平家物語 十一 殿下乗合(てんがののりあい)

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平家物語巻第一より「殿下乗合(てんがののりあい)」。摂政藤原基房の一行と清盛の孫、資盛の一行の間でトラブルがあり、遺恨に思った清盛は摂政の一行を襲撃させる。

あらすじ

重盛の次男、資盛を乗せた車が、鷹狩の帰り道、摂政藤原基房の車と行きがかった。本来、下馬の礼におよぶべきところ、押し通ろうとしたため、摂政基房方は資盛方に暴行を加えた。

資盛が六波羅にもどって事の次第を報告すると、清盛は怒って、来る高倉天皇御元服の日、摂政基房の車を襲撃せよと侍どもに命じた。

侍どもは清盛の命令によって、摂政基房の車を襲撃し、お供の者たちのもとどりを切り、恥辱を加えた。重盛は事情をきいて驚き、侍たちを勘当し、資盛を伊勢にしばらく追放した。

原文

さる程に、嘉応(かおう)元年七月十六日、一院(いちゐん)御出家あり。御出家の後も、万機(ばんき)の政(まつりごと)をきこしめされしあひだ、院内(ゐんうち)わく方なし、院中(ゐんぢゆう)にちかく召しつかはるる公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、上下の北面(ほくめん)にいたるまで、官位、俸禄(ほうろく)皆身にあまる計(ばかり)なり。されども人の心のならひなれば、猶(なほ)あきだらで、「あツぱれ其人のほろびたらば、其国はあきなむ。其人うせたらば、其官にはなりなん」なンど、うとからぬどちは、寄りあひ寄りあひささやきあへり。法皇も内々(ないない)仰せなりけるは、「昔より代々の朝敵をたひらぐる者、おほしといへども、いまだか様(やう)の事なし。貞盛(さだもり)、秀郷(ひでさと)が将門(まさかど)をうち、頼義(らいぎ)が貞任(さだたふ)、宗任(むねたふ)をほろぼし、義家(ぎか)が武衡(たけひら)、家衡(いえひら)をせめたりしも、勧賞(けんじやう)おこなはれし事、受領(じゆりやう)には過ぎざりき。清盛がかく心のままにふるまふこそ、しかるべからね。是(これ)も世末(すゑ)になツて、王法(わうほふ)のつきぬる故(ゆゑ)なり」と仰せなりけれども、ついでなければ御いましめもなし。平家も又、別して朝家(てうか)を恨み奉る事もなかりしほどに、世の乱れそめける根本(こんぽん)は、去(い)んじ嘉応(かおう)二年十月十六日、小松殿(こまつどの)の次男、新三位中将資盛卿(しんざんみのちゆうじやうすけもりのきやう)、其時はいまだ越前守(ゑちぜんのかみ)とて十三になられけるが、雪ははだれにふツたりけり、枯野(かれの)のけしき、誠に面白(おもしろ)かりければ、若き侍(さぶらひ)ども卅騎ばかり召し具して、蓮台野(れんだいの)や紫野(むらさきの)、右近馬場(うこんのばば)にうち出でて、鷹(たか)どもあまたすゑさせ、うづら雲雀(ひばり)を、おツたておツたて、終日(ひめもそ)にかり暮し、薄暮(はくぼ)に及んで六波羅(ろくはら)へこそ帰られけれ。其時の御摂禄(ごせふろく)は、松殿(まつどの)にてましましけるが、中御門(なかのみかど)、東洞院(ひがしのとうゐん)の御所より御参内(ごさんだい)ありけり。

