平家物語 十四 願立

『平家物語』巻第一より「願立(がんだて)」。比叡山の法師たちが関白師通(もろみち)を呪詛した、「平家物語」本編より80年ほど昔の事件。

あらすじ

白山寺の大衆が東坂本に到着すると、延暦寺の大衆は国司加賀守師高と目代近藤判官師経の処罰を朝廷に訴える。

しかし朝廷ではグズグズして、事が決まらない。

「加茂川の水、双六の賽、山法師。これぞわが心のままにならぬもの」

白河院がそう言ったというが、それくらい、寺社の訴えは昔からやっかいなものだった。

嘉保2年(1095)、美濃守源義綱(みののかみ みなもとのよしつな)が庄園を没収しようとして、比叡山の僧を殺害したことがあった。

日吉の社の社司、延暦寺の寺官らは朝廷に訴えるが、関白師通(もろみち)の命令で阻まれ、死傷者が出た。比叡山の上級の僧たちがこの事を朝廷に問いただそうとしたが、武士や検非違使に追い返された。

そこで比叡山では、山王七社の神輿を本堂に振り上げ、七日間関白師通を呪詛した。

「関白殿に鏑矢ひとつ射かけたまえ」という祈りが通じたのか。次の日、関白の家の庭に櫁(しきみ。モクレン科。仏事で使う植物)が一枝立っていたのは恐ろしいことだった。

関白殿の母上は、七日七夜の間日吉社に参詣し、祈った。

七日目に、巫女に山王権現が降り立ち、託宣が下った。託宣にいわく、

「関白殿の母上は三つの願立てをした。関白殿の命を助けてくれるなら、一つは日吉社に参詣する障害者病人の間まじって、1000日の間、奉仕すると。

二つには大宮の橋殿から八王子の社(ともに日吉社境内の摂社)まで、廻廊を作ると。

三つには八王子の社で法華問答講(『法華経』について問答講釈すること)を毎日行うと。

前の二つはわりとどうでもいいが、法華問答講はそうあってほしいことだ。

ただし日吉社の神人らが殺されたことは残念だ。すべて願いをきくわけにはいかない。法華問答講をほんとうに行うなら、関白殿の命を三年のばしてやろう」

そこで母上は、紀伊の国田中の荘を寄進し、それ以降法華問答講を絶やさなかった。

三年の後、託宣のとおりに関白殿は帰らぬ人となった。

このように昔から、寺社の訴えはやっかいなことだった。

原文

神輿(しんよ)をば客人(まらうど)の宮へ入れ奉る。客人と申すは、白山妙理権現(はくさんめうりごんげん)にておはします。申せば父子(ふし)の御中(おんなか)なり。先ず沙汰(さた)の成否(じやうひ)は知らず、生前(しやうぜん)の御悦(おんよろこび)、只此事にあり。浦島(うらしま)が子の、七世(しつせ)の孫にあへりしにも過ぎ、胎内(たいだい)の者の、霊山(りやうぜん)の父を見しにもこえたり。三千の衆徒(しゆと)、踝(くびす)を継ぎ七社(しちしや)の神人(じんにん)、袖(そで)をつらね、時々刻々(じじこくこく)の法施(ほつせ)、祈念、言語道断の事どもなり。

山門の大衆、国司加賀守師高(こくしかがのかみもろたか)を流罪に処せられ、目代近藤判官師経(もくだいこんどうのはうぐわんもろつね)を禁獄せらるべき由、奏聞(そうもん)すといへども、御裁断(ごさいだん)なかりければ、さも然(しか)るべき公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)は、「あはれとく御裁許(ごさいきよ)あるべきものを、昔より山門の訴訟は他に異なり。大蔵卿為房(おほくらのきやうためふさ)、太宰権帥季仲(だざいのごんのそつすえなか)は、さしも朝家(てうけ)の重臣(ちようしん)なりしかども、山門の訴訟によツて、流罪せられにき。況(いはん)や師高(もろたか)なンどは、事の数にやはあるべきに、子細にや及ぶべき」と、申しあはれけれども、大臣(たいしん)は禄(ろく)を重んじて諫(いさ)めず、小臣(せうしん)は罪に恐れて申さずと云ふ事なれば、おのおの口をとぢ給へり。

