宇治拾遺物語 15-11 後の千金の事

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今は昔、唐(もろこし)に荘子(さうじ)といふ人ありけり。家いみじう貧しくて、今日(けふ)の食物絶えぬ。隣に監河候(かんかこう)といふ人ありけり。それがもとへ今日(けふ)食ふべき料(れふ)の粟(ぞく)を乞ふ。河候が曰(いは)く、「今五日ありておはせよ。千両の金を得んとす。それを奉らん。いかでかやんごとなき人に、今日(けふ)参るばかりの粟をば奉らん。返す返すおのが恥なるべし」といへば、荘子(さうじ)の曰く、「昨日道をまかりしに、跡に呼ばふ声あり。願(かへり)見れば人なし。ただ車の輪跡(わあと)のくぼみたる所にたまりたる少水に(せうすい)に、鮒(ふな)一つふためく。何(なに)ぞの鮒にかあらんと思ひて寄りて見れば、少しばかりの水にいみじう大(おほ)きなる鮒あり。『何ぞの鮒ぞ』と問へば、鮒の曰く、『我は河伯神(かはくしん)の使(つかい)に、江湖(かうこ)へ行くなり。それがとびそこなひて、この溝に落ち入りたるなり。喉(のど)渇き死なんとす。我を助けよと思ひて呼びつるなり』といふ。答へて曰く、『吾(われ)今二三日ありて、江湖(かうこ)といふ所に遊びしに行(い)かんとす。そこにもて行きて放さん』といふに、魚の曰く、『さらにそれまでえ待つまじ。ただ今日一提(ひとひさげ)ばかりの水をもて喉をうるへよ』といひしかば、さてなん助けし。鮒のいひし事我が身に知りぬ。さらに今日(けふ)の命、物食はずは生くべからず。後(のち)の千の金(こがね)さらに益(やく)なし」とぞいひける。そりより、「後(のち)の千金」いふ事名誉せり。
                                                                         

現代語訳

今は昔、唐(もろこし)に荘子という人がいた。家はひどく貧しく、今日の食物もなくなってしまった。隣に監河候(かんかこう)という人がいた。その人の所へ、今日食う分の量の粟を譲ってくれるように頼みに行った。すると、河候が、「もう五日たってからおいでください。千両の金が入る事になっています。それをさしげましょう。どうして賢く貴いお方に、今日食べるだけのわずかな粟を差し上げる事ができましょうか。どう考えてみてもやはり私の恥になるでしょう」と言うので、荘子は、「昨日道を通ったら、後ろの方から呼ぶ声がする。振り返って見ても誰もいない。ただ轍跡のくぼんだ所にわずかなたまり水があり、鮒が一匹ばたばたと跳ねております。どのような鮒であろうかと思って近づいて見ますと、わずかばかりの水たまりに大きな鮒がいるのです。私が、『お前はどのよう鮒か』と尋ねますと、鮒が、『私は河の神の使いで江湖に行くところです。ところが飛びそこなって、この溝に落ち込んだのです。喉が渇いて死のうとしております。どうか助けて欲しいと思って呼んだのです』と言う。『私は、あとニ三日たてば、江湖という所に遊びに行こうとしているのだ。そこに持って行って放してやろう』と言うと、魚は、『とてもそれまでは待てないでしょう。ただ今日、提(ひさげ)一杯ほどの水で私の喉をうるしてください』と言ったので、そうして助けてやった。鮒が言ったことは我が身にも思い知った。今日の命は、物を食わずには生きてはいられない。時期が過ぎた後の千両の金は何の役にも立ちませぬ」と言った。それから、「後の千金」という言葉が有名になったのである。

語句

■荘子(さうじ)-中国・戦国時代の思想家(前365~同290)。楚の人、名は周。老子の思想を受け、儒教の人為的礼教を否定、無為自然・自然回帰の処世のあり方を主張した。■いみじう-ひどく。■絶えぬ-なくなった。■監河候(かんかこう)-伝未詳。底本及び諸本「かんあとう」。『荘子』により改訂。■今日(けふ)食ふべき料(れふ)の粟(ぞく)-今日食べるための分量の粟。私註が「あはにはあらず。ぞくといひて、いまだしらげざる米のことなり」と注するように、「粟」はもともと中国では稲・きびなどの外皮のついたままの実のこと。また五穀の総称でもあるが、後に「あわ」の意に転じた。■いま五日ありておはせよ-もう五日たっておいでください。■千両の金を得んとす-『荘子』には「我将ニ邑金ヲ得ントス。将ニ子ニ三百金ヲ貸サントス」とある。■やんごとなき人に-賢く貴いお方に。■今日(けふ)参るばかりの粟-今日召しあがるだけのわずかの粟。粟はここでは穀類のこと。■奉らん-さしあげられましょうか。■返す返す-どう考えてみてもやはり。■跡に-後ろの方で。■少水に-わずかな水に。■ふためく-ばたばたと苦しそうに跳ねている。■何ぞの鮒にかあらん-どのような鮒であろうか。■河伯神(かはくしん)-河の神。『荘子』には「我ハ東海ノ波臣也」とある。「波臣」は一説に鮒の異名とも。■江湖(かうこ)-大河と湖。水のたっぷりある場所。固有名詞とみてもよい。■さらにそれまでえ待つまじ-とてもそれまでは待てないでしょう。生きていることはできないでしょう。■一提(ひとひさげ)-堤いっぱいほどの水。「提」は酒などを入れてつぐためのつるの取っ手の付いた容器。■うるへよ-うるおして下さい。■さてなん助けし-そうしてやって助けた。鮒の言うとうりに少しの水を与えて救った。■知りぬ-思ひ知った。■生くべからず-生きていられない。■後の千の金(こがね)さらに益(やく)なし-必要な時が過ぎてから大金を与えられても何の意味もない。■名誉せり-有名になった。

朗読・解説:左大臣光永

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