平家物語 七 二代后(にだいのきさき)

『平家物語』巻第一より「代后(にだいのきさき)」。近衛天皇・二条天皇の二代の天皇に后として嫁いだ藤原多子の数奇な運命。

二代后 藤原多子 系図
二代后 藤原多子 系図

あらすじ

昔から源平両家は朝廷に召し使われていたが、 保元、平治の争乱の後は源氏は落ちぶれ、平家のみ繁盛した。

しかし鳥羽の院御崩御の後は、世の中がざわつきだし、永暦、應保の頃から 内(天皇)と院(上皇)の不仲が目立ってきた。

二条天皇は、後白河上皇のいいつけにことごとく背いたが、 中でも世の中を仰天させる事件があった。

先々代の天皇(近衛天皇)の后、太皇太后宮多子(たいこうたいこくう たし)は天下第一の美人の聞こえがあったが、近衛天皇崩御の後は、近衛河原の御所でひっそりと暮らしていた。

二条天皇は多子の元に艶書を送り、無視されると 多子の父右大臣公能(きんよし)に「多子を后として入内させよ」と宣旨を下した。

公卿詮議して、「二代に渡り天皇の后につくことは先例がない」と上皇に訴えるが、 二条天皇は聞き入れず、強引に入内を決めてしまった。

多子は近衛天皇のことを思い、涙にくれる。父の慰めも耳に入らない。やむなく入内すると、宮中には近衛院の生前の面影が多く残っていました。

多子は亡き近衛院と自分の運命を思い悲しみの歌を読むのだった。

原文

昔より今に至るまで、源平両氏、朝家(てうか)に召しつかはれて、王化(おうくわ)にしたがはず、おのづから朝権(てうけん)をかろむずる者には、互(たがひ)にいましめをくはえしかば、代(よ)の乱(みだれ)もなかりしに、保元(ほうげん)に為義(ためよし)きられ、平治(へいぢ)に義朝誅(よしともちゆう)せられて後は、すゑずゑの源氏ども、或(あるい)は流され、或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌(はんじやう)して、頭(かしら)をさし出(いだ)す者なし。いかならん末の代までも、何事かあらむぞとみえし。されども鳥羽院御晏駕(とばゐんごあんか)の後は、兵革(ひやうがく)うちつづき、死罪流刑(るけい)、闕官停任(けつくわんちやうにん)常におこなはれて、海内(かいだい)もしづかならず、世間もいまだ落居(らくきよ)せず。就中(なかんづく)に、永暦応保(えいりやくおうほう)の比(ころ)よりして院の近習者(きんじうしや)をば、内(うち)より御いましめあり。内の近習者をば、院よりいましめらるる間、上下おそれおののいて、やすい心もなし。ただ深淵(しんゑん)にのぞむで、薄氷(はくひよう)をふむに同じ。主上(しゆしやう)、上皇(じやうわう)、父子(ふし)の御(おん)あひだには、何事の御へだてかあるべきなれども、思(おもひ)の外(ほか)の事どもありけり。是(これ)も世澆季(げうき)に及んで、人梟悪(けうあく)をさきとする故なり。主上、院の仰せを常に申しかへさせおはしましける中にも、人耳目(じぼく)を驚かし、世もツて大きにかたぶけ申す事ありけり。