「賀茂河(かもがは)の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまほふし)、是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河院(しらかはのゐん)も仰せなりけるとかや。鳥羽院(とばのゐん)の御時、越前(ゑちぜん)の平泉寺(へいせんじ)を山門へつけられけるには、「当山(たうざん)を御帰依(ごきえ)あさからざるによツてなり。非をもツて理とす」とこそ宣下(せんげ)せられて院宣をば下されけれ。江師匡房卿(がうぞつきやうぼうのきやう)の申されし様(やう)に、「神輿(しんよ)を陣頭へ(ぢんどう)へふり奉って、うツたへ申さんには、君はいかが御はからひ候べき」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし」とぞ仰せける。

去(い)んじ嘉保(かほう)二年三月二日(ふつかのひ)、美濃守源義綱朝臣(みののかみみなもとのよしつなのあツそん)、当国新立(たうごくしんりふ)の庄(しやう)を倒(たふ)すあひだ、山の久住者(くぢゆうしや)、円応(ゑんおう)を殺害(さつがい)す。是によツて日吉(ひよし)の社司(しやし)、延暦寺(えんりやくじ)の寺官(じくわん)、都合卅余人申文(もうしぶみ)をささげて、陣頭(ぢんどう)へ参じけるを、後二条関白殿(ごにでうのくわんぱくどの)、大和源氏中務権小輔頼春(やまとげんじなかづかさのごんのせうよりはる)に仰せてふせがせらる。頼春が郎等(らうどう)、箭(や)をはなつ。やにはに射ころさるる者八人、疵(きず)を蒙(かうむ)る者十余人、社司、諸司(しよし)、四方へ散りぬ。山門の上綱等(じやうかうら)、子細(しさい)を奏聞(そうもん)の為に、下洛すときこえしかば、武士(ぶし)、検非違使(けんびゐし)、西坂本(にしざかもと)に馳(は)せ向ツて、皆おツかへす。

現代語訳

神輿を(山王七社の一)客人(まろうと)の宮へ入れ申し上げる。客人と申すのは、白山妙理権現をお祀りする。

いってみれば白山中宮とは父と子のご関係である。まず訴訟の成否はわからないが、生前父と子であったニ神はただこの再開を喜ばれた。

浦島の子が七世の孫にあったのにも過ぎ、釈迦の子羅睺羅(ラゴラ)が、母耶輸陀羅女(やしゅだらにょ)の胎内にあって、生まれた後、霊山で父を見たのにも、その感動はまさっている。

比叡山三千の衆徒は足をならべ、山王七社の神人は袖をつらね、時々刻々に行われる法施、祈念、ことばで言いあらわせない事どもである。

山門の大衆は、国司加賀守師高(もろたか)が流罪に処し、目代近藤判官師経(もろつね)を牢獄にお入れになるべきことを奏聞するにもかかわらず、ご裁決が下らないので、本当にしっかりした公卿殿上人は、「ああ早くご裁決があるべきなのに。昔から山門の訴訟は外の訴訟とはわけがちがう。大蔵卿為房(おおくらのきょうためふさ)、太宰権帥季仲(だざいのごんのそつすえなか)は、あれほど朝廷の重臣であったが、山門の訴訟によって、流罪にされた。まして師長などは、物の数でもないだろうに。あれこれ言う必要があろうか」と申し合われたが、大臣は地位を重んじて諌めず、小臣は罪に恐れて申さずという事であったので、おのおの口をお閉じになっていた。

「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」と、白河院も仰せになったとかいうことだ。鳥羽院の御時、越前の平泉寺(へいせんじ)を比叡山の末寺とされたときは、「この比叡山をご帰依すること浅からざるによってである。非をもって理となす」と宣下なされて院宣を下された。

江帥匡房卿(ごうそつきょうぼうのきょう)の申されたように、「(大衆が)神輿を陣頭へふりあげ申し上げて、訴え申す場合は、君はどのようにおはからいになられるのですか」と申されたところ、「まったく山門の訴訟は無視できない」と仰せになった。

