宇治拾遺物語 15-12 盗跖(たうせき)と孔子と問答の事
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これも今は昔、唐(もろこし)に柳下恵(りうかけい)といふ人ありき。世のかしこき者にして、人に重くせられる。その弟(おとうと)に盗跖(たうせき)といふ者あり。一つの山(やま)の懐(ふところ)に住みて、もろもろの悪(あ)しき者を招き集めて、おのが伴侶(はんりよ)として、人の物をば我が物とす。歩く時は、この悪しき者どもを具(ぐ)する事、二三千人なり。道にあふ人を滅(ほろぼ)し、恥を見せ、よからぬ事の限りを好みて過(すご)すに、柳下恵、道を行く時に孔子にあひぬ。「いづくへおはするぞ。みづから対面して聞えんと思ふ事のあるに、かしこくあひ給へり」。といふ。柳下恵、「いかなる事ぞ」と問ふ。「教訓し聞えんと思ふ事は、そこの舎弟、もろもろの悪(あ)しき事の限りを好みて、多くの人を嘆(なげ)かする。など制し給はぬぞ」。柳下恵答へて曰(いは)く、「おのれが申さん事を敢(あ)へて用ふべきにあらず。されば嘆きながら年月を経(ふ)るなり」といふ。孔子の曰く、「そこ教へ給はずは、我行きて教へん。いかがあるべき」。柳下恵曰く、「さらにおはすべからず。いみじき言葉を尽して教へ給ふとも、なびくべき者にあらず。返って悪しき事出(い)で来(き)なん。あるべき事にあらず」。孔子曰く、「悪しけれど、人の身を得たる者は、おのづからよき事をいふにつく事もあるなり。それに、『悪しかりなん。よも聞かじ』といふ事は僻事(ひがごと)なり。よし見給へ。教へて見せ申さん」と言葉を放ちて、盗跖(たうせき)がもとにおはしぬ。
馬よりおり、門に立ちて見れば、ありとあるもの、獣(しし)、鳥を殺し、もろもろの悪しき事を集(つど)へたり。人を招きて、「魯(ろ)の孔子といふ者なん参りたる」と言ひ入るるに、即(すなは)ち使(つかひ)帰りて曰く、「音に聞く人なり。何事によりて来たれるぞ。人を教ふる人と聞く。我を教へに来たれるか。我が心にかなはば用ひん。かなはずは肝膾(きもなます)に作らん」といふ。その時に孔子進み出でて、庭に立ちて、まづ盗跖を拝みて、上(のぼ)りて座に着く。盗跖を見れば、頭の髪は上ざまにして、乱れたる事蓬(よもぎ)のごとし。目大(おほ)きにして見くるべかす。鼻をふきいからかし、牙(きば)をかみ、髭(ひげ)をそらしてゐたり。
盗跖が曰く、「汝(なんぢ)来たれる故(ゆゑ)はいかにぞ。たしかに申せ」と、怒れる声の、高く恐ろしげなるをもていふ。孔子思ひ給ふ、かねても聞きし事なれど、かくばかり恐ろしき者とは思はざりき。かたち、有様、声まで人とは覚えず。肝心(きもごころ)も砕(くだ)けて震はるれど、思ひ念じて曰く、「人の世にある様(やう)は、道理を持て身の飾りとし、心の掟(おきて)とするものなり。天をいただき、地を踏みて、四方を固めとし、おほやけを敬ひ奉る。下(しも)を哀(あは)れみて人に情(なさけ)をいたすを事とするものなり。しかるに承れば、心のほしきままに悪しき事をのみ事とするは、当時は心にかなふやうなれども、終り悪しきものなり。さればなほ人はよきに随(したが)ふをよしとす。しかれば申すに随ひていますかるべきなり。その事申さんと思ひて参りつるなり」といふ時に、盗跖(
