平家物語 十 東宮立

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『平家物語』巻第一より「東宮立(とうぐうだち)」。

幼帝六条天皇の皇太子として後白河と建春門院の間に生まれた皇子(憲仁親王)が立太子し、ほどなく高倉天皇として即位する。高倉天皇の即位により、平家の栄花はいよいよ高まる。

あらすじ

この年(永万元年)は二条天皇が崩御したため喪に服す意味で、禊の儀式は行われなかった。

十二月二十四日、建春門院(後白河上皇の女御)の産んだ一院の宮(後の高倉天皇)が親王の宣旨を下され、さらに翌年、立太子する。

叔父-甥で春宮-天皇という異例な形である。

その甥(六条天皇)が五歳で譲位し、位を受けた春宮は、高倉天皇となる。

高倉天皇の母、建春門院は清盛の妻、二位殿の妹。

平大納言時忠(へいだいなごん ときただ)は、建春門院の兄。平家は天皇家との結びつきを強め、ますます繁盛していく。

原文

さる程(ほど)に其年は諒闇(りやうあん)なりければ、御禊(ごけい)、大嘗会(だいじやうゑ)もおこなはれず。同(おなじき)十二月廿四日、建春門院(けんしゆんもんゐん)、其比(そのころ)はいまだ東の御方(おんかた)と申しける御腹に、一院の宮ましましけるが、親王の宣旨(せんじ)下され給ふ。あくれば改元あツて、仁安(にんあん)と号(かう)す。同年(おなじきとし)の十月八日(やうかのひ)、去年親王の宣旨蒙(かうぶ)らせ給ひし皇子、東三条(とうさんじやう)にて、春宮(とうぐう)に立たせ給ふ。春宮は御伯父六歳、主上は御甥(おんおひ)三歳(ざい)、昭穆(ぜうもく)にあひかなはず。但(ただ)し寛和(くわんわ)二年に、一条院(いちでうゐん)七歳にて御即位、三条院十一歳にて春宮に立たせ給ふ。先例なきにあらず。

主上は二歳にて御禅(おんゆづり)をうけさせ給ひ、僅に五歳と申す二月十九日、東宮践祚(せんそ)ありしかば、位をすべらせ給ひて、新院(しんゐん)とぞ申しける。いまだ御元服(ごげんぷく)もなくして、太上天皇(だいじやうてんわう)の尊号(そんごう)あり。漢家(かんか)、本朝、是やはじめならむ。
仁安(にんあん)三年三月廿日(はつかのひ)、新帝大極殿(しんていだいこくでん)にて御即位(ごそくい)あり。此君(このきみ)の位につかせ給ひぬるは、いよいよ平家の栄花(えいぐわ)とぞみえし。

御母儀(おんぼぎ)、建春門院と申すは、平家の一門にてましますうへ、とりわき入道相国の北の方、仁位殿(にゐどの)の御妹(おんいもうと)なり。又平大納言時忠卿(へいだいなごんときただきやう)と申すも、女院(にようゐん)の御兄(おんせうと)なれば、内の御外戚(ごぐわいせき)なり。内外(ないげ)につけたる執権の臣とぞみえし。叙位、除目(ぢもく)と申すも、偏(ひとへ)に此時忠卿のままなり。楊貴妃(やうきひ)が幸(さいは)ひし時、楊国忠(やうおくちゆう)が栄しが如(ごと)し。世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。入道相国、天下(てんか)の大小事を宣(のたま)ひあはせられければ、時の人、平関白(へいくわんぱう)とぞ申しける。

現代語訳

さてその年は諒闇(りょうあん)だったので、御禊(ごけい)、大嘗会(だいじょうえ)も行われなかった。

永万元年十二月二十四日に、建春門院(けんしゅんもんいん)、その頃はまだ東の御方と言われていた方の腹からお生まれになった後白河院の皇子がおられたが、その皇子に親王の宣下が下された。年があけると年号が改められ仁安と号した。