故近衛院(ここんゑのゐん)の后(きさき)、太皇太后宮(たいくわうたいこくう)と申ししは、大炊御門(おほひのみかど)の右大臣公能公(うだいじんきんよしこう)の御娘なり。先帝におくれ奉らせ給ひて後は、九重(ここのへ)の外、近衛河原(このゑかはら)の御所にぞうつり住ませ給ひける。さきの后宮(きさいのみや)にて、幽(かす)かなる御有様(ありさま)にてわたらせ給ひしが、永暦(えいりやく)のころほひは、御年廿二三にもやならせ給ひけむ、御さかりもすこし過ぎさせおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞えましましければ、主上色にのみそめる御心にて、偸(ひそ)かに高力士(かうりよくし)に詔(ぜう)じて、外宮(ぐわいきゆう)にひき求めしむるに及んで、此大宮(このおほみや)へ御艶書(ごえんしよ)あり。大宮敢へてきこしめすもいれず。さればひたすら早(はや)穂にあらはれて、后御入内(きさきごじゆだい)あるべき由、右大臣家(うだいじんげ)に宣旨(せんじ)を下さる。此事天下においてことなる勝事(しようし)なれば、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり、各(おのおの)意見をいふ。「先(ま)ず異朝の先蹤(せんじよう)をとぶらふに、震旦(しんだん)の則天皇后(そくてんくわうごう)は、唐(たう)の太宗(たいそう)の后(きさき)、高宗皇帝の(かうそうくわうてい)の継母(けいぼ)なり。太宗崩御(ほうぎよ)の後、高宗の后にたち給へる事あり。是は異朝の先規(せんぎ)たる上、別段(べつだん)の事なり。しかれども吾朝(わがてう)には、神武天皇(じんむてんわう)より以降(このかた)、人皇(にんわう)七十余代に及ぶまで、いまだ二代の后にたたせ給へる例をきかず」と、諸卿一同(しよきやういちどう)に申されけり。上皇(しやうくわう)もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上仰せなりけるは、「天子に父母(ふぼ)なし。吾十善(われじふぜん)の戒功(かいこう)によツて、万乗(ばんじよう)の宝位(ほうゐ)をたもつ。是程(これほど)の事、などか叡慮(えいりよ)に任せざるべき」とて、やがて御入内(ごじゆだい)の日、宣下(せんげ)せられける上は、力及ばせ給はず。

大宮かくときこしめされけるより、御涙(おんなみだ)にしづませおはします。先帝におくれ参らせにし久寿(きうじゆ)の秋のはじめ、同じ野原(のばら)の露とも消え、家をも出で世をものがれたりせば、今かかるうき耳をば聞かざらましとぞ、御嘆(おんなげき)ありける。父の大臣(おとど)こしらへ申させ給ひけるは、「『世にしたがはざるをもツて、狂人とす』とみえたり。既(すで)に詔命(ぜうめい)を下さる。子細(しさい)を申すに所なし。ただすみやかに参らせ給ふべきなり。もし皇子(わうじ)御誕生ありて、君も国母(こくも)といはれ、愚老も外租とあふがるべき、瑞相(ずいさう)にてもや候らむ。是偏(ひとへ)に愚老をたすけさせおはします。御孝行(ごかうかう)の御(おん)いたりなるべし」と申させ給へども、御返事(おんへんじ)もなかりけり。大宮其比(そのころ)なにとなき御手習(おんてならひ)の次(ついで)に、

うきふしに沈みもやらでかは竹の世にためしなき名をやながさん

現代語訳

昔から今に至るまで、源平両氏が朝廷に召し使われて、天子の施政に従わず、たまたま朝廷の権威を軽く見る者には、お互いに戒(いまし)めを加えたので、世の乱れは無かったが、保元(ほうげん)の乱で為義(ためよし)が切られ、平治(へいじ)の乱で義朝(よしとも)が討たれた後は、源氏の末流の者共は、或は流され、或は殺され、今では平家の一族だけが繁栄を謳歌し、頭を差し出すものもない。どんな末の代までも何事も起るまいと思われた。

しかし、鳥羽院の崩御後は戦が続き、死罪や流刑、過失などによる官位の剥奪などが常態的に行われ、世は乱れ、世間もいまだ静まらない。

とりわけ永暦・応保の頃から後河羽院の近習者を二条天皇の方からお戒めになり、天皇の近習者を院の方からお戒めになったので、誰もかれもおののいて、心も落ち着かない。ただ、戦々恐々として薄氷を踏むようであった。

