平家物語 十三 俊寛沙汰 鵜川軍(しゆんくわんのさた うがはいくさ)

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『平家物語』巻第一より「俊寛沙汰 鵜川軍(しゆんくわんのさた うがはいくさ)」。

打倒平家クーデター計画「鹿谷の陰謀」の首謀者の一人である俊寛僧都の来歴に続けて、同じく陰謀の主要メンバーである西光法師とその息子たちの乱暴なふるまいが語られる。

あらすじ

新大納言成親が中心となって進めていた鹿ケ谷の陰謀に、法勝寺の執行俊寛(ほっしょうじのしゅぎょう しゅんかん)も参加していた。

この俊寛は、京極の源大納言雅俊卿の孫で、祖父に似て気性の荒い人だった。

陰謀の首謀者・新大納言成親は多田蔵人行綱(ただのくらんど ゆきつな)に、「決行の際は一方の大将になってくれ」と、賄賂を渡す。

安元三(1177)年3月5日、内大臣藤原師長(妙音院殿)が太政大臣に昇進し後に、小松殿(平重盛)が近衛大将兼任のまま内大臣となった。

藤原師長の家系では、本来左大臣までしか許されないが、父である宇治の悪左府藤原頼長が左大臣の時に保元の乱を起こした先例をはばかって、左大臣を飛ばして太政大臣になったのである。

北面武士(ほくめんのぶし)は、白河院の時初めて設置された上皇の親衛隊である。院の御所の北面に詰所があったので、北面武士と呼ばれた。

その北面武士の中に、少納言入道信西が召し使っていた師光、成景という者がいた。信西が平治の乱で討たれると、出家して西光、西敬と名乗った。

その西光の子に、師高(もろたか)という者がいた。加賀守に就任するが、当地で神社・寺などの所領を没収した。

また、師高の弟、近藤判官師経(こんどうほうがん もろつね)が、加賀国の目代(代官)に就任する。

師経が加賀の国府に着いたとき、鵜川寺という寺で地元の僧たちが風呂に入っていた。

そこへ師経らが乱入し、僧たちと小競り合いになる。

師経はいったん退くが、夜になって数千騎で鵜川寺に押し寄せ、僧房を焼き払う。

鵜川寺は白山寺の末寺であるので、白山三社八院の大衆は怒り狂い、二千余人で師経の館へ押し寄せる。

師経、かなわじと見て京都へ逃げる。

白山寺の大衆が砦に討ち入ると、中はもぬけの殻だった。ならば延暦寺に直訴しようと、白山寺の大衆は白山の神輿を振り上げて、比叡山へ向かった。

原文

此法勝寺(このほつしようじ)の執行(しゆぎやう)と申すは、京極(きやうごく)の源大納言雅俊卿(げんだいなごんがしゆんのきやう)の孫(まご)、木寺(きでら)の法印寛雅(ほふいんくわんが)には子なりけり。祖父(そぶ)大納言、させる弓箭(ゆみや)をとる家にはあらねども、余りに腹あしき人にて、三条坊門(さんでうぼうもん)京極(きやうごく)の宿所のまへをば、人をもやすく通さず、常は中門(ちゆうもん)にたたずみ、歯をくひしばりいかツてぞおはしける。かかる人の孫なればにや、此俊寛も僧なれども、心もたけくおごれる人にて、よしなき謀反(むほん)にもくみしけるにこそ。

新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)は、多田蔵人行綱をようで、「御辺(ごへん)をば、一方の大将(たいしやう)に憑(たの)むなり。此事しおほせつるものならば、国をも庄(しやう)をも所望によるべし。先(ま)づ弓袋(ゆぶくろ)の料(れう)に」とて、白布(しろぬの)五十端(たん)、送られたり。

安元三年三月五日(いつかのひ)、妙音院殿(めうおんゐんどの)、太政大臣(だいじやうだいじん)に転じ給へるかはりに、大納言定房卿(だいなごんさだふさのきやう)をこえて、小松殿、内大臣(ないだいじん)になり給ふ。大臣の大将(だいしやう)めでたかりき。やがて大響(だいきやう)おこなはる。尊者(そんじや)には大炊御門右大臣経宗公(おほひのみかどうだいじんつねむねこう)とぞきこえし。一(いち)の上(かみ)こそ先途(せんど)なれども、父宇治の悪左府(あくさふ)の御例其憚(ごれいそのはばかり)あり。

