平家物語 十七 座主流(ざすながし)

『平家物語』巻第ニより「座主流(ざすながし)」。

天台座主明雲(てんだいざす めいうん)が西光法師父子の讒言により、流罪に処せらる。

あらすじ

加賀国の国司師高と目代師経と、地元の寺とのいざこざ(「俊寛沙汰 宇川軍」)は、比叡山の大衆(だいしゅ)が内裏に御輿を振りたてて内裏へ乱入する大事件に発展した(「御輿振」)。

治承元年(1177)五月五日、天台座主明雲はこの責任を問われ、宮中での役務を停止され、法会に参加する権利を剥奪される。

これは「明雲の所領を国司師高が没収し、その意趣返しに明雲が比叡山の大衆を煽動したのだ」と、西光法師父子が讒言したためだった。

後白河法皇はお怒りになった。

十一日、明雲に替わり覚快法親王が新座主になる。

十二日、明雲は水と火の使用を禁じられる、「水火の責め」を受ける。

都の人たちは、こんなことをすれば再度比叡山の大衆が乱入するのではないかと恐れる。

十八日、公卿詮議があって、明雲大僧正のような高僧を還俗、遠流されるのは忍びないという意見が出たが、後白河法皇は明雲に対する怒りが解けない。

平清盛も法皇を説得しようと参上したが、法皇は風邪の気があるということで清盛をお召にならなかった。

やがて僧の資格を剥奪し、「大納言大輔藤井の松枝」という俗名をつける。

この明雲大僧正は天下第一の高僧の聞こえ高く、天王寺、六勝寺の別当も兼任していた。

しかし陰陽頭安倍泰親は、「明雲という字は上に日月の光を輝かせているが(「明」の字を「日」と「月」に分ける)下に雲を置いて、その輝きを見えなくしている」と、その前途を危ぶんだ。

仁安元年、明雲が座主に就任した時、代々の座主のように根本中堂の宝蔵を開き、開祖伝教大使(最澄)の文をご覧になった。

そこには未来の座主の苗字が書かれている。

自分の所まで見て、次を見ずにしまうのが慣習だった。

明雲もそうしたことだろう。

二十一日、配所が伊豆の国と決まりまり、一切経谷の別院に移される。

比叡山の大衆はこぞって、明雲を陥れた西光父子を呪詛した。

二十三日、配所へ出発。

澄憲法院は泣く泣く明雲を粟津まで送る。

明雲は澄憲に一心三観の観想法を授けた。

山門の大衆は、明雲大僧正に対する処分に憤り、大挙して東坂本へ押し寄せる。

原文

治承(ぢしやう)元年五月五日(いつかのひ)、天台座主明雲大僧正(てんだいざすめいうんだいそうじやう)、公請(くじやう)を停止(ちやうじ)せらるるうへ、蔵人(くらんど)を御使(おつかひ)にて如意輪(によいりん)の御本尊(ほんぞん)を召しかへいて、御地僧(ごぢそう)を改易せらる。即(すなは)ち使庁(しちやう)の使(つかひ)をつけて、今度神輿内裏(しんよだいり)へ振り奉る衆徒(しゆと)の張本(ちやうぼん)を召されける。「加賀国(かがのくに)に座主(ざす)の御坊領(ごぼうりやう)あり、国司師高(こくしもろたか)、是(これ)を停廃(ちやうはい)の間、その宿意(しゆくい)によツて、大衆をかたらひ、訴訟をいたさる。すでに朝家(てうか)の御大事(おんだいじ)に及ぶ」よし、西光法師父子(さいくわうほふしふし)が讒奏(ざんそう)によツて、法皇大きに逆鱗(げきりん)ありけり。「ことに重科(ぢゆうくわ)におこなはるべし」と聞(きこ)ゆ。明運は法皇の御気色(ごきそく)ありしかりければ、印鑰(いんやく)をかへしたてまツて、座主を辞し申さる。同(おなじき)十一日、鳥羽院(とばのゐん)の七の宮覚快法親王(かくくわいほつしんわう)、天台座主にならせ給ふ。これは青蓮院(しやうれんゐん)の大僧正行玄(ぎやうげん)の御弟子(おんでし)なり。