天皇、上皇、父子の間では何事も隔たりがないものだが、思いのほかの事があった。是も道義がすたれ、人情が薄くなった末世となり、人が凶悪な事を第一としたからである。

天皇は院のおっしゃることにいつも口答えをなさっていた。中でも人の目を見張らせ、耳を疑うことがあり、世の中がひっくり返るようなことがあった。

故近衛院の后でのちの太皇太后皇と申した方は、大炊御門(おほひのみかど)の右大臣(うだいじん)公能公(きんよしこう)の御娘である。先帝(近衛天皇)に先立たれた後は、内裏を出て、九重の外、近衛河原の御所に移りお住まいになっていた。

先の后の宮としてひっそりとお過ごしになられていた。永暦の頃は御年二十二三になられており、女の盛りを少し過ぎたようであった。

しかし、天下第一の美人との評判高く、主上(二条天皇)は色好みの心から、秘かに玄宗皇帝が高力氏に命じて外宮に美人を探させたように、使いに命じて宮中の外に美人を求めさせるに及んで、この大宮の所に艶書を贈られた。

しかし、大宮はこのことをお聞きになったが受け入れを拒まれた。天皇はそれでひたすらもう表向きの事として后が御入内なさるようにと右大臣家に宣旨を下された。

このことは天下に於いて前例のない大事件だったので、その是非について公卿の話し会いが持たれ、それぞれが意見を述べた。

「まず外国の先例を尋ねると、中国の則天武后は、唐の太宗の后で、高宗皇帝の継母であるが、太宗崩御の後、高宗の后に立たれたことがある。

これは外国の先例であるので、別の事である。しかし我が国には、神武天皇より以降、人皇七十余代の今に及ぶまで、いまだ二代の天皇の后に立たれた例は聞きません」と、公卿たちは口をそろえて申された。

後白河上皇もあってはならぬ事と、なだめ申されたのが、主上は、「天子に父母なし。我は十善戒の守った功徳によって天皇の位についているのだ。

これほどのこと、どうして思うままにしてはならぬことがあろうか」と言って、やがて、后御入内の日を定めて宣下なされたので、後白河上皇も力及ばずなすすべがなかった。

大宮はこうこうと入内宣下の話しをお聞きになってからは、涙に沈んでいらっしゃる。

先帝に先立たれ申した久寿の秋のはじめ、同じ野原の露とも消え、家も出て世捨て人となっておれば、今このような嫌なことを聞かないだろうにと、お嘆きになった。父の右大臣がさとして申されたのは、

「『世の動きに従わないのは狂人である』と見えている。すでに詔命が下されておる。どうこう申す余地がない。ただ速やかに参られるべきである。もし皇子が御誕生なされたなら、君も国母と言われ、愚老も外祖父と仰がれる吉兆かもしれぬ。これはひとえに愚老を助けることになる。これもまったく御孝行のいたりでしょう」

と申されたが、御返事もなかった。大宮はその頃、なんとはなしに手習いをなさったついでに、

うきふしに沈みもやらでかは竹の世にためしなき名をやながさん

(先帝が亡くなられた悲しい時に死にもしないで世に生きながらえて、二代の后という世に例のない名を流すことになるのだろうか。悲しい事だ)

