平家物語 十六 内裏炎上

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『平家物語』巻第一より「内裏炎上(だいりえんしよう)」。

前半は比叡山の怒りを時忠卿が抑える話、後半は内裏が炎上する話。

あらすじ

比叡山延暦寺(山門)の大衆が都に押し寄せてきた時、平家がこれを防ぎ、日吉の神輿に矢を射た。

その時放置された神輿は、公卿らの話し合いの結果、祇園の社(現八坂神社)に移されることになった。

山門の大衆が神輿を振りたてて都へ押し寄せることは過去六回あったが、神輿に矢を射たのは今回が初めだった。人々は祟りを恐れた。

同十四日、山門の大衆がまた攻め寄せるという噂が立ち、高倉天皇は院の御所・法住寺殿へお移りになる。中宮徳子も車に乗って同行する。

山門では神輿に矢を射立てられ、神官たちが殺され、衆徒が傷を受けたことに怒っていた。そこで日吉神社の摂社である大宮社、二宮以下、大講堂、根本中堂、比叡山三千の堂宇を皆焼き払い、山にこもろうと話し合っていた。

これによって法皇がお取り上げになるだろうと噂が立ったので、山門の上級の僧たちがこれを知らせようと比叡山に登ろうとすると、延暦寺の大衆はこれを西坂本から追い返した。

そこへ平時忠卿が使わされてきた。法師たちは怒って暴行を加えようとする。その時、時忠は、懐中からたとう紙を取り出し、

「衆徒の濫悪を致すは、魔縁の所行なり。明王(天皇)の制止を加ふるは、善逝の加護なり」と書いて、見事三千の大衆の怒りを鎮めた。

結局、加賀守師高は流罪に、師経は投獄となり、神輿を射た小松殿(重盛)の侍六人も投獄と決まった。

同二十八日、樋口富小路より火が出て、京中の名所三十余箇所、公卿の家十六箇所をはじめ、多くの建物が塵灰となった。

人々は山王権現の祟りと恐れた。

この火事で大極殿も焼けてしまった。

大極殿は、清和天皇の御世に焼けて以来、何度か再建されたが、これを最後に再建されることはなかった。

大極殿…朝堂院の北。朝廷の正殿。即位の大礼や国家的儀式が行われた建物。

原文

夕(ゆふべ)におよんで、蔵人左少弁兼光(くらんどのさせうべんかねみつ)に仰せて、殿上(てんじやう)にて俄(にはか)に公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。保安四年(ほうあんしねん)七月に神輿入洛(しんよじゆらく)の時は、座主(ざす)に仰せて赤山(せきさん)の社(やしろ)へいれ奉る。又保延(ほうえん)四年四月に神輿入洛の時は、祇園別当(ぎをんのべつたう)に仰せて祇園の社(やしろ)へ入れ奉る。今度は保延の例たるべしとて、祇園別当権大僧都澄憲(ごんだいそうづちようけん)に仰せて、秉燭(へいしよく)に及ンで祇園の社(やしろ)へ入れ奉る。神輿にたつところの箭(や)をば、神人(じんにん)して是(これ)をぬかせらる。山門の大衆、日吉(ひよし)の神輿を陣頭(ぢんどう)へ振り奉る事、永久より以降(このかた)、治承(ぢしょう)までは六箇度(かど)なり。毎度に武士を召してこそふせがるれども、神輿射奉る事、是はじめとぞ承る。「霊神怒(れいしんいかり)をなせば、災害岐(ちまた)にみつといへり。おそろしおそろし」とぞ、人々申しあはれける。

