平家物語 六 祇王

『平家物語』巻第一より「祇王(ぎおう)」。白拍子の祇王は清盛の寵愛を受けるが新人の仏御前にその座を奪われる。

あらすじ

都に祇王という白拍子の上手がいて、平清盛から深く愛された。妹の祇女、母刀自もあわせて、一家は大いに繁盛した。

京中の白拍子たちは、祇王のことをうらやんだり、そねんだりした。

3年後、都にきこえた白拍子の上手・仏御前が清盛の西八条邸を訪れた。清盛は追い返そうとするが、祇王の取りなしで、仏は清盛に謁見し、今様と舞を披露する。

すると清盛は仏の今様と舞にすっかり魅せられ、仏御前に心を移し、祇王を追い出す。祇王は悲痛な思いを歌に書き残して西八条邸を去る。

その後祇王は清盛の館へ呼ばれ、仏のために舞を舞えと言われる。祇王は屈辱に耐えながら、

仏も昔は凡夫なり 我らも終には仏なり
いずれも仏性具せる身を へだつるのみこそ 悲しけれ

(釈迦も昔は普通の人でした。私たちも終には仏となるのです。 いずれも仏の本性を持つのに、それを隔てるのは悲しいことです)

といって舞う。

祇王は自害したいと言い出すが、母のとぢにいさめられ、出家を決意。

祇王と妹の祇女、母とぢの三人は嵐山の奥に庵を結び、念仏三昧の暮らしを送っていた。

ある晩、その庵を訪ねてきた者がある。開けてみると頭をまるめた仏御前だった。

自分を取り立ててくれた祇王を貶めてしまったこと、 自分もいつか同じ道をたどるだろうことを涙ながらに語る。

祇王は仏を許し、四人はひたすら念仏をとなえ、極楽往生を願いひっそり暮らすのだった。

原文

入道相国(にふだうしやうこく)、一天四海を、たなごごろのうちににぎり給ひしあひだ、世のそしりをもはばからず、人の嘲(あざけり)をもかへりみず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其比(そのころ)、都に聞(きこ)えたる白拍子の(しらびやうし)の上手(じやうず)、祇王(ぎわう)、祇女(ぎによ)とておとといあり、とぢといふ白拍子が娘なり。姉の祇王を、入道相国最愛せられければ、是によつて、妹の祇女をも、世の人もてなす事なのめならず。母とぢにもよき屋つくつてとらせ、毎月(まいぐわつ)に百石(こく)百貫(くわん)をおくられければ、家内富貴(けないふつき)して、たのしいことなのめならず。

抑我朝(そもそもわがてう)に、白拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院(とばのゐん)の御宇(ぎよう)に、島(しま)の千載(せんざい)、和歌の前(まひ)とて、これら二人が舞ひいだしたりけるなり。はじめは水干(すいかん)に、立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろざやまき)をさいて舞ひければ、男舞(をとこまひ)とぞ申しける。しかるを中比(なかごろ)より、烏帽子、刀をのけられて、水干ばかりを用いたり。さてこそ白拍子とは名付けけれ。

京中の白拍子ども、祇王が幸(さいはひ)のめでたいやうを聞いて、うらやむ者もあり、そねむ者もありけり。うらやむ者共は、「あなめでたの祇王御前(ぎわうごぜん)の幸(さいはひ)や。同じあそび女(め)とならば、誰(たれ)もみな、あのやうでこそありたけれ。いかさま是は、祇(ぎ)といふ文字を名について、かくはめでたきやらむ。いざ我等(われら)もついて見む」とて、或(あるい)は祇一(ぎいち)とつき、祇二(ぎじ)とつき、或は祇福(ぎふく)、祇徳(ぎとく)なンどいふ者もありけり。そねむ者どもは、「なんでう名により、文字にはよるべき。幸(さいはひ)はただ前世(ぜんぜ)の生れつきでこそあんなれ」とて、つかぬ者もおほかりけり。

かくて三年(みとせ)と申すに、又都に聞えたる白拍子の上手(じやうず)、一人(いちにん)出(い)で来たり。加賀国(かがのくに)の者なり。名をば仏(ほとけ)とぞ申しける。年十六とぞ聞えし。「昔よりおほくの白拍子ありしが、かかる舞はいまだ見ず」とて、京中の上下、もてなす事なのめならず。

仏御前(ほとけごぜん)申しけるは、「我天下(てんか)に聞えたれども、当時さしもめでたう栄えさせ給ふ、平家太政(へいけだいじやう)の入道殿(にふだうどの)へ、召されぬ事こそ本意(ほい)なけれ。あそび者のならひ、なにか苦しかるべき、推参(すいさん)して見む」とて、ある時西八条(にしはちでう)へぞ参りたる。

現代語訳

入道相国は、天下を手中に納められので、世の誹謗中傷にもかまわず、人の嘲りをもかえりみず、わがまま勝手な行動ばかりなさった。例えばこういう事がある。その頃、都で評判の白拍子の名手に祇王(ぎおう)、祇女(ぎじょ)という姉妹があった。とじという白拍子の娘である。姉の祇王を入道相国が御寵愛になったので、このために妹の祇女も、世の人々がもてはやすことはひととりではない。清盛は母とじにも立派な家屋を造ってやり、毎月、米を百石、銭を百貫贈られたので、家中富み栄えて、楽しい事はひととおりではない。

そもそもわが国で白拍子が始まったのは、昔、鳥羽院(とばいん)の御代に、島の千載(せんざい)、和歌の前という舞女がいて、この二人が舞いだしたのである。初めは水干(すいかん)に、立烏帽子(たてえぼし)という男性の衣服を纏い、白鞘巻(しろさやまき)をさして舞ったので、男舞と申した。
とこが、途中から、烏帽子と刀を除いて、水干だけを用いた。それで白拍子と名付けたのであった。

京中の白拍子どもは、祇王の幸せな有様を聞いて、羨(うらや)む者もあり、ねたむ者もあった。羨む者共は、「ああ喜ばしい祇王御前(ぜん)の幸運ですこと。同じ遊女になるなら、誰でも皆、あのようでありたいものよ。きっとこれは、祇という文字を名前に付けているので、このように素晴らしい幸運を手に入れたのだろう。さあ私たちも付けてみよう」と言って、或いは祇一(ぎいち)、或いは祇二(ぎじ)と付け、或は祇福(ぎふく)、祇徳(ぎとく)などという者もあった。ねたむ者共は、「なんで名前や、文字によることがあろうか。幸運はただ前世からの生れつきだということだ」といって、祇を付けないものも多かった。

こうして清盛の寵愛を受けて三年が過ぎた頃、又都で評判の高い白拍子の名手が一人現われた。加賀国の者である。名を仏と申した。年は十六ということだった。「昔から多くの白拍子がいたが、こんな素晴らしい舞を見た事がない」と、身分の上下を問わず京中の人たちが、もてはやす事ひととおりではない。