去る嘉保ニ年(1095年)三月ニ日、美濃守源義綱(よしつな)朝臣、当国(越前国)に新しく立てた庄園を廃ししようとして、比叡山に長く山登りして修行した、円応を殺害した。

これによって日吉の神官、延暦寺の寺官、総勢三十余人が訴状を捧げて陣頭に参じたのを、後二条関白殿(藤原師通)、大和源氏中務権少輔(なかづかさのごんのしょう)頼春(よりはる)に仰せてお防ぎになった。

頼春の郎党が矢を放つ。その場で射殺される者八人、傷を受ける者十余人、神官、寺官らは、四方へ散った。

山門の役職付きの僧たちは、事の次第を奏上するため、比叡山を下って都入りするときこえたので、武士、検非違使が西坂本に馳せ向かって、皆追い返す。

語句

■客人(まらうど)の宮 比叡山の東麓にある山王二十一社の内の上七社を山王七社という。客人宮はその一。山王七社は大宮・二宮・客人宮・聖真子・八王子・十禅寺・三宮。 ■白山名利権現 十一面観音菩薩を本地仏とする神。白山の山岳信仰と修験道が融合した、神仏習合の結果、仏教と結びついた。 ■父子の御仲 白山 加賀国白山中宮は白山妙理権現の子とされていたため。 ■沙汰の成否 訴訟が成功するか失敗するか。 ■生前(しょうぜん)の御悦(おんよろこび) 二神(白山名利権現と白山中宮)は生前父子であったので、再開を喜んだと。 ■浦島が子の、七世(しつせ)の孫にあへりしにも過ぎ 「尋ねて七世の孫に値はず」(浦島子)。 ■胎内の者の… 釈迦の子羅睺羅は母耶輸陀羅女(やしゅだらにょ)の胎内にあった時、釈迦が出家した。後に霊鷲山で父と再会した。 ■七社 比叡山の東麓にある山王七社。 ■法施 仏などに向かい経を読誦し法文を唱えること。 ■言語道断 言葉で言い表すこともできない。 ■御裁断 裁判の決定。 ■大蔵卿為房 寛治2年(1105)山門の訴えで阿波権守に左遷された。 ■大宰権帥季仲 長治2年(1105)日吉社の訴えで周防国に流された。 ■事の数にやはあるべきに 物の数にも入ろうか。入らない。「やは」は反語。 ■子細にや及ぶべき あれこれ言う必要があろうか。ない。 ■慶滋保胤(よししげ の やすたね)『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)に「大臣禄を重んじて諫めず、小臣罪を畏れて言はず、下情上通せず、これ患の大なるものなり」。慶滋保胤は平安時代中期の儒学者。賀茂氏出身。 ■当山を御帰依あさからざる 越前平泉寺が比叡山延暦寺を本寺としたこと。 ■非をもって理となす どんな非道をやっても認めなさいと。 ■江帥匡房卿(ごうぞつきょうぼうのきょう) 大江匡房。永長二年(1097)権中納言・大宰権帥兼任。 ■もだしがたし 白河院の台詞。「もだす」は黙る。黙っていられない。 ■嘉保二年 1095年。美濃守源義綱は陸奥守源義家の弟。頼義の子。『中右記』嘉保二年十月条に記事。 ■新立(しんりゅう)の庄(しょう)を倒(たふ)すあひだ 新しくできた庄園を廃止しようとして、 ■山の久住者 比叡山に長く住んでいた者。 ■申文 訴状。 ■後二条関白殿 関白藤原師通。頼通の孫。頼実の子。 ■大和源氏中務権少輔頼春 大和に住んだ源氏。新羅三郎源義光の弟、大和守頼親の子孫。頼治は正しくは頼治。 ■やにはに その場で。 ■諸司 ここでは寺に仕える寺官。 ■上綱等 寺務をとりしきる上級の寺官。 ■西坂本 比叡山の西麓。八瀬や大原がある。 