同じき十二日、先座主所職(せんざすしよしよく)をとどめらるるうへ、検非違使(けんびゐし)二人をつけて、井に蓋(ふた)をし、火に水をかけ、水火(すいくわ)のせめにおよぶ。これによツて、大衆なほ参洛(さんらく)すべきよし聞(きこ)えしかば、京中又さわぎあへり。

同(おなじき)十八日、太政大臣以下(だいじやうだいじんいげ)の公卿(くぎやう)十三人、参内(さんだい)して陣の座につき、先の座主罪科(ざいくわ)の事儀定(ぎじやう)あり。八条中納言長方卿(はつでうのちゆうなごんながかたのきやう)、其時(そのとき)はいまだ左大弁宰相(さだいべんさいしやう)にて、末座(ばつざ)に候はれけるが、申されけるは、「法家(ほつけ)の勘状(かんじやう)にまかせて、死罪一等(しざいいつとう)を減じて遠流(をんる)せらるべしとみえて候へども、前座主(ぜんざす)明雲大僧正は、顕密兼学(けんみつけんがく)して、浄行持律(じやうぎやうぢりつ)のうへ、大乗妙経を公家(くげ)にさづけ奉り、菩薩浄戒(ぼさつじやうかい)を法皇にたもたせ奉る、御経(おんきやう)の師、御戒(おんかい)の師、重科(ぢゆうくわ)におこなはれん事、冥(みやう)の照覧はかりがたし。還俗遠流(げんぞくをんる)をなだめらるべきか」と、はばかるところもなう申されければ、当座の公卿(くぎやう)、みな長方(ながかた)の義(ぎ)に同ずと、申しあはれけれども、法皇の御(おん)いきどほりふかかりしかば、猶(なほ)遠流に定めらる。太政入道も、此事(このこと)申さんとて、院参(ゐんざん)せられたりけれども、法皇御風(おんかぜ)の気(け)とて、御前(ごぜん)へも召され給はねば、本意(ほい)なげにて退出せらる。僧を罪(つみ)する習(ならひ)とて、度縁(どえん)を召し返し、還俗せさせ奉り、大納言大輔(だいなごんのたいふ)、藤井の松枝(まつえだ)と、俗名(ぞくみやう)をぞつけられける。

此明雲(めいうん)と申すは、村上天皇第七の皇子、具平親王(ぐへいしんわう)より六代の御(おん)すゑ、久我大納言顕通卿(くがのだいなごんあきみちのきやう)の御子なり。まことに無双(ぶさう)の碩徳(せきとく)、天下(てんか)第一の高僧にておはしければ、君も臣もたツとみ給ひて、天王寺、六勝寺(ろくしようじ)の別当をもかけ給へり。

現代語訳

安元(あんげん)三(治承(じしょう)元)年五月五日、天台座主明雲(てんだいざすめいうん)大僧正は、朝廷での法会(ほうえ)や、経典の講義をすることを止めさせられたうえ、蔵人(くらんど)を使者として如意輪観音(にょいりんかんのん)の御本尊を召し返させられ、護持僧(ごじそう)の役を解任された。

そして検非違使庁の役人を使いとして出し、今度は神輿(しんよ)を内裏へ振り奉った衆徒の張本人(明雲)を召された。「加賀国に座主の領地があり、国司師高(もろたか)がこれを廃止したので、その恨みの為に、衆徒を語らい、訴訟を起されたのだ。すんでのところで朝廷の一大事になるところであった」

