平家物語 十八 一行阿闍梨之沙汰(いちぎやうあじやりのさた)

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『平家物語』巻第ニより「一行阿闍梨沙汰(いちぎょうあじゃりのさた)」。

無実の罪を着せられ島流しにされそうになった先座主明雲の身柄を、比叡山の大衆が奪い返す、これに関連して、唐の時代に無実の罪を着せられ流罪となった僧、一行阿闍梨の故事が語られる。

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あらすじ

先座主明雲(以下座主)は、比叡山の大衆を扇動して内裏へ乱入させたとの濡れ衣を着せられ、流罪に処せられた。

比叡山の大衆は、十禅寺権現の御前に集い、座主の身柄を取り戻そうと詮議する。しかし追い立てる役人、護送の役人がいるから、山王権現の力にたよる他はない。

そこで老僧たちが山王権現に祈ると、鶴丸という童に山王権現が下って、わが比叡山の座主が奪われることは悲しいといって泣く。

そこで大衆は座主を取り戻そうと、粟津へ押し寄せる。

護送の役人は驚いて逃げ去る。

近江国の国分寺で座主に対面する大衆。しかし座主は大衆の軽挙を戒める。

輿を用意し、「お乗りください」と言っても、「私は罪人だから」とお乗りにならない。

西塔の阿闍梨、裕慶(ゆうけい)という大男が、座主をさとして輿に乗せる。

大講堂の庭で今後どうすべきか?詮議になる。

阿闍梨裕慶は座主の徳の高きを訴え、一切の責めは自分が負うと請合い、大衆を安心させる

大衆は座主を東塔の南谷、妙光房へ移す。

昔、やはり無実の僧が流罪になった例がある。

唐の一行阿闍梨は玄宗皇帝の后、楊貴妃との密通の疑いをかけられ、加羅国に流罪となっ。

加羅国へは帝が御幸の時使う輪池道、一般人が使う幽地道、罪人が通る暗穴道があったたが、
一行阿闍梨は暗穴道を通らされた。

無実の罪に問われた一行阿闍梨を天道は哀れみ、九曜の星を現してその身を守った。

一行阿闍梨は右の指を食いきり、その血で左の袖に九曜の曼荼羅を描き写した。日本・中国で真言宗の本尊である九曜曼荼羅がこれである。

原文

十禅師権現(じふぜんじごんげん)の御前(おんまへ)にて大衆又僉議す。「抑(そもそも)我等粟津(あはづ)に行きむかツて、貫首(くわんじゆ)をうばひとどめ奉るべし。但(ただ)し追立(おつたて)の鬱使(うつし)、両送使(りやうそうし)あんなれば、事故(ことゆゑ)なく取りえ奉らん事ありがたし。山王大師(さんわうだいし)の御力(ちから)の外(ほか)はたのむ方なし。まことに別(べち)の子細(しさい)なく取りえ奉るべくは、ここにてまづ瑞相(ずいさう)を見せしめ給へ」と、老僧共肝胆(かんたん)をくだいて、祈念しけり。ここに無動寺法師(むどうじぼふし)、乗円律師(じようえんりつし)が童(わらは)、鶴丸(つるまる)とて生年(しやうねん)十八歳になるが、身心(しんじん)を苦しめ、五体に汗をながいて、俄(にはか)にくるひ出でたり。「われ十禅師権現(じふぜんじごんげん)、乗りゐさせ給へり。末代といふとも、争(いか)でか我山(わがやま)の貫首をば、他国へはうつさるべき。生々世々(しやうじやうせせ)に心うし。さらむにとツては、われこのふもとに跡をとどめてもなににかはせん」とて、左右(さう)の袖(そで)を顔におしあてて、涙をはらはらとながす。大衆これをあやしみて、「誠に十禅師権現の御託宣(ごたくせん)にて在(ましま)さば、我等しるしを参らせん。すこしもたがへず、もとのぬしに返したべ」とて、老僧共四五百人、手々(てンで)にもツたる数珠(じゆず)共を、十禅師の大床(おほゆか)のうへへぞ投げあげたる。此物ぐるひ、はしりまはツて拾ひあつめ、すこしもたがへず、一々(いちいち)にもとのぬしにぞくばりける。大衆、神明(しんめい)の霊験(れいげん)あらたなる事のたツとさに、みなたなごころをあはせて、随喜(ずいき)の感涙をぞもよほしける。
「其(その)儀ならば、ゆきむかツて、うばひとどめ奉れ」といふ程(ほど)こそありけれ、雲霞(うんか)の如くに発向(はつかう)す。或(あるい)は志賀辛崎(しがからさき)の浜路(はまぢ)に、あゆみつづける大衆もあり。或(あるい)は山田矢(や)ばせの湖上(こしやう)に、舟おしいだす衆徒(しゆと)もあり。是(これ)をみて、さしもきびしげなりつる追立の鬱使、両送使、四方へ皆逃げさりぬ。