郁芳門(いくほうもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門(おほひのみかど)を西へ御出なる。資盛朝臣(すけもりのあツそん)、大炊御門猪熊(おおひのみかどゐのくま)にて、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に、はなづきに参りあふ。御供の人々、「何者ぞ、狼藉なり。御出のなるに、乗物よりおり候(さふら)へおり候へ」といらでけれども、余りにほこりいさみ、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍(さぶらひ)ども、皆廿より内の若者どもなり、礼儀骨法弁(こつぽうわきま)へたる者一人(いちにん)もなし。殿下の御出ともいはず、一切(いつせつ)下馬の礼儀にも及ばず、かけやぶツてとほらむとするあひだ、くらさは闇(くら)し、つやつや入道の孫(まご)とも知らず、又少々は知つたれども、そら知らずして、資盛朝臣(すけおりあツそん)をはじめとして、侍ども皆馬よりとツて引きおとし、頗(すこぶ)る恥辱に及びけり。資盛朝臣、はふはふ六波羅(ろくはら)へおはして、祖父(おほじ)の相国禅門(しやうこくぜんもん)に、此由(このよし)うツたへ申されければ、入道大きにいかツて、「たとひ殿下(てんが)なりとも、浄海(じやうかい)があたりをばはばかり給ふべきに、をさなき者に、左右(さう)なく恥辱をあたへられけるこそ、遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。此事(このこと)思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばや」と宣(のたま)へば、重盛卿(しげもりきやう)申されけるは、「是(これ)は少しも苦しう候まじ。頼政(よりまさ)、光基(みつもと)なンど申す源氏共にあざむかれて候はんには、誠に一門の恥辱でも候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、殿の御出(ぎよしゆつ)に参りあひて、乗物よりおり候はぬこそ、尾籠(びろう)に候へ」とて、其時(そのとき)事にあうたる侍(さぶらひ)ども、召し寄せ、「自今(じこん)以後も、汝等(なんぢら)、能く能く心得(こころう)べし。あやまツて殿下(てんが)へ無礼の由を申さばやとこそ思へ」とて、帰られけり。

現代語訳

さて嘉応(かおう)元年七月十六日に、後白河天皇が御出家なさった。御出家の後もすべての政を執り行われたので、院と内裏の区別がつかない。

院中に近く召し使われる公家・殿上人から上下の北面の武士に至るまで、官位、俸禄は皆身に余る程であった。しかし人の心の習性で、猶も飽き足らず、「ああ誰それが滅びたなら其の国は空くだろう。

その人が亡くなったらその官になろう」などと、親密な仲間達は、寄りあいを重ねてはささやきあった。

後白河法皇もないないに言われたことには、「昔から代々の朝敵を平らげた者が、多いと言っても、まだこんな事はなかった。

平貞盛・藤原秀郷が平将門を討ち、源頼義が安倍貞任・宗任を滅し、源義家が清原武衛・家衛を攻めた時も褒賞が行われたが、それは国司以上の任命ではなかった

。清盛がこのように思うがままに振舞うのはよろしくない。これも世が末になって帝王の権威が尽きたからである」と仰せられたけれども、機会がなくお咎めもなかった。

平家も又特別に朝廷を恨むこともなかったが、世が乱れ始めた根本は、次のようなことからである。

去る嘉応二年十月十六日、小松殿(重盛)の次男、新三位中将資盛(すけもり)卿が、その時はまだ越前守として十三歳になられていたが、雪はうっすらと降っていたし、枯野の景色は実に見事だったので若い侍ども三十騎ほどを供に連れて、蓮台野(れんだいの)や紫野(むらさきの)、右近馬場(うこんのばば)に出かけ、鷹を多く持って行かせ、その鷹を放して、うづら・雀を追い立て追い立てして、終日狩り暮しを行い、薄暮れになってから六波羅へ帰られた。

その時の摂政は松殿(藤原基房)でいらっしゃったが、中御門大路(なかのみかど)の南、東洞院(ひがしのとういん)の御邸宅から参内なさった。

その時の摂政は、松殿(藤原基房)であったが、中御門、東洞院の御所から御参内されていた。郁芳門から内裏に入られる予定で、東洞院を南へ、大炊御門を西へお出(で)になった。

資盛(すけもり)朝臣の一行は、大炊御門大路の猪熊(いのくま)で、摂政殿(松殿基房)のお出ましに、ばったりと出会った。摂政殿のお供の人々が、

「何者だ。狼藉者。殿下のお出かけである、乗物より降りよ、降りよ」

と下馬するようせかされたが、余りにも平氏の威勢を誇り勇みたって、世間を何とも思っていなかったうえ連れの侍どもも皆二十歳に満たない若者であり、礼儀作法をわきまえた者は一人もいない。