原文

山門には、御裁断遅々(ごさいだんちち)のあひだ、七社(しちしや)の神輿を、根本中堂(こんぽんちゆうだう)にふりあげ奉り、其御前(そのおんまへ)にて、信読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を七日ようで、関白殿(くわんぱくどの)を呪詛(しゆそ)し奉る。結願(けつぐわん)の導師には仲胤法印(ちゆういんほふいん)、其比(そのころ)はいまだ仲胤供奉(ちゆういんぐぶ)と申ししが、高座にのぼりかねうちならし、表白(へうびやく)の詞(ことば)にいはく、「我等なたねの二葉(ふたば)より、おほしたて給ふ神(かみ)たち、後二条(ごにでう)の関白殿に、鏑箭(かぶらや)一つはなちあて給へ。大八王子権現(だいはちわうじごんげん)」とたからかにぞ祈誓したりける。やがて其夜(そのよ)不思議の事あり。八王子の御殿より、鏑箭の声いでて、王城をさして、なツてゆくとぞ、人の夢にはみたりける。其朝(そのあした)関白殿の御所の御格子(みかうし)をあげけるに、唯今(ただいま)山よりとツてきたるやうに、露にぬれたる樒一枝(しきみひとえだ)たツたりけるこそおそろしけれ。やがて山王(さんわう)の御(おん)とがめとて、後二条の関白殿、重き御病(おんやまひ)をうけさせ給ひしかば、母うへ大殿の北の政所(まんどころ)大きになげかせ給ひつつ、御様(おんさま)をやつし、いやしき下臈(げらふ)のまねをして、日吉社(ひよしのやしろ)に御参籠(ごさんろう)あツて、七日七夜(しちにちしちや)が間、祈り申させ給ひけり。あらはれての御祈(おんいのり)には、百番の芝田楽(しばでんがく)、百番の一つ物、競馬(けいば)、流鏑馬(やぶさめ)、相撲おのおの百番、百座の仁王講(にんわうこう)、百座の薬師講、一傑手半(いつちやくしゆはん)の薬師百体、等身(とうじん)の薬師一体、並びに釈迦阿弥陀(しやかあみだ)の像、おのおの造立(ざうりふ)供養せられけり。又御心中(ごしんぢゆう)に三(み)つの御立願(ごりふぐわん)あり。御心(おんこころ)のうちの事なれば、人いかでか知り奉るべき。それに不思議なりし事は、七日に満(まん)ずる夜(よ)、八王子の御社(やしろ)にいくらもありける参人(まゐりうど)共の中に、陸奥(みちのく)よりはるばるとのぼりたりける童神子(わらはみこ)、夜半計(やはんばかり)にはかにたえ入りにけり。はるかにかき出(いだ)して祈りければ、程(ほど)なくいきいでて、やがて立ツて舞ひかなづ。人奇特(きどく)の思(おもひ)をなして、是をみる。半時(はんじ)ばかり舞うて後、山王(さんわう)おりさせ給ひて、やうやうの御託宣(ごたくせん)こそおそろしけれ。「衆生等慥(しゆじやうらたし)かに承れ。大殿の北の政所(まんどころ)、今日七日(けふなぬか)わが御前(おんまへ)に籠(こも)らせ給ひたり。御立願三つあり。一つには今度殿下(てんが)の寿命(じゆみやう)をたすけてたべ。さも候はば、下殿(したどの)に候もろもろのかたは人(うど)にまじはツて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さんとなり。大殿の北の政所(まんどころ)にて、世を世ともおぼしめさですごさせ給ふ御心(おんこころ)に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事も忘られて、あさましげなるかたは人(うど)にまじはツて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さむと、仰せらるるこそ、誠に哀れにおぼしめせ。二つには大宮の波止土濃(はしどの)より、八王子の御社(おんやしろ)まで、廻廊(くわいらう)つくツて参らせむとなり。三千人の大衆、ふるにもてるにも社参の時、いたはしうおぼゆるに、廻廊つくられたらば、いかにめでたからむ。三つには今度殿下(てんが)の寿命をたすけさせ給はば、八王子の御社(おんやしろ)にて、法花問答講(ほつけもんだふこう)、毎日退転なく、おこなはすべしとなり。いづれもおろかならねども、かみ二つはさなくともありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそおぼしめせ。但(ただ)し今度の訴訟は、無下(むげ)にやすかりぬべき事にてありつるを、御裁許(ごさいきよ)なくして、神人(じんにん)宮仕(みやじ)射ころされ、疵(きず)を蒙(かうぶ)り、泣く泣く参ツて訴(うツた)へ申す事の余りに心うくて、いかならむ世までも忘るべしともおぼえず。其上(そのうへ)かれらにあたる所の箭(や)は、しかしながら、和光垂跡(わくわうすいしやく)の御膚(おんはだへ)にたツたりなり。まことにそらごとは是(これ)をみよ」とて、肩ぬいだるをみれば、左の脇の下、大きなるかはらけの口ばかりうげのいてぞみえたりける。「是があまりに心うければ、いかに申すとも、始終の事はかなふまじ。法花問答講、一定(いちぢやう)あるべくは、三年(みとせ)が命をのべて奉らむ。それを不足におぼしめさば、力及ばず」とて、山王あがらせ給ひけり。