北面(ほくめん)は上古(しやうこ)にはなかりけり。白河院(しらかはのゐん)の御時、はじめおかれてより以降(このかた)、衛府(ゑふ)どもあまた候ひけり。為俊(ためとし)、盛重(もりしげ)、童(わらは)より千手丸(せんじゆまる)、今犬丸(いまいぬまる)とて、是等(これら)は左右(さう)なききり者にてぞありける。鳥羽院(とばのゐん)の御時も、季教(すゑのり)、季頼父子(すゑよりふし)共に、朝家(てうか)に召しつかはれ、伝奏(てんそう)する折(をり)もありなンどきこえしかども、皆身のほどをばふるまうてこそありしに、此(この)御時の北面の輩(ともがら)は、以ての外に過分にて、公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)をも者ともせず、礼儀礼節もなし。下北面(げほくめん)より上北面(じやうほくめん)にあがり、上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる心どもも出できて、よしなく謀反(むほん)にもくみしけるにこそ。中にも故少納言信西(こせうなごんしんせい)がもとに召しつかひける師光(もろみつ)、成景(なりかげ)といふ者あり。師光は阿波国(あはのくに)の在庁(ざいちやう)、成景は京の者、熟根(じゆくこん)いやしき下臈(げらふ)なり。健児童(こんでいわらは)、もしは格勤者(かくごしや)なンどにて召しつかはれけるが、さかざかしかりしによツて、師光は左衛門尉(さゑもんのじよう)、成景は右衛門尉(うゑもんのじやう)とて、二人(にん)一度に、靫負尉(ゆきへのじやう)になりぬ。信西事にあひし時、二人共に出家して、左衛門入道西光(さゑもんにふだうさいくわう)、右衛門入道西敬(うゑもんにふだうさいけい)とて、是等は出家の後も院の御倉預(みくらあづかり)にてぞありける。

現代語訳

この法勝寺の執行の俊寛僧都という者は、京極の源大納言雅俊(まさとし)卿の孫にあたり、木寺(きでら)の法印寛雅(かんが)の子であった。

祖父の大納言は、これというほどの弓矢をとる部門の家ではなかったが、余りにも怒りっぽい人物で、三条坊門京極の邸の前を、人もめったに通さず、いつも中門に佇んで、歯を食いしばり怒った様子でおられた。

こんな人物の孫であったせいだろうか、この俊寛も僧侶ではあるが、気が荒く驕り高ぶって、つまらない謀反にも参加したのであろう。

新大納言成親卿は、多田蔵人行綱を呼んで、「そなたを一方の大将として頼みにしているのだ。

この計画をやり遂げたなら、国でも荘園でも望みのままに与えよう。先ず弓袋の材料に」と言って、白布五十反をお贈りになった。

安元三年三月五日、妙音寺殿(師長)が、太政大臣に移られた後に、大納言定房(さだふさ)卿を越えて、小松殿(平重盛)が内大臣におなりになる。

大臣で大将とはめでたい事であった。すぐその披露の宴会が行われた。主賓は大炊御門(おおいのみかど)右大臣経宗(つねむね)公がなられたという事であった。

師長(もろなが)の家は左大臣が昇進の限度であったが、父の悪左大臣(頼長)が保元の乱の首謀者となり、身を滅ぼされた先例をはばかられて左大臣にならず太政大臣に任ぜられたのである。

北面の武士は昔はなかった。白河院の御時に初めておかれて以来、六衛府(ろくえふ)の者どもが大勢ここに仕えるようになった。

為俊(ためとし)・盛重(もりしげ)は子供の時から千手丸(千手丸)・今犬丸(いまいぬまる)といって仕えている並ぶ者のない切れ者であった。

鳥羽院の御時にも、季教(すゑのり)・季頼(すえより)父子共に、朝廷に召し使われ、取り次いで院にお伝えする事もあったという噂だったが、皆身の程をわきまえた振舞をすべきであったのに、この時代の北面の武士たちは、もってのほかの過分な処遇を受けており、公卿殿上人を問題ともせず、礼儀礼節もない。

下北面(げほくめん)から上北面(じょうほくめん)にあがり、さらに上北面から殿上人に昇進し、殿上での交際を許される者もある。こういうことがいつも行われたので、驕り高ぶる心を持った者も出てきて、つまらない謀反にも加担したのであろう。

中でも故少納言信西(こせうなごんしんせい)が召し使っていた師光(もろみつ)、成景(なりかげ)という者がいた。師光は阿波国の地方役人であり、成景は京の者で素性のいやしい下臈であった。

二人は兵部省に属し、諸国を守護する兵士、もしくは親王・摂関家などに使われる侍などに使われていたが、利口者だったので、師光は左衛門尉(さゑもんのじよう)、成景は右衛門尉(うゑもんのじよう)として、二人一度に靫負尉に取り立てられた。