ことを西光(さいこう)法師親子が讒言(ざんげん)したので、法皇の逆鱗に触れたのである。

「特に重罪に処せられるだろう」という評判であった。明雲は法皇のご機嫌が悪かったので、天台座主の職印と経蔵の鍵をお返し申し上げて、座主を辞職された。

同月十一日、その後任として鳥羽(とば)院の第七の皇子覚快(かくかい)法親王が天台座主におつきになった。

この方は青蓮院(しょうれんいん)の行玄(ぎょうげん)大僧正の御弟子である。

同月十二日、前座主(明雲)は職務を停止させられたうえ、検非違使二人を監視に付けて、井戸に蓋をし、水を使えないようにし、竈の火に水をかけ、煮炊きなどができないようにした。

このことで、衆徒はなおも都に集まるということだったので、京都中が又騒ぎ合った。

同じ十八日、太政大臣(だいじょうだいじん)以下の公卿(くぎょう)十三人が参内して、会議の座につき、先の座主の罪科について評定した。

八条中納言長方(ながかた)卿は、その時はまだ左大弁(さだいべん)宰相で末席に控えておられたが、

「法律専門家の上申した文書によると、死罪一等を減じて遠流(かんる)に処すべきだとありますが、前座主明雲大僧正は、顕教(けんきょう)・密教(みっきょう)を二つながら学んで、行いを清浄にして堅く戒律を守っており、法華経を高倉天皇に伝授奉り、菩薩戒(ぼさつかい)を後白河(ごしらかわ)法皇にお授け申し上げている御経(おんきょう)の師、御戒(おんかい)の師です。