仏御前が申すには、「私は天下に聞えているが、今あれほどまで立派に繁栄なされた平家太政の入道殿の所へ、お召が無いのは残念だ。押しかけて参るのは遊女の常、何の差支えがあろうか、推参してみよう」といって、或る時、西八条へ参上した。

語句

■不思議の事 驚くべきこと。否定的に言っている。 ■たとえば 具体的に言うと、 ■白拍子 平安末期から鎌倉初期に流行した歌舞。またそれを舞う舞人。語源は拍子だけで伴奏を伴わない声明の名。水管直垂に鞘巻・烏帽子の男装で今様を歌いながら舞う。源義経の愛妾・静が有名。 ■祇王 滋賀県野洲郡祇王村(野洲町)出身と伝え、祇王屋敷跡、祇王寺、祇王井など残る。 ■おととい 兄弟または姉妹。 ■なのめならず 並大抵でない。 ■百石百貫 米百石と銭百貫。一石は百升。一貫は千文。 ■島の千歳、和歌の前 白拍子の名。 ■水干 男子の簡素な着物。 ■立鳥帽子 折烏帽子と区別していう。 ■白鞘巻 鞘や柄に銀の装飾をほどこした短刀。 ■なんでふ 「なんといふ」の略。 ■なにかくるしかるべき なんの問題があろう。 ■西八条 西八条第。八条北八条坊門南にあった清盛の邸宅。現在、梅小路公園内に西八条第跡がある。

原文

人参つて、「当時都にきこえ候仏御前こそ、参つて候へ」と申しければ、入道、「なんでう、さやうのあそび者は、人の召しにしたがうてこそ参れ。左右(さう)なう推参するやうやある。其上祇王(そのうへぎわう)があらん所へは、神ともいへ仏ともいへ、かなふまじきぞ。とうとう罷出(まかりい)でよ」とぞ宣(のたま)ひける。仏御前は、すげなういはれたてまつつて、既(すで)に出でんとしけるを、祇王、入道殿に申しけるは、「あそび者の推参は、常のならひでこそさぶらへ。其上年もいまだをさなうさぶらふなるが、適々(たまたま)思ひたつて参りてさぶらふを、すげなう仰せられてかへさせ給はん事こそ、不便(ふびん)なれ。いかばかりはづかしう、かたはらいたくもさぶらふらむ。わが立てし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覧じ、歌をきこしめさずとも、御対面(ごたいめん)ばかりさぶらうて、かへさせ給ひたらば、ありがたき御情(おんなさけ)でこそさぶらはんずれ。唯理(り)をまげて、召しかへして御対面さぶらへ」と申しければ、入道、「いでいでわごぜがあまりにいふ事なれば、見参してかへさむ」とて、使(つかひ)をたてて召されけり。仏御前は、すげなういはれたてまつつて、車に乗つて、既(すで)に出でんとしけるが召されて帰り参りたり。

入道出(い)であひ対面して、「今日(けふ)の見参は、あるまじかりつるものを、祇王がなにと思ふやらん、余りに申しすすむる間、か様(やう)に見参しつ。見参するほどにては、いかでか声をも聞かであるべき。今様(いまやう)一つ歌へかし」と宣へば、仏御前、「承りさぶらふ」とて、今様一つぞ歌うたる。

君をはじめて見る折(をり)は、千代(ちよ)も経ぬべし姫小松(ひめこまつ)
御前(おまへ)の池なる亀岡(かめをか)に 鶴(つる)こそむれゐてあそぶめれ

と、おし返しおし返し、三返(べん)歌ひすましたりければ、見聞(けんもん)の人々、みな耳目(じぼく)をおどろかす。入道もおもしろげに思ひ給ひて、「わごぜは今様は上手(じやうず)でありけるよ。この定(ぢやう)では、舞もさだめてよかるらむ。一番見ばや。鼓打(つづみうち)召せ」とて召されけり。うたせて一番舞うたりけり。

仏御前(ほとけござん)は、かみすがたよりはじめて、みめかたち美しく、声よく節(ふし)も上手でありければ、なじかは舞も損すべき。

心もおよばず舞ひすましたりければ、 入道相国(にふだうしやうこく)舞にめで給ひて、仏に心をうつされけり。仏御前、「こはされば、何事さぶらふぞや。もとよりわらはは推参の者にて、出(いだ)され参らせさぶらひしを、祇王御前(ぎわうごぜん)の申状(まうしじやう)によつてこそ、召しかへされてもさぶらふに、かやうに召しおかれなば、祇王御前の思ひ給はん心のうちはづかしうさぶらふ。はやはや暇(いとま)をたうで、出(いだ)させおはしませ」と申しければ、入道、「すべてその儀あるまじ。但(ただ)し祇王があるをはばかるか。その儀ならば祇王をこそ出(いだ)さめ」とぞ宣(のたま)ひける。仏御前、「それ又、いかでかさる御事さぶらふべき。諸共(もろとも)に召しおかれんだにも、心ううさぶらふべきに、まして祇王御前を出(いだ)させ給ひて、わらはを一人(いちにん)召しおかれなば、祇王御前の心のうち、はづかしうさぶらふべし。おのづから後(のち)まで忘れぬ御事ならば、召されて又は参るとも、今日(けふ)は暇(いとま)を給はらむ」とぞ申しける。

現代語訳

人が清盛の所へ参って、「今、都で評判の仏御前が参っております」と申したところ、入道は、「なんということだ、そのような遊女は人の招きに従って参るものだ。すぐに押しかけるということがあるものか。その上、祇王が居る所へは、神であれ、仏であれ、参ることは許されぬぞ。さっさと退出せよ」と仰せられた。仏御前は、すげなく言われ申して、もう少しで出て行こうとしていたが、その時、祇王が、入道殿に申すには、「遊女の押しかけは、いつものことです。その上、年もまだ幼いようですが、たまたま思い立って参りましたものを、すげなく仰せられて帰そうとなされるのは、まことに可哀想です。どれほどに気恥ずかしく、どれほど痛々しいことでしょう。白拍子は私が生計を立てて来た道ですから、人の事とも思われません。たとえ、舞を御覧じ、歌をお聞きにならずとも、御対面だけでもなさって、お帰しになられたらこれ以上は無い御情けでございましょう。唯、道理を曲げて仏御前を召し返して御対面ください」と申したので、入道は、「いやもう、そなたがそんなに言う事ならば、対面してから帰そう」と言って、使いを立てて仏御前をお召しになった。仏御前はつれなく言われて、車に乗ってほとんど邸を出ようとしていたが、召されて戻ってきた。入道は出て行って対面して、「今日の対面は、あるまじきことだが、祇王が何と思ってか、余りに申し勧めるのでこのように対面したのだ。対面するほどならば、どうして声を聞かずにおられるものか。今様を一つ歌ってくれ」と言われて、仏御前は「承りました」と言って、今様をひとつ歌った。