信西が平治の乱で殺された時、二人とも出家して、左衛門入道西光(さゑもんにふだうさいくわう)、右衛門入道西敬(うゑもんにうだうさいけい)として、出家の後も院の御倉預(みくらあずかり)を勤めた。 

語句

■京極の源大納言雅俊卿 右大臣源顕房の子・雅俊。屋敷が京極にあったため京極と号した。 ■木寺の法印寛雅 木寺は仁和寺の塔頭。俊寛の父・寛雅は法印権大僧都。 ■腹あしき人 気性の荒い人。怒りっぽい人。 ■三条坊門京極 三条坊門小路と京極大路の交差するあたり。三条坊門小路は二条大路と三条大路の中間にあった小路。京極大路は平安京の東端の通り。 ■中門 寝殿造の対の屋から南に続く廊の中間にもうけられた門。 ■新大納言成親卿 中納言・藤原家成の子。正二位・権大納言。 ■大将 ここでは陰謀の指揮官。 ■庄 庄園。 ■弓袋の料に 弓袋をつくるための布として。 ■白布五十端 一端は布を数える単位。段・反とも。幅約38センチ、長さ約106センチ。 ■安元三年 1177年。 ■妙音院殿 宇治の悪左府藤原頼長の次男、藤原師長。 ■大納言定房卿 源定房。源雅定の養子。権中納言・源雅兼の四男。歌人・能書家。 ■大臣の大将 内大臣と近衛大将を兼任した。 ■第饗 大臣に就任した人が大臣以下の人々に饗応すること。 ■尊者 第一の客人。 ■大炊御門右大臣経宗 正しくは左大臣。藤原北家大炊御門家、藤原経実の四男もしくは五男。 ■一の上 左大臣の別称。 ■先途 家柄によって決まっている昇進の限界。 ■父宇治の悪左府の御例 宇治の悪左府(左大臣)藤原頼長は崇徳上皇をかついで保元の乱を起こした。 ■北面 白河上皇が設置した上皇親衛隊。上北面と下北面があった。 ■衛府ども 六衛府の者ども。六衛府は左右の近衛府・衛門府・兵衛府の総称。宮中の警護にあたった。 ■為俊、盛重 平為俊、幼名千手丸。為俊、幼名今犬丸。白河院のお気に入りだった(『尊卑分脈』)。 ■左右(さう)なききり者 並ぶことのない、院中をきりもりしている者。 ■季教、季頼父子 源季範は源健季の子、鳥羽院北面近習。その子季頼は右衛門尉、崇徳院北面近習(『尊卑分脈』)。 ■伝奉(てんそう) 院に申し上げることを仲立ちする。 ■下北面 上北面は四位・五位。下北面は六位。 ■師光 藤原師光。信西(藤原通憲)の侍として仕えたが、平治の乱のとき信西が死んで後、出家。西光と名乗った。 ■成景 白河院近習・藤原成重の養子。 ■在庁 在庁官人。国司の指示のもと、現地におもむき、目代のもとで仕事した下級の役人。 ■熟根いやしき 素性のいやしい ■健児童(こんでいわらわ) 健児(こんでい)。郡司らの子弟から選ばれた兵士。各地の守護にあたった。 ■格勤者 親王・摂関家に仕える侍。 ■さかざかし 賢い。 ■靫負尉(ゆぎへのじょう) 「ゆぎえ」とも。靫(ゆぎ、矢を入れる箱)を背負い弓矢を持ち、宮門警備にあたる役人。衛門尉(衛門府の三等官)の異称(一等官は督、二等官は佐) ■衛門府 六衛府のうち、佐衛門府、右衛門府。宮門警護にあたる。「ゆげひのつかさ」とよばれ「靫負」の字を当てる。 ■院の御倉預 院の倉の管理人。 

              