そういうお方を重罪に処した場合、仏がどのように御思いになるか、案じられます。俗人に戻して遠流をとりやめるべきではないでしょうか」

と遠慮することもなく、申されたので、同席の公卿たちは皆、長方卿の言い分に同意する旨を申し会わされたが、法皇の御怒りが深いものだったので、やはり遠流に決定した。

太政入道(清盛)も、このことを仲介しようとして院に参られたが、法皇はお風邪気味ということで、御前にも召されないので、不本意そうに退出された。

僧を罪にするときの決まりとして認可証を召しあげ、環俗させ奉り、大納言大輔藤井(だいなごんだいすけふじい)の松枝と俗名をつけられた。

この明雲と申す者は、村上天皇の第七の皇子、具平親王(ぐへいしんのう)から六代目にあたる久我大納言顕通卿(くがのだいなごんあきみちのきょう)の御子である。

まことに二人といない大徳の人で、天下第一の高僧であられたので、君も臣下も尊敬されて、四天王寺(してんのうじ)、六勝寺(ろくしょうじ)の別当をも兼任されていた。

語句

■明雲大僧正 源顕通の子。仁安2年(1167)天台座主、安元2年(1176)僧正。安元3年(治承元年)座主停止。当年11月座主復帰。 ■公請(くじょう) 朝廷から法会や経文の講義に招かれること。 ■如意輪の御本尊 宮中で行われる長日三壇のうち、比叡山は如意輪の法、園城寺は不動の法を、東寺は延命を担当した。如意輪の法の本尊が如意輪観音。 ■御持僧(ごぢそう) 天皇のそばに仕え、天皇の身体護持の祈祷をする僧。 ■使庁の使 検非違使庁の使。 ■張本 張本人。明雲のこと。 ■御坊領 僧の所領地。 ■讒奏 天皇・院に讒言すること。 ■逆鱗 逆鱗に触れる。天子がお怒りになること。 ■印鑰(いんやく) 天台座主の持つ印と倉の鍵。 ■鳥羽院の七宮覚快法親王 嘉応2年(1170)法親王。 ■青蓮院の大僧正行玄 比叡山東塔の青蓮院の開祖。関白藤原師実の子。保延4年(1138)天台座主、久安元年(1145)大僧正。 ■水火のせめ 井戸に蓋をして水を使えないようにして、火に水をかけて炊事ができなくする罰。 ■同十八日 治承元年(1177)十八日。『玉葉』によれば二十日。公卿は太政大臣(師長)以下11人。 ■陣の座 公卿が並んで座り僉議する場。 ■儀定 評定。 ■八条中納言長方卿 藤原顕家の子。八条堀河に邸があった。 ■左大弁 太政官の判官(じょう)のひとつ。左弁官局の長官。中務・式部・治部・民部の四部を管理する。 ■法家(ほっけ) 明法道(法律)をつかさどる家。坂上・中原両家。 ■勘状 罪を訴える書状。 ■顕密兼学 顕教も密教もともに学んでいること。顕教は文字にあらわした教えで主に経文のこと。密教は主に真言宗で大日如来の、文字にあらわせない教えのこと。 ■浄行持律 行いが清浄で固く戒律を守っていること。 ■大乗妙教 『法華経』。 ■公家にさづけ奉り 「公家」はここでは天皇のこと。明雲を師として高倉天皇が『法華経』を書写したことをさす。 ■菩薩浄戒 菩薩戒。菩薩(修行者)が守るべき戒律。 ■冥(みょう)の照覧 冥は仏菩薩。照覧は神仏がご覧になること。 ■還俗遠流 還俗は僧を俗人に戻すこと。遠流は遠くに流すこと。 ■なだめらる ゆるやかにする。処罰を軽くすること。 ■太政入道 平清盛。平家一門と明雲は懇意だった。 ■御風の気 お風邪気味。 ■度縁 度牒。僧としての認可状。 ■具平親王 村上天皇第七皇子。一条朝における文壇の中心人物。 ■久我大納言顕通卿(こがのだいなごんあきみちのきょう) 右大臣源顕房の孫。太政大臣雅実の子。保安3年(1122)権大納言。祖父顕房が山城国乙訓郡久我(京都府乙訓郡久我村)に水閣を築いたため、雅実以後、久我を称した。 ■碩徳 碩は大。徳が大きい人。 ■天王寺 四天王寺。大阪師天王寺区。聖徳太子建立。明雲は治承4年(1180)四天王寺別当、養和元年(1182)六勝寺別当(天台座主記)。六勝寺は京都師東山区白川に白川法皇が創設の六の寺。法勝寺・尊勝寺・円勝寺・最勝寺・成勝寺・延勝寺。

原文

されども陰陽守安倍泰親(おんようのかみあべのやすちか)が申しけるは、「さばかりの智者の、明雲となのり給ふこそ心えね。うへに日月の光をならべて、したに雲あり」とぞ難じける。仁安(にんあん)元年弐月廿日(はつかのひ)、天台座主にならせ給ふ。同(おなじき)三月十五日、御拝堂(ごはいだう)あり。中堂の宝蔵(ほうざう)をひらかれけるに、種々の重宝(ちようほう)共の中に、方(はう)一尺の箱あり。白い布でつつまれたり。一生不犯(いちしやうふぼん)の座主、彼(かの)箱をあけて見給ふに、黄紙(きし)に書けるふみ一巻あり。伝教大師(でんげうだいし)、未来の座主の名字(みやうじ)を、兼(か)ねて記(しる)しおかれたり。我名(わがな)のある所まで見て、それより奥をば見ず、もとのごとくに、まき返しておかるる習(ならひ)なり。されば此僧正も、さこそおはしけめ、かかるたツとき人なれども、先世の宿業(しゆくごふ)をば、まぬかれ給はず。哀れなりし事どもなり。

同(おなじき)廿一日、配所伊豆国(いづのくに)と定めらる。人々様々(やうやう)に申しあはれけれども、西光法師父子が讒奏(ざんそう)によツて、かやうにおこなはれけり。やがて今日(けふ)都のうちをおひ出(いだ)さるべしとて、追立(おつたて)の官人(くわんにん)、白河の御坊(ごぼう)にむかツておひ奉る。僧正泣く泣く御坊を出でて、粟田口(あはたぐち)のほとり、一切経(いつさいきやう)の別所(べつしよ)へいらせ給ふ。山門にはせんずる処(ところ)、我等が敵(てき)は、西光父子に過ぎたる者なしとて、彼等(かれら)親子が名字(みやうじ)を書いて、根本中堂(こんぽんちゆうだう)におはします十二神将(じふにじんじやう)のうち、金毘羅大将(こんぴらだいじやう)の左の御足(みあし)のしたにふませ奉り、「十二神将七千夜叉(しちせんやしや)、時刻をめぐらさず、西光父子が命(いのち)を召しとり給へや」と、をめきさけんで呪詛(しゆそ)しけるこそ、聞くもおそろしけれ。