君をはじめて見る折(をり)は、千代(ちよ)も経ぬべし姫小松(ひめこまつ)
御前(おまへ)の池なる亀岡(かめをか)に 鶴(つる)こそむれゐてあそぶめれ

(わが君を初めて見る時は、あまりにもご立派なお姿なので、姫子松(私)は千年も寿命が延びそうな気がします。君の御前の池にある亀山には鶴が群れて楽しそうに遊んでいるようです)

と繰り返し繰り返し、三度も見事に歌い終ると、見聞きしていた人々は、皆、びっくりした。入道は興味深く思われて、「そなたは今様は上手であったぞ。この様子なら舞もさぞかしうまかろう。一番見てみたいものだ。鼓打ちを呼べ」と言ってお召しになった。仏御前は鼓を打たせて一番舞った。

仏御前は、髪かっこうを初め、眉目形は美しく、声も良く通って、節回しも上手だったので、どうして舞を失敗することがあろうか。
思いも及ばないほど上手に舞い終わったので、入道相国は舞をお誉めになり、仏に心を移された。仏御前は、「これはまた、いったい何事ですか。もとより私は推参者で、追い出されましたものを、祇王御前の御口添えによって召し返されたのですのに、私を、このように召し置かれたなら、祇王御前が何とお思いになるか、その御心に気恥ずかしゅうござます。さっさと暇(いとま)を下さって、退出させてくださいませ」と申したところ、入道は、「すべて心配することはない。ただし、祇王がいるから遠慮があるのか。それなら祇王を追い出そう」と言われた。仏御前は、「それは又、どうしてそんな事をなさるのですか。祇王御前と一緒に召し置かれることだけでも、心苦しいことでございますのに、まして祇王御前をお出しになって私一人を召し置かれたなら、祇王御前の心の内を思うとお気の毒でなりません。もしも後々まで私の事をお忘れにならぬのなら、召されて又参る事がありましても、今日はお暇をいただきましょう」と申した。

語句

■なんでふ 何ということだ。 ■左右のう ためらわず。 ■さぶらへ 「候ふ」は「ある」「居る」の謙譲語。中世には男が「そうらふ」、女が「さぶらふ」と用いた。 ■かたはらいたく 脇で見ていて恥ずかしい。祇王がすげなく追い返される仏を気の毒に思っている表現。 ■今様 安時代末期に流行した流行歌。伝統的な宮廷音楽である催馬楽・神楽などに対して、庶民の中から出てきた新しい種類の歌。白拍子や遊女をはじめ、貴族も、庶民も、はば広い層から愛好された。現在、今様はいくつかの節回しで歌われているが、「越天楽今様(えてんらくいまよう)」が有名。京都市東山区の法住寺は、後白河法皇の御所「法住寺殿」の跡地にあり、毎年10月第二日曜日に、「今様合の会」が開かれている。 ■君をはじめて見る折は… 千代・姫子松・亀・鶴と長寿を祝う言葉をならべ、平清盛への感謝の挨拶を延べる。 ■歌ひすます 見事に歌い終わる。 ■この定では この様子では。この具合では。 ■心もおよばず 想像もできないほど素晴らしく。 ■申状 申しよう。とりなし。 ■暇をたうで 「たうで」は、「たびて」「たまひて」の穏便。暇を賜って。 ■出させおはしませ 私を退出させなさってください。「おはします」は「あり」「居り」の尊敬体。 ■心うう 「心憂く」の音便。心苦しく。 ■おのづから もしも。ひょっとして。

原文

入道、「なんでう、其儀(そのぎ)あるまじ。祇王とうとう罷出(まかりい)でよ」とお使(つかひ)かさねて三度までこそたてられけれ。

祇王もとより思ひまうけたる道なれども、さすがに昨日(きのふ)今日とは思ひよらず。いそぎ出(い)づべき由、しきりに宣ふあひだ、掃き拭(のご)ひ塵拾(ちりひろ)はせ、見苦しき物共とりしたためて、出づべきにこそさだまれけり。一樹(いちじゆ)のかげに宿(やど)りあひ、同じ流(ながれ)をむすぶだに、別(わかれ)はかなしきならひぞかし、まして此三年(このみとせ)が間、住みなれし所なれば、名残(なごり)も惜しうかなしくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてもあるべき事ならねば、祇王すでに今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れがたみにもとや思ひけむ、障子(しやうじ)に泣く泣く、一首の歌をぞ書きつけける。

萌(も)え出(い)づるも枯(か)るるも同じ野辺(のべ)の草いづれか秋にあはではつべき

さて車に乗って宿所に帰り、障子のうちに倒れふし、唯(ただ)泣くより外(ほか)の事ぞなき。母や妹是を見て、「いかにやいかに」と問ひけれども、とかうの返事にも及ばず。供(ぐ)したる女に尋ねてぞ、さる事ありとも知りてんげれ。

さるほどに毎月(まいぐわつ)におくられたりける、百石百貫をも今はとどめられて、仏御前(ほとけごぜん)が所縁(ゆかり)の者共ぞ、始而(はじめて)楽しみ栄えける。

京中の上下、「祇王(ぎわう)こそ入道殿(にふだうどの)より暇(いとま)給はつて出でたんなれ。誘見参(いざけんざん)してあそばむ」とて、或(あるい)は文をつかはす人もあり、或は使(つかひ)を立つる者もあり。祇王さればとて、今更(いまさら)人に対面してあそびたはぶるべきにもあらねば、文をとりいるる事もなく、まして使にあひしらふまでもなかりけり。これにつけてもかなしくて、いとど涙にのみぞ沈みにける。

かくて今年(ことし)も暮れぬ。あくる春の比(ころ)、入道相国(にふだうしようこく)、祇王がもとへ使者を立てて、「いかに、其後(そののち)何事かある。仏御前が余りにつれづれげに見ゆるに、参つて今様をも歌ひ、舞なンどをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞ宣(のたま)ひける。祇王とかうの御返事(おんへんじ)にも及ばず。入道、「など祇王は返事はせぬぞ。参るまじいか。参るまじくはそのやうを申せ。浄海(じゃうかい)もはからふむねあり」とぞ宣ひける。母とぢ是(これ)を聞くにかなしくて、いかなるべしともおぼえず。泣く泣く教訓しけるは、「いかに祇王御前(ぎわうごぜん)、ともかうも御返事(おんへんじ)を申せかし、左様(さやう)にしかられ参らせんよりは」といへば、祇王、「参らんと思ふ道ならばこそ、軈而(やがて)参るとも申さめ、参らざらむもの故(ゆゑ)に、何と御返事を申すべしともおぼえず。『此度(このたび)召さんに参らずは、はからあふむねあり』と仰(おほ)せらるるは、都の外(ほか)へ出(いだ)さるるか、さらずは命を召さるるか、是二つにはよも過ぎじ。縦(たと)ひ都を出(いだ)さるるとも、嘆(なげ)くべき道にあらず。たとひ命を召さるるとも、惜しかるべき又我身(わがみ)かは。一度(ひとたび)うき者に思はれ参らせて、二度(ふたたび)面(おもて)をむかふべきにもあらず」とて、なほ御返事をも申さざりけるを、母とぢ重而(かさねて)教訓しけるは、「天(あめ)が下に住まん程(ほど)は、ともかうも入道殿の仰せをば背(そむ)くまじき事にてあるぞとよ。男女の縁宿世(えんしゆくせ)、今にはじめぬ事ぞかし。千年万年とちぎれども、やがてはなるる中もあり。白地(あからさま)とは思へども、存生(ながらへ)果つる事もあり。世に定(さだめ)なきものは男女(をとこをんな)のならひなり。それにわごぜは此三年(みとせ)まで思はれ参らせたれば、ありがたき御情(おんなさけ)でこそあれ。召さんに参らねばとて、命をうしなはるるまではよもあらじ。唯(ただ)都の外(ほか)へぞ出(いだ)されんずらん。縦(たと)ひ都を出(いだ)さるとも、わごぜたちは年若ければ、いかならん岩木(いはき)のはざまにても、すごさん事やすかるべし。年老い衰へたる母、都の外(ほか)へぞ出(いだ)されんずらむ、ならはぬひなの住まひこそ、かねて思ふもかなしけれ。唯(ただ)われを都のうちにて、住み果てさせよ。それぞ今生後生(こんじやうごじやう)の孝養(けうやう)と、思はむずる」といへば、祇王(ぎわう)うしと思ひし道なれど、親の命(めい)をそむかじと、泣く泣く又出で立ちける、心のうちこそむざんなれ。

