平家物語 八 額打論(がくうちろん)

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『平家物語』巻第一より「額打論(がくうちろん)」。

永万元年(1165)、二条天皇が亡くなり、幼帝・六条天皇が即位する。二条天皇葬送の夜、延暦寺と興福寺の間でいさかいが起こる。

天皇崩御の際は墓の四方に寺の額を掲げるしきたりで、その順序も決まっていた。しかし延暦寺が慣例を無視して興福寺より先に額をかけたため、興福寺の僧が怒って額を叩き割る。

あらすじ

永万元年(1165)春より二条天皇がご病気になり、六月二十五日、二歳になる一宮に親王の 宣旨が下される。

朝廷の儀礼に通じている人々が童帝の前例を話し合う。清和天皇九歳という例はあるものの、二歳とは前例のないことだった。

七月二十七日、二十三歳で二条天皇は崩御する。

その葬送の夜、延暦寺興福寺、両寺の大衆が、大変なさわぎをおこした。

天皇が崩御して葬送の時の作法として、各寺が御墓所のまわりに自分の寺の額を 打つことになっていた。

これには東大寺、興福寺、延暦寺…と厳密に順序が決まっていたが、 延暦寺は何を思ったか興福寺を飛ばして先に額を打った。

怒った興福寺から二人の悪僧が走り出し、延暦寺の額を切り落とし、散々に打ち割った。

(注)親王…皇族の称号。天皇の兄弟・皇子が親王で、姉妹・皇女が内親王。

原文

さる程(ほど)に永万(えいまん)元年の春の比(ころ)より、主上御不豫(しゆしやうごふよ)の御事と聞(きこ)えさせ給ひしが、夏のはじめになりしかば、事の外(ほか)に重らせ給ふ。是によツて大蔵大輔伊吉兼盛(おほくらのたいふいきちのかねもり)が娘の腹に、今生一宮(こんじやういちのみや)の二歳にならせ給ふがましましけるを、太子に立て参らせ給ふべしと、聞えしほどに、同(おなじき)六月廿五日、俄(にはか)に親王の宣旨(せんじ)下されて、やがて其夜受禅(そのよじゆぜん)ありしかば、天下(てんか)なにとなうあわてたる様(さま)なり。其時の有職(いうしよく)の人々申しあはれけるは、本朝に童帝(とうたい)の例を尋ぬれば、清和天皇(せいわてんわう)九歳にして、文徳天皇(もんどくてんわう)の御禅(おんゆづり)を受けさせ給ふ。是は彼周公旦(かのしうこうたん)の、成王(せいわう)にかはり、南面(なんめん)にして一日万機(いちじつばんき)の政(まつりごと)を治め給ひしに准(なぞら)へて、外祖忠人公(ぐわいそちゅうじんこう)、幼主(ゆうしゆ)を扶持(ふち)し給へり。是ぞ摂政のはじめなる。鳥羽院(とばのゐん)五歳、近衛院(このゑのゐん)三歳にて、践祚(せんそ)あり。かれをこそ、いつしかなりと申ししに、是(これ)は二歳にならせ給ふ。先例なし。物さわがしともおろかなり。

さる程(ほど)に同(おなじき)七月廿七日、上皇(しやうくわう)つひに崩御なりぬ。御歳(とし)廿三、つぼめる花の散れるがごとし。玉の簾(すだれ)、錦(にしき)の帳(ちやう)のうち、皆御涙にむせばせ給ふ。やがて其夜香隆寺(そのよかうりゆうじ)のうしとら、蓮台野(れんだいの)の奥、船岡山(ふなかやま)にをさめ奉る。御葬送(ごそうそう)の時、延暦(えんりやく)、興福両寺(こうぶくりやうじ)の大衆(だいしゆ)、額(がく)うち論(ろん)と云ふ事しいだして、互(たがひ)に狼藉(ろうぜき)に及ぶ。一天の君、崩御なツて後、御墓所(ごむしよ)へわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆、ことごとく供奉(ぐぶ)して、御墓所のめぐりに、わが寺々の額をうつ事あり。まづ聖武天皇(しやうむてんわう)の御願(ごぐわん)あらそふべき寺なければ、東大寺(とうだいじ)の額をうつ。次に淡海公(たんかいこう)の御願とて、興福寺の額をうつ。北京(ほくきやう)には興福寺にむかへて、延暦寺の額をうつ。次に天武天皇(てんむてんわう)の御願(ごがん)、教待和尚(けうだいくわしやう)、智証大師(ちしやうだいし)の草創(そうそう)とて、円城寺(えんじやうじ)の額をうつ。しかるを山門の大衆、いかが思ひけん、先例を背(そむ)いて、東大寺の次、興福寺のうへに、延暦寺の額をうつあひだ南都の大衆とやせまし、かうやせましと僉議(せんぎ)するところに、興福寺の西金堂衆(さいこんだうのしゆ)観音坊(くわんおんぼう)、勢至坊(せいしぼう)とてきこえたる大悪僧(だいあくそう)、二人ありけり。観音坊は、黒糸威(くろいとをどし)の腹巻に、しら柄の長刀(なぎなた)、くきみじかにとり、勢至坊は、萌黄威(もえぎをどし)の腹巻に、黒漆(こくしつ)の大太刀(おほだち)をもツて、二人(ににん)つツと走り出で延暦寺の額をきツておとし、散々にうちわり、「うれしや水、なるは滝の水、日はてるともたえずとうたへ」とはやしつつ、南都の衆徒(しゅと)の中へぞ入りにける。