とお詠みになった。

語句

■為義 源為義。源義朝の父。保元の乱で崇徳上皇方について破れ、少納言入道信西のはからいで、息子の義朝によって処刑された。 ■義朝 平治の乱に破れ、東国へ逃れる途中、尾張国知多半島で味方の裏切りで殺された。 ■鳥羽院 堀河天皇皇子。嘉祥2年(1107)即位。保安4年(1123)譲位。白河院崩御後、大同4年(1129)より院政。永治元年(1142)法皇。保元元年(1156)7月2日崩御。54歳。 ■御晏駕(ごあんか) 天子が亡くなること。 ■兵革 兵器と甲冑から戦乱。保元の乱と平治の乱をさす。 ■闕官停任(けっかんちょうにん) 官吏をクビにし、職をやめさせること。 ■落居 落ち着くこと。 ■永暦応保の頃 二条天皇の時代の元号。永暦(1160-1161)。応保(1161-1163) ■院の近習者をば、内より御いましめあり 後白河院の近臣たちを二条天皇が処罰したこと。 ■内の近習者をば、院よりいましめらるる… 二条天皇の側近(藤原経宗・惟方)を後白河院が処罰したこと。 ■深淵にのぞんで薄氷をふむに同じ 深い淵にのぞんで薄氷をふむと同じビクビクした気持ち。「戦々兢々、如臨深淵、如履薄氷」(詩経・小雅) ■澆季(ぎょうき) 乱れた時代。末の世。 ■梟悪 性質が悪く、人の道に背いていること。 ■申しかへさせおはしましける 反対される。言い返される。 ■世もッて大きにかたぶけ申す事ありけり 世間の人がその事で、大いに非難申し上げることがあった。 ■太皇太后宮 先々代の天皇(近衛天皇)の后藤原多子。物語の時点では二条天皇の御世。二条→後白河→近衛とさかのぼる。 ■大炊御門の右大臣 徳大寺公能。永暦元年(1160)右大臣。邸が大炊御門(郁芳門)の北、高倉の東にあったため。徳大寺家は藤原兼家の弟・公季にはじまる閑院流藤原氏の一派。初代は徳大寺実能。 ■近衛河原 上京区近衛殿北口町あたり。同志社大学新町キャンパス西。 ■后宮(きさいのみや) 皇后の御所。 ■永暦のころほひ 永暦元年、多子21歳。永暦2年22歳。 ■色にのみそめる御心 ひたすら色にふける御心。多子の色香に強く惹かれている様子。 ■高力士 玄宗皇帝に楊貴妃を引き合わせた宦官の高力士。 ■大宮 皇太后宮、太皇太后宮の異称。多子は「近衛河原の大宮」と呼ばれる。 ■早穂にあらはれて 早くもそのことを表に表わして。 ■勝事 大事件。 ■公卿詮議 公卿たちの会議。 ■震旦 中国の異称。 ■則天皇后 則天武后。唐の太宗・高宗の皇后。その後自ら即位。仏教を篤く信仰した。 ■こしらへ申させ給ふ さとされる。 ■十善の戒功 仏教にいう十悪をしない戒めをまもった功徳。 ■叡慮 天子の意思。自敬表現。 ■御入内の日 永暦元年(1160)正月26日。 ■先帝 近衛天皇。久寿二年(1155)7月23日崩御。17歳。 ■うき耳 嫌な知らせを聞くこと。 ■世にしたがはざるをもッて、狂人とす 「世にしたがへば身くるし。したがはねば狂するに似たり」(『方丈記』)。 ■詔命 天子の命令。 ■子細を申すに所なし 細かいことを言う余地がない。 ■外祖 天皇の母方の祖父。

原文

世にはいかにしてもれけるやらむ、哀れにやさしきためしにぞ、人々申しあへりける。

既(すで)に御入内(ごじゆだい)の日になりしかば、父の大臣(おとど)、供奉(ぐぶ)の上達部(かんだちめ)、出車(しゆつしや)の儀式なンど、心ことにだしたて参らせ給ひけり。大宮物うき御いでたちなれば、とみにも奉らず。はるかに夜もふけ、さ夜(よ)もなかばになツて後、御車(おんくるま)にたすけ乗せられ給ひけり。御入内の後は、麗景殿(れいけいでん)にぞましましける。ひたすら朝政(あさまつりごと)をすすめ申させ給ふ御有様(おんありさま)なり。彼紫宸殿(かのししんでん)の皇居には、賢聖(げんじやう)の障子(しやうじ)をたてられたり。伊尹(いゐん)、第五倫(ていごりん)、虞世南(ぐせいなん)、太公望(たいこうぼう)、$#x752a;里先生(ろくりせんせい)、李勣(りせき)、司馬(しば)。手長足長、馬形(むまがた)の障子、鬼の間(ま)、李(り)将軍のすがたを、さながらうつせる障子もあり。尾張守小野道風(をはりのかみおののたうふう)が、七廻賢聖(しちくわいげんじやう)の障子と書けるも理(ことわり)とぞみえし。彼清涼殿(かのせいりやうでん)の画図(ぐわと)の御障子(みしやうじ)には、むかし金岡(かなおか)がかきたりし、遠山(ゑんざん)の在明(ありあけ)の月もありとかや。故院(こゐん)のいまだ幼主(ゆうしゆ)にてましましけるそのかみ、なにとなき御手(おんて)のまさぐりの次(ついで)に、かきくもらかさせ給ひしが、ありしながらにすこしもたがはぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋(おんこひ)しくおぼしめされけむ、