現代語訳

入道は、「なんだと、それは許さんぞ。祇王、さっさと退出せよ」とお使いを重ねて、三度まで立てられた。

祇王は以前から覚悟していた事ではあったが、さすがに昨日今日とは思いもしない。入道からの使いの伝言で、急いで出て行くようにと、しきりに言われるので、部屋を掃き、床を拭い、塵を拾わせ、見苦しく散らかっている物を取り片付け、出て行くことになった。旅に出て一本の木の陰で共に雨宿りをし、同じ川の水をすくって飲むというような、ほんのわずかな縁でさえも別れは悲しいのが世の常なのだ。ましてこの三年の間、住み慣れた所なので、名残も惜しく悲しくて、泣いても仕方がないことなのに涙がこぼれ落ちるのであった。いつまでもそうしては居られないので、祇王は今はもうこれまでと思いきって部屋を出たが、居なくなった後の忘れ形見にでもと思ったのか、襖に泣く泣く、一首の歌を書きつけた。

萌(も)え出(い)づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき

(春に草木が芽を吹くように、仏御前が清盛に愛され栄えようとするも、私が捨てられるのも、しょせん同じ野辺の花(白拍子)なのだ。どれも秋になって果てるように清盛にあきられないで終ることがあろうか)

そうして車に乗ってわが家に帰り、襖の内に倒れ伏し、ただ、泣いてばかりいた。母や妹はこれを見て、「どうしたのか。どうしたの」と聞いたが、何の返事もしない。仕方なく供の女に尋ねて、初めてそんな事があったと知ったのであった。

そのうちに毎月贈られていた米百石・銭百貫も今は止められて、仏御前の縁者たちが初めて楽しみ栄えることになった。

京都中の人々は貴賤を問わず、「祇王が入道殿からお暇をいただいて追い出されたようだ。さあ祇王に会って遊ぼう」といって、或は文を使わす人もあり、或は使いを立てる人もある。祇王は、だからといって今更人と会って、遊び戯れる気にもならず、文を受け取ることもなく、まして使いに応待するまでもなかった。こんなことがあるにつけても悲しくて、たいそう涙を流して沈んでばかりいた。

こうして今年も暮れた。翌春の頃、入道相国は祇王の元に使者を立てて、「どうだ、その後どうしているか。仏御前があまりにも孤独で寂しそうに見えるので、こちらへ参って今様も歌い、舞なども舞って、仏を慰めてくれ」と言われた。

祇王はどうのこうの返事もしない。入道は、「どうして祇王は返事をせぬのか。参らぬのか。参らなければその訳を申せ。浄海も考えることがある」と言われた。母とじはこれを聞くと悲しくなり、どうしたらいいかわからない。

泣く泣く諭したのは、「どうする祇王御前、ともかく御返事をなさいませ、このように叱られるよりは」と言うと、祇王は、「お宅へ参上しようと思うのならば、すぐに参ると申します。参らないつもりなので、何と御返事を申せばいいかわかりません」。『今度召した時に参らなければ、考えがある』と言われたのは、都の外へ追い出されるのか、さもなければ命を召さるるのか、この二つ以上のことはよもやありますまい。たとえ都を追放されても、嘆くべきことではありません。たとえ命を召さるるとも、また惜しい我身でありましょうか。一度いやな者と思われた身としては、二度と顔を向けることもありません」といって、さらに返事をしないでいるのを、母のとじは重ねて説得した、「この日本の国に住んでいる間は、ともかくも入道殿の仰せに背いてはなりませんぞ。男女の縁や宿世というものは前世からの約束・因縁によるもので今に始まった事ではないのだよ。夫婦になって、千年も万年もと契ってもすぐに別れる仲もある。ほんのかりそめと思って夫婦になっても、そのまま連れ添って生涯を終えることもある。世に定めのないものは男女の仲の常なのです。それに貴女がこの三年まで清盛殿に御寵愛なされたのは、ありがたい御情けですよ。殿のお召しに参上しないからといって命を取られることはよもやあるまい。唯、都の外へ追放されるということはあるかもしれません。たとえ、都を追い出されようとも、貴方たちは年が若いので、どんな辺鄙な所でも、過すことは容易であろう。しかし、年老い衰えた母は、都の外へ追放されるかもしれない、慣れない田舎の住まいを予想することさえ悲しい事だ。ただ私を都の中に一生住まわせるようにしておくれ。それが何より現世・未来での親孝行と思うのですよ」と言うので、祇王は嫌なことだと思う道ではあるが、親の命令に背くまいと、泣く泣く又出かけた、その心の内は本当に痛ましいことであった。

語句

■思ひまうけたる 覚悟していた、予想していた。 ■昨日今日とは思ひよらず 『伊勢物語』125段「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」 ■一樹のかげに宿りあひ、同じ流をむすぶだに… 「或は一村に処り、一樹の下に宿り、一河の流を汲む、一夜同宿、一日夫婦、一緒聴聞、一言会釈、…親疎別有れども、皆先世の結縁なり」(『説法妙眼論』) ■さてもあるべき事ならねば 慣用句。いつまでもそうして居られないので。 ■障子 唐紙障子。ふすま。 ■萌え出づるも… 「枯るる」と「離るる」、「秋」と「飽き」をかける。自分が清盛に今こうして捨てられるように、やがて仏御前も捨てられるだろうという意味を暗に込める。 ■たんなれ 「たるなれ」の撥音便。「なれ」は伝聞推定の助動詞「なり」の已然形。 ■あひしらふ 応対する。あしらう。 ■いかなるべしとも思へず どうしていいかわからない。 ■男女の縁宿世、今にはじめぬ事ぞかし 男女の縁は前世からのもので今に始まったことではない。 ■白地(あからさま) ほんの一時的なこと。 ■孝養 親孝行と、死後、供養することを掛ける。