現代語訳

山門では、ご裁断が遅々としてすすまないので、山王七社の神輿を、根本中堂にふりあげ申し上げ、その御前で、大般若経を通して読んで、関白殿を呪詛し申し上げる。

最終日の法会の導師には仲胤(ちゅういん)法印、その頃はいまだ仲胤供奉と申したが、高座にのぼり鉦をうちならし、神にうったえる言葉に言うことに、

「われらまだ小さく幼い頃から、お育てくださっている神たち、後二条の関白殿に、鏑矢ひとつ放ちあてなさってください。大八王子権現」

とたからかに祈誓した。すぐにその夜、不思議な事があった。八王子の御殿から、鏑矢の音がして、都をさして音をならして飛んでいくと、人の夢にみえた。

その朝、関白殿の御所の御格子をあげたところ、ただ今山からとってきたように、露にぬれた樒(しきみ)一枝立っていたのは恐ろしいことであった。

すぐに山王の御とがめとして、後二条の関白殿は、重い御病にかかられたので、母うえ大殿(藤原師実)の北の政所は、大いにお嘆きになって、御姿をやつし、いやしく身分低い者のまねをして、
日吉社にご参籠されて、七日七夜の間、祈り申し上げなさった。

表に出しての御祈りとしては、百番の芝田楽、百番の同じ衣装でねりあるく行列、競馬、流鏑馬、相撲それぞれ百番、百座の仁王経の講義、百座の薬師経の講義、一尺二寸の薬師仏百体、等身の薬師仏一体、ならびに釈迦と阿弥陀の像を、それぞれ造立供養された。

また御心中に三つの御願を立てられた。御心のうちの事であるので、人はどうして知り申し上げることができよう。

それについて不思議なことは、最終日である七日の夜、八王子の御社にいくらもあった参詣人たちの中に、陸奥からはるばるとのぼった年少の巫女が、夜半ばかりに突然気絶してしまった。

はるかに離れたところにかき出して祈ったところ、すぐに生き返って、すぐに立って舞いを奏した。

人々は不思議に思って、これを見る。半時ほど舞って後、山王権現が降臨なさって、さまざまにご託宣あったのは恐ろしいものであった。

「人間ども、しっかりと聞け。大殿の北の政所が、今日七日わが御前にお籠もりになった。三つの御願を立てられた。一つには今度関白殿(藤原師通)の寿命を助けてくださいと。助けてくれますなら、下殿にございますさまざまな障害のある人々の中にまじって、一千日の間、朝夕奉仕申し上げましょうということであった。

大殿の北の政所として、世を世ともお思いにならないで過ごされてきた御心にも、子を思う道に迷ったので、気味の悪いこともお忘れになって、ひどいありさまの片端人にまじって、一千日の間、朝夕奉仕申し上げましょうと、仰せられるのは、まことに哀れに思われる。

二つには大宮権現社の橋殿から、八王子権現社の御社まで、廻廊をつくって奉納しようということである。三千人の大衆、雨が降るにも日が照るにも、参詣の時、たいへんに感じるのに、廻廊がつくられたら、どんなに素晴らしいだろう。

