平家物語 三 鱸

『平家物語』巻第一より「鱸」。

平清盛の急激な出世と、平家一門の繁栄。その背後には熊野権現のご利益があった。

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あらすじ

忠盛の子らも宮中で官職に就き平家は栄えた。

ある時忠盛が備前国より京都へ上った時、鳥羽の院が「明石の浦はどうであったか」とお尋ねになったので、忠盛は答えた。

有明の 月も明石の浦風に 波ばかりこそ よると見えしか

(明石の浦は明け方の残月に白昼のように明るく、浦風に吹かれて寄せる波だけが 夜であることを思い出させてくれました)

鳥羽の院は感心し、この歌を金葉集に収めた。

またある時、忠盛は仙洞(上皇の御所)に最愛の女房があり、その元へ通っていた。

忠盛が女房の居室に月の描かれた扇を取り忘れたのを周囲の女房たちが冷やかすと、 女房は答えた。

雲井より ただもりきたる 月なれば おぼろげにては 言わじとぞ思ふ

(雲の間より洩れこぼれる美しい月影のように、宮中から来られた高貴な忠盛さまですから、 いい加減には口にするまいと思います)

この女房は、後の薩摩守忠教の母である。

忠盛が五十三歳で亡くなると嫡男の清盛が家督を継ぐ。

清盛は保元・平治の乱の勲功により、正三位(しょうさんみ)に序せられ、 左右の大臣を経ずして内大臣、太政大臣従一位(だじょうだいじん じゅいちい)になり、 摂政・関白並の待遇を許されるに至った。

平家がこれだけ繁盛した裏には熊野権現のご利益があった。

清盛がいまだ安芸守だった頃、伊勢のあののづより、舟で熊野参詣に向かったことがあった。

その時、舟に大きな鱸が飛び込んだ。 清盛は「これは熊野権現のご利益だ」と言い、その鱸を自ら調理し、家の子郎党らに食べさせた。

そのため平家はこんなにも繁盛した。

原文

其子(そのこ)どもは、諸衛(しよゑ)の佐(すけ)になる。昇殿せしに、殿上(てんじやう)のまじはりを人きらふに及ばず。其比忠盛(そのころただもり)、備前国(びぜんのくに)より都へのぼりたるけるに、鳥羽院(とばのゐん)、「明石浦(あかしのうら)はいかに」と御尋ねありければ、

有明(ありあけ)の月も明石(あかし)のうら風に浪(なみ)ばかりこそ寄ると見えしか

と申したりければ、御感(ぎよかん)ありけり。此歌(このうた)は、金葉集(きんえふしふ)にぞ入れられける。忠盛又仙洞(せんとう)に最愛の女房(にようぼう)をもツて、かよはれけるが、ある時、其女房の局(つぼね)に、妻に月出(いだ)したる扇を忘れて出でられたりければ、かたへの女房たち、「是(これ)はいづくよりの月影ぞや、出所(いでどころ)おぼつかなし」なンど、わらひあはれければ、彼(かの)女房、

雲井(くもゐ)よりただもりきたる月なればおぼろけにてはいはじとぞ思ふ

とよみたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。薩摩守忠度(さつまのかみただのり)の母是(これ)なり。似るを友とかやの風情(ふぜい)に、忠盛のすいたりければ、彼女房も優(いう)なりけり。

かくて忠盛、刑部卿(ぎやうぶきやう)になツて、仁平(にんぺい)三年正月十五日、歳(とし)五十八にてうせにき。清盛嫡男(きよもりちやくなん)たるによツて其跡をつぐ。保元(ほうげん)元年七月に、宇治(うぢ)の左府代(さふよ)を乱り給ひし時、安芸守(あきのかみ)とて、御方(みかた)にて勲功ありしかば、播磨守(はりまのかみ)にうつツて、同(おなじき)三年太宰大弐(だざいのだいに)になる。次に平治(へいぢ)元年十二月、信頼卿(のぶよりのきやう)が謀叛(むほん)の時、御方(みかた)にて賊徒をうちたひらげ、「勲功一つにあらず、恩賞是(これ)重なるべし」とて、次の年正三位(じやうざんみ)に叙せられ、うちつづき宰相、衛府督(ゑふのかみ)、検非違使別当(けんびゐしのべつたう)、中納言(ちゆうなごん)、大納言(だいなごん)に経(へ)あがツて、剰(あまツさ)へ承相(しようじやう)の位にいたり、左右(さう)を経ずして内大臣(ないだいじん)より太政大臣従一位(だいじやうだいじんじゆいちゐ)にあがる。大将(だいしやう)にあらねども、兵仗(ひやうぢやう)を給はつて随身(ずいじん)を召し具す。