大衆国分寺(こくぶんじ)へ参りむかふ。前座主(ぜんざす)大きにおどろいて、「勅勘(ちよくかん)の者は、月日(つきひ)の光にだにもあたらずとこそ申せ。何(いか)に況(いはん)や、いそぎ都のうちを追ひ出(いだ)さるべしと、院宣宣旨(ゐんぜんせんじ)のなりたるに、しばしもやすらふべからず。衆徒とうとうかへりのぼり給へ」とて、はしぢかうゐ出でて、宣ひけるは、「三台塊門(さんだいくわいもん)の家をいでて、四明幽渓(しめいいうけい)の窓に入りしよりこのかた、ひろく円宗(ゑんじゆう)の教法(けうほふ)を学(がく)して、顕密(けんみつ)両宗をまなびき。ただ吾山(わがやま)の興隆をのみ思へり。又国家を祈り奉る事おろそかならず、衆徒をはぐくむ心ざしもふかかりき。両所山王(りやうじよさんわう)、定めて照覧し給ふらん。身にあやまつ事なし。無実の罪によツて、遠流(ゑんる)の重科(ぢゆうくわ)をかうぶれば、世をも人をも、神をも仏をも、恨み奉ることなし。これまでとぶらひ来(きた)り給ふ衆徒の芳志(ほうし)こそ、報じつくしがたけれ」とて、香染(かうぞめ)の御衣(おんころも)の袖、しぼりもあへ給はねば、大衆もみな涙をぞながしける。御輿(おんこし)さし寄せて、「とうとう召さるべう候(さうらふ)」と申しければ、「昔こそ三千の衆徒の貫首(くわんじゆ)たりしか、いまはかかる流人(るにん)の身になツて、いかんがやンごとなき修学者(しゆがくしや)、智恵(ちゑ)ふかき大衆達には、かきささげられてのぼるべき。縦(たと)ひのぼるべきなりとも、わらんどなンどいふ物しばりはき、同じ様(やう)にあゆみつづいてこそのぼらめ」とて、乗り給はず。

現代語訳

十禅師権現(じゅうぜんじごんげん)の御前で衆徒(しゆと)が又会議を開く。

「そもそも我等が粟津(あわず)へ向かって座主(ざす)を奪い返しお止めしよう。但し、追い立てる役人や護送役人がいるそうなので、何事もなく奪い返すのは難しかろう。

山王大師の御力に頼る以外に方法はない。まこと特別に問題・支障もなく僧正を取り返すには、ここでまず良いしるしをお見せ下さい」

と、老僧共は真心を尽くして祈念した。

ここに無動寺法師(むどうじほうし)、乗円法師(じょうえんりっし)の召し使う童で十八歳になる鶴丸という者が、身心を苦しみ悶えさせて、全身に汗を流して、突然狂いだした。

「我に十禅師権現が乗り移られた。末代といえども、どうして我が比叡山の座主を他国へお移してよかろう。それは未来永劫悲しい事だ。そうなるなら自分がこの麓に鎮座していても仕方がない」