たうせき)、雷(いかづち)のやうなる声をして笑ひて曰(いは)く、「汝(なんぢ)が言う事ども一つも当らず。その故は、昔、尭(げう)、舜(しゆん)と申す二人(ふたり)の帝(みかど)、世に貴(たふと)まれ給ひき。しかれども、その子孫、世に針さすばかりの所を知らず。また世にかしこき人は白夷(はくい)、叔斉(しゆくせい)なり。首陽山(しゆやうざん)に伏せり、飢(う)ゑ死にき。またそこの弟子に顔回(がんくわい)といふ者ありき。かしこく教へ給ひしかども、不幸にして命短し。また同じき弟子にて子路といふ者ありき。衛(ゑい)の門にして殺されき。しかあれば、かしこき輩は遂(つひ)にかしこき事もなし。我また悪しき事を好めども、災(わざはひ)身に来たらず。ほめらるるもの、四五日に過ぎず。そしらるるもの、また四五日に過ぎず。悪しき事もよき事も、長くほめられ、長くそしられず。しかれば我が好(この)みに随(したが)ひ振舞(ふるま)ふべきなり。汝また木を折りて冠にし、皮をもちて衣とし、世を恐(おそ)り、おほやけにおぢ奉るも、二たび魯(ろ)に移され、跡を衛に削らる。などかしこならぬ。汝がいふ所、まことに愚かなり。すみやかに走り帰りね。一つも用ゆべからず」といふ時に、孔子またいふべき事覚えずして、座を立ちて急ぎ出でて、馬に乗り給ふに、よく臆(おく)しけるにや、轡(くつわ)を二たび取りはづし、鐙(あぶみ)をしきりに踏みはづす。これを世の人、「孔子倒(こうしだふ)れす」といふなり。
現代語訳
これも今は昔、唐(もろこし)に柳下恵(りゅうかけい)という人がいた。徳の高い人で、人に重用されていた。その弟に盗跖という者がいる。ある山の中腹に住んで、色んな悪人を招き寄せて、自分の仲間として、人の物を奪っては自分の物としていた。歩く時には、これらの悪人どもを引き連れており、その数はニ三千人である。道で会った者をあるいは殺し、あるいは、恥をかかせ、悪の限りを好んで過ごしていた。ある時、柳下恵が道を通っていて孔子に会った。孔子は、「どこへいかれますか。こちらからお伺いして申し上げたいと思う事がありますが、都合よくお会いしたものです」と言う。柳下恵は、「何事ですか」と聞く。すると、孔子は、「教えさとそうと思う者はそこもとの実の弟さんの事です。いろいろな悪事を好んで、多くの人を嘆かせておりますが、どうして止めさせないのですか」と言う。柳下恵はそれに答えて、「私の言う事などまるで耳を貸そうとしないのです。それ故、嘆きながら年月を送っております」と言う。そこで孔子は、「そこもとが教訓されないのなら私が行って教訓しましょう。どんなものでしょう」。柳下恵は、「決しておいでになってはなりません。御立派な言葉を尽して教えなさっても、聞き入れるような者ではありません。返って、悪い事が起きるでしょう。おやめになることです。とんでもない事です」。孔子は、「悪人でも、人として生まれた者は、たまたまいいことを言うとそれに従う事もあるものです。それに、『だめでしょう。とうてい聞き入れますまい』と言うのは間違っています。まあ御覧なさい。教えてお見せいたしましょう」と言い放って盗跖の所へおいでになった。
馬から降りて門に立ってみると、そこには、獣や鳥を殺したり、ありとあらゆる悪事を働くための道具類が集めてあった。孔子は近くにいた者を呼び寄せ、「魯の孔子と言う者が参上した」と伝えると、すぐ使いが帰って来て、「噂に聞いている人だ。何の用事で来たのか。人を教化する人と聞くが、わしを教化しに来たのか。気に入ったら従おう。気に入らねば、おまえの肝を膾(なます)にして食ってしまおう」と伝える。その時孔子は前へ進み出て、庭に立ち、先ず盗跖に一礼をして、上って座に着いた。盗跖を見ると、髪の毛は逆立ち、蓬(よもぎ)のように乱れている。目を大きくて、目玉をぎょろつかせている。鼻を膨らまして怒らし、歯をかみしめ、髭をそり返させている。