摂政殿のお出ましとは誰も言わないので、これを無視し一切下馬の礼をとろうともしない。 

駆け破って通ろうとしたので、辺りは闇に包まれてもいたし、夢にも入道の孫とも知らず、又少しは知っている者がいても、とぼけて知らないふりをして、資盛朝臣をはじめ侍どもを皆馬から引きずり降ろし、たいそう辱をかかせた。

資盛朝臣は這うようにして六波羅へ行かれ、祖父の相国禅門に、事の次第を訴え申されたので、入道は大いに怒り、

「たとえ摂政殿であっても浄海の身内の者をはばかり遠慮されるべきなのに幼いものに、何のためらいもなく恥をかかせたのは遺恨な事である。こういう事からして人に見くびられるのだ。此の事を摂政殿に思い知らせてやらないではおられないぞ。摂政殿へのお恨みをはらしたいものだ」

と言われると、重盛卿が申されるには、

「これは少しも気になさることはありません。頼政(よりまさ)、光基(みつもと)などと申す源氏共に馬鹿にされたのなら、誠一門の恥辱になるでしょう。重盛の子どもともあろう者が、摂政殿のお出ましに行き合せて乗物から降りなかったことこそ無作法でありましょう」

と言って、その時事にあたった侍どもを召し寄せ、

「これから先、汝らはよくよく心得えよ。間違って殿下へ無礼を働いたことを私のほうから謝ろうと思っている」

と言って、帰られた。

語句

■嘉応元年七月十六日 1169年。高倉天皇即位の翌年。後白河の出家は『玉葉』『百錬抄』によれば6月17日。 ■一院 後白河上皇。 ■わく方なし 分く方なし。区別できない。院の御所が天皇の内裏のように繁盛してことをいう。 ■北面 上皇親衛隊。白河上皇の創設。院の御所の北面に詰所があったため。上北面は四位・五位。下北面は六位。 ■あきだらで 飽き足らないで。 ■あっぱれ ああ。感動詞。 ■うとからぬどち 親しい仲間同士。 ■貞盛、秀郷が将門をうち 平定盛・藤原秀郷が平将門を討伐したこと。『将門記』『太平記』などにしるす。 ■頼義が貞任・宗任をほろぼし 奥州前九年の役(1051-1063)で、源頼義が安倍貞任・宗任を討伐したこと。 ■義家が武衡、家衡をせめたりし 頼義の子が義家。後三年の役(1083-1087)で清原武衡・家衡を討伐した。 ■しかるべからね あってはならないこと。あるべきではない。 ■王法 仏教で、国王の定めた法令。仏法に対して世俗の政治・法律・慣習。 ■去んじ 去にしの音便。去る。 ■嘉応二年十月十六日 1170年。『玉葉』によると7月3日。7月と11月では季節感がまるで異なる。演出効果を狙ったもの? ■新三位中将資盛卿 新三位中将は三位中将のうちの新参者。資盛は仁安元年(1166)越前守。養和元年(1181)右権中将。寿永2年(1183)従三位。つまりこの事件があった時点では「新三位中将」ではなく「越前守」。 ■十三になられける 平資盛は応保元年(1161年)生まれ(『愚管抄』)。これが正しければ十歳。 ■雪ははだれにふったりけり 雪がはらはらとまばらにふっている様子。 ■紫野・蓮台野 京都市北区。船岡山の西麓。蓮台野は火葬場。 ■右近馬場 京都市上京区。北野天満宮東南あたり。 ■終日 ひねもす・ひめもそ。一日中。 ■御摂禄 摂政。この時、高倉天皇摂政は藤原(松殿)基房。屋敷(松殿)は中御門大路の南、東洞院大路にあった。 ■郁芳門 いくほうもん・ゆうほうもん。大内裏東側最南の門。大炊御門(おおいのみかど)とも。 ■大炊御門猪熊 大炊御門大路(東西)と猪熊小路(南北)が交差する地点。大炊御門大路は現在は竹屋町通・太子道。 ■殿下 てんが。摂政・関白への尊称。 ■はなづきに参りあふ ばったり出会う。 ■いらでけれども 「いらづ」は、せかす。督促する。 ■礼儀骨法 礼儀作法。「骨法」は物事の基本や枠組み。 ■つやつや~知らず まったく知らず。 ■そら知らずして 知らないふりをして。とぼけて。 ■禅門 出家せず家にいながら仏門に入っている者。入道に同じ。 ■浄海があたりをはばかり給ふべきに 清盛の親類・縁者には気を遣えと。 ■左右なく さうなく。容赦なく。遠慮なく。 ■恨み奉らばや お恨み申し上げないことがあろうか。 ■頼政・光基 源頼政は源中政の子。平治の乱の生き残りで源氏の長老格。源光基は源光信の子。ともに源頼光の子孫。 ■尾籠 失礼。無作法。おこ(痴)に当てた漢字(尾籠)を音読みしたもの。 ■あやまって殿下へ無礼の由を申さばやとこそ思へ 間違って摂政様に無礼を働いたことのお詫びを私はしたいと思っている。 