同十四日(おなじきじふしにち)の夜半計(ばかり)、山門の大衆、又おびただしう下洛(げらく)すときこえしかば、夜中(やちゆう)に主上腰與(しゆしゃうえうよ)召して、院御所(ゐんのごしよ)、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸(ぎやうがう)なる。中宮(ちゆうぐう)は御車にたてまつて行啓(ぎやうげい)あり。小松のおとど、直衣(なし)に箭(や)おうて、供奉(ぐぶ)せらる。嫡子権亮少将維盛(ごんのすけぜうしやうこれもり)、束帯(そくたい)にひらやなぐひおうて参られけり。関白殿をはじめ奉ツて、太政大臣以下(だいじやうだいじんいげ)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)、我も我もとはせ参る。凡(およ)そ京中の貴賤(きせん)、禁中の上下、さわぎののしる事、夥(おびただ)し。山門には、神輿に箭(や)たち、神人宮仕(じんにんみやじ)射ころされ、衆徒(しゆと)おほく疵(きず)をかうぶりしかば、大宮(おおみや)、二宮以下(にのみやいげ)、講堂、中堂(ちゆうだう)、すべて諸堂、一宇(いちう)ものこさず焼き払って、山野(さんや)にまじはるべき由、三千一同に僉議(せんぎ)しけり。是(これ)によツて、大衆(だいしゆ)の申す所法皇御(おん)ぱからひあるべしと、きこえしかば、山門の上綱(じやうかう)等、子細を衆徒にふれむとて、登山(とうざん)しけるを、大衆おこツて、西坂本(にしざかもと)より皆おツかへす。

平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)、其時(そのとき)はいまだ左衛門督(さゑもんのかみ)にておはしけるが、上卿(しやうけい)にたつ。大講堂の庭に、三塔(さんたふ)会合して、上卿をとツてひつぱり、「しや冠(かむり)うちおとせ。其身を搦(から)めて湖に沈めよ」なンどぞ僉議しける。既(すで)にかうとみえられけるに、時忠卿、「暫(しばら)くしづまられ候へ。衆徒(しゆと)の御中(おんなか)へ申すべき事あり」とて、懐(ふところ)より小硯(こすずり)たたうがみをとり出(いだ)し、一筆(ひとふで)書いて、大衆の中へつかはす。是をひらいてみれば、「衆徒の濫悪(らんあく)を致すは、魔縁の所業(しよぎやう)なり。明王(めいわう)の制止を加ふるは、善逝(ぜんぜい)の加護なり」とこそ書かれたれ。是をみて、ひツぱるに及ばず、大衆皆尤々(もつとももつとも)と同じて谷々(たにだに)へおり、坊々へぞ入りにける。一紙(し)一句(く)をもツて三塔三千の憤(いきどほり)をやすめ、公私の恥をのがれ給へる時忠卿(ときただのきやう)こそゆゆしけれ。人々も山門の衆徒は発向のかまびすしき計(ばかり)かと思ひたれば、理(ことわり)も存知(ぞんぢ)したりけりとぞ感ぜられける。