思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲井の月を見むとは

其間(そのあひだ)の御なからへ、いひ知らず哀れにやさしかりし御事なり。

現代語訳

世間にはどうして漏れたのだろうか、哀れで耐え難いことだと、人々は語り合った。

すでに御入内の日になったので、父の右大臣はお供の公卿のことや出車の儀式などを細心の注意を払ってお出しするようになさった。

大宮は気の進まない御出発だったので急いでも車にお乗りにならない。すっかり夜もふけ夜半になってから、御車に人に助け乗せられてお乗りになった。

御入内の後は、麗景殿(れいけいでん)にお住まいになる。そして帝にはひたすら朝の政をお勧め申しておられるご様子である。あの紫宸殿の皇居には、賢聖(げんじやう)の障子(しやうじ)をお立てになった。

そこには伊尹(いゐん)、第五倫(ていごりん)、虞世南(ぐせいなん)、太公望(たいこうぼう)、$#x752a里先生(ろくりせんせい)、李勣(りせき)、司馬(しば)の肖像が描かれていた。

清涼殿には手長足長を描いた荒海の障子や、馬形(むまがた)の障子があり、鬼の間には白沢王(はくたくおう)の鬼を斬る絵、また陣の座には李将軍の姿を、そのまま写した障子もある。

尾張守小野道風が七廻賢聖の障子と書いたのも道理に思われた。その清涼殿の障子の絵画には、昔巨勢の金岡が描き足した遠方の山陰に見える在明の月もあるということだ。

故近衛院がまだ幼君でいられた其の時、なんとなく手なぐさみのついでに、墨で汚して曇らせなさったが、それがその時のままで少しも変わらないのを大宮は御覧になって、先帝のおられた昔を恋しく思われたのだろうか、次のように詠まれた。

思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲井の月を見むとは
(情けない俗人のままで再びこの宮中に参って、かって見たのと同じ御障子の月を見、宮中から空の月を見ようとは、思いもしなかった)