原文

彼(かの)西光が子に師高(もろたか)と云ふ者あり。是もきり者にて、検非違使五位尉(けんびゐしごゐのじよう)に経(へ)あがツて、安元(あんげん)元年十二月廿九日、追儺(ついな)の除目(じもく)に加賀守(かがのかみ)にぞなされける。国務をおこなふ間、非法非例(ひはふひれい)を張行(ちやうぎやう)し、神社仏寺、権門勢家(けんもんせいけ)の庄領(しやうりやう)を没倒(もつたう)し、散々(さんざん)の事どもにてぞありける。縦(たと)ひ召公(せうこう)があとをへだつといふとも、穏便の政(まつりごと)をおこなふべかりしが、かく心のままにふるまひしほどに、同(おなじき)二年夏の比(ころ)、国司師高が弟(おとうと)、近藤判官師常(こんどうはんぐわんもろつね)、加賀の目代(もくだい)に補(ふ)せらる。目代下着の(げちやく)のはじめ、国府(こふ)のへんに鵜河(うがは)と云ふ山寺あり。寺僧どもが境節(をりふし)湯をわかいてあびけるを、乱入しておひあげ、わが身あび、雑人(ざふにん)どもおろし、馬あらはせなンどしけり。寺僧いかりをなして、「昔より此所は、国方(くにがた)の者入部(にふぶ)する事なし。すみやかに先例に任せて、入部の押妨(あふほう)をとどめよ」とぞ申しける。先々(ぜんぜん)の目代(もくだい)は不覚でこそいやしまれたれ。当目代は(たうもくだい)はすべて其儀あるまじ。唯(ただ)法に任せよ」と云ふ程(ほど)こそありけれ、寺僧どもは国方(くにがた)の者を追出(ついしゆつ)せむとす、国方の者どもは次(ついで)をもツて乱入せんとす。うちあひはりあひしけるほどに、目代師経(もくだいもろつね)が秘蔵(ひぞう)しける馬の足をぞうち折りける。其後(そののち)は互(たがひ)に弓箭兵仗(きゆうせんひやうぢやう)を帯して、射あひきりあひ、数剋(すこく)たたかふ。目代かなはじとや思ひけむ、夜(よ)に入ツて、引退(ひきしりぞ)く。其後当国(たうごく)の在庁(ざいちやう)ども催(もよほ)しあつめ、其勢一千余騎、鵜川(うがは)におし寄せて、坊舎一宇(ぼうじやいちう)も残さず焼きはらふ。鵜河と云ふは、白山(はくさん)の末寺なり。此事(このこと)うツたへんとて、すすむ老僧誰々(たれたれ)ぞ。智釈(ちしやく)、学明(がくみやう)、宝台坊(ほうだいぼう)、正智(しやうち)、学音(がくおん)、土佐阿闍梨(とさのあじやり)ぞすすみける。白山三社八院(しらやまさんじやはちゐん)の大衆(だいしゆ)、ことごとく起(おこ)りあひ、都合其勢二千余人、同(おなじき)七月九日(ここのか)の暮方(くれがた)に、目代師経が館(たち)ちかうこそおし寄せたれ。今日(けふ)は日暮れぬ、あすのいくさとさだめて、其日は寄せでゆらへたり。露ふきむすぶ秋風は、射向(いむけ)の袖を翻(ひるがへ)し、雲井をてらすいなづまは、甲(かぶと)の星をかかやかす。目代かなはじとや思ひけん、夜(よ)にげにして、京へのぼる。あくる卯(う)の剋(こく)におし寄せて、時をどツとつくる。城(じやう)のうちにはおともせず。人をいれてみせければ、「皆落ちて候」と申す。大衆(だいしゆ)力及ばで、引退(ひきしりぞ)く。さらば山門へうツたへんとて、白山中宮(はくさんちゆうぐう)の神興(しんよ)を賁(かざ)り奉り、比叡山(ひえいさん)へふりあげ奉る。同(おなじき)八月十二日の午(むま)の刻計(こくばかり)、白山の神興(しんよ)、既(すで)に比叡山東坂本(ひんがしさかもと)につかせ給ふと云ふ程(ほど)こそありけれ、北国の方より、雷夥(らいおびただ)しく鳴ツて、都をさしてなりのぼる。白雪(はくせつ)くだりて地をうづみ、山上洛中(らくちゆう)おしなべて、常葉(ときは)の山の梢(こずゑ)まで、皆白妙(しろたへ)になりにけり。

現代語訳

その西光の子に師高(もろたか)という者がいた。これも切れ者で、だんだん昇進して検非違使五位尉になり、安元元年十二月二十九日、追儺(ついな)の除目(ぢもく)で加賀守に任ぜられた。

師高は国務を行う間に、非法非礼を強引に行い、神社仏寺や、権力家・勢力家の荘園を没収し、全くひどい状態であった。

例え、中国の周の召公(しょうこう)の善政には及ばなくても、穏便な政をすべきところだったが、このように自分の思いのままに振舞っているうちに、同じ二年夏の頃、国司師高の弟、近藤判官師経が加賀の目代に任じられた。