同(おなじき)廿三日、一切経の別所より配所へおもむき給ひけり。さばかんの法務の大僧正程(ほど)の人を、追立(おつたて)の鬱使(うつし)がさきにけたてさせ、今日(けふ)をかぎりに都を出でて、関の東へおもむかれけん心のうち、おしはかられて哀れなり。大津(おほつ)の打出(うちで)の浜(はま)にもなりしかば、文殊楼(もんじゆろう)の軒端(のきば)の、しろじろとして見えけるを、二目(ふため)とも見給はず、袖(そで)を顔におしあてて、涙にむせび給ひけり。山門に、宿老(しゆくらう)碩徳(せきとく)、おほしといへども、澄憲法印(ちようけんほふいん)、其時(そのとき)はいまだ僧都(そうづ)にておはしけるが、余(あま)りに名残(なごり)を惜しみ奉り、粟津(あはづ)まで送り参らせ、さてもあるべきならねば、それより暇(いとま)申して、かへられけるに、僧正心ざしの切(せつ)なる事を感じて、年来孤心中(ねんらいこしんぢゆう)に秘せられたりし一心三観(いつしんさんぐわん)の血脈相承(けつみやくさうじよう)をさづけらる。此法(このほふ)は釈尊(しやくそん)の付属、波良奈国(はらないこく)の馬鳴比丘(めみやうびく)、南天竺(なんてんぢく)の竜樹菩薩(りゆうじゆぼさつ)より、次第に相伝(さうでん)しきたれるを、今日のなさけにさづけらる。さすが我朝(わがてう)は粟散辺地(そくさんへんぢ)の境(さかひ)、濁世末代(ぢよくせまつだい)といひながら、澄憲(ちようけん)これを付属して、法衣(ほふえ)の袂(たもと)をしぼりつつ、都へ帰りのぼられける、心のうちこそたツとけれ。

現代語訳

しかし、陰陽守安倍泰親(おんようのかみあべのやすちか)は、「それほどの知恵者が、明雲と名乗っているのはわけがわからぬ。上に日月の光(文字)を並べて、下に雲がある」と非難した。

明雲は仁安元年二月二十日天台座主に就任され、同じ三月十五日、拝堂なさって比叡山に登り、根本中堂の御本尊を礼拝されたが、種々の宝物の中に、一尺四方の箱があり、白い布で包まれている。

一生涯仏戒を守り男女の交わりをしない座主が、その箱を開けて見られると、黄色の紙に書かれた文が一巻ある。

伝教大師が未来の座主の名前を記しておかれたのだ。明雲はその文を開き、自分の名前が書かれている所まで捲ると、それから先は見ず、もとのように巻き返しておかれるのが常である。

それでこの僧正もそのようになさったのであろう。このように尊い人であったが、前世での宿業から逃れることはできない。まことに哀れな事であった。

同月二十一日、配所は伊豆国と定められた。人々が様々に話し合いとりなしされたけれども、西光法師親子の讒言(ざんげん)によってそのように行われたのだ。

ただちに今日都の内を追い出されるべきだというので、追い立てる役人が白河の御坊に出向いて僧正(明雲)を追い立て申した。僧正は泣く泣く御坊を出て、粟田口(あわたぐち)のほとりの一切経谷の別院へお入りになる。

延暦寺では、結局我等の敵は西光法師親子以上の者は無いとして、彼等親子の名字を書いて、根本中堂におられる十二神将の内の金毘羅大将の左の御足の下に踏ませ奉り、「十二神将七千夜叉(しちせんやしゃ)時間をかけずに、西光親子の命を召し取り給え」と喚(わめ)き叫んで呪詛(じゅそ)したのは、聞くだけでも恐ろしい事であった。