盗跖が言う、「お前が来たわけは何だ。いつわりなくはっきりと申せ」と怒った声で、高く恐ろしげな調子で言う。孔子は思われる、「かねてから聞いてはいたことだが、こんなに恐ろしい者とは思わなかった。顔つきや物腰や声までが人とは思えない」と。肝、魂もつぶれて身震いがするがじっとこらえて口を開いた。「人の世を生きる道は、道理をもって身の飾りとし、心の規範とするものである。天をいただき、大地を踏んで、身の回りを固め、朝廷を敬い申し上げる。下々(しもじも)の者を哀れんで情けを施すのを旨とするものだ。ところが、聞くところによると、貴方は勝手気ままに悪い事ばかりしているようだが、初めは満足するかもしれないが、終りには思わしくはなかろう。そういうことですからやはり人は善に従うのがよいのだ。だからあなたも私の申す事に従われるがよい。そのことを申したいと思って参ったのである」と言った。その時に、盗跖(とうせき)は雷(いかずち)のような声で笑い、「お前の言う事などどれ一つも当っておらぬ。そのわけは、昔、尭(ぎょう)・舜(しゅん)という二人の帝がおられ世間の非常な尊敬を受けられた。しかしながら、その子孫は世の中にまったく針を刺し立てるほどの狭い土地さえ治めていない。また世間で賢人と言われた人は白夷と叔正であるがそれも首陽山に倒れて飢え死にした。またそなたの弟子に顔回(がんかい)という者がいた。立派に教育をされたが不幸にして短い命であった。また同じ弟子で子路(しろ)という者がいた。しかしそれも衛の門で殺された。だから賢いやつらが結局よいということもない。わしはまた悪事を好んでいるが、災いに見舞われた事はない。たとえ、褒められることがあっても四五日に過ぎない。そしられることも四五日に過ぎない。悪い事も良い事も、長く褒められ、長くそしられはしないのだ。だから自分の好きなように振舞うべきである。おまえはまた木を折って、冠にし、その皮で衣を作り、世を恐れ、朝廷をひどく怖がり恐れて奉ったにもかかわらず、二度も魯(ろ)を追われ、衛にもおられなくなった。どうして賢く振舞えぬのか。お前の言う事はまったく馬鹿げている。さっさと走り帰れ。何一つ聞き入れる事はない」。その時孔子はこれ以上言う言葉も思いつかず、席を立ち、急いで出て、馬にお乗りになられたが、たいそうおびえられておられたのか、轡(くつわ)を二度も取りはずし、鐙(あぶみ)を何度も踏みはずした。これを世の人は、「孔子倒れする」と言うのである。
語句
■柳下恵(りうかけい)-底本は「りうかくゑい」。『荘子』は、「柳下季」とする。紀元前六世紀ごろの人。春秋時代の魯の大夫。性は展、名は獲、字は季。よく僖公に仕えた高徳の士。■盗跖(たうせき)-中国古代、黄帝時代また秦代の大盗賊といわれる伝説的な存在。柳下恵の弟という根拠はない。■孔子-儒家の祖(前551~同479)。名は丘、字は仲尼。初め魯に仕え、のち諸国に遊説。晩年に魯で『春秋』を編述する。■かしこく-ちょうど折よく。大変都合よく。■そこの舎弟-そなたの実弟。■敢へて用ふべきにあらず-まるで耳を貸そうとしないのだ。■さらにおはすべからず-決しておいでになってはなりません。いらっしゃっても無駄なだけです。■なびくべき者にあらず-聞き入れるような者ではありません。■あるべき事にあらず-おやめになることです。とんでもない話です。■つく事もあるなり-耳を傾ける事もあるものです。聞き従う事もありましょう。■悪しかりなん-だめでしょう。結果はきっとよくないでしょう。■よも聞かじ-とうてい聞き入れますまい。■僻事(ひがごと)なり-間違っている。