現代語訳

夕方になって、蔵人の左小弁兼光に命じて、殿上の間で急に公卿の会議が開かれた。

保安(ほうあん)四年七月に神輿が都に入った時は、天台座主に命じて赤山の社へ入れ奉った。

又保延四年四月に神輿が都に入った時は、祇園の別当に命じて祇園の社へ入れ奉った。

今度は保延の例にならうべきだとして、祇園の別当権大僧都澄憲に命じて、夕方になって祇園の社へ入れ奉った。

神輿に立っていた矢を、神官に命じてこれを抜かせられた。山門の衆徒が日吉の神輿を陣頭へ振り奉る事は永久の年以来治承迄に六度に及ぶ。

そのたびに毎度、武士を召して防がれるけれども、神輿を射奉る事はこれが初めての事だと聞いている。

「霊神が怒れば、巷で災害が発生するという。恐ろしい恐ろしい」と、人々は申しあった。

同じ十四日の夜中頃、山門の大衆がまた、大勢で比叡山から京都へ下るという噂だったので、夜中に高倉天皇は腰輿を召されて、後白川上皇の御所がある法住寺殿へ行幸なさる。

中宮は御車にお乗りになって行啓される。小松の大臣(重盛)は直衣(なおし)に矢を背負ってお供なさる。

重盛の嫡子権亮少将維盛(これもり)は、束帯に平やなぐいを背負って参られた。

関白殿(松殿基房)をはじめとして、太政大臣以下の公卿(くぎょう)・殿上人(てんじょうびと)が我も我もと駆せ参ずる。

およそ京都中の貴い者・卑しいの者、内裏の身分の高い者も低い者も騒ぎ立てることは大変なものである。

山門では、神輿に矢が立ち、神人、宮仕は射殺され、多くの衆徒が傷を負ったので、大宮、二宮以下、講堂、中堂、すべて諸堂、一軒も残さず焼き払って、山野に隠れるべきだと三千の衆徒が一同に決議した。

このために、衆徒の言い分を法皇が斟酌されるだろうという噂が立ったので、比叡山の上席の役僧等が詳しい情勢を衆徒に知らせようと、比叡山に登って来たのを、衆徒は立ち上がって、西坂本から皆、追い返した。

平大納言時忠卿はこの時はまだ左衛門尉でおられたが、衆徒を説得するための使いの首席として比叡山に登られた。

比叡山の大講堂の庭で三塔の衆徒が会合し、首席を捕えて、引っ張り、「そいつの冠を打ち落とせ。その身体を括って湖に沈めろ」などと僉議した。

ほとんどその言葉のとおりに乱暴されるように見えたが、時忠卿は、「しばらく静かにしてくれ。衆徒の方々へ申すべき事がある」と言って、懐から小硯と懐紙を取り出し、一筆書いて、衆徒の中に渡された。

是を開いてみると、「衆徒が乱暴狼藉を働くのは、悪魔の仕業である。天皇が制止するのは仏の加護である」と書かれている。

是を見て、時忠卿を引っ張るのを止め、衆徒は皆もっとももっともと納得して谷々へ下り、それぞれの坊へ入っていった。

一枚の紙の文句で三塔の衆徒三千の怒りを鎮め、公私の恥をお逃れになった時忠卿はまことに立派であった。

人々も比叡山の衆徒はうるさく言って出向いてきたに過ぎなかったのかと思ったが、道理もわかっていたのかと感心なさった。

語句

■保安四年 1123年。崇徳天皇の御世。 ■座主 天台座主。延暦寺の住寺で天台宗のトップ。 ■赤山の社 京都市左京区修学院にある神社。 ■保延四年 1138年。崇徳天皇の御世。 ■祇園別当 祇園感神院(現八坂神社)の長官。 ■権大僧都澄憲 信西の息子。静憲の弟。説法・唱導の名人。 ■秉燭 燭を掲げる時刻。夕方。 ■永久 鳥羽天皇の天永4年(1113)4月(7月改元して永久)、比叡山衆徒が神輿をかざして白河院の御所に強訴に及んだ事件。 ■治承 今回の安元3年(1177)。8月改元して治承となる。 ■霊神怒をなせば、災害岐(ちまた)に満つ 「人怨めば則ち神怒り、神怒れば則ち災害必ず生ず」(『貞観政要』君道篇) ■腰輿(ようよ) 「手輿(たごし)」に同じ。前後二人で轅を腰のあたりまで上げて持つ輿。 ■院御所 後白河法皇の御所。法住寺の北。現在の蓮華王院三十三間堂あたり。高倉天皇の御所は閑院内裏(西洞院西、二条南)現・元離宮二条城の東南。 ■たてまつて お乗りになって。 ■直衣(のうし) 貴族の平常服。雑袍(ざっぽう)とも。 ■権亮(ごんのすけ) 中宮権亮。権は定員以外に仮に任じるもの。中宮亮は中宮の身の回りの庶務を行う中宮職(ちゅうぐうしき)の次官。 ■束帯 正式な衣装。 ■ひらやなぐひ 胡c59;(やなぐい)の一種で、矢を入れる矢壷が平なもの。武官が儀式用に用いた。 ■禁中1 宮中。 ■二宮 山王七社の一つ。 ■講堂 比叡山の大講堂。説教・講義を行う堂。根本中堂の西南。 ■山野にまじはる 山野にまぎれる。隠れる。 ■上綱(じょうこう) 役職のある地位の高い僧。 ■左衛門督(さえもんのかみ) 左衛門府の長官。正五位上相当。宮城警護・行幸の供奉をつかさどる。 ■上卿(しょうけい) ここでは比叡山への使いの長。 ■しゃ冠 「しゃ」は罵るときの接頭語。 ■既にかうとみえられけるに ほとんどそうなりそうに(乱暴されそうに)見えたところに。 ■たたうがみ たとうがみ。畳紙。懐紙。 ■濫悪 乱暴狼藉。 ■魔縁 魔閻。悪魔のたぐい。 ■明王 天皇。 ■善逝(ぜんぜい) 仏の十号(十の称号…如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊)の一。 ■発向 出向くこと。 

