平家物語 十ニ 鹿谷(ししのたに)

『平家物語』巻第一より「鹿谷(ししのたに)」。

打倒平家クーデター計画「鹿谷(ししのたに・ししがたに)事件」の前半。

あらすじ

摂政藤原基房(ふじわら もとふさ)一行は、高倉天皇御元服の儀の打ち合わせに向かう途中、平家の侍に襲撃された(殿下乗合」)。

このため、打ち合わせは延期されたものの、基房は天皇への加冠役に選ばれ、太政大臣の宣旨を受けた。

翌嘉応三年正月五日、高倉天皇御元服の儀が行われる。

その時、清盛の娘徳子(後の建礼門院)の入内が決まる。

身分上、入内は許されないので後白河法皇の猶子として入内した。

その頃、藤原師長(ふじわら もろなが)が、近衛左大将を辞職。

空席になった左大将へ昇進するのは、徳大寺の大納言実定卿(とくだいじのだいなごん じっていのきょう)と噂された。

新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかきょう)は、この左大将への就任を強く望む。

後白河法皇に気に入られていたことをいいことに、石清水八幡宮で大般若を七日読ませ、祈る。

七日目に山鳩が三羽飛んできて、共食いして死ぬという不吉なしるしがあった。

神祇官は「天下の騒ぎ」と占う。

成親卿はこりずに上賀茂神社へ七夜参詣する。

七夜目に見た夢に、お告げがあり、お前の願いは聞き入れられないということだった。

それでも懲りない成親卿は、上賀茂神社に修行僧をこもらせて百日間の修法を行わせた。

七十五日目に雷が落ち、あやうく火事になりかけたので、神人らはこの僧を追い出した。

しかし成親卿がこれほど望んだにも関わらず、実定卿も成親卿も左大将になれなかった。

右大将であった小松殿(平重盛)が左大将に、中納言であった次男宗盛が位の高い人を幾人も飛び越して右大将に就任。

全て平家の意のままとなった。

徳大寺殿は家柄も学問も優れ、次期右大将と期待されていたが、宗盛卿に先を越されたのは遺恨なことで、しばらく自宅に閉じこもることにした。

大納言成親卿は、重盛、宗盛に先を越されたことに憤る。

平治の乱の時、敵側に同心して首を刎ねられる運命だったのを、小松殿の口ききによって助けられた恩を忘れ、必ず平家を滅ぼすといきまくのだった。

京都東山の鹿谷(ししのたに)に、俊寛僧都の山荘があり、大納言らは毎夜集まって平家打倒の策謀をめぐらせる。

ある夜、後白河法皇が故・少納言入道信西の子・静憲法印を伴って訪れる。

その席で、大納言は目の前の瓶子(とっくり)を引き倒し、「平氏が倒れた」とはしゃぐ。

各人、「瓶子(平氏)」の洒落に便乗してはしゃぎ、しまいに西光法師が「首をとるのが一番」と、瓶子の首をもぎ取ってしまう。

静憲法印は、あまりの恐ろしさに、物も言えなかった。

原文

是(これ)によツて、主上御元服(ごげんぷく)の御(おん)さだめ、其日はのびさせ給ひぬ。同(おなじき)廿五日、院の殿上(てんじやう)にてぞ御元服のさだめはありける。摂政殿(せつしやうどの)、さてもわたらせ給ふべきならねば、同(おなじき)十二月九日(ここのかのひ)、兼宣旨(かねてせんじ)をかうぶり、十四日(じふしにち)、太政大臣(だいじやうだいじん)にあがらせ給ふ。やがて同(おなじき)十七日、慶申(よろこびまうし)ありしかども、世の中は猶(なほ)にがにがしうぞみえし。

さるほどに今年(ことし)も暮れぬ。あくれば嘉応(かおう)三年正月五日(いつかのひ)、主上御元服あツて、同(おなじき)十三日、朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)ありけり。法皇、女院(にようゐん)待ちうけ参らつさせ給ひて、叙爵(じよしやく)の御粧(おんよそはひ)、いかばかりらうたくおぼしめされけん。入道相国の御娘(おんむすめ)、女御(にようご)に参らせ給ひけり。御年十五歳、法皇御猶子(ごいうし)の儀なり。
其比妙音院(そのころめうおんゐん)の太政(だいじやう)のおほいとの、其時は未(いま)だ内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてましましけるが、大将(だいしやう)を辞し申させ給ふことありけり。