原文

其後入道相国、小松殿には仰せられもあはせず、片田舎(かたいなか)の侍(さぶらひ)どもの、こはらかにて、入道殿の仰せより外(ほか)は、又おそろしき事なしと思ふ者ども、難波(なんば)、瀬尾(せのを)をはじめとして、都合六十余人を召し寄せ、「来る廿一日、主上御元服(しゆしやうごげんぷく)の御(おん)さだめの為に、殿下御出(てんがぎよしゆつ)あるべかむなり。いづくにても待ちうけ奉り、前駆御随身(ぜんぐみずいしん)どもがもとどりきツて、資盛(すけもり)が恥すすげ」とぞ宣ひける。殿下是をば夢にもしろしめさず、主上明年(みやうねん)御元服、御加冠(ごかくわん)、拝官(はいくわん)の御さだめの為に、御直慮(ごちよくろ)に暫(しばら)く御座(ござ)あるべきにて、常の御出(ぎよしゆつ)よりもひきつくろはせ給ひ、今度は待賢門(たいけんもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、中御門(なかのみかど)を西へ御出なる。猪熊堀河(ゐのくまぼりかは)の辺(へん)に、六波羅の兵(つわもの)どの、ひた甲(かぶと)三百余騎、待ちうけ奉り、殿下を中にとり籠め(こ)め参らせて、前後より一度に時をどツとぞつくりける。前駆御随身どもが今日(けふ)をはれとしやうぞいたるを、あそこに追つかけ、爰(ここ)に追つつめ、馬よりとツて引きおとし、散々(さんざん)に陵轢(りようりやく)して、一々にもとどりをきる。随身十人がうち、右の府生武基(ふしやうたけもと)がもとどりもきられにけり。其中に藤蔵人大夫隆教(とうくらンどのたいふたかのり)がもとどりをきるとて、「是は汝(なんぢ)がもとどりと思ふべからず。主(しゆう)のもとどりと思ふべし」と、いひふくめてきツてンげり。其後は御車の内へも、弓のはずつきいれなンどして、すだれかなぐりおとし、御牛の鞦(しりがい)、胸懸(むながけ)きりはなち、かく散々(さんざん)にしちらして、悦(よろこび)の時をつくり、六波羅へこそ参りけれ。入道、「神妙(しんべう)なり」とぞ宣ひける。御車ぞひには、因幡(いなば)のさい使(づかい)、鳥羽(とば)の国久丸(くにひさまる)と云ふ男(をのこ)、下臈(げらふ)なれどもなさけある者にて、泣く泣く御車仕(つかま)ツて、中御門(なかのみかど)の御所へ還御(くわんぎよ)なし奉る。束帯 (そくたい)の御袖(そで)にて、御涙をおさへつつ、還御の儀式あさましさ、申すもなかなかおろかなり。大織冠(たいしよくくわん)、淡海公(たんかいこう)の御事はあげて申すに及ばず、忠仁公(ちゆうじんこう)、昭宣公(せうぜんこう)より以降(このかた)、摂政関白(せつしやうかんぱく)のかかる御目(おんめ)にあはせ給ふ事、いまだ承り及ばず。これこそ平家の悪行のはじめなれ。