原文

同廿日(おなじきはつかのひ)、花山院権中納言忠親卿(くわさんのゐんごんちゆうなごんただちかのきやう)を上卿(しやうけい)にて、国司加賀守師高(こくしかがのかみもろたか)、遂(つひ)に闕官(けつくわん)せられて、尾張(おはり)の井戸田(ゐどた)へながされけり。

目代近藤判官師経(もくだいこんどうのはんぐわんもろつね)、禁獄せらる。又去(さんぬ)る十三日、神輿射(い)奉ツし武士六人、獄定(ごくぢやう)せらる。左衛門尉藤原正純(さゑもんのじようふぢはらのまさずみ)、右衛門尉正季(うゑもんのじようまさすゑ)、左衛門尉大江家兼(さゑもんのじやうおほえのいへかね)、右衛門尉同家国(おなじくいへくに)、左兵衛尉清原康家(さひやうゑのじようきよはらのやすいへ)、右兵衛尉同康友(うひやうゑのじようおなじくやすとも)、是等は皆小松殿(こまつどの)の侍(さむらひ)なり。

同(おなじき)四月廿八日、亥剋(ゐのこく)ばかり、樋口富小路(ひぐちとみのこうぢ)より、火出で来て、辰巳(たつみ)の風はげしう吹きければ、京中おほく焼けにけり。大きなる車輪のごとくなるほむらが、三町(ぢやう)五町(ちやう)をへだてて、戌亥(いぬゐ)のかたへすぢかへにとびこえとびこえ焼けゆけば、おそろしなンどもおろかなり。或(あるい)は具平親王(ぐへいしんわう)の千種殿(ちくさどの)、或(あるい)は北野(きたの)の天神の紅梅殿(こうばいどの)、橘逸勢(きついつせい)のはひ松殿、鬼殿(おにどの)、高松殿、鴨井殿(かもゐどの)、東三条(とうさんでう)、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの閑院殿(かんゐんどの)、昭宣公(せうぜんこう)の堀河殿(ほりかはどの)、是を始めて昔今(むかしいま)の名所卅余箇所(かしよ)、公卿(くぎやう)の家だにも十六箇所まで焼けにけり。其外殿上人(そのほかてんじやうびと)、諸大夫(しよだいぶ)の家々は記(しる)すに及ばず。はては大内(たいだい)にふきつけて、朱雀門(しゆしやくもん)より始めて、応天門(おうでんもん)、会昌門(くわいしやうもん)、大極殿(だいこくでん)、豊楽院(ぶらくゐん)、諸司(しよし)、八省(はつしやう)、朝所(あいたんどころ)、一時(いちじ)がうちに、灰燼(くわいしん)の地とぞなりける。家々の日記、代々の文書(もんじよ)、七珍万宝(しつちんまんぽう)、さながら塵灰(ちりはい)となりぬ。其間(あひだ)の費(つひえ)いか計(ばかり)ぞ。人の焼け死ぬる事数百人(すひやくにん)、牛馬(ぎうば)のたぐひは数を知らず。是ただことにあらず、山王(さんわう)の御(おん)とがめとて、比叡山(ひえいざん)より大きなる猿(さる)どもが二三千おりくだり、手々(てんで)に松火(まつび)をともいて京中を(きやうぢゆう)を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。