と言って、左右の袖を顔に押し当てて、涙をはらはらと流す。衆徒はこれを怪しんで、

「まことに十禅師権現の御託宣であるなら、我々がめいめいのしるしを差し上げましょう。それをすこしも間違えず、元の主に返してください」

と言って、老僧共四、五百人が、てんでに持った数珠(じゅず)どもを十禅師の社殿の大床の上へ投げ上げた。

この物狂いは、走り回ってそれを拾い集め、少しも間違えず、一つ一つ元の持ち主に配った。

衆徒は神の霊験のあらたかなことを尊く思って、皆手を合わせて、ありがたく思い感激の涙を流した。

「そういう事なら、出向いて、前座主を奪い、お止め奉れ」と言うやいなや、雲霞(うんか)の如く大勢が出発する。

あるいは志賀・唐崎の浜路を歩み続ける衆徒もあり、あるいは山田・矢橋の湖上に船を押し出す衆徒もある。

これを見て、あんなに厳重そうだった追立(おったて)の役人、護送の役人も四方へ皆逃げ去った。

衆徒は国分寺(こくぶんじ)へ向って参った。前座主は大変驚いて、

「天皇のとがめを受けた者は、月日の光でさえ当たらぬと申しておる。まして、至急都から追い出せと、院宣(いんぜん)の御言葉があったのに、しばらくも躊躇(ちゅうちょ)しているべきではない。衆徒はさっさと山へ登り帰りなさい」

と言って、端近く出て行って言われるには、

「大臣となるべき貴い家を出て、比叡山の静かな谷に修行の為に入って以来、広く天台宗の教法を学んで顕教・密教の二宗を学んだ。

そして、ひたすら比叡山の興隆だけを思ってきた。又国家を祈り奉る事をおろそかにせず、衆徒を育む志も深かった。

大宮・二宮・聖真子の神々も、きっと御覧になっているであろう。わが身に過失はない。

無実の罪によって、遠流の重罪を受けたが、世も人も、神も仏もお恨みする事はない。

ここまで尋ねて来られた衆徒のありがたい志には、何とも十分返礼のしようがない」

と言って、香染(こうぞめ)の御衣の袖の涙を絞りきることもできないほど涙を流されたので、衆徒もみな涙を流した。

衆徒たちが、御輿を寄せて「早く早くお乗りになるべきです」と申したので

「昔は三千の衆徒の座主であったが、いまはこのような流人(るにん)の身になって、どうして貴い修学者や智恵深い衆徒達に担ぎあげられて山に登ることができようか。

たとえ登るべきであっても草鞋(わらじ)などという物を足にくくりつけて、同じように歩いて登りましょう」と言って、お乗りにならない。

語句

■十禅寺権現 日吉神社の摂社。山王七社の一つ。 ■貫首(かんじゅ) 座主。 ■鬱使 役人。検非違使。 ■両送使 両は領の当て字。罪人を配所に護送する役人。 ■山王大師 日吉神社の山王権現を仏教の立場からいったもの。その正体は、比叡山の地主神(じぬしがみ・土地を守護する神)である大山咋神(おおやまくいのかみ)と、天智天皇の大津京遷都(667)によって遷されてきた三輪山(大神神社)の大己貴神(おおなむちのかみ)。 ■別(べち)の子細なく 特別な事情なく。 ■肝胆をくだいて 真心をこめて。 ■無動寺 比叡山東塔、根本中堂の南にある寺。 ■律師 僧都の次の僧官。 ■生々世々に 現世も来生も。永遠に。 ■随喜の感涙 ありがたく感激して流す涙。 ■山田・矢ばせ(矢橋) 草津市内。 ■国分寺 近江国国分寺。大津市石山にあった。 ■何(いか)に況(いわん)や まして。 ■三台槐門(さんだいかいもん)の家 三公(太政大臣・左大臣・右大臣)を出した家。三台星は天帝(紫微)を守護する星。「槐門」は中国周代、三公が三本の槐の木の下に座して政治を執ったため。 ■四明幽渓 四明は宋代に四明山に四明大師が出て天台宗を中興したことから、比叡山の別称。「幽渓」は静かな谷。 ■円宗 大乗円満の教義をもつ宗派。中国では天台宗と華厳宗を、日本では天台宗をいう。 ■両所山王 山王七社のうち、大宮(釈迦)、ニ宮(薬師如来)、これに聖真子(しょうしんじ)(弥陀如来)を加えて三聖という。 ■香染(こうぞめ) 茶褐色。最高位の僧衣の色。 ■しぼりもあへ給はねば 袖をしぼることもできないほど涙をお流しになったので。 ■しか 逆説の助動詞「き」の已然形。 ■わらんず 「わらくず」の転。わらじ。