小松殿(こまつどの)大きにさわいで、其時(そのとき)ゆきむかひたる侍(さぶらひ)ども、皆勘当(かんだう)せらる。「たとひ入道いかなる不思議を下知(げち)し給ふとも、など重盛(しげもり)に夢をばみせざりけるぞ。凡(およ)そは資盛奇怪(すけもりきツくわい)なり。栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)よりかうばしとこそ見えたれ。既(すで)に十二三にならむずる者が、今は礼儀を存知(ぞんぢ)してこそふるまふべきに、か様(やう)に尾籠(びろう)を現じて入道の悪名(あくみやう)をたつ。不孝(ふかう)のいたり、汝独(なんぢひと)りにあり」とて、暫(しばら)く伊勢国(いせのくに)におひ下さる。されば此大将(このたいしやう)をば、君も臣も御感(ぎよかん)ありけるとぞきこえし。

現代語訳

その後、入道相国は小松殿には何も相談されないで、片田舎の侍どもで無骨者で、入道殿の仰せの外には、恐ろしい事はないと思う者どもを、難波・瀬尾をはじめとして、都合六十数人を召し寄せて、

「来る二十一日に天皇御元服の打ち合わせのために、摂政殿のおいでがあるはずだ。何処かで待ち受けて、前駆・随身どもの髻(もとどり)を切って、資盛の恥をそそげ」

と言われた。

摂政殿はこれをまったく御存じでなく、天皇の明年の御元服・御加冠・拝官の御打ち合わせのために、宮中の摂関宿所に暫くしばらくいらっしゃる予定で、いつものお出かけよりも身だしなみを整えられ、今度は待賢門から宮中にお入りになる予定で、中御門を西へおいでになった。

猪熊・堀河の辺りに、六波羅の兵どもが一同皆甲冑に身を固めて三百数騎が待ち受け、摂政殿を中に取り囲んで、前後からいっせいにどっと鬨(とき)の声をあげた。

前駆・随身どもが、今日は晴れやかな装束で着飾っていたのを、あちらへ追っかけ、こちらに追い詰め、馬から引きずり降ろし、散々馬鹿にして踏みにじり、各人の髻(もとおり)を切った。随身十人のうち、右近衛の府生武基(たけもと)の髻も切られてしまった。

お供の中で藤蔵人大夫藤原隆教(たかのり)の髻を切る際に、「これはお前の髻と思ってはならぬ。主人の髻と思え」と、言い含めて切った。

その後は殿下の御車の中にも弓の両端を突き入れたりして、車の簾(すだれ)を引きずり落し、御牛の鞦(しりがい)、胸懸けを切り放して、散々にやりちらして喜びの鬨(とき)の声をあげて、六波羅へ参った。

入道は「感心である」と言われた。牛車の左右に付き添う舎人(とねり)には、因幡の先使で鳥羽の国久丸という男がおり、身分は低いが思いやりのある者で、泣きながら御車を動かして、中御門・東洞院の御邸宅へお帰し申し上げた。

摂政殿が束帯の御袖で、御涙を抑えながらのお帰りになる儀式の情けなさは言葉では言い尽くせないほどである。

大織冠(藤原鎌足)、淡海公(藤原不比等)の御事は特に言うまでもなく、忠人公(太政大臣藤原良房)、昭宣公(藤原基経)以来、摂政関白殿がこのような目にお会いになったことを聞いたことがない。これこそ平家の悪行の始まりであった。

これを聞いた小松殿(重盛卿)は大いに驚き、そのとき現場に向かって悪行を働いた侍どもを、皆勘当された。

「たとえ入道がどんなに非常識なことを下知されたとしても、どうして重盛に夢にでもそういうことを見せてくれなかったのか。だいたい資盛がけしからん。栴檀は二葉より香ばしいと言われている。すでに十二三になろうとする者が、礼儀を知った振舞をすべきなのに、このように無礼を働いて入道の悪名をたてる。不孝の極みである。責任はお前一人にある」