時に徳大寺(とくだいじ)の大納言実定卿(だいなごんじつていのきやう)、其仁(そのじん)にあたり給ふ由きこゆ。又花山院(くわさんのゐん)の中納言兼政卿(ちゆうなごんかねまさのきやう)も所望あり。其外故中御門(そのほかこなかのみかど)の藤中納言家成卿(とうぢゆうなごんかせいのきやう)の三男、新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)も、ひらに申されけり。院の御気色(ごきしよく)よかりければ、さまざまの祈(いのり)をぞはじめられける。八幡(やはた)に、百人の僧をこめて、信読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を七日よませられける最中に、甲良(かうら)の大明神(だいみやうじん)の御前(おんまへ)なる橘(たちばな)の木に、男山(をとこやま)の方(かた)より山鳩(やまばと)三つ飛(と)び来(きた)ツて、くひあひてぞ死ににける。「鳩は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の第一の仕者(ししや)なり。宮寺(みやでら)にかかるふしぎなし」とて、時の検校(けんげう)、匡清法印(きやうせいはふいん)、此由(このよし)内裏へ奏聞(そうもん)す。神祇官(じんぎくわん)にして御占(みうら)あり。「天下のさわぎ」とうらなひ申す。「但(ただ)し君の御つつしみにあらず、臣下の御つつしみ」とぞ申しける。新大納言是(これ)におそれをもいたされず、昼は人目のしげければ、夜な夜な歩行にて、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の宿所より賀茂(かも)の上(かみ)の社(やしろ)へ、七夜(ななよ)つづけて参られけり。七夜に満(まん)ずる夜(よ)、宿所に下向して、苦しさにうちふし、ちツとまどろみ給へる夢に、賀茂の上の社へ参りたるとおぼしくて、御宝殿(ごほうでん)の御戸(みと)おしひらき、ゆゆしくけたかげなる御声(おんこゑ)にて、

さくら花(ばな)賀茂の河風うらむなよ散るをばえこそとどめざりけれ

現代語訳

この事件のため、高倉天皇御元服の儀式の為の打ち合わせは、其の日は延期となったが、同月二十五日、院の殿上の間で行われた。

摂政殿に対してはその労を労(ねぎら)う為に、そのままでおかれるわけにはいかないので、同じ年の十二月九日前もって宣旨が下され、十四日、太政大臣に御昇進なさった。

すぐ同じ十七日任官のお礼を言上されたが、世間は猶も不安定で落ち着かないようであった。

そうしているうちにこの年も暮れた。明けて嘉応(かおう)三年正月五日、高倉天皇が御元服なさって、同じ十三日、院の御所(法住寺殿)へ御報告の行幸をなさった。

後白河法皇と建春門院(けんしゅんもんいん)は待ち受けておられて対面なさったが、天皇初冠(ういこうぶり)の御様子をどんなに可愛くお思いになったことだろう。

入道相国の御娘が女御として入内(じゅだい)された。御年十五歳、後白河法皇の御養子という事である。

その頃、妙音院(みょうおんいん)の太政大臣が、その時はまだ内大臣の左大臣でおられたが、大将を辞任されることがあった。

その時、徳大寺の大納言実定(さねさだ)卿が、その後任にあたっておられるということであった。

又花山院の中納言兼政卿も所望された。そのほか故中御門(こなかのみかど)の藤中納言家成(いえなり)卿の三男、新大納言成親(なりちか)卿も、一途に所望された。

成親卿は後白河院の御おぼえが良かったので、さまざまな祈りを始められた。

男山の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に、百人の僧を籠(こも)らせ、大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみったきょう)六百巻の文句を省略しないで七日間読ませられたが、その最中に甲良大明神(こうらだいみょうじん)の前にあった橘(たちばな)の木に、男山(おとこ)の方から山鳩(やまばと)が三羽飛んできて、互いに食い合って死んでしまった。