近衛院と大宮との御交情は、なんともいいようもないほど哀れで感慨深い御事である。

語句

■かは竹 河辺に生えている竹。 ■上達部 公卿の別称。三位以上くは四位の参議。 ■出車の儀式 飾りとして車を並べる儀式。 ■出したて参らせ給ふ =い出したて参らせ給ふ ■とよにも奉らず すぐには車に乗らない。 ■麗景殿 内裏の殿舎の一つ。 ■朝政(あさまつりごと) 天子の政務。朝行ったことが多いことから。  ■紫宸殿 紫震殿とも。宮中の公式な儀式が行われる御殿。 ■賢聖の障子 げんじょう。中国の賢人聖人32人を描いた襖障子。紫宸殿の北側に立てた。 ■伊尹 殷の湯王の宰相。 ■第五倫 後漢の光武帝に仕えた。 ■虞世南 唐の太宗に仕えた。 ■太公望 周の文王に仕えた。 ■甪里先生 秦の始皇帝の悪政を避けて商山にこもった。 ■李勣 唐の太宗に仕える。 ■司馬 官職名。 ■手長足長 手が長いのと足が短いのの、コンビの妖怪。清涼殿の荒海の障子に描かれる。 ■馬形の障子 馬の絵が描かれた障子。 ■鬼の間 清涼殿西南の庇の間。白沢王(はくたおう)が鬼を斬る絵が壁に描かれていた。白沢王は古代インドの波羅奈国(はらなこく)の王。 ■李将軍 李広。漢の文帝・景帝・武帝に仕えに仕えた。武勇に優れ「飛将軍」の異名をもつ。中島敦の小説で有名な李陵は孫。 ■尾張守小野道風 平安時代中期の能書家。宮中の殿舎や門の扁額を多く手掛けた。延長6年(928)清涼殿の南庇の間に、中国の賢君名臣について書いた(『日本紀略』)。 ■七廻賢聖の障子 七回、賢聖の障子を書いたという、その障子。「然而て紫震殿の皇居に、七廻、賢聖障子を書く(然而紫震殿の皇居、七廻書賢聖障子)」(『本朝文粋』六) ■金岡 巨勢金岡(こせのかなおか)。平安時代初期の宮廷画家。宇多天皇や藤原基経の恩顧を受け、菅原道真や紀長谷雄と交流があった。 ■故院 近衛天皇。 ■幼主 天子の場合は「ゆうしゅ」と読む。あるいは「ゆう」とも「よう」とも聞こえぬように語ると。(『平家物語集解』『平家物語指南抄』) ■御手まさぐり 手すさび。 ■かきくもらせ給ひしが 筆先で月の上にいたずら描きして、月が隠れたようになった。 ■ありしながらにすこしもたがわぬを御覧じて 近衛天皇が生きていらっしゃった時に少しも違わぬのを。 ■御なからへ 近衛院と藤原多子との間柄。

………

前提として、後白河上皇と二条天皇父子の関係は、かなり悪かったのですね。

後白河は今様をたしなんだりお忍びで町に出かけて庶民と交わったり、かなり風変わりな君主でした。対して二条天皇は折り目正しい、生真面目な性格でした。

そういう性格の違いもありましたが、

そもそも「院政」という仕組み自体が、「上皇派」と「天皇派」の対立を生みやすいシステムだったと言えます。

「院政」とは、退位した天皇が、現役天皇を補佐するという名目で政治実権を握るというシステムです。

一方に上皇方の機関である「院庁(いんのちょう)」があり、一方に天皇方の機関である「太政官(だじょうかん)」があり、

いわば2つの政府が並立しているような形ですので、どうしても上皇派と天皇派で対立が起きます。

二条天皇はなにかにつけて父後白河上皇に逆らい反発しました。ここでは二条天皇が父後白河上皇に逆らったことの例として、先々代の近衛天皇の后・藤原多子を后としたことが挙げられています。

近衛天皇が亡くなったのが久寿2年(1155)。翌年の保元元年(1156)、天下分け目の保元の乱が起こり、後白河天皇方が勝利しました。そして保元の乱の2年後、保元3年(1158)後白河は息子の二条天皇に譲位します。藤原多子が二条天皇のもとに入内したのは永暦元年(1160)。夫近衛天皇が亡くなって5年目のことでした。

本文中、藤原多子が入内した後、宮中の紫宸殿・清涼殿の障子に書かれている絵のことが列挙されていて、面食らいますが、これらは先帝近衛天皇との思い出エピソードを語る、前ふりです。

清涼殿の障子に、巨勢金岡が描いた「遠山の有明の月」があった。亡き近衛天皇がいまだ幼い頃、筆先でいたずら描きして、月が隠れたようになった。その絵が、当時のままそこにあり、多子は亡き近衛天皇を思い出してしみじみ歌を詠むのです。

こういう、ちょっとしたエピソードがいい感じですね。

ちなみに藤原多子は藤原氏の中でも徳大寺家といわれる家の、徳大寺公能の娘です。小倉百人一首に歌を採られている後徳大寺実定は、多子の弟です。実定は『平家物語』にも主要な登場人物として出てきます。

平家物語|原文・現代語訳・解説・朗読

朗読・解説:左大臣光永