宇治拾遺物語 15-10 秦始皇(しんのしくわう)、天竺(てんじく)より来たる僧禁獄(きんごく)の事

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今は昔、唐(もろこし)の秦始皇(しんのしくわう)の代に、天竺(てんぢく)より僧渡れり。御門(みかど)あやしみ給ひて、「これはいかなる者ぞ。何事によりて来たれるぞ」。僧申して曰(いは)く、「釈迦牟尼仏(さむにぶつ)の御弟子なり。仏法を伝へんために、遥(はる)かに西天(さいてん)より来たり渡れるなり」と申しければ、御門腹立ち給ひて、「その姿きはめてあやし。頭(かしら)の髪禿(かぶろ)なり。衣の体(てい)人に違(たが)へり。仏(ほとけ)の御弟子と名のる。仏とは何者ぞ。これはあやしき者なり。ただに返すべからず。人屋(ひとや)に籠(こ)めよ。今より後(のち)、かくのごときあやしき事いはん者をば、殺さしむべきものなり」といひて、人屋に据(す)ゑられぬ。「深く閉じ籠(こ)めて、重くいましめて置け」と宣旨(せんじ)を下(くだ)されぬ。

人屋の司(つかさ)の者、宣旨のままに、重く罪ある者置く所に籠めて置きて、戸にあまた錠さしつ。この僧、「悪王にあひて、かく悲しき目を見る。我が本師釈迦牟尼如来(さかむににょらい)、滅後(めつご)なりとも、あらたに見給ふらん。我を助け給へ」と念じ入りたるに、釈迦仏、丈六の御姿にて紫磨黄金(しまわうごん)の光を放ちて、空より飛び来たり給ひて、この獄門を踏み破りて、この僧を取りて去り給ひぬ。その次(ついで)に多くの盗人どもみな逃げ去りぬ。

獄の司、空に物の鳴りければ、出でて見るに、金の色したる僧の光を放ちたるが、大(おほ)きさ丈六なる、空より飛び来たりて、獄の門を踏み破りて、籠められたる天竺の僧を取りて行く音なりければ、この由(よし)を申すに、帝(みかど)、いみじくおぢ恐(おそ)り給ひけりとなん。その時に渡らんとしける仏法、世下(くだ)りての漢には渡りけるなり。
                                                                         

現代語訳

秦の始皇が天竺から来た僧を禁獄する事

今は昔、唐の秦の始皇の時代に、天竺から僧が渡って来た。帝はいぶかしく思われて、「お前は何者か。何のために来たのか」と尋ねられた。僧は、「私は釈迦牟尼仏の弟子でございます。仏法を伝えるため、遥か西方の天竺国から渡って来たのです」と申し上げた。すると、御門はご立腹になり、「その姿はきわめてあやしいものだ。頭の髪が無い。着ているものも他の者とは違う。それに仏の御弟子と名のるが、そもそも仏とは何者か。おまえはあやしい。そのまま帰すわけにはいかん。牢屋に閉じ込めよ。これから先、このように怪しげな事を言う者は必ず殺してしまえ」と言って、牢屋に留め置かれた。始皇は、「厳重に閉じこめてしっかり縛っておけ」と宣旨を下された。

牢番の役人は、宣旨のとおりに僧を重罪人を収容する所に閉じこめておき、戸にはいくつも錠をかけた。この僧は、「悪王に会って、このような悲しい目にあっております。我が師、釈迦牟尼如来様、御入滅の後とはいえ、霊験力を持ってその姿を現してくださることでしょう。私をお助け下さい」と一心に祈っていた。すると、釈迦仏が一丈六尺の御姿で紫色を帯びた黄金の光を放ちながら、空から飛んで来られて、この獄門を踏み破り、この僧を奪い取って去って行かれた。そのついでに多くの盗人どもも皆、逃げ去ってしまった。

牢役人が、空で何か鳴り響いたので、出て見ると、黄金色をした僧が光を放ち、一丈六尺の大きさで、空から飛んで来て、牢獄の門を踏み破って、閉じこめられた天竺の僧を連れ去って行く音だったので、この事を申し上げると 、帝は、ひどく激しく恐れられたという。その時に伝えられようとした仏法は、時代が下った後の漢の時代に伝わったのである。

語句

■禁獄-獄に未決囚あるいは受刑者を拘禁すること、またそれを手段とした刑罰。時代によって差異がある。 律令法の五刑には獄に拘禁するのみの刑は存在しなかった。囚獄司という官司も存在したが、その目的は未決囚の拘留、死罪・流罪の執行。

■唐(もろこし)-中国古代の王朝。紀元前二二一年に全土を統一した。■秦始皇(しんのしくわう)-秦王朝の初代の皇帝(前259~同210)。名は、政、荘襄王の子。万里の長城を築き、三十六郡を置き、度量衡の統一、幹線道路の整備、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)などの施策により、中央集権国家を確立した。■僧渡れり-『今昔』巻六-一話には「名ヲ釈ノ利房ト云フ。十八人ノ賢者ヲ具セリ、亦、法文、聖教ヲ持テ来レリ」とある。■釈迦牟尼仏-(さかむにぶつ)-仏教の開祖の釈尊。釈迦は部族の名。牟尼は聖者の意。一説にその生没は前564~同484年とされる。ネパール地方のカピラ城主浄飯王の子、悉達太子。『今昔』はこの後に釈尊の略伝を載せる。■西天(さいてん)-西方の天竺国。■禿(かぶろ)なり-髪のないさま。無髪の頭も、当時は異様な印象を与えた。■人屋(ひとや)-牢屋、獄舎。■重くいましめて置け-厳重に縛り上げておけ。

■悪王-仏教に耳を貸そうとせず、仏の存在も認めようとしないで、僧たちのいでたちを、ただ異様なものと見て迫害を加え、仏教を敵視する王。■滅後なりとも-たとえ今が入滅後であろうとも。釈迦の没年に関しては、諸説があるが、紀元前484年前後とみておく。とすれば、秦の時代に先立つこと、約260年ということになる。■あらたに見給ふらん-霊験力を持ってその姿を現してくださることでしょう。■丈六-仏の一丈六尺(約4.85メートル)は普通には座った時の高さを言う。従ってここは立ち姿なので、それを上回る身の丈と想定しておきたい。■紫磨黄金(しまわうごん)-紫色を帯びた最上質の黄金。仏の三十二相の一つに、黄金の光を放つという属性がある。■獄門-重罪人を収容する格別に頑丈な造りの獄舎の門。

■漢には渡りけるなり-『打聞集』の類話では、後漢。『今昔』も「後漢の明帝の時」とする。一説に、中国への仏教の伝来は後漢・明帝の永平八年(65)といわれる。

朗読・解説:左大臣光永

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