「鳩は八幡(はちまん)大菩薩の第一の使者である。宮寺でこのようなおかしな事はないものだ」と言って、その時の検校(けんぎょう)、匡清法印(ぎょうせいほういん)はこの事を内裏へ奏聞(そうもん)した。

神祇官(じんぎかん)で御占(みうら)があって「天下の騒乱」と占いがでた。

「但し君の御慎みで無く臣下の御慎みである」と申した。新大納言はこれに恐れも抱かれず、昼は人の目が多いので夜な夜な歩かれて、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の自宅から上賀茂(かみがも)神社へ、七日間続けて参詣された。

七日目の夜、自宅に帰り、疲れて苦しかったので横になり少しお眠りになったが、その夢で上賀茂神社へお参りになったらしく、御宝殿の御戸を押し開き、ひととおりでない気高い御声で、次のように唄をお詠みになった。

さくら花(ばな)賀茂の河風うらむなよ散るをばえこそとどめざりけれ

(桜の花よ賀茂の河原から吹く風を恨んではならぬ、風のせいではなく時が来たので花が散るのを止めることができなかったのだ)

語句

■主上御元服の御さだめ 高倉天皇ご元服の打ち合わせ。 ■摂政殿 高倉天皇摂政・松殿基房。 ■さてもわたらせ給ふべきならねば そのままでというわけにもいかないので。摂政を務めている以上、官位も昇進させないというわけにはいかないの意? ■兼(かねて)宣旨をかうぶり 前もって宣旨(天皇からの告知)を受けて。 ■慶申(よろこびまうし) 官位昇進のお礼を申し上げること。 ■にがにがしう 不愉快に。うっとうしく。 ■嘉応三年 1171年。正しくは正月三日(『玉葉』)。 ■朝覲(ちょうきん)の行幸(ぎょうごう) 天皇が年のはじめまたは即位・元服の後に上皇・皇太后の御所に挨拶のため行幸すること。 ■参らつさせ給ひて 「参らさせ給ひて」の音便。 ■叙爵 官位に叙すること。 ■らうたく かわいく。 ■入道相国の御娘 平徳子。後の建礼門院。 ■女御 天皇の御寝所に仕える女官。中宮の下。更衣の上。または上皇・皇太子の侍女。 ■猶子 養子。 ■妙音院の太政(だいじょう)のおほいとの 妙音院の太政大臣。宇治の悪左府藤原頼長の次男、藤原師長。 ■其時は未だ内大臣の左大将 藤原師長、仁安三年(1168)左大将、安元元年(1175)内大臣、安元三年(1177)左大将辞任。なのでこの話の時点では実際にはまだ「内大臣」ではなかった。 ■其仁(そのじん) 仁は人。大将になるのにふさわしい人物である。 ■花山院中納言兼雅卿 藤原兼雅。花山院家4代。後花山院左大臣と称した。 ■新大納言成親 中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。 ■ひらに申されけり 切に希望された。 ■院の御気色よかりければ 新大納言成親は後白河法皇に気に入られていたので。 ■八幡 男山にある石清水八幡宮。 ■信読 経典の文句を省略しないでぜんぶ読むこと。 ■大般若 『大般若波羅蜜多経』600巻。 ■甲良 男山のふもとにある高良社。武内宿禰や住吉明神を祭る。 ■仕者 仕える者。 ■宮寺 新宮寺。神社内にある寺。石清水八幡宮ははやくから神仏習合がすすみ、多くの新宮寺があった。 ■検校 寺社で事務を司る者。 ■匡清法印 16年にわたって石清水八幡宮の寺務をつとめた人物。 ■神祇官 全国の神社神官を統括する役所。■御占 亀占。亀の甲を焼いて、出来た亀裂によって、吉凶を判断する。 ■御つつしみ 謹慎して物忌すること。 ■中御門烏丸(なかのみかどからすまる) 中御門大路と烏丸(からすまる)小路の交差するところ。中御門大路は現在の丸太町通の一部が重なる。烏丸小路は現在の通り名「からすま」ではなく「からすまる」と読む。 ■賀茂の上の社 上賀茂神社。賀茂別雷神社。京都市北区。 ■さくら花賀茂の河風うらむなよ… さくら花に成親を、賀茂の河風に賀茂の神を当て、いくら願っても叶えることはできないが、恨むなよの意を詠む。 