同年の十月八日に、去年親王の宣旨をお受けになられた皇子が、東三条の御所で東宮(とうぐう)としてお立ちになる。

東宮は六条天皇の御叔父(おじ)で六歳、天皇は東宮の御甥で三歳であり、長幼の順序にあわない。

但し、寛和二年に、一条院が七歳で御即位、三条院が十一歳で東宮にお立ちになった。先例がないわけではない。

六条天皇は二歳で皇位を譲り受けられ、僅か五歳という二月十九日に、東宮が皇位を継がれたので、位をお退きになって、新院と号した。

まだ御元服もされておらず、太上天皇(だいじょうてんのう)という尊号を受けられた。中国でもわが国でもこれが初めであろう。

仁安三年三月二十日に、新帝は太極殿にてご即位なさった。この君が位にお着きになったのは、ますます平家の栄華と思われた。

天子の御母君の建春門と申す人は、平家の一門でいらっしゃる上に、とりわけ入道相国の北の方、仁位殿の御妹君である。又、平大納言時忠(ときただ)卿と申す人も、建春門院の兄上であり、天皇の御外戚である。

内裏とそれ以外と内外両面に関係を持つ権力を握った臣下と見えた。叙位、叙目(じもく)も、全くこの時、時忠卿の思うままである。

楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を受け輝いていたときに、楊国忠が栄えていたのと同じである。世間の評判、当時の繁栄はすばらしかった。

入道相国は天下の大小事をすべて相談したので、当時の人々は、時忠を平関白(へいぱんぱく)と申した。

語句

■其年 永万元年(1165)。 ■諒闇 天子または皇后が亡くな天子が喪中にあること。ここでは二条上皇崩御による。 ■御禊 11月の大嘗会に先駆け、天皇が河で禊をすること。二条・三条の賀茂河原で行われた。 ■大嘗会 天皇即位後のはじめての新嘗祭。その年に新しく収穫された穀物を天照大神および天神地祇に捧げ、天皇がお召し上がりになり臣下にも振る舞われる。即位が7月以前の場合はその年の11月に、7月以降の場合は翌年の11月に行われた。 ■建春門院 後白河上皇の后・滋子。平清盛の妻・時子は妹。 ■一院の宮 後白河上皇第三皇子、憲仁親王。後の高倉天皇。 ■改元 永万2年(1166)8月27日、改元して仁安元年。 ■東三条 後白河の御所の一つ三条東殿。三条北、東洞院西、烏丸東。現姉小路通り沿い。 ■昭穆(じょうもく)にあひかなわず 父子長幼の順番に反している。皇太子憲仁親王は6歳、六条天皇は3歳で、皇太子の年齢が天皇より高いことを言う。「昭穆」は中国で宗廟における霊位の席次。太祖(創始者)の廟を中央に、「昭」は右側で、太祖の子・四世・六世の廟がならぶ。 ■寛和二年 986年「寛和の変」により花山天皇が退位し、一条天皇が即位した。 ■二月十九日 仁安三年(1168)2月19日、六条天皇譲位、高倉天皇践祚。 ■太上天皇 上皇。譲位した天皇の称号。最初に号したのは持統天皇(上皇)という。 ■大極殿 平安京大内裏朝堂院の北。現千本丸太町。 ■内 (高倉)天皇。 ■内外につけたる 宮中と宮中以外(平家一門)につけての。 ■執権の臣 権力をもった家臣。 ■叙位・除目 叙位は正月5日、天皇御自ら五位以上の位階を賜る儀式。除目は大臣以外の官吏任命の儀式。 ■楊貴妃が幸いせしとき… 楊貴妃は玄宗皇帝に愛され、楊子の一族は大いに繁盛した。楊国忠は楊貴妃のいとこで、国政に大きく関与した。 ■宣ひあわせ 相談する。

……

六条天皇譲位・高倉天皇即位に伴い、後白河院后・建春門院、その兄平時忠が紹介されています。

次の章「十一 殿下乗合

朗読・解説:左大臣光永

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