原文

独(ひと)り参らむは、余りに物うしとて、妹の祇女(ぎによ)をも相具(あひぐ)しけり。其外(そのほか)白拍子二人(ににん)、そうじて四人(しにん)、一つ車に取乗(とりの)つて、西八条へぞ参りたる。さきざき召されける所へは入れられず、遥(はる)かにさがりたる所に、座敷しつらうておかれたり。祇王、「こはされば何事さぶらふぞや。わが身にあやまつ事はなけれども、すてられ奉るだにあるに、座敷をさへさげらるることの心うさよ。いかにせむ」と思ふに、知らせじとおさふる袖(そで)のひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。仏御前是(ほとけごぜんこれ)をみて、あまりにあはれに思ひければ、「あれはいかに、日比(ひごろ)召されぬ所でもさぶらはばこそ、是へ召されさぶらへかし。さらずはわらはに暇(いとま)をたべ。出(い)でて見参(げんざん)せん」と申しければ、入道(にふだう)、「すべて其儀あるまじ」と宣(のたま)ふ間、力およばで出でざりけり。其後(そののち)入道、祇王が心のうちをば知り給はず、「いかに、其後何事かある。さては仏御前があまりにつれづれげに見ゆるに今様(いまやう)一つ歌へかし」と宣へば、祇王参る程では、ともかうも入道殿の仰せをば背(そむ)くまじと思ひければ、おつる涙をおさへて、今様一つぞ歌うたる。

仏も昔は凡夫(ぼんぷ)なり  我等(われら)も終(つひ)には仏なり
いづれも仏性具(ぶつしやうぐ)せる身を へだつるのみこそかなしけれ

と、泣く泣く二辺(へん)歌うたりければ、其座(そのざ)にいくらもなみゐ給へる、平家一門の公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)、諸大夫(しよだいぶ)、侍(さむらひ)に至るまで、皆感涙をぞながされける。入道(にふだう)もおもしろげに思ひ給ひて、「時にとつては神妙(しんべう)に申したり。さては舞も見たけれども、今日はまぎるる事いできたり。此後(こののち)は召さずとも常に参つて、今様をも歌ひ、舞なンどをも舞うて、仏さぐさめよ」とぞ宣(のたま)ひける。祇王(ぎわう)とかうの御返事(おんへんじ)にも及ばず、涙をおさへて出でにけり。「親の命(めい)をそむかじと、つらき道におもむいて、二度(ふたたび)うきめをも見つることの心うさよ。かくて此世にあるならば、又うきめをも見むずらん。今はただ身を投げんと思ふなり」といへば、妹の祇女(ぎによ)も「姉身を投げば、われも共に身を投げん」といふ。母とじ是(これ)を聞くにかなしくて、いかなるべしともおぼえず。泣く泣く又教訓しけるは、「まことにわごぜのうらむるも理(ことわり)なり。さやうの事あるべしとも知らずして、教訓して参らせつる事の心うさよ。但(ただ)しわごぜ身を投げば、妹も共に身を投げんといふ。二人の娘共におくれなん後、年老い衰へたる母、命生きてもなににかはせむなれば、我も共に、身を投げむと思ふなり。いまだ死期(しご)も来(きた)らぬ親に、身を投げさせん事、五逆罪にやあらんずらむ。此世はかりの宿(やどり)なり。恥ぢても恥ぢても何ならず。唯(ただ)ながき世の闇(やみ)こそ心うけれ。今生でこそあらめ、後生でだに、悪道へおもむかんずる事のかなしさよ」と、さめざめとかきくどきければ、祇王涙をおさへて、「げにさやうにさぶらはば、五逆罪うたがひなし。さらば自害は思ひとどまりさぶらひぬ。かくて都にあるならば、又うきめをもみむずらん。今はただ都の外(ほか)へ出でん」とて、祇王廿一にて尼になり、嵯峨(さが)の奥なる山里に、柴(しば)の庵(いほり)をひきむすび、念仏してこそゐたりけれ。妹の祇女も、「姉身を投げば、我も共に身を投げんとこそ契りしか、まして世を厭(いと)はむに、誰(たれ)かはおとるべき」とて、十九にて様(さま)をかへ、姉と一所(いつしよ)に籠(こも)り居(ゐ)て、後世(ごせ)をねがふぞあはれなる。

現代語訳

祇王は独りで参るのは、余りにも惨めだといって、妹の祇女も連れて行った。その外に白拍子二人、総じて四人が一台の車に乗って、西八条へ参った。すると、以前に召されたことのある場所へは入れられず、遥かに下がった所に、座敷がしつらえて置かれていた。祇王は、「これは一体何事ですか、私は間違ったことをした覚えはないが、入道殿に捨てられた身でもあり、そのうえ座敷をさえ下げられることの惨めさよ。どうすればいいのだろう」と思うが、その気持ちを悟られまいと、悔し涙を抑える袖の隙間から、余りの仕打ちに涙がこぼれ落ちた。仏御前はこれを見て、余りにも哀れに思ったので、「おや、あれは祇王様。日頃召されぬ所に控えさせられることでも哀れです。ここへ召しなさいませ。さもなければ、私にお暇をください。出て行って会いましょう」と申したところ、入道は、「全然そんな事をしてはならぬ」とおっしゃるので、仏御前は力及ばず出て行けなかった。その後、入道は祇王の心の内を理解できず、「どうしているか。其の後何事かあったか。それでは仏御前が余りに暇を持て余して寂しそうに見えるので、今様を一つ歌ってくれ」と言われるので、祇王は参るからには、ともかくも入道殿の仰せに逆らうまいと思ったので、落ちる涙を抑えて、今様を一つ歌った。

仏も昔は凡夫なり(仏御前も昔は普通の白拍子であった) 我等も終(つひ)には仏なり

(私たちも最後には悟りを開いて仏になるのだ)

いづれも仏性具せる身を へだつるのみこそかなしけれ

(そのようにどちらも仏になれる性質を持っている身なのに、このように仏~仏御前~と私を分け隔てするのが、まことに悲しい事だ)