原文

新大納言(しんだいなごん)、猶(なほ)おそれをもいたされず、賀茂の上の社にある聖(ひじり)をこめて、御宝殿の御(おん)うしろなる杉(すぎ)の洞(ほら)に壇をたてて、拏吉尼(だぎに)の法を百日おこなはせられけるほどに、彼大椙(かのおおすぎ)に雷(いかづち)おちかかり、雷火夥(おびただ)しうもえあがツて、宮中既(すで)にあやふくみえけるを、宮人(みやうど)どもおほく走りあつまツて、是(これ)をうち消(け)つ。さて彼外法(げほふ)おこなひける聖(ひじり)を追出(ついしゆつ)せむとしければ、「われ当社に百日参籠(さんろう)の大願(だいぐわん)あり。今日(けふ)は七十五日になる。まツたくいづまじ」とて、はたらかず。此由を社家(しやけ)より内裏へ奏聞(そうもん)しければ、「唯(ただ)法にまかせて追出(ついしゆつ)せよ」と宣旨(せんじ)を下さる。其時神人(そのときじんにん)しら杖(つゑ)をもツて彼(かの)聖がうなじをしらげ、一条の大路(おほち)より南へおひだしてンげり。神は非礼を享(う)け給はずと申すに、此大納言非分(ひぶん)の大将(だいしやう)を祈り申されければにや、かかる不思議もいできにけり。

其比(そのころ)の叙位、除目(じもく)と申すは、院内(ゐんうち)の御(おん)ばからひにもあらず、摂政関白(せつしやうくわんぱく)の御成敗(ごせいばい)にも及ばず、唯(ただ)一向平家のままにてありしかば、徳大寺(とくだいじ)、花山院(くわさんのゐん)もなり給はず、入道相国(にふだうしやうこく)の嫡男小松殿、大納言の右大将(うだいしやう)にておはしけるが左(ひだり)にうつりて、次男宗盛(むねもり)、中納言にておはせしが数輩(すはい)の上臈(じやうらふ)を超越(てうをつ)して右(みぎ)にくははられけるこそ申す計(はかり)もなかりしか。中にも徳大寺殿(とくだいじどの)は一の大納言(だいなごん)にて、花族英雄(くわぞくえいよう)、才学雄長(さいかくいうちやう)、家嫡(けちやく)にてましましけるが、加階(かかい)こえられ給ひけるこそ遺恨なれ。「さだめて御出家なンどやあらむずらむ」と人々内々(ないない)は申しあヘリしかども、暫(しばら)く世のならむ様(やう)を見むとて、大納言を辞し申して、籠居(ろうきよ)とぞきこえし。新大納言成親卿宣(しんだいなごんなりちかのきやうのたま)ひけるは、「徳大寺(とくだいじ)、花山院(くわさんのゐん)に超(こ)えられたらむはいかがせむ、平家の次男に超えらるるこそやすからね。是(これ)も万(よろづ)思ふ様(さま)なるがいたす所なり。いかにもして平家をほろぼし、本望をとげむ」と宣ひけるこそおそろしけれ。父の卿は中納言までこそいたられしか、其末子(そのばつし)にて、位正二位(じやうにゐ)官大納言にあがり、大国(だいこく)あまた給はツて、子息所従(しよじゆう)、朝恩にほこれり。何の不足にかかる心つかれけん、是偏(ひてへ)に天魔(てんま)の所為(しよゐ)とぞみえし。平治(へいぢ)にも越後中将(えちごのちゆうじやう)とて、信頼卿(のぶよりのきやう)に同心のあひだ、既(すで)に誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して、頸(くび)をつぎ給へり。しかるに其恩を忘れて、外人(ぐわいじん)もなき所に、兵具(ひやうぐ)をととのへ、軍兵(ぐんぴやう)をかたらひおき、其営(いとなみ)の外(ほか)は他事なし。