師経が目代として着任したはじめの頃、国府のあたりに鵜河という山寺があった。

寺の僧どもが、ときおり湯を沸かして湯あみをしていたのを、乱入して追い払い、その湯で自分自身が入浴し、召使どもを馬から下して、馬を洗わせたりなどした。

寺僧は怒って、「昔から、ここは国府の役人がはいってきたことはない。すみやかに先例に従い、領内に押し入り乱暴するのを止めよ」と申した。

師経は、「前々の目代は思慮が足りないので軽蔑されたのだ。今の目代はそんな事はないぞ。ただ国法に従え」と言うやいなや、寺僧どもは国府の役人を追い出そうとする。

国府の役人どもは機会をねらって乱入しようとする。打ち合い、殴り合いしているうちに、目代の師経が大事にしていた馬の足を折ってしまった。

その後は互いに弓矢、武器を持って、弓矢で射合い、刀で斬り合い、数時間戦った。

目代は勝ち目はないと思ったのか、夜に入って退却した。その後、加賀国の国府の役人どもを呼び集め、その数一千余騎で鵜川に押しかけ、僧坊を一軒も残さず焼き払った。

鵜川というのは白山(はくさん)の末寺である。

この目代の狼藉を訴えようとして進み出た老僧は誰々か。

智釈(ちしやく)、学明(がくみやう)、宝台坊(ほうだいぼう)、正智(しやうち)、学音(がくおん)、土佐阿闍梨(とさのあじやり)が進み出た。

白山三社八院(かくさんさんしゃはちいん)の衆徒はことごとく立ち上がって、都合総勢二千余人が、同じ七月九日の暮方に、目代師経の邸近くに押し寄せたが、今日は日が暮れた。明日が戦(いくさ)と決めて、その日はおし寄せないで一つ所にとまっていた。

露を含んで吹き荒れる秋風は鎧の左袖をひらひらさせ、空を照らす稲妻は、甲の星を輝かす。

目代は勝ち目なしと思ったのか、夜逃げして京へ上る。次の日の午前六時に僧徒等は目代の館に押し寄せてどっと鬨の声をあげた。屋敷の中は音もしない。

人を入れて様子を見ると、「皆、逃げてしまいました」という。衆徒はしかたなく引き上げた。

それなら山門へ訴えようと、白山中宮の神輿(しんよ)を飾り奉り、比叡山へ向かってそれを振り上げ進めた。

同じ八月十二日の正午ごろに白山の神輿が既に比叡山の東坂本に到着されたという時、北国の方から雷がひどく鳴り響き、都を目指して鳴り上る。

白い雪が降って地面を覆い、山上も京の都もすべて、常緑樹の山の梢まで、皆真っ白になった。

語句

■検非違使五位尉 検非違使尉は六位相当だが五位で検非違使にあるもの。 ■追儺の除目 追儺は大晦日に行われる宮中行事で邪気を祓う。追儺の除目はその後で行われる、大臣以外の官職を任命する行事。 ■所領を没倒し 所領を没収し。 ■召公があとをへだつ 「召公」は周の成王のとき善政を行った(『史記』)。「召公の時代から遠く時を隔てているが」、または「召公の善政には遠く及ばないと言っても」 ■目代 代官。国司にかわって実際に現地に赴任して地方行政を取り仕切る。 ■国府(こふ) 国司の屋敷のあるところ。石川県小松市国府町あたり。 ■鵜河と伝ふ山寺 現石川県小松市遊泉寺町の湧泉寺。 ■国方の者入部する事なし 国府の役人が寺に立ち入ることはなかった。 ■入部の押妨 寺領に立ち入って乱暴すること。 ■不覚 思慮が足りないこと。 ■すべて其儀あるまじ まったくそのようなことはない。まじは打ち消しの助動詞。 ■唯法に任せよ 国の法律に従え。 ■伝ふ程こそありけれ 言うやいなや。 ■坊舎(ぼうじ) 僧の宿所。 ■学明 =覚妙? ■白山三社八院 「三社」は白山七社のうち別宮・佐羅・中宮の中宮三社。八院は中宮末寺の八寺。 ■ゆらへたり 「ゆらふ」は、ためらう。 ■射向(いむけ)の袖 鎧の左の袖。 ■甲の星 甲の鉢に打った。 ■卯の刻 午前6時頃。 ■東坂本 比叡山の東麓。滋賀県大津市坂本。 ■常葉の山 常緑の山。

……

西光法師の息子が、加賀国で地元の鵜川寺の僧といさかいを起こした。それがきっかけで、鵜川寺の本寺である白山寺の大衆が、延暦寺に訴えようとして、比叡山に押し寄せてくる、ところまでです。

作者は西光法師にも、その息子たちにも、また「鹿谷の陰謀」に対しても批判的です。

次の章「十四 願立

朗読・解説:左大臣光永

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