三つには今度関白殿の寿命をお助けくだされば、八王子の御社にて、法華問答講を毎日休まず続けて行いますということである。

いずれも軽いことではないが、上の二つは特にやらなくてもいいだろう。毎日法華問答講は、ほんとうにぜひやってほしいと思うぞ。

ただし今度の訴訟は、まったくたやすい事であったのを、ご裁定がなく、神人や下級の僧らが射殺され、けがをして、泣く泣く参って訴え申す事があまりに悲しいので、どんな世までも忘れられるとは思わない。

その上彼らに当たる矢は、そのまま、和光垂迹たる山王権現の御肌に立ったのである。

本当かうそかはこれを見よ」

といって、肩をぬいだのを見れば、左の脇の下、大きな土器(かわらけ)の口ほど、穴があいて肉が離れているのが見えた。

「これがあまりに悲しいので、どんなに申しても、命を最後まで助けることはかなわないだろう。法華問答講を、たしかに行うなら、三年の命をおのばし申し上げるだろう。それを不足に思われるなら、どうしようもない」

といって、山王権現は天に昇り去られた。

語句

■信読の大般若 省略せずに最初から最後まで『大般若経』を読むこと。 ■結願(けつがん・けちがん) 法会の最終日。 ■導師 法会を主催する僧。 ■仲胤法印 権中納言藤原季仲の八男。説法の名人として知られる。『宇治拾遺物語』『古今著聞集』などに説話が伝わる。 ■供奉 朝廷内の道場に仕える僧。 ■表白(ひょうびゃく) 仏に申し上げる言葉。 ■なたねの双葉より 小さく幼い頃より。 ■鏑箭(かぶらや) 蕪は木や竹で植物の蕪の形を作り、中を空洞にして穴をあけたもの。鏑矢は先端に蕪をつけた矢。飛ばす時にひょうと音が鳴る。 ■大八王子権現 山王七社の一。八王子権現。仏教の守護神・牛頭天王の八人の息子を祭るが、神仏習合によりスサノオノミコトの八柱の御子神を祭ることともなった。 ■御格子 格子状の板を壁の上下にはめ、上部は釣り上げることができる。 ■樒(しきみ) マツブサ科シキミ属。仏事で使われる植物。 ■山王 比叡山のふもと、日吉社(現 日吉大社)のこと。比叡山の地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)と、天智天皇の大津京遷都(667)によって遷されてきた三輪山(大神神社)の大己貴神(おおなむちのかみ)を祭る。 ■大殿 先代の関白・太政大臣、藤原師実。 ■あらはれての 表に出しての。 ■芝田楽 芝の上で行われる田楽。田楽は当時の庶民の素朴な芸能。 ■一つ物 神社や寺で神事・仏事として行われる行事。「一つ物」と呼ばれる稚児が神幸行列に加わる。 ■競馬 馬を一定の距離走らせて勝敗を競う神事。競(くら)べ馬。 ■流鏑馬 馬を走らせながら的を射る競技。 ■百座の仁王講、百座の薬師講 百日間、高座を設けて『仁王経』を講義する。おなじく『仁王経』を講義すること。 ■一搩手半(いっちゃくしゅはん) 「搩手」は仏像などに使われる長さの単位。一搩手は親指と人差し指を伸ばした長さ。一搩手半はそれにその半分を足す。約1尺2寸(36センチ)。 ■参人(まゐりうど) 「まゐりびと」の音便。参詣者。 ■童神人(わらわみこ) 年少の巫女。 ■山王おりさせ給ひて 山王権現が童神人にとりつきなさって。 ■殿下 関白藤原師通。 ■下殿 一般の参詣者のいるところ。 ■かたは人(うど) 体に障害があり、回復を祈っている人々。 ■みやづかふ 奉仕する。 ■子を思う道にまよいぬれば 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰集・藤原兼輔)。 ■いぶせき事 むさくるしいこと。気味が悪いこと。 ■誠に哀れにおぼしめせ 巫女に乗り移った山王権現の台詞なので、自敬表現とも、また巫女から山王権現に対する敬語ともとれる。 ■大宮の波止土濃(はしどの) 橋殿。山王七社の一・大宮権現社の社前に橋のように架け渡して建てた社殿。 ■八王子の御社(おんやしろ) 山王七社の一・八王子社。 ■法花問答講 『法華経』について問答・討論する会。 ■退転なく 休みなく。 ■おろかならねども 疎遠にしないことがなくても=疎遠にしても。つまり、そこまでちゃんとやらなくてもいいと。 ■無下にやすかりぬべき事にありつるを まったくたやすい事であったのを。 ■宮仕 掃除などを行う下級の僧。 ■いかならむ世までも どんな世までも。いつまでも。 ■しかしながら そのまま。 ■和光垂跡(わこうすいしゃく)の御膚(おんはだえ) 山王権現の御神体。和光は仏が智慧の光を隠して煩悩に交わること。垂跡(垂迹)は仏が仏の本体(本地)をかくして神としてあらわれること(本地垂迹)。 ■まことそらごとは 本当か嘘かは。 ■かはらけ 素焼きの陶器。土器。 ■うげのいて 肌がはがれて。 ■始終の事 ぜんぶの事。 ■一定(いちぢょう) 確かに。 ■山王あがらせ給へり 山王権現がよりましの巫女の体を離れて天に昇り去っていかれた。