と泣く泣く、二回歌ったので、その座に数人居並ぶ平家一門の公卿や殿上人、諸大夫、侍に至るまでみんな感動して涙を流された。入道も興味深く思われて、「この場としては神妙に申した。それでは舞も見たいけれども、今日はほかに用事ができた。此の後はわしが召さずとも常に参って、今様をも歌い、舞などをも舞って、仏御前を慰めてくれ」と言われた。祇王は何の御返事もなさらず、涙を抑えて邸を出られた。「親の命に逆らわないようにと、辛いところに赴いて、再び情けない目に遭うことの辛さよ。このようにして生きながらえるのであれば、又嫌な目に遭うこともあるだろう。今はただ身を投げようと思のです」と言うと、妹の祇女も「姉が身を投げるのなら、私も共に身を投げましょう」と言う。母とじはこれを聞くと悲しくて、どうしていいかわからない。泣く泣く又諭したのは、「誠に貴方が恨むのも道理です。そんな事があるとは知らずに、諭して入道殿の邸に参らせたことは思いやりのない事でした。しかし、貴方が身を投げたなら妹も共に身を投げると言う。二人の娘を先立たせた後、年老い衰えた母は、命ながらえても仕方ないので、私も一緒に、身を投げようと思います。まだ余命ある親に身を投げさせようとするのは、五逆罪にあたるでしょう。此の世は仮の宿のようなものですよ、恥をかいてもかかなくてもなんということはありません。唯、未来永劫にわたって闇の中に沈み、光明の浄土に浮かびあがれないのが無念です。此の世ではともかくも、あの世でさえ悪い道へ踏み込むのは悲しい事です」とさめざめと掻き口説いたので、祇王は涙を抑えて、「本当にそのように言われるのであれば、五逆罪は疑いはありません。それでは自害は思いとどまりいたします。このように都に居るならば、又辛い目に遭う事があるかもしれません。今はただ、都から出て行きましょう」といって、祇王は二十一歳で尼になり、嵯峨の奥深い山里に、柴の庵を造り、念仏を唱えて過していた。妹の祇女も、「姉が身を投げるなら、私も共に身を投げようと約束をしたのでしたが、ましてそのように世をはかなんで出家しようとするのに、誰が負けていましょうか」といって、十九歳で身なりを尼に変え、姉と一緒に籠り住んで、後の世の幸せを願い祈りを捧げる様子は哀れであった。

語句

■座敷しつろうて 座るべき敷物を敷いて。 ■これされば何事さぶらふや これはそれでは、何事がございましたのでしょうか。 ■日比召されぬ所でもさぶらはばこそ、是へ召されさぶらへかし ふだん召されない所であればともかく、普段召されるのですから、ここに祇王さまを召されてください。 ■さては それでは。 ■参る程では 参ったからには。 ■仏も昔は凡夫なり… 「仏も昔は人なりき、われらも終には仏なり、三身仏性具せる身と、知らざりけるこそあはれなれ」(『梁塵秘抄』2・雑法文歌) ■凡夫 まだ悟りを開かない人。 ■公卿 公(大臣)と卿(大納言・中納言・三位以上および四位の参議) ■殿上人 清涼殿の床の間に昇ることを許された人々。四位・五位および六位の蔵人。 ■諸君大夫 四位・五位。殿上人についで身分が高い。 ■侍 貴人に仕える家来。 ■五逆罪 仏教でいう五つの罪。父を殺す、母を殺す、阿羅漢(最高位の修行僧)を殺す、仏身より血を出す、僧侶の集団を破る。 ■恥ぢても恥じでも 恥ずかしい思いをしてもしなくても。 ■悪道 死んだ後に行く苦の世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道など。 ■柴の庵 柴で屋根を葺いた粗末な庵。

原文

母とぢ是を見て、「わかき娘どもだに様(さま)をかふる世の中に、年老い衰へたる母、白髪(しらが)をつけてもなににかはせむ」とて、四十五にてかみをそり、二人(ににん)の娘諸共(もろとも)に、一向専修(いつかうせんじゆ)に念仏して、ひとへに後世をぞねがひける。

かくて春過ぎ夏闌(た)けぬ。秋の初風(はつかぜ)吹きぬれば、星合(ほしあひ)の空をながめつつ、天(あま)のとわたる梶(かぢ)の葉に、思ふ事書く比(ころ)なれや。

夕日のかげの西の山のはにかくるるを見ても、「日の入り給ふ所は、西方浄土(さいほうじやうど)にてあんなり。いつかわれらもかしこに生(むま)れて、物を思はですぐさむずらん」と、かかるにつけても過ぎしかたのうき事共、思ひつづけて唯(ただ)つきせぬ物は涙なり。たそかれ時(どき)も過ぎぬれば、竹の編戸(あみど)を閉ぢふさぎ、灯(ともしび)かすかにかきたてて、親子三人念仏してゐたる処(ところ)に、竹の編戸をほとほととうちたたく者出で来たり。其時(そのとき)尼ども肝を消し、「あはれ是(これ)はいふかひなき我等(われら)が念仏して居たるを妨げんとて、魔縁(まえん)の来たるにてぞあるらむ。昼だにも人もとひこぬ山里の、柴(しば)の庵(いほり)の内なれば、夜ふけて誰(たれ)かは尋ぬべき。わづかの竹の編戸なれば、あけずともおしやぶらん事やすかるべし。なかなかただあけて入れんと思ふなり。それに情(なさけ)をかけずして、命をうしなふものならば、年比(としごろ)頼み奉る、弥陀(みだ)の本願を強く信じて、暇(ひま)なく名号(みやうがう)をとなへ奉るべし。声を尋ねてむかへ給ふなる、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいかう)にてましませば、などか引摂(いんぜふ)なかるべき。相かまへて、念仏おこたり給ふな」と、たがひに心をいましめて、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり、仏御前(ほとけごぜん))ぞ出で来(きた)る。

祇王(ぎわう)「あれはいかに、仏御前と見奉るは。夢かやうつつか」といひければ、仏御前涙をおさへて、「か様(やう)の事申せば、事新しうさぶらへども、申さずは又思(おもひ)知らぬ身ともなりぬべければ、はじめよりして申すなり。もとよりわらはは推参の者にて出(いだ)され参らせさぶらひしを、祇王御前の申状(まうしじやう)によつてこそ、召し返されてもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心にまかせずして、おしとどめられ参らせし事、心ううこそさびらひしか。いつぞや又、召され参らせて、今様(いまやう)歌ひ給ひしにも、思ひ知られてこそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと、思ひしかば、嬉(うれ)しとはさらに思はず。障子(しやうじ)に又、『いづれか秋にあはではつべき』と、書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひさぶらひしぞや。其後は在所(ざいしよ)をいづくとも知り参らせざりつるに、かやうに様(さま)をかへて、一所(ひとところ)にと承つて後(のち)は、あまりに浦山(うらやま)しくて、常は暇(いとま)を申ししかども、入道殿(にふだうどの)さらに御用(おんもち)いましまさず。つくづく物を案ずるに、娑婆(しやば)の栄花(えいぐわ)は夢の夢、楽しみ栄えて何かはせぬ。人身(にんじん)は請けがたく仏教にはあひがたし。此度(このたび)ないりに沈みなば、多生曠劫(たしやうくわうがう)をばへだつとも、うかびあがらん事かたし。年のわかきをたのむべきにあらず。老少不定(らうせうふぢやう)のさかひなり。出づる息の入(い)るをも待つべからず。かげろふいなづまよりなほはかなし。一旦(いつたん)の楽しみにほこつて、後生(ごしゃう)を知らざらん事のかなしさに、けさまぎれ出でてかくなつてこそ参りたれ」とて、かづきたる衣(きぬ)をうちのけたるを見れば、尼になつてぞ出で来(きた)る。