牛車輦車(ぎつしやれんじや)の宣旨(せんじ)を蒙(かうぶ)つて、乗りながら宮中を出入す。偏(ひとへ)に執政の臣のごとし。「太政大臣は、一人(いちじん)に師範(しはん)として、四海に儀けいせり。国ををさめ道を論じ、陰陽(いんやう)をやはらげをさむ。其人(そのひと)にあらずは則(すなは)ちかけよ」といへり。されば則闕(そくけつ)の官とも名付けたり。其人(そのひと)ならではけがすべき官ならねども、一天四海を、掌(たなごころ)の内ににぎられしうへは、子細(しさい)に及ばず。

平家かやうに繁昌(はんじやう)せられけるも、熊野権現(くまのごんげん)の御利生(ごりしやう)とぞきこえし。其故は、古清盛公(いにしへきよもりこう)、いまだ安芸守(あきのかみ)たりし時、伊勢(いせ)の海より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸(すずき)の船に躍り入(い)りたりけるを、先達(せんだつ)申しけるは、「是(これ)は権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、清盛宣(のたま)ひけるは、「昔周(しう)の武王(ぶわう)の船にこそ、白魚(はくぎよ)は躍り入りたるけりなれ。是吉事(きちじ)なり」とて、さばかり十戒(じつかい)をたもち、精進潔斎(しやうじんけつさい)の道なれども、調味(てうみ)して、家子侍共(いへのこさぶらひども)に食(く)はせられけり。其故にや、吉事(きちぢ)のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途(くわんど)も、竜(りよう)の雲に昇るよりは、猶(なほ)すみやかなり。九代の先蹤(せんじよう)をこえ給ふこそ目出たけれ。

現代語訳

忠盛の子供は、諸衛(しょえ)の佐(すけ)になった。そして昇殿したが、もう殿上での交際を人が嫌う事はなかった。その頃忠盛は備前国(岡山県)から上京したが、その際、鳥羽院から「明石の浦はどうだった」とお尋ねがあったので、

有明(ありあけ)の月も明石(あかし)のうら風に浪(なみ)ばかりこそ寄ると見えしか

(明石の浦では有明の月も明るく白昼のようで海岸を吹き渡る風に波ばかりが寄ると見えた)

と申したところ、院は御感心なさった。この歌は金葉集(きんようしゅう)に入れられた。忠盛は又院の御所に最愛の女房がいて、通って行かれたが、ある時、その女房の部屋に、端に月を描いた扇を忘れて帰られたことがあった。側にいた女房たちが「これは何処からの月でしょうか、出所がわからなくて気がかりですよ」などと、笑い合われたので、その女房は、

雲井(くもゐ)よりただもりきたる月なればおぼろけにてはいはじとぞ思ふ

(雲間からただ漏れて来た月だから、いいかげんなことでは、その出所を言うまいと思う)

と詠んだので、忠盛は、なおいっそうこの女房を深く愛された。薩摩守忠度(ただのり)の母がこの女房である。似た者同士が友になるとかいうように、忠盛も風流の道を好んだが、その女房も歌道に優れていたのであった。

こうして忠盛は刑部卿(ぎょうぶきょう)に任ぜられ、仁平(にんぺい)三年正月十五日、歳五十八歳で亡くなった。清盛は嫡男なのでその跡を継いだ。

保元元年七月に、宇治の左大臣藤原頼長(よりなが)が世を乱された時、安芸守(あきのかみ)として院の味方になり、勲功があったので、播磨守(はりまのかみ)に異動して、保元三年大宰大弐(だざいのだいに)になった。

次に平治元年十二月、藤原信頼(のぶより)卿が謀叛(むほん)を起した時、天皇のお味方になって賊徒を討ちたいらげ、「勲功は一つだけではない。恩賞は重ねて与えるべき」と、次の年正三位に叙せられ、続いて参議、衛府督(えふのかみ)、検非違使(けびいし)の別当(べっとう)、中納言、大納言にあがって、そのうえ大臣の位にいたり、左右の大臣を経験しないまま内大臣より太政大臣従一位に昇進した。

大将ではなかったが武器を持った兵を連れることを許され随身を召し連れていた。牛車(ぎっしゃ)・輦車(れんしゃ)に乗ることを許すという宣旨(せんじ)を受けて、車に乗ったまま宮中に出入りしていた。

全く政務を司る重臣、摂政関白のようであった。「太政大臣は、天子の師範として、世の人々の手本となるものであり、国を治め、人の道を論じ、陰陽を和合させて治めるものである。適任者でなければ、空席にせよ」といっている。