原文

母うへは御立願(ごりふぐわん)の事、人にもかたらせ給はねば、誰(たれ)もらしつらむとすこしもうたがふ方もましまさず。御心(おんこころ)の内の事共(ども)を、ありのままに御託宣(ごたくせん)ありければ、心肝(しんかん)にそうてことにたツとくおぼしめし、泣く泣く申され給ひけるは、「縦(たと)ひ一日(ひとひ)かた時(とき)にてさぶらふとも、ありがたうこそさぶらふべきに、まして三年(みとせ)が命をのべて給はらむ事、しかるべうさぶらふ」とて、泣く泣く御下向(おんげかう)あり。いそぎ都へいらせ給ひて、殿下(てんが)の御領(ごりやう)、紀伊国(きいのくに)に田中庄(たなかのしやう)と云ふ所を、八王子の御社(おんやしろ)へ寄進せらる。それよりして法花問答講、今の世にいたるまで、毎日退転なしとぞ承る。かかりし程(ほど)に、後二条関白殿(ごにじやうのかんぱくどの)、御病(おんやまひ)かろませ給ひて、もとのごとくにならせ給ふ。上下悦(よろこ)びあはれしほどに、三年(みとせ)の過ぐるは夢なれや、永長(えいちやう)二年になりにけり。六月廿一日、又後二条関白殿、御(おん)ぐしのきはに、悪(あ)しき御瘡(おんかさ)いでさせ給ひて、うちふさせ給ひしが、同(おなじき)廿七日御年卅八にて、遂(つひ)にかくれさせ給ひぬ。御心(おんこころ)のたけさ、理(り)のつよさ、さしもゆゆしき人にてましましけれども、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜しませ給ひけるなり。誠に惜しかるべし、四十にだにもみたせ給はで、大殿に先立ち参らせ給ふこそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしと云ふ事はなけれども、生死(しやうじ)のおきてにしたがふならひ、万徳円満(まんどくゑんまん)の世尊(せそん)、十地究竟(じふぢくきやう)の大士(だいじ)たちも、力及び給はぬ事どもなり。慈悲具足の山王(さんわう)、利物(りもつ)の方便にてましませば、御とがめなかるべしとも覚えず。

現代語訳

(関白藤原師通の)母うえは御願を立てられた事を、人にもお話にならなかったので、誰がもらしたとお疑いようもなかった。

御心の内の事どもを、そのままご託宣あったので、肝魂に染みて尊く思われて、泣く泣く申し上げられたことは、

「たとえ一日かた時でございましても、ありがたいことでございますのに、まして三年の命をのばしていただけるだろう事は、あたりがたいことでございます」

といって、泣く泣く日吉社から下られた。

いそいで都に入られて、関白殿の領土、紀伊国に田中荘という所を、八王子の御社に寄進される。

それからというもの、法華問答講が、今の世にいたるまで、毎日休みなく行われているとうかがっている。

こうしているうちに、後二条関白殿は、御病が軽くなられて、もとのように(お元気に)なられた。

上も下も喜びあわれている内に、三年過ぎるのは夢のようであることよ。永長二年になった。六月二十一日、また後二条関白殿は、古御ぐしのきわに、悪い腫れ物がおできになり、横になっておられたが、同月(六月)二十七日、御年三十八にて、ついにお亡くなりになった。