東山の麓(ふもと)、鹿(しし)の谷(たに)と云ふ所は、うしろは三井寺(みゐでら)につづいて、ゆゆしき城郭(じやうくわく)にてぞありける。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)の山庄(さんざう)あり。かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家ほろぼさむずるはかりことをぞ廻(めぐら)しける。或時(あるとき)法皇も御幸(ごこう)なる。故少納言入道信西(こせうなごんにふだふしんせい)が子息、静憲法印御供(じやうけんほふいんおんとも)仕る。其夜(よ)の酒宴に、此由(このよし)を静憲法印に仰せあはせられければ、「あなあさまし。 人あまた承り候ひむ。唯今(ただいま)もれきこえて、天下(てんか)の大事に及び候ひなんず」と、大きにさわぎ申しければ、新大納言けしきかはりて、さツとたたれけるが、御前(ごぜん)に候(さうら)ひける瓶子(へいじ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)にかけて、引倒(ひきたふ)されたりけるを、法皇、「あれはいかに」と仰せければ、大納言立帰(たちかへ)ツて、「平氏(へいじ)たはれ候ひぬ」とぞ申されける。

現代語訳

新大納言は、それでも恐れを抱かれず、上賀茂神社にある聖(ひじり)を籠らせて、御宝殿の後ろにある杉の洞穴に壇をたてて、拏吉尼(だぎに)の法を百日行わせられましたが、その大杉に雷が落ちかかり、雷火が激しく燃え上がり、神社の中もほとんど危なく見えたのを、神官等ども大勢走り集まって是を消し止めた。

それでその邪法を行った聖を追い出そうとしたが、「私はこの社に百日参籠するという大願がある。

今日は七十五日目になる。絶対出て行かないぞ」と言って、動かない。この事を代々神職を勤める家から内裏へ報告すると、「唯神社の規則に従って追放せよ」と宣旨を下された。

そこで、神人が白杖でその聖のうなじを打ち叩き、一条の大路から南へ追い出してしまった。

神は非礼をお受けにならないというのに、この大納言は身分不相応の大将を祈り申されたからであろうか、このような思いもよらない事が起ったのであった。

その頃の叙位、除目と申すのは、法皇と内裏の御計らいでもなく、摂政関白の取り計らいでもなく、唯、ことごとく平家の思うままだったので、徳大寺、花山院もおなりにならないで、入道相国の嫡男小松殿が大納言の右大将でおられたのが左に移って、次男宗盛が中納言であられたが、数人の上位の者を飛び越して右大臣にお加わりになったのは、言葉では言い現わせないあきれた事であった。

なかでも徳大寺殿は筆頭大納言で大臣大将を兼ね、太政大臣にまで進む事のできる家柄で、学識に優れ、嫡子でおられたが、平宗盛の頭越の昇進を恨みに思われた。

「きっと御出家などなさるのではないか」と、人々はうちうちで言い合ったが、暫く世の動きを見ようと、大納言を辞し申して家にお籠りになったという話しであった。

新大納言成親卿が

「徳大寺、花山院に超えられたら仕方がないが、平家の次男に超えられたのは心外だ。これも何でも平家の思い通りにしているからだ。どうでも平家を滅ぼし、本望を遂げよう」

とおっしゃったのは恐ろしいことであった。

父の家成卿は中納言までお昇りになったが、その末子は位は正二位、官位は大納言にあがり、大きな国をたくさんいただいて、子息とその従者たちは天皇から受けた恩について得意になって自慢していた。