大極殿(だいこくでん)は、清和天皇(せいわてんわう)の御宇(ぎよう)、貞観(ぢやうぐわん)十八年に、始而(はじめて)焼けたりければ、同(おなじき)十九年正月三日(みつかのひ)、陽成院(やうぜいゐん)の御即位(ごそくゐ)は、豊楽院(ぶらくゐん)にてぞありける。元慶(ぐわんきやう)元年四月九日(ここのかのひ)、事始めあツて、同(おなじき)二年十月八日(やうかのひ)にぞ、つくり出(いだ)されたりける。後冷泉院(ごれいぜんゐん)の御宇(ぎよう)、天喜(てんき)五年二月廿六日、又焼けにけり。治暦(ぢりやく)四年八月十四日(じふしにち)、事始(ことはじめ)ありしかども、作りも出(いだ)されずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三条院の御宇(ぎよう)、延久四年(えんきうしねん)四月十五日作り出(いだ)して、文人(ぶんじん)詩を奉り、伶人(れいじん)楽を奏して、遷幸(せんかう)なし奉る。今は世末(すゑ)になツて、国の力も衰へたれば、其後は遂(つひ)につくられず。

現代語訳

同じ二十日、堀河権中納言忠親(ただちか)卿を首席として評議し、国司加賀守師高(もろたか)は遂に官位を剥奪されて、尾張の井戸田へ流された。

目代(もくだい)近藤判官師経(もろつね)は獄に入れられた。又、去る十三日、神輿を射奉った武士六人が入獄と決定した。

左衛門尉(さえもんのじょう)藤原正純(まさずみ)・右衛門尉正季(まさすえ)・左衛門尉大江家兼(いえかね)・右衛門尉同じく家国(いえくに)・左兵衛尉清原康家(やすいえ)・右兵衛尉同じく康友(やすとも)がそれで、これらは皆小松殿の侍である。

同じ四月二十八日、午後十時ごろ、樋口富小路(ひぐちとみのこうじ)から、火が出て、東南の風が激しく吹いたので、京都中の多くが焼けた。

大きな車輪のような炎が、町を三つも五つも離れた西北の方へ斜めに飛び越え飛び越え焼けていったので恐ろしいなどと言っても言い尽くせない。

或は、具平(ともひら)親王の千種(ちくさ)殿、或は北野天神(菅原道真)の紅梅殿、橘逸勢(たちばなのはやなり)のはい松殿、鬼殿、高松殿、鴨居(かもい)殿、東三条、冬嗣(ふゆつぐ)の大臣の閑院殿、昭宣公(しょうぜんこう)の堀川殿、これらを始めとして今昔の名所三十余個所、公卿の家でさえも十六個所までが焼けてしまった。

そのほか殿上人、諸大府の家々は記すまでもない。あげくの果てに大内裏にまで火が吹き付けて、朱雀門(しゅじゃくもん)を始めとして、応天門、会昌門(かいしょうもん)、大極殿(だいこくでん)、豊楽院(ぶらくいん)、諸役所・、八省・朝所など、一瞬のうちに焼けの原となってしまった。

家々の日記、代々の文書、七珍万宝がすっかり塵灰となった。その間の損失の額はどのくらいであろうか。

人の焼け死ぬこと数百人、牛馬の類は数えきれない。これはただ事ではなく、山王権現の御咎めだとして、比叡山から大きな猿どもが二三千匹降り下り、それぞれに松明を灯して京中を焼くという光景がある人の夢に見えたのである。