現代語訳

そのうちに、永万元年の春頃から、天皇が御病気であるという噂が立ったが、夏の初めになると、意外に重体になられた。

このために、大蔵大輔伊吉兼盛(いきのかねもり)の娘の腹に生れた二条天皇の第一子がおられ、二歳になられるので、太子にお立て申すべきいう声があがったが、同年六月二十五日、突然親王の宣旨が下され、ただちにその夜天皇の位を譲り受けられたので世の中は何となく落ち着かない様子である。

当時の宮中の風俗習慣、儀礼に詳しい人々が言われるには、我が国の童帝の例を尋ねてみると、清和天皇は九歳にして、文徳天皇から位を譲り受けられた。

是はあの周の公旦が成王に代り君主となり、一日たりともおろそかにできない政務を治められたことになぞらえて、外租忠仁公が幼主を補佐なさいました。これが摂政の始まりである。

鳥羽院は五歳、近衛院は三歳で皇位を継承なさった。それをさえ早すぎると申したのに、これは二歳で天皇におなりになった。先例はない。物騒がしといっても十分に言い尽くせない程である。

さて、同年の七月二十七日、二条上皇はついにお亡くなりになった。御年二十三歳、つぼみの花が散るようであった。

玉の簾(すだれ)、錦の几帳の内にいる皇妃たちはみな涙にむせばれる。すぐにその夜香隆寺(こうりゅうじ)の北東で、蓮台野(れんだいの)の奥の船岡山に御遺体をお納めした。

御葬送の時、延暦、興福の両寺の衆徒が額打(がくうち)論という事をしはじめて互いに乱暴を働いた。

天子がお亡くなりになった後、御遺体を御墓所へ移し奉る時の作法は、奈良と京都の衆徒らがことごとくお供をして、御墓所の周囲にそれぞれ自分の寺の額をかける事がある。

まず東大寺は聖武(しょうむ)天皇の御願寺(ごがんじ)で、先を争う寺がないので東大寺の額をかける。

次に淡海(たんかい)公の御願寺という事で興福寺の額をかける。

京都方では興福寺の額に相対して延暦寺の額をかける。

次に天武天皇の御願寺で、教待(きょうだい)和尚、智証(ちしょう)大師の草創というので、園城寺(おんじょうじ)の額を掛ける。これが例である。

それなのに延暦寺の衆徒はどう思ったか、先例に背いて、東大寺の次、興福寺より先に延暦寺の額を掛けたので奈良の衆徒がこうしようかああしようかと相談しているうちに、

興福寺の西金堂(さいこんどう)の衆徒で観音(かんのん)坊、勢至坊(せいしぼう)といって評判の大悪僧が二人おり、

観音坊は黒糸脅(くろいとおどし)の腹巻に白木(しらき)の柄(つか)の長刀(なぎなた)を短(みじか)めに握り、勢至坊は、萌黄威(もえぎおどし)の腹巻に、黒い漆塗りの大太刀を持って、つつっと走り出て延暦寺の額を切って落とし、散々に打ち割り、