何の不足があってこんな気持ちになったのか、これは全く天魔の仕業と思われた。

平治の乱でも越後中将としての信頼卿に心を寄せており、ほとんど処刑されそうであったところ、小松殿がさまざまに申し開きをして首を繋いだのだ。

しかしその恩を忘れて他人もいない所で兵具をそろえ、軍議を開き、平家を滅ぼす軍議を開いた。そのほかの事は何も考えなかった。

東山の麓、鹿の谷という所は、後ろは三井寺に続いていて、堅固な城郭であった。そこに俊寛僧都の山荘がある。

その山荘でいつも寄合を持ち、平家を滅ぼす謀(はかりごと)をしていた。或る時、後白河法皇もお出でになった。

故少納言入道信西の息子の静憲法印御供(じやうけんほふいんおんとも)がお供をした。その夜の酒宴で、平家討伐の計画があることを静憲法印に相談されたところ、静憲法印は

「ああ、ひどい。大勢の人が承っております。今に、漏れ聞えて、天下の大事になりましょう」

と、大いに騒ぎ立てたので、新大納言は顔色を変えて、さっと立たれたが、御前にあった瓶子を、狩衣の袖に引っ掛け、倒されたのを見て、法皇は、

「それはどういうことだ」

と言われると、大納言が戻ってきて、

「平氏が倒れました」

と申された。

語句

■こめて こもらせて。 ■拏吉尼(だぎに)の法 仏教の守護神「夜叉」の一つ荼枳尼天(だきにてん)に諸願成就を祈ること。 ■外法(げほう)賀茂の社で拏吉尼天に祈ったため、邪法であると。 ■社家 代々神職を勤める家。現在も上賀茂神社そばに社家町が残る。 ■神人 じにん。じんにん。神社に仕える職員。 ■しら杖 白木(塗料を塗らない木材)の杖。 ■しらげ 玄米を臼でついて白くすること。転じて、人を打つこと。 ■一条の大路(おほち)より南へ 一条大路は平安京の北のはずれであり、この世とあの世の境界とされた。安倍晴明や百鬼夜行の伝承が残る。一条より北が神領であった。 ■神は非礼を享け給はず 神は非礼をお聞き入れにならない。『論語集解義疏』の「神ハ非礼ヲウケズ」が出典。 ■非分の大将 成親が大将の地位を望むのを、分不相応であると作者はいっている。 ■小松殿 平重盛。 ■上臈 身分の高い人。 ■申す計(ばかり)もなかりしか 言葉では言えないほど、酷いことであった。 ■一の大納言 大納言が数人いる中の、主席の大納言。 ■花族英雄(かそくえいよう) 「花族」は大臣大将を兼ね、太政大臣まで進むことのできる家柄。英雄も同じ。 ■才学優長 学才に優れていること。 ■家嫡 家の嫡男。 ■加階 官位昇進。 ■籠居とぞきこえし 賀茂の神のお告げの示していたところ。 ■いかがせむ どうしようもない。 ■やすからね 心穏やかでない。 ■万思ふさまなるがいたす所なり 何でも平家の思い通りになってるから、こんなことになるのだ。 ■ほこれり 自慢する。 ■平治にも 平治の乱。平治元年(1160)、藤原信頼と源義朝が組んでクーデターを起こした。 ■越後中将 越後守兼右中将。 ■小松殿やうやうに申して 重盛の北の方は成親の妹。重盛の嫡男、惟盛の北の方は成親の二女。重盛三男清経の北の方は成親の五女。小松家と藤原成親はむすびつきが強かった。 ■外人もなき所に ほかの人が誰もいない所に。他には平家を討とうなんて者がだれもいないところに、わざわざ言い出した、のニュアンス。 ■其営(そのいとなみ) 平家を討つための戦の準備。 ■鹿の谷 京都府左京区鹿谷。霊厳寺門跡の脇の細道から登っていける。 ■俊寛僧都 右大臣源顕房のひ孫。父は藤原寛雅。三条坊門京極に住居があったため京極と号した。 ■山庄 山荘。 ■故少納言入道信西 藤原通憲。日向守、少納言に至るも出世の望みなく出家して信西と名乗った。しかし後白河上皇に重く用いられ院政に参加。学識すぐれ、大内裏の再建事業などを成し遂げたが、平治の乱で死ぬはめになった。 ■静憲法印 藤原通憲の六男。思慮深い人物で後白河も清盛も清憲を信用していた。ここでは俊寛はじめ浮かれた面々と静憲とで、言動が対照的に描かれている。 ■たはれ 倒れ。 