御心の勇敢さといい、理性のつよさといい、あれほど立派な人でいらしたが、ほんとうに病が急になると、御命を惜しまれたということだ。

ほんとうに惜しいことに、四十にさえ満たずに大殿(藤原師実)に先立たれたのは悲しいことであった。

必ずしも父より後に子が死ぬという事ではないが、生ある者は必ず死ぬというおきてに従うのが常であり、あらゆる徳を備えた釈尊、修行をきわめた菩薩たちでも、力およばれぬ事どもである。これも慈悲の心をじゅうぶんに備えた山王権現が、衆生をお救いになるための方便であられるので、罪を犯した者どもに御とがめがないだろうとも思わない。

語句

■心肝にそうて 心に染みて。「そうて」は「そひて」の音便。 ■しかるべうさぶらふ そうであるべきでございます。関白の母は息子の寿命が三年延びたことについて、山王権現に感謝の意を表明している。しかし次の「泣く泣く」からそれが本心でないことがわかる。 ■田中庄 現在和歌山市田中町。 ■夢なれや 「や」は詠嘆。 ■永長二年 1096年。藤原師通は承徳三年(1099)6月28日没。38歳。 ■御瘡 はれもの。 ■まめやかに 本当に。実際に。 ■事の急に 病がすすみ危篤状態になったこと。 ■かならずしも父を先立つべとし伝ふ事はなけれども 必ずしも父が先に死に、子が後で死ぬというわけではないが。 ■生死のおきて 生ある者は必ず死ぬというきまり。 ■万徳円満の世尊 あらゆる徳をそなえた釈迦。 ■十地究竟(じゅうじくきょう)の大士(だいじ) 十地をきわめた菩薩。十地は菩薩が修行して得られる菩薩五十二位のうち下位から数えて四十一位から五十位までの十位。 ■慈悲具足 慈悲の心を備えた。 ■利物(りもつ)の方便 「利物」は衆生に利益を与えること。「物」は衆生。「方便」は方法。 ■御とがめなかるべしとも覚えず おとがめが無かろうとも思われない。作者は関白藤原師通に神罰仏罰が下ったことを、それも仏が衆生を利益する方便であるとして、肯定的に見ている。

山王権現とは?

というわけで、山王権現のたたりで、関白藤原師通が死んだという話でした。師通の母は3つの願立てして祈ったけれども、三年命がのびただけで、助からなかったと。

寺社の訴えというものがいかにやっかいなものかを示す例として、『平家物語』本編より80年ほど昔の出来事が語られる章です。

山王権現とは滋賀県大津市坂本の日吉大社に祀られる神の別名です。

その正体は、比叡山の地主神(じぬしがみ・土地を守護する神)である大山咋神(おおやまくいのかみ)と、天智天皇の大津京遷都(667)によって遷されてきた三輪山(大神神社)の大己貴神(おおなむちのかみ)です。

仏としての本地は延暦寺根本中堂に祀られる薬師如来です。

約2100年前の崇神天皇7年、比叡山の東麓に日枝社(ひえしゃ)が創建されました。日吉社(ひよしのやしろ)、日枝(ひえ・ひよし)山王社、日枝山王権現ともいいます。

広大な境内には21の摂社と多数の末社があり、摂社だけを数えて山王二十一社、摂社・末社あわせて山王百八社と称しました。山王七社とは山王二十一社のうちの上七社(大宮・二宮・客人宮・聖真子・八王子・十禅寺・三宮)をいいます。

平安時代に入って比叡山に延暦寺ができると延暦寺の鎮守の社となり、天台宗の護法神となり、神仏習合により「山王権現」として延暦寺と結びつきを強めていきました。

比叡山の僧兵が「強訴」といって都に繰り出す時には、日枝社(日吉社)の神輿をかついでいきました。歴代の天皇上皇もこれには逆らえず、やっかいなことでした。

次の章「十五 御輿振

朗読・解説:左大臣光永

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