同月二十三日、一切経谷の別院から配所の伊豆へ向かわれた。あれほどの寺務の最高の地位にあった大僧正程の人を、追い立て役人が追い立てて先に行かせ、今日を最後に都を出て、逢坂の関の東へ向かって行かれた僧正の心の内が推し量られて哀れであった。

大津の打出の浜にさしかかると、そこからは比叡山の文殊楼(もんじゅろう)の高楼の軒場(にきば)が白々と見えたが、二目とは御覧にならず、袖を顔に押し当てて、涙にむせんでおられた。

叡山には年功を積んだ老僧や高徳の僧は多いけれども、澄憲(ちょうけん)僧院は、其時はまだ僧都でおられたが、余りにも名残を惜しみ奉り、粟津まで見送りになったが、どこまでも送っていくわけにいかないので、そこからお暇(いとま)して叡山へ帰って行かれた。明雲僧正は澄憲(ちょうけん)僧院の志の深い事に感心して、長年心の中に秘められていた一心三願の法脈を伝授された。

この法は釈尊が教義を伝授され、中インドにあった波羅奈(はらない)国の馬鳴比丘(めみょうびく)、南インドの竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)から次第に相伝してきたもので、今日の厚情に感謝してお授けになる。

さすがに日本は辺鄙な所に粟粒が散らばっているような小国であり、乱れた末世だといっても、澄憲がこれを伝授して、法衣の袂を絞りながら都へ帰って行かれた心の内は尊いものであった。

語句

■陰陽頭安倍泰親 「陰陽頭(おんようのかみ)」は「陰陽寮(おんようりょう)」の長官。中務省(なかつかさしょう)に属し、天文、卜占、暦などをつかさどる。 ■日月の光をならべて 「日」と「月」をならべると「明」。 ■仁安元年 1167年。 ■御拝堂 座主が比叡山に登って根本中堂の本尊(薬師如来)を拝すること。 ■一生不犯の座主 一生戒律を守って男女の交わりをしないこと。 ■先世(ぜんぜ?)の宿業 前世で行った業因。 ■追立(おったて)の官人 罪人を配所に追い立てる役人。 ■白河の御坊 延暦寺の別院、青蓮院。京都市東山区粟田口。 ■一切経の別所 一切経谷にあった延暦寺の別院。 ■十二神将 根本中堂の薬師如来をとりまく金毘羅大将以下十二の仏神。 ■七千夜叉 十二神将の眷属。 ■さばかんの 「さばかりの」の音便。あれほどの。 ■法務 寺務総長。 ■追立の鬱使 追立の官人に同じ。 ■さきにけたてさせ 先に蹴立てさせ。先に行かせて。 ■文殊楼 根本中堂の東にある文殊菩薩を祭る高楼。昔は東坂本からの参拝道の総門だった。創建は慈覚大師円仁。 ■宿老 老僧。 ■粟津 大津の東、膳所のあたり。木曽義仲討ち死にの地として有名。 ■孤心中(こしんじゅう) 自分ひとりの心の中。 ■一心三観(いっしんさんがん) 天台宗の瞑想法の一つ。 一切には実体がないと観ずる「空観(くうがん)」、それらは仮にあらわれているだけだとする「仮観(けがん)」、その二つは一つであると見る「中観(ちゅうがん)」を同時に観ずること。 ■血脈相承 仏教において法が師から弟子へ伝えられることを、人体における血液の流れにたくした言葉。 ■釈尊の付属 釈尊の伝授されたもの。 ■波羅奈国(はらないこく) 中インドにあった国。 ■馬鳴比丘(めみょうびく) 比丘は僧。2世紀頃、バラモン教から仏教に転じ仏教の布教につとめた人。 ■竜樹菩薩 ナーガールジュナ。南インドのバラモン出身で仏教に転じ、馬鳴比丘の弟子から教えを受けた。 ■粟散辺地 辺鄙な所に粟粒が散ったようにある場所。日本をさす。 