現代語訳

母とじはこれを見て、「若い娘たちでさえ、尼に姿を変えようとする世の中に、年老い衰えた母が白髪頭でいても仕方がない」といって、四十五歳で髪を剃り、二人の娘ともどもに一心不乱に念仏を唱え、ひとえに来世での幸せを願った。

こうして、春が過ぎ、夏の盛りも過ぎた。秋の初風が吹いたので、とじは七夕の空を眺めながら、天の瀬戸を渡る梶の葉に、願い事を書く季節になったのだなぁと感傷にふけっていた。

夕日の影が西の山の端に隠れるのを見ても、「日が沈む所は、西方浄土であろう。いつか我等もそこに生まれ変わって、物思いに沈まずに過そう」と、こんな時でも過ぎ去った時に惨めな目にあったことなどを思い続けて唯々涙ばかりがこぼれるのである。黄昏時も過ぎたので、竹の網戸を閉じ、灯をかすかに明るく灯し、親子三人が念仏を唱えている所へ、竹の網戸をトントンと叩く者が現われた。其の時、尼達は驚いて、「哀れ、これは卑しい我等が念仏しているのを妨害しようとして魔物でも来たのであろうか。昼でさえ人も訪ねて来ない山里の、柴の庵の中なので、まして夜更けに誰が訪ねて来よう。わずかな竹の網戸なのでこちらが開けなくても押し破ろうとするのは簡単であろう。いっそのこと、ただ開けて入れようと思うのだ。それなのに相手が情けをかけずに命を奪うのであれば、長年頼み奉った阿弥陀仏の本願を信じて、絶えず南無阿弥陀仏を唱え奉るべきであろう。声を尋ねて、迎えに来られた御仏の来迎であったなら、どうして浄土へ引き取ってくださらないことがあろうか。けっして念仏を怠りなさるな」と、互いに心をいましめて、竹の網戸を開けると、魔物ではなかった、魔物とは反対の仏、仏御前が出て来たのであった。

祇王は「あれはどうしたことでしょう。仏御前とお見受けしますが、夢でしょうか」と言うと、仏御前は涙をおさえて、「こんなことを申すと、わざとらしくございますが、申さなくては又人情をわきまえぬ身ともなってしまいそうですから、事の初めから申します。もともと私は推参の者で追い出されましたのを、祇王御前のおとりなしによって召し返されたのでございますのに、女のはかなさ、自分の身を思うにまかせないで、私だけが残されましたことは、本当に情けないことでございました。いつぞや又、あなたがお召しを受けて、今様をお謡いになったのにも、女の身のはかなさを思い知りました。つくづく思い知らされたのでした。祇王様の身の不幸は、いつかは自分の身にも降りかかるのではないかと思い、ありがたいことだとは更に思いませんでした。襖に又、「いづれ秋にあはではつべき(いづれ仏御前も清盛に飽きられるであろう)」と、書置きなさいました筆の跡、本当にその通りだと思ったことでございます。その後は、祇王様の在所が何処にあるのか知りませんでしたので、このように姿を変えてお探し申しておりまたが、一所に一緒に居られるということを耳に挟んで後は、あまりにも羨ましくて、いつもお暇をいただきたいと願い出ていましたが、入道殿はどうしてもお許しになりません。よくよく物を考えてみますと、娑婆(しゃば)での栄華は夢の中で夢を見るようにはかないもので、どんなに裕福に栄えても何にもなりません。人間に生れることは容易ではなく、その人間に生れて仏教に会うのはさらに困難なことです。此度地獄に沈んだら長久の時間を経たとしても再び極楽浄土に浮び上ることは難しいのです。若さを頼りにするべきではありません。此の世は老人も若きもどちらが先に死ぬとも決まっていないところです。死は速やかにやってきて一呼吸の間も待ってくれません。蜻蛉(かげろう)や稲妻(いなづま)よりもさらにはかないのです。一時の栄華を誇って、死後の世界を知らいないでいることの悲しさに、今朝、邸を忍び出てこうなって参りました」と言って、被っていた衣を取り除いた姿を見ると、尼になって出て来たのであった。

語句

■一向専修 ひたすらに、専ら修める。 ■かくて春過ぎ夏闌(た)けぬ 「闌く」は盛が過ぎる。「春過ぎ夏闌けぬ。袁司徒が家の雪、路達しぬらむ」(『和漢朗詠集』下 菅三品) ■星合の空 七夕の夜、牽牛と織女が一年に一回逢うという、その空。 ■天のとわたる梶の葉に、思ふ事書く比なれや 「天の戸」は天の川の川幅が狭くなっているところ。そこを舟が渡る。その舟の舵から植物の梶を導く。梶はコウゾ類の植物。七夕の夜、願い事を書くと叶うと信じられていた。 ■いふかひなき 取るに足らない。つまらない。 ■魔縁 仏教の修行を妨げるもの。魔物。悪魔。 ■なかなか かえって。むしろ。いっそのこと。 ■弥陀の本願 阿弥陀仏の誓願。『無量寿経』に四十八願が上げられている。中心は題十八願。「設(たと)ひ我仏を得んに、十方衆生、至心に信楽(しんぎょう)して、我が国に生ぜんと欲し、乃至十念しても、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(たとえ私が仏になれるとしても、十方の衆生が極楽浄土に生まれたいと欲し、もしくは十度念仏を唱えても、もし極楽浄土に生まれることができないなら、私は悟りを得て仏となることはしない」 ■名号 阿弥陀仏の御名。南無阿弥陀仏。 ■聖衆 阿弥陀仏を中心に、死者を極楽浄土へ招く仏菩薩たち。 ■来迎 仏菩薩が、この世に来て、極楽浄土へ死者を迎えること。 ■引摂 いんじょう。極楽浄土へ引き取ること。 ■相かまへて お互いに心を構えて。 ■事新しう わざとらしく。 ■思ひ知らぬ身 人情の無い身。 ■人身は請けがたく仏教にはあひがたし 人間として生まれることは難しく、人間と生まれて仏の教えに出会うことはさらに難しい。 ■ないりに沈みなば 地獄に沈んだら。「ないり」は泥梨。地獄のこと。 ■多生曠劫 「多生」は六道を輪廻し、多くの何度も生まれ変わって生きること。「曠劫」は非常に長い時間。 ■出づる息の入るをも待つべからず 「出づる息の入る息またぬ世の中をのどかに君は思ひけるかな」(『往生要集』上「義記」三)。 ■かげろふいなづま はかないものの例え。かげろうは陽炎説と蜉蝣説。