大極殿は清和天皇の御代、貞観十八年に、始めて焼けたので、同じ十九年正月三日に陽成天皇(ようぜいてんのう)の御即位は豊楽院で行われた。

元慶(がんぎょう)元年四月九日、大極殿造り始めの儀式があって、同じ二年十月八日に再建された。後冷泉天皇の御代、天喜五年二月二十六日、又焼けた。

治歴四年八月十四日、造り始めの式があったが、造り始めもしないうちに、後冷泉天皇は亡くなられた。

後三条天皇の御代になって、延久四年四月十五日に完成し、文人が詩を奉り、楽師が音楽を奏して、行幸をお迎え申し上げた。

今は世は末になって、国の力も衰えたので、その後はとうとう造営されない。

語句

■花山院権中納言忠親卿 藤原忠親。権中納言藤原忠宗の子。仁安3年(1167)権中納言。安元3年(1177)右衛門督検非違使別当。 ■尾張の井戸田(ゐどた) 名古屋市瑞穂区井戸田町。 ■獄定 投獄されることが決まる。 ■亥の刻 午後10時頃。以下の文は『方丈記』に酷似。 ■樋口富小路 樋口小路と富小路が交差するあたり。中京区河原町通五条あたり。高瀬川沿い。 ■戌亥 西北。 ■すぢかへ 筋違いに。幾筋にもなって。 ■おそろしなンどもおろかなり 恐ろしいなどという言葉では足りない。慣用表現。 ■具平(ぐへい)親王の千種(ちくさ)殿 具平親王は村上天皇第六皇子。その御所千種殿は六条坊門南、西洞院東。 ■北野の天神の紅梅殿 「北野の天神」は菅原道真公。その邸宅紅梅殿は五条坊門北。町尻西。 ■橘逸勢(かついつせい)のはひ松殿 橘逸勢(たちばなのはやなり)は橘諸兄の子孫。嵯峨天皇・空海とならび三筆とよばれた平安時代初期の書家。この屋敷「はひ(這・蝿)松殿」は、姉小路北、堀川東。 ■鬼殿 妖怪が住むというところ。三条南、西洞院東(『拾芥抄』)。 ■高松殿 源高明の屋敷。姉小路北、西洞院東。現在、高松神明神社がある。 ■鴨居殿 堀河院誕生の地。二条南、室町西。 ■東三条 藤原兼家の邸。二条南、西洞院東。 ■冬嗣のおとどの閑院殿 藤原冬嗣の邸。二条南、西洞院東。 ■昭宣公の堀河殿 藤原基経(昭宣公)の邸。二条南、堀河東。 ■応天門 朱雀門のすぐ北。朝堂院の正門。 ■会昌門 平安京大内裏の朝堂院の中門。応天門と相対する。 ■大極殿 朝堂院の北。朝廷の正殿。即位の大礼や国家的儀式が行われた。 ■豊楽院 朝堂院の西。大嘗会・節会などが行われる。 ■八省 中務省・式部省・治部省・民部省・刑部省・兵部省・大蔵省・宮内省の八省。 ■朝所(あいたんどころ) 「朝所(あしたどころ)」の音便。朝堂院の東・大内裏太政官(だいじょうかん)正庁の北東隅にあった殿舎。政務や会食に用いられた。 ■七珍万宝 7つの珍重すべき宝と、あらゆる宝。 ■貞観十八年 『三代実録』貞観十八年(876)4月10日条。 ■元慶元年 貞観十九年(877)4月19日、元慶と改元。 ■同二年十月八日 『三代実録』によれば元慶三年。 ■天喜五年 『扶桑略記』によれば天喜六年。 ■治暦四年 1068年。4月19日、後冷泉天皇崩御、後三条天皇即位。8月14日、大極殿着工(『扶桑略記』)。 ■延久四年 『扶桑略記』延久四年(1072)4月15日条に記事。 ■伶人 楽人。

次の章「十七 座主流

朗読・解説:左大臣光永

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