。女はわけがわからずに大騒ぎをしている。上緒の主は、「貴方はこの石を役に立たない物だと思っておられるが、我が家に持って行けば使い道があるのだ。だから、ただもらうのは気が引けるので、このように着物をとらせるのだ」と言うと、「思いもかけない事です。不用な石の代わりに、上等な宝物の綿入り着物を下さるとは、まあ、本当に恐れ入ります」と言って、そこにあった棹(さお)にかけて拝んでいる。

そこで車に載せて家に帰って、少しづつ、うち欠きうち欠きしながら売って、いろいろな物を買うと、米、銭、絹、綾など多くの品に換えることができて、大変な金持になった。さて、西の四条より北、皇嘉門より西に、人も住んでいないぶくぶくした沼地が一町ほどあった。「そこを買っても値は張るまい」と思って、ただのような代金で買った。地主は不用の沼地なので、「畑にする事もできず、家も建てられない役立たずの所だ」と思うので、ただのような代金でも買おうとする人を「大変な物好きよ」と思って売った。

上緒の主は、この沼地を買い取り、摂津国(せっつのくに)へ行った。そこで、舟を四五艘ほど引き連れ難波あたりへ行った。酒や粥などをたくさん用意して、鎌をまたたくさん準備した。往来する人を呼び集めて、「この酒や粥を召しあがれ」と言い、「その代わりに、この葦をすこしずつ刈って下さい」と言ったので、人々は喜んで集り、四五束、十束、ニ三十束などと刈ってくれた。こうして三四日も刈らせると、山のように刈ってしまった。それから十艘ばかりの舟にこれを積み込んで、京へ上(のぼ)る。酒はたくさん用意していたので、上る途中で、この往来の下人たちに、「何もせずに行くよりは、この綱手を引け」と言うと、この酒を飲みながら綱手を引いてくれたので、いとも早く賀茂川下流の船着き場に到着した。

それから車借(くるまかし)に物を与えて、その葦をこの沼地に敷き詰め、下人たちを雇って、その上に土をかぶせ、思うように家を造ってしまった。南の町は大納言源貞という人の家で、北の町はこの上緒の主が埋め立てて造った家である。それをこの貞の大納言が買い取り、二町に屋敷を広げたのであった。それがいわゆる現在の西の宮である。あの女の家にあった金の石を手に入れて、それを元手として造ったものだという。

語句  

■兵衛佐(ひやうゑのすけ)-兵衛府の次官。大系は、本書「巻第三ノ十八話」の冒頭に「兵衛佐平貞文をば平仲といふ」とあることによってか、この人物を平貞文とするが疑問。■冠(かぶり)の上緒(あげを)-冠を髻(もとどり)に固定するための緒。冠を髻の根元にくくり結び、その両端をあごの下で結んで垂らした。■上緒の主-上緒の垂れる部分が一般の人に比べて長かったので、あだ名となったもの。■西の八条と京極との畠-八条大路と西の京極大路との交差するあたり。都の西南のはずれの非市街地。■女一人あり-『今昔』巻二六-一三話では「媼(おうな)(老婆)」とする。■小唐櫃(こからびつ)-小ぶりの唐櫃。前後に各二脚がつき、蓋のある方形の物入れ。『今昔』では、「平ナル石ノ、碁秤(ごばん)ノ様ナル」とする。■手まさぐりに-手すさびに。手なぐさみに。■金色になりぬ-金塊のしるし。『今昔』では、「銀(しろかね)ニコソ有(あり)ケレ」。金にせよ銀にせよ、実際には日本国内にはこのような大きさの塊として産出する鉱床は存在しないという。

■はげたる所に土を塗り隠して-他人に気づかれずに、自分の物にしたいという心の動き。■なぞの石ぞ-どういう石か。どのようないわれのある石か。■長者-金持ち。富豪。■礎の石-土台石。倉の跡地である証拠の石。■土の下より掘り出されて侍るなり-倉の跡地の土の下から出て来たということから、かっては倉の中に秘蔵されていた可能性の高い石だということが示唆される。■憎む憎む-しゃくにさわるしゃくにさわると思いながら。目障りだ目障りだと思いながら。■取りてん-ぜひもらって行こう。「取らむ」の強調形。■目癖ある者-目の利く者。目ざとくよいものを見分ける眼力のある者。■よき事に侍り-よろしゅうございます。■下人-身分の低い者。■むな車-屋根や車箱のない、車台だけの荷車。■綿衣-綿入れの立派な着物。■罪得がましかば-女からだまし取るようで後ろめたい気持ちがしたので。■心も得で騒ぎ惑ふ-女は邪魔な石を持って行って、厄介払いをしてもらうのに、逆にお礼の品を与えられたりして、わけがわからずに。■使ふべきやう-使い道。■あな恐ろし-まあ、恐縮します。『今昔』は、「穴怖シ々々」と、空恐ろしいような気持であることを強調している。

■あまたに売り得て-たくさんの物を手に入れるほどに、金を売ることができて。『今昔』は、「多く出来(いでき)ヌ」とする。■徳人-たいへんな資産家。■西の四条よりは北、皇嘉門(くわうかもん)より西-西の京の四条大路以北で、皇嘉門大路以西の地域。現在の京都市中京区壬生森町一帯。■うき-浮洲などのある沼地・湿地。天元五年(982)十月成立の慶滋保胤(よししげのやすたね)『池亭記』にも、すでに西京は湿地ゆえに人家がまばらで荒廃していることが見えている。そうした沼地のような一画がそのまま手つかずに残っていたわけであろう。■主-土地の持ち主。地主。■益なき所-使い道も無い役立たずの土地。■すき者-物好き。変り者。

■津国(つのくに)-摂津国。ここは後出のように、現在の大阪府西北部の難波あたりをさす。■鎌(かま)-稲・草・柴などを、刈り取るための農具。■葦-イネ科に属する多年草。湿地に群生する。高さ約二メートル余に達する。「葦(芦)が散る」が難波の枕詞になっているほどに、難波は葦の名産地であった。■舟十艘ばかりに積み-往路は四、五艘であったから、刈り込みが予定をはるかに上回るほど順調に進んだことになる。■この下人どもに-『今昔』には、「往還の下衆共ニ」とある。■綱手-舟を引くための綱。川と並行する堤の道路から通行人がそれを引き舟を進める。■賀茂川尻-賀茂川の下流の下鳥羽にあった船着き場。

■車借-牛の引く車による運搬業者。『庭訓往来』にも「鳥羽・白河の車借」の名が見える。■源貞-源定(みなもとのさだむ)(815~863)のこと。嵯峨天皇の皇子、融(とおる)の兄。四条大納言、賀陽院・楊梅大納言などと号した。美作(みまさか)・播磨(はりま)・尾張の国守も歴任した。■この比の西の宮-源高明(源隆国の祖父)の伝領した西宮領とすれば、東西は皇嘉門大路から西櫛司小路まで、南北は四条大路から四条坊門小路に及ぶ土地。

朗読・解説:左大臣光永

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