■ありとあるもの-以下の一文、文意明確を欠く。誤脱があるか。『今昔』巻一〇-一五話には「有ル者皆或ハ甲冑ヲ着テ弓箭ヲ帯セリ。或ハ刀釼ヲ横タヘ兵杖ヲ取レリ。或ハ鹿・島等ノ諸ノ獣ヲ殺ス物ノ具共ヲ隙无(ひまな)ク置キ散セリ。如此(かくのごとく)クノ諸ノ悪キ事ノ限リヲ尽タリ」とあり、たいへん行き届いて明快。■人を招きて-孔子は近くにいた者を呼び寄せて。■音に聞く人-噂に聞く人。評判の高い人。■肝膾(きもなます)に作らん-その肝を膾にしてやろう。「膾」は肉を生のまま切り刻んだもの。『荘子』では、孔子が盗跖に対面した時、たまたま彼は人間の肝の膾を食べていたことになっている。■頭の髪は上ざまにして-「怒髪、天を衝く」という表現そのままのありさま。『今昔』は「頭の髪は三尺許ニ上レリ」とする。■目大(おほ)きにして見くるべかす-目玉は大きくて、ぎょろりぎょろりと動いている。『荘子』には「目ハ明星ノ如ク・・・」とあり、『今昔』には「目ハ大ナル鈴ヲ付タルガ如クシテ見廻シ・・・」とある。■そらして-そり返して。『今昔』は、「鬚ヲイラヽカシテ居タリ」。つまり、ぴんととがらしていた、となっている。
■たしかに申せ-いつわりなく、はっきりと申せ。■肝心も砕けて-肝、魂もつぶれて。■思ひ念じて-恐ろしさに堪えながら。「思ひ念じて」は、心でじっと我慢して。こらえて。■人の世にある様は-人間がこの世に生きていくに際してのしかるべきあり方は。■心の掟-心の規範。■四方を固めとし-東西南北の四方すなわち自分の周囲を守り固めて。■おほやけ-朝廷、天下の為政者。■当時は-今現在は。当面は。■心にかなふやうなれども-満足できようけれども。満足な状態のように思われようが。■さればなほ-そういうことですからやはり。従ってやはり。■申すに随ひていますかるべきなり-私の申し上げたようになさるべきであります。■尭(げう)-中国古代の伝説的帝王。陶唐氏。五帝の一人。儒家では舜とともに理想の聖天子とする。■舜(しゆん)-中国古代の聖王。有虞氏。尭の知遇を受けて摂政となり、後継者として治国の実をあげた。■世に針さすばかりの所を知らず-まったく針を刺し立てるほどの狭い土地も知行しなかった。■白夷(はくい)-中国周代初期の人。孤竹君の子。父王は弟の叔斉を後継者に立てようとしたが、叔斉は固辞し、兄弟で出奔、周の文王を頼るが、文王はすでになく、子の武王のもとに身を寄せる。しかし殷の紂王(ちゅうおう)討伐を諌言(かんげん)して入れられず、周の粟を食うことを恥じて首陽山に隠れ、山菜で命をつなぐが、ついに 餓死したと伝えられる高潔な兄弟。■首陽山-中国山西省永済県の南に位置する現在の雷首山。■顔回(がんくわい)-孔子の第一の高弟(前522~同490)。魯の人、字は子淵(しえん)。学徳高く孔子の後継者と嘱望されていたが、夭(ようせつ)折した。■子路-孔子の弟子(前543~同481)。十哲の一人。卞(べん)の人。姓は仲、名は由。性質粗暴のため、孔子は常に「義」の道を論したが、衛の乱に際し、「義」を貫こうとして戦死した。■二たび魯に移され-『荘子』は「再ビ魯ニ逐ハレ、迹(あと)ヲ衛ニ削ラレ、斉ニ窮シ、陳・蔡(さい)ニ囲マレ、身ヲ天下ニ容レラレズ」と詳述する。■などかしこからぬ-私に生き方についてあれこれ教訓する人なのに、どうして賢くないのか。もっと賢く振舞ってもよさそうなものではないか。
■孔子倒れす-孔子ほどの聖人君子も時には失敗することもある、賢者の一矢の意。くじかえる、くじだおれ(孔子倒れ)とも。「孔子倒れ」ということわざは早く、『源氏物語』胡蝶の巻にも引かれ、『名語記』にも「孔子ト申セリシ聖人モ何事モ越度ナク案ジサダメ用意オハセシ人ナレドモ、賢者ノ一矢トイヘル事ノ・・・」と見えている。