原文

「かやうに様(さま)をかへて参りたれば、日比(ひごろ)の科(とが)をゆるし給へ。ゆるさんと仰せられば、諸共(もろとも)に念仏して、一つ蓮(はちす)の身とならん。それになほ心ゆかずは、是(これ)よりいづちへもまよひゆき、いかならん莓(こけ)のむしろ、松が根にも倒(たふ)れふし、命のあらんかぎり念仏して、往生の素懐(そくわい)をとげんと思ふなり」と、さめざめとかきくどきければ、祇王(ぎわう)涙をおさへて、「誠にわごぜの是ほどに思ひ給ひけるとは、夢にだに知らず。うき世の中のさがなれば、身のうきとこそ思ふべきに、ともすればわごぜの事のみうらめしくて、往生の素懐をとげん事かなふべしともおぼえず。今生(こんじやう)も後生も、なまじひにし損じたる心地(ここち)にてありつるに、かやうに様(さま)をかへておはしたれば、日比(ひごろ)のとがは露塵(つゆちり)ほどものこらず。今は往生うたがひなし。此度(このたび)素懐をとげんこそ、何よりも又うれしけれ。我等が尼になりしをこそ、世にためしなき事のやうに人もいひ、我身(わがみ)にも又思ひしか、様(さま)をかふるも理(ことわり)なり。今わごぜの出家にくらぶれば、事のかずにもあらざりけり。わごぜは恨(うらみ)もなし嘆(なげき)もなし。今年(ことし)は纔(わづか)に十七にこそなる人の、かやうに穢土(ゑど)を厭(いと)ひ、浄土をねがはんと、ふかく思ひ入れ給ふこそ、まことの大道心(だいだうしん)とはおぼへたれ。うれしかりける善知識(ぜんちしき)かな。いざもろともにねがはん」とて、四人一所(しにんいつしよ)にこもりゐて、朝夕(あさゆふ)仏前に花香(はなかう)をそなへ、余念なくねがひければ、遅速こそありけれ、四人の尼ども、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞(きこ)えし。されば後白河(ごしらかは)の法皇(ほふわう)の長講堂(ちやうごうだう)の過去帳にも、「祇王、祇女(ぎによ)、仏(ほとけ)、とぢらが尊霊(そんりやう)」と、四人一所(しにんいつしよ)に入れられけり。あはれなりし事どもなり。

現代語訳

「このように姿を変えて参りましたので、日頃の罪をお許しください。許そうとおっしゃるならば、共に念仏を唱え、極楽浄土の同じ蓮華の上に生れましょう。それでもなお気がすまなければ是から何処へなりとも迷い行き、どのような苔の筵、松の根にも倒れ伏し、命のある限り念仏を唱え、極楽往生の本懐を遂げようと思います」と、さめざめと涙を流して口説いたので、祇王は涙をこらえて、「誠、貴方がこれほどに思われているとは夢にも知りませんでした。辛い世の中の性で、そして嵯峨に住んでいるのですから、辛い事の多い身の上であることよと思うべきなのに、ともすれば貴方の事だけが恨めしくて、極楽往生の本懐を遂げられそうもありません。現世でも来世でも、なまじっかし損じた気持ちであったのに、貴方がこのように姿を変えてお出でになったのであれば、日頃の罪は微塵も残らず恨みはありません。今は極楽往生疑いなし。此度本懐をとげようとすることこそ、何よりも又うれしいことです。我等が尼になったのも、世に例がないことのように人も言い、また私自身もそのように思っていましたが、姿を変えるのも道理です。今、貴方が出家なさろうとする決意に比べれば、たいしたことではございませんでした。貴方はなんの恨みもなく、嘆きもありません。今年やっと十七になる人が、このように汚れたこの世を嫌い、浄土に行くことを願うために、深く思ひ入れなさっていることが、まことの無常菩提を求める心とわかりました。貴方は私にとって素晴らし仏法の指導者ですね。さあ一緒にお祈りしましょう」と言って、四人一緒に籠り住んで、朝夕仏前に花や香を備え、余念なくお祈りすると、死期に遅い早いの差はあったが、四人の尼達は、皆極楽往生の本懐を遂げたということである。だから後白河法皇の建てられた長講堂の過去帳にも、「祇王、祇女、仏、とじ等の尊霊」と、四人一緒に書き入れられたのである。しみじみと心を動かされる悲しい事であった。

語句

■一つ蓮の身とならん 極楽浄土で同じ蓮の葉の上に生まれましょう。 ■それになほ心ゆかずは それでもやはり心進まないなら。 ■苔のむしろ 苔が一面に生えているさまを筵にたとえる。 ■素懐 ふだんからの願い。 ■うき世の中のさがなれば 「性」と「嵯峨」を掛ける。 ■なまじひに 中途半端に。現世では清盛に捨てられ、極楽往生を願っても心に恨みが引きずっているので往生できそうもない。現世のことも後世のことも、どちらも中途半端という意味あい。 ■穢土 汚い土地。 ■大道心 大きな道心。 ■善知識 人を導いて仏道・善道に入れるよき導き手。 ■後白河の法皇 鳥羽法皇皇子。久寿2年(1155)即位。翌保元元年、保元の乱に勝利し、保元3年(1158)息子の二条天皇に譲位。嘉応元年(1169)出家。 ■長講堂 法華長講阿弥陀三昧堂。後白河院の六条殿に気づかれた持仏堂。再三の火事で寺地を転々としたが、天正6年(1578)現在の下京区河原町五条下がるへ。

ゆかりの地

若一神社(西八条邸跡)

宝亀三年(772)唐から渡来した威光上人の創建と伝わる。その後、この地は荒廃するが、平安時代後期、平清盛がこの地に西八条邸とよばれる別邸を築いた。

仁安元年(1166)平清盛公が熊野詣の折、土に埋もれた御神体を掘り出して祀れとご信託を受けた。そこで西八条邸にもどってから庭をほると、若一王子の御神体がみつかったので、社殿を造営し祀り、西八条邸の鎮守社とした。

平清盛公がご神体に開運出世を願うと、翌仁安二年(1167)太政大臣に任じられたことから、当社は運出世に効果ありとされる。

社前の楠の御神木は平清盛公の植樹と伝わり、境内には平清盛公西八条殿跡の碑、平清盛公の石像、祇王歌碑(萌え出ずるも枯るるも同じ野辺の草何れか秋にあはではつべき)がある。

京都府京都市下京区七条御所ノ内本町98

祇王寺

往生院祇王寺と号する真言宗の寺院。法然上人の弟子、念仏房良鎮の創建した往生院が、後に祇王寺とよばれるようになったと伝わる。

『平家物語』によると祇王は平清盛が寵愛した白拍子だったが、清盛の寵愛が新人の仏御前に移って後は出家して、母とぢ、妹祇女とともに当寺にこもった。後には仏御前も加わり、女四人で念仏三昧のうちに余生を送ったという。

境内いっぱいに広がる苔が美しい。本堂は明治28年(1895)再建。堂内には本尊大日如来像のほか、平清盛と祇王、祇女、とぢ、仏の木造が安置される。

境内には祇王姉妹の墓と伝わる宝篋印塔と、平清盛の供養塔などがある。

すぐ隣に、やはり平家物語ゆかりの滝口寺がある。

京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32

平家物語|原文・現代語訳・解説・朗読

朗読・解説:左大臣光永