原文

山門には大衆おこツて僉議(せんぎ)す。「抑義真和尚(そもそもぎしんわしやう)よりこのかた、天台座主はじまツて五十五代に至るまで、いまだ流罪(るざい)の例(れい)を聞かず。倩(つらつら)事の心を案ずるに、延暦(えんりやく)の比(ころ)ほひ、皇帝(くわうてい)は帝都をたて、大師は当山(たうざん)によぢのぼツて、四明(しめい)の教法(けうぼふ)を此所にひろめ給ひしよりこのかた、五障(ごしやう)の女人(によにん)跡たえて、三千の浄侶居(じやうりよきよ)をしめたり。峰には一乗読誦(いちじようどくじゆ)年ふりて、麓(ふもと)には七社(しちしや)の霊験日(ひ)に新(あらた)なり。彼月氏(かのぐわつし)の霊山(りやうぜん)は王城の東北(とうぼく)、大聖(だいしやう)の幽崛(いうくつ)なり。この日域(にちゐき)の叡岳(えいがく)も、帝都の鬼門(きもん)に峙(そばだ)ツて、護国の霊地なり。代々(だいだい)の賢王智臣(けんわうちしん)、此所(このところ)に壇場(だんぢやう)をしむ。末代ならんがらに、いかんが当山に瑕(きず)をばつくべき。心うし」とて、をめきさけぶといふ程こそありけれ。満山(まんざん)の大衆、みな東坂本(ひんがしざかもと)へおり下る。

現代語訳

叡山では衆徒らが起って評議した。

「そもそも義真和尚より始めて、天台座主が始まって五十五代に至るまで、いまだに流罪の先例は聞いたことがない。

よくよく事情を考えると、延暦の頃から、桓武天皇は平安京に都を建て、伝教大師は当山に登って、天台の教えをここに広められて以来、五障の女性は一人もなく、三千人の清浄な僧侶が住んでいる。峰には法華経の読誦が長年行われ、麓には日吉山王七社の霊験が日ごとに新しくあらたかである。

あのインドの霊山は、王舎城の東北にあり、大聖釈迦が住んだ山中の奥深い岩屋である。

この日本の比叡山も平安京の鬼門にそびえて、国家を鎮護する霊地である。

代々の賢王・智臣がここで壇を組み、仏を礼拝したことであろう。

いくら末代だからといってどうして当山に瑕(きず)をつけてよかろうか。悲しい事だ」

と言って、わめき叫ぶや否や叡山中の衆徒は、皆東坂本へ下った。

語句

■義真和尚(ぎしんかしょう) 伝教大師の弟子。天長元年(824)初代天台座主。 ■延暦の比ほひ 延暦13年(794)長岡京から平安京に遷都。 ■四明(しめい)の教法(きょうぼう) 天台宗の教え。宋代、四明知禮大師が天台宗を中興したことから。 ■五障 女人の持つ五つの障害。「女人五障」とも。女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀になることができない、という説。 ■浄侶 清められた僧。 ■一乗読誦 『一乗経』=『法華経』を読誦すること。 ■七社 日吉神社の山王七社。 ■新(あらた)なり 「新しい」と「あらたか」を懸ける。 ■月氏(がっし) 西域の国の名。ここではインドのこと。 ■霊山(りょうぜん) 釈迦が住んだ山。インドのマカダ国にあった。鷲山とも。 ■王城 マカダ国の王舎城。 ■大聖(だいしょう) 釈迦のこと。 ■幽崛(ゆうくつ) 奥深い岩屋。 ■日域(じちゐき) 日本のこと。 ■叡岳 比叡山。 ■鬼門 艮の方角。東北。 ■壇場(だんじょう) 戒律を授けるための戒壇など、壇をもうける場所。 ■末代ならんがらに 末代であるからといって。「がらに」は「からに」の転。 ■いかんが 「いかにか」の転。 ■東坂本 比叡山の東麓。現滋賀県大津市坂本。

朗読・解説:左大臣光永

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