原文

法皇ゑつぼにいらせおはしまして、「者ども参って猿楽(さるがく)仕れ」と仰せければ、平判官康頼(へいほうぐわんやすより)、参りて、「ああ、あまりに平氏のおほう候に、もて酔(ゑ)ひて候」と申す。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)、「さてそれをばいかが仕らむずる」と申されければ、西光法師(さいくわうほふし)、「頸(くび)をとるにしかじ」とて、瓶子のくびをとツてぞ入りにける。静憲法印あまりのあさましさに、つやつや物も申されず。返す返すもおそろしかりし事どもなり。与力(よりき)の輩誰々(ともがらだれだれ)ぞ。近江中将入道連浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)俗名成正(なりまさ)、法勝寺執行俊寛僧都(ほつしやうじのしゆぎやうしゆんくわんそうづ)、山城守基兼(やましろのかみもとかね)、式部大輔雅綱(しきぶのたいふまさつな)、平判官康頼、宋判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)、新平判官資行(しんへいはうぐわんすけゆき)、摂津国源氏多田蔵人行綱(つのくにのげんじただのくらンどゆきつな)を始(はじめ)として、北面(ほくめん)の輩(ともがら)おほく与力したりけり。

現代語訳

法皇は笑ってお喜びになり、「者共、ここへ参って猿楽を演じよ」と言われたので、平判官の康頼が参って、

「ああ、あまりに瓶子(平氏)が大勢いるので酔ってしまいました」

と申す。

俊寛僧都が、

「さて、それをどうなさりますか」

と申されると、西光法師が、

「首を取るに勝ることはありません」

と言って、瓶子の首を取って入って来た。

静憲法印はあまりの嘆かわしい様子にすっかり物も申されなかった。返す返すも恐ろしい事であった。

それに加勢する人たちは誰かと言うと、近江中将入道連浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)俗名成正(なりまさ)、法勝寺執行俊寛僧都(ほつしやうじのしゆぎやうしゆんくわんそうづ)、山城守基兼(やましろのかみもとかね)、

式部大輔雅綱(しきぶのたいふまさつな)、平判官康頼、宋判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)、新平判官資行(しんはんぐわんすけゆき)、

摂津国源氏多田蔵人行綱(つのくにのげんじただのくらんどゆきつな)を始(はじめ)として、北面(ほくめん)の武士たちがこの計画に大勢加わった。

語句

■ゑつぼにいらせおはしまして 「ゑつぼ」は「笑壺」。面白がって笑うこと。 ■猿楽 即席の戯れに演じる、滑稽な芸能。祭礼の際の見世物として演じられることもあった。 ■平判官康頼 平康頼。信濃守中原頼秀の子。『宝物集』の作者として知られる。「判官」は検非違使尉の別称。 ■西光法師 俗名藤原師光。後白河の近習。信西の従者。平治の乱で信西が死んだ後、出家。 ■与力の輩 陰謀に参加した者共。 ■成正 源成雅。村上源氏。右大将源顕房の孫。陸奥守・源信雅の四男。左近衛権中将。近江中将と呼ばれた。保元の乱で崇徳上皇方について出家、越後に流された。 ■法勝寺執行 法勝寺は白河上皇が平安京東の白河に建立した六勝寺のうち最大のもの。執行は寺務総括役。 ■山城基兼 中原基兼。後白河の近習。 ■式部大輔雅綱 正しくは式部大夫章綱。後白河の近習。式部大輔は式部省の次官。式部大夫は式部丞で五位の者。式部省は律令制八省の一つ。宮中の儀式・文官の考課などを行う。■宗判官信房 惟宗(これむね)信房。検非違使尉。惟宗氏は秦氏の子孫とされる。 ■新平判官資行 平資行。北面の武士。検非違使。 ■多田蔵人行綱 清和源氏多田満仲七世。平頼盛の子。摂津国多田庄(兵庫県川西市)が住む。

……

前半は話が入り組んでいますが、ようするに清盛の息子たちがバンバン出世していく。それで、追い越されていく人たちの恨み節です。後半は、有名な鹿谷山荘での密謀の場面ですね。瓶子だ倒れたのを、平氏が倒れたとしゃれている…ほんとうにこんなやり取りがあったのかわかりませんが、情景がうかぶ、印象深い一幕と思います。

朗読・解説:左大臣光永

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