と言って、暫く伊勢国に資盛を追いやられた。だから、この大将(重盛卿)に天皇もその臣下も感心なさったということであった。

語句

■こはらか 無骨。 ■難波・妹尾 ともに平家の家人。難波は難波次郎経遠。備前の人。妹尾は妹尾太郎兼康。備中妹尾の人。 ■来る二十一日 嘉応二年(1170)十月二十一日、高倉天皇御元服(『玉葉『山槐記』) ■前駆御随身 せんぐみずいじん。「前駆(せんぐ)」は貴人外出の時騎馬に乗って先駆けをする。「随身(ずいじん)」は貴人外出の時、警護にあたる近衛の役人。摂政の御随身は10人。「御」は敬意をこめる接頭語。 ■御加冠 元服後、はじめて冠をつけること。 ■拝官 任官。 ■御直盧 宮中の摂政・関白・大臣・大納言などが休憩する部屋。 ■ひきつくろはせ 身だしなみ整えて。 ■待賢門 大内裏東側南から二番目の門。 ■中御門を西へ御出なる 松殿基房の車は、中御門東洞院の屋敷を出て、中御門大路を西へ進み、待賢門から大内裏に入ろうとしていた。中御門大路は現丸太町通りの一部が重なる。 ■猪熊堀河 猪熊小路 中御門大路(東西)と猪熊小路・堀川小路(南北)の交差する地点。現元離宮二条城の北。 ■ひた甲 全員が甲冑を着て。 ■しやうぞいたる 着飾っている。 ■陵轢 りょうりゃく。侮り踏みにじること。 ■もとどりをきる 死よりもきつい恥辱と考えられていた。 ■右の府生武基 右近衛の府生である武基。府生は六衛府・検非違使の下役人。 ■藤蔵人大夫隆教 藤原隆教。藤原忠隆の子。大夫は律令制で五位の者をいう。 ■鞦 牛馬の尻から背にかける組み緒。 ■胸懸 むながけ。むながい。鞅。牛馬の胸のあたりにかける組み緒。 ■神妙なり 感心である。 ■御車ぞひ 牛車の左右に従う舎人。 ■さい使 先使。国司が赴任するにあたって、その国の在庁官人に知らせる使。 ■御車仕ッて 御車に付き添って。 ■中御門の御所 松殿基房の屋敷=松殿。 ■申すもなかなかおろかなり 言葉にして表現することもできないという意味の慣用表現。 ■大織冠 藤原鎌足。大化3年(647)天智天皇が鎌足に授けた史上唯一の官位。 ■淡海公 鎌足の次男、不比等の諡。 ■忠仁公 太政大臣藤原良房の諡。娘の明子(あきらけいこ)は文徳天皇に嫁ぎ、惟仁親王(清和天皇)を生んだ。 ■昭宣公 関白藤原基房の諡。 ■など重盛に夢をば見せざりけるぞ どうして重盛に夢を見せて知らせなかったのだ? ■栴檀は二葉よりかうばし 栴檀(白檀)は芽を出した時からふくよかな香りを漂わせている。すぐれた人物は子供の頃から違うということわざ。

……

清盛が命じて摂政基房の車を襲撃させた、重盛はいさめという話になっていますが、『玉葉』によると事情はまったく違い、重盛が命じて摂政基房の車を襲撃させたとなっています。

清盛を悪人に、重盛を善人に描こうとした『平家物語』作者の作為が見えます。

ゆかりの地

藤原基房邸(松殿)跡(推定)

藤原基房邸(松殿)は『平家物語』によると「中御門大路の南、東洞院大路の西」で、現在の京都御苑内の「出水の枝垂れ桜」のあたり(碑などはない)。

基房邸の北側に接する中御門大路を西へ進むと大内裏の待賢門に至る。

郁芳御門跡(推定)

郁芳御門は大内裏東側最南にあった門。

藤原基房の一行は中御門大路の南、東洞院大路の西の松殿(藤原基房邸)から東洞院通りを南へ、大炊御門大路を西へ向かい、郁芳御門から大内裏に入ろうとしたところで、平資盛一行とはちあわせた。

接触地点は現在の元離宮二条城の北、猪熊通りと竹屋町通が接するあたりと思われる。

待賢御門跡、猪熊通

平安京大内裏東側には北から上東門、陽明門、待賢門、郁芳門とならんだ。待賢門はそのうち北から三つ目の門で、大内裏東側ほぼ中央に位置した。別名、中御門(なかのみかど)。

『平家物語』によると関白藤原基房の一行は中御門通りを待賢門をめざして進んだところで、「猪熊堀河の辺」で六波羅の兵に取り囲まれ暴行を受けた。

次の章「十二 鹿谷

朗読・解説:左大臣光永

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