それゆえ太政大臣を則闕の官とも呼んでいた。適任者でなければ任ずべき官職ではないが、清盛が天下を手中に治められた以上、とにかく批判するわけにはいかないのである。

平家がこのように繁栄したのも、熊野権現の御利益(ごりやく)であると言われていた。

その訳は昔、清盛公がまだ安芸守だった頃、伊勢ノ海から船で熊野へ詣でられたが、大きな鱸(すずき)が船に跳び入ったのを、先導の修験者が申し上げたのは、「これは権現の御利生でございます。急いでお食べなさい」と申し上げたので、清盛殿が申されたのは、「昔周の武王の船に、白魚が跳び入ったそうだ。これは吉事である」といって、あれほど十戒を守り、精進潔斎をしてきた道中ではあるが、調理して、家の子、侍どもに食べさせられた。そのせいか、吉事だけが続いて太政大臣まで極められた。

子孫の出世も、竜が雲に昇るよりもなお、速やかであった。九代の先祖をお越えになられたのはまことにめでたい事であった。

語句

■其子ども 忠盛の子供ら『尊卑分脈』によると6人。『源平盛衰記』『桓武平氏系図』では忠重を加えて7人。清盛は長男。 ■諸衛佐 「諸衛」は六衛府=左近衛府・右近衛府・左右衛門府・右衛門府・左兵衛府・右兵衛府。左右近衛府の次官を中将・少将といい、左右衛門府・左右兵衛府の次官を「佐」という。 ■有明の月も明石のうら風に浪ばかりこそ寄ると見えしか 有明の月が明るく輝いていた明石の浦風に、波だけが夜の闇の中、寄せると見えましたなあ。「有明」はまだ空に月がありながら夜が明ける時間帯。残月のある夜明け。「有明」の「明」に「明るい」を、「明石」に地名の明石と「夜を明かした」を掛ける。「しか」は助動詞「き」の已然形。「こそ」の結び。 ■金葉集 五番目の勅撰和歌集。白河院の勅命で源俊頼が編んだ。白河院の晩年に成立。 ■仙洞 仙洞御所。院の御所。 ■女房 宮仕えする者で専用の局を与えられていた者。 ■妻に月出したる 「端(つま)の当て字。端に月が出ている絵が描いてある。 ■雲居よりただもりきたる月なればおぼろけにてはいはじとぞ思ふ 女房たちのからかいに答えて。雲の上からただ漏り来た月ですから、気安くその出処を言うまいと思う。 ■薩摩守忠教 忠盛の末子。母は不明。 ■すいたりければ 風流であるので ■刑部卿 刑部省の長官。正四位下相当官。刑部省は裁判・処罰を行う。八省のひとつ。 ■仁平元年 1153年。 ■宇治の悪左府 藤原頼長。兄忠通との対立から、保元の乱で崇徳上皇方について戦死。 ■安芸守 久安元年(1149)安芸守、保元元年(1156)播磨守、同3年(1158)太宰第弐。 ■信頼卿が謀反 平治元年(1160)12月、平治の乱。藤原信頼が源義朝と組んで信西を倒し、二条天皇・後白河上皇を幽閉したが平清盛によって破られた。 ■正三位 永暦元年(1160)清盛正三位。 ■宰相 参議の別称。参議は大納言・中納言につぐ重要な役職で、三位・四位から有能の人が選ばれた。 ■衛府督 衛府は宮中警護に当たる役所。左右近衛府・左右右衛門府・左右兵衛府。督は次官。 ■検非違使別当 検非違使庁の長官。検非違使庁は都の治安維持にあたる。 ■相丞 左大臣・右大臣 清盛は仁安元年(1166)内大臣、翌年従一位・太政大臣。左右近衛府各一人、近衛各一人を随身とし、輦車を許された。 ■牛車輦車の宣旨を蒙って 牛車は牛が引く車。輦車は人が引く屋形車。天皇の宣旨が下ると乗ったまま大内裏十二門の出入りが許された。 ■執政の臣 摂政関白の異名。 ■太政大臣は一人に師範として 天子に対する師範となって。 ■四海に儀けいせり 天下にひろく模範をしめす。 ■陰陽をやはらげおさむ 天地の運行を円滑にすすむようにする。 ■其人にあらずは則ちかけよ 則闕の官。太政大臣に適任者がいない場合は空席にせよと。 ■先達 案内役の修験者。 ■周の武王 『史記』には、武王が紂王を倒すために船出したところ、舟に白魚が飛び込んできた。武王はこれを吉兆として祀ったと。 ■十戒 仏教でしてはなならい十の戒め。殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚(怒り)・邪見(または愚痴)。 ■精進潔斎 身を清め、魚肉をくらわず、物忌をすること。 ■調味して 料理して。 ■子孫の官途 子孫の出世の道。 ■九代の先蹤 平高望より忠盛以前の平氏が諸国の受領にとどまり出世できなかったこと。

平家物語|原文・現代語訳・解説・朗読

朗読・解説:左大臣光永