「うれしや水、なるは滝の水、日は照るとも絶えずと唱え」と囃しながら、奈良の衆徒の中へ入ってしまった。

語句

■永万元年 1165年。 ■御不豫 御不快。病。 ■大蔵大輔 大蔵省の次官。 ■伊吉兼盛(いきのかねもり)が娘 六条天皇の母。 ■今上一宮の 今上帝(二条天皇)の第一皇子であるところの。正しくは第二皇子。順仁=六条天皇。 ■受禅 「禅」は譲る。前の天皇から帝位を譲られること。 ■有職 宮中の有職故実(しきたり、所作などの知識)に詳しい人。 ■童帝(とうたい) 幼帝。 ■周公旦 周の武王の弟。武王の没後、幼帝成王が即位したが、周公旦がが6年間、補佐した。 ■南面 『易経』に天子に南面して天下をおさめるということから、天子の位につくこと。 ■一日万機(いちじつばんき)の政(まつりごと) わずか一日のうちにもさまざまなことが起こるので、油断できない。そういう心構えで行う政治のこと。 ■忠仁公 太政大臣藤原良房。娘の明子(あきらけいこ)は文徳天皇に嫁ぎ、惟仁親王、後の清和天皇を生んだ。 ■いつしかなり 早すぎる。 ■物さわがしともおろかなり 「気ぜわしい」と言っても、十分に言い尽くせない。 ■同七月廿七日 二条上皇崩御は永万元年(1165)7月25日。23歳。陵は京都市北区平野八丁柳町の「香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)」がそれ。 ■玉の簾、錦の帳のうち 後宮をさす。 ■香隆寺 現存せず。京都市北区衣笠にあった。 ■蓮台野 船岡山の西。現紫野。風葬の地だった。 ■船岡山 大徳寺の南。平安京の北方にあたる。 ■延暦寺 延暦7年(788)伝教大師最澄の草創。天台宗総本山。 ■興福寺 藤原鎌足が山階に創設(山階寺)。和銅3年(710)息子の不比等が平城京に移す。藤原氏の氏寺。 ■大衆 衆徒。大勢の衆徒。 ■南北二京 平城京と平安京。 ■まづ聖武天皇の… 東大寺→興福寺→延暦寺→園城寺の順で額を打ったということ。 ■額をうつ 御墓所の四方の門に、寺の扁額をかけること。 ■淡海公 藤原不比等の諡。 ■教待和尚(きょうだいかしょう) 園城寺(三井寺)を智証大師円珍に譲った。 ■智証大師 円珍。延暦寺五代座主。貞観10年(868)園城寺を譲られる。 ■園城寺 三井寺とも。天武天皇15年(686)天智天皇・弘文天皇(大友皇子)・天武天皇の勅願寺として、大友皇子の息子・大友与多王(おおともの よたのおおきみ)の創建と伝える。 ■興福寺の西金堂 聖武天皇皇后・光明子が、亡き母・県犬養橘三千代の一周忌供養のため建立した建物。現存せず。阿修羅像以下の八部衆や十大弟子などの像は取り出され、現在、国宝館に安置。 ■堂衆 堂に所属し仏事を行ったりする僧。 ■大悪僧 乱暴者の僧。「悪」は勢い盛んであること。激しいこと。 ■黒糸縅 鎧の礼(さね)(鉄または革で作った小さな板)を黒い糸で綴っもの。 ■しら柄 白木の柄。 ■くきみじか 長刀の持ち方。刃→前の手→後ろの手と続くが、刃と前の手との間を狭く、前の手と後ろの手との間を長く持つ持ち方。 ■萌黄縅 鎧の礼(さね)を萌黄色(黄色がかった緑)の糸で綴ったもの。 ■黒漆 黒い漆塗りの。 ■うれしや水 延年舞(法会の後に演じた芸能)の歌詞。滝の水がとうとうと流れるさまから、祝福の意をこめて歌われた。ここでは祝福の歌を歌いながら破壊行為を行っているのが肝。類歌「滝は多かれど、うれしやとぞ思ふ、鳴る滝の水、日は照るとも、たうでとうたへ、やれことつとう」(『梁塵秘抄』2)

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二条天皇葬送の夜、延暦寺が慣例を無視して、興福寺より先に額をかけたので、興福寺が怒って額を叩き落とすところまででした。ここからさらなる騒動に発展していきます。

二条天皇の陵は京都市北区衣笠。私のうちのすぐ近くです。住宅街の中にぽつんとあります。23歳で亡くなった短命な天皇ですが、なんだか親しみを感じます。

次の章「九 清水寺炎上

朗読・解説:左大臣光永

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