原文

ここに西塔(さいたふ)の住侶(じゆうりよ)、戒浄坊(かいじやうばう)の阿闍梨裕慶(あじやりいうけい)といふ悪僧あり。たけ七尺ばかりありけるが、黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)の大荒目(おほあらめ)にかねまぜたるを、草摺(くさずり)ながに着なして、甲(かぶと)をばぬぎ、法師原(ほふしばら)にもたせつつ、しら柄(え)の大長刀(おほなぎなた)、杖(つゑ)につき、「あけられ候へ」とて、大衆の中をおし分けおし分け、先座主のおはしける所へつツと参りたり。大の眼(まなこ)を見いからかし、しばしにらまへ奉り、「その御心(おんこころ)でこそ、かかる御目にもあはせ給へ。とうとう召さるべう候」と申しければ、おそろしさにいそぎ乗り給ふ。大衆取りえ奉るうれしさに、いやしき法師原にはあらで、やンごとなき修学者(しゆがくしや)ども、かきささげ奉り、をめきさけンでのぼりけるに、人はかはれども、裕慶はかはらず、前輿(さきごし)かいて、長刀(なぎなた)の柄(え)も、輿の轅(ながえ)もくだけよととるままに、さしもさがしき東坂(ひがしざか)、平地(へいぢ)を行くが如くなり。

大講堂(だいこうだう)の庭に與かきすゑて僉議(せんぎ)しけるは、「抑(そもそも)我等、粟津(あはづ)に行き向(むか)つて、貫首をばうばひとどめ奉りぬ。既(すで)に勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)ツて流罪(るざい)せられ給ふ人を、とりとどめ奉ツて、貫首にもちひ申さん事、いかがあるべからん」と僉議す。戒浄坊の阿闍梨、又先のごとくにすすみ出でて僉議しけるは、「夫(それ)当山は、日本無双(ぶさう)の霊地、鎮護国家の霊場、山王の御威光盛(さか)んにして、仏法王法牛角(ぶつぽふわうぽふごかく)なり。されば衆徒の意趣に至るまでならびなく、いやしき法師原までも世もツてかろしめず。況(いはん)や智恵(ちゑ)高貴にして、三千の貫首たり。今は徳行(とくぎやう)おもうして、一山の和尚(わじやう)たり。罪なくしてつみをかうぶる。是山上洛中(これさんじやうらくちゆう)のいきどほり、興福園城(こうぶくをんじやう)のあざけりにあらずや。此時顕密(このときけんみつ)の主(あるじ)をうしなツて、数輩(すはい)の学侶(がくりよ)、蛍雪(けいせつ)のつとめおこたらむこと心うかるべし。せんずる所、裕慶張本(いうけいちやうぽん)に称ぜられて、禁獄流罪もせられ、かうべをはねられん事、今生の面目(めんぼく)、冥途(めいど)の思出(おもひで)なるべし」とて、双眼(さうがん)より涙をはらはらとながす。大衆尤(もつと)も尤もとぞ同じける。それよりしてこそ裕慶は、いかめ坊(ぼう)とはいはれけれ。其(その)弟子に恵慶律師(ゑけいりつし)をば、時の人、こいかめ房とぞ申しける。
大衆、先座主をば、東塔(とうだふ)の南谷(みなみだに)、妙光房(めいくわうばう)へ入れ奉る。時の横災(わうざい)は、権化(ごんげ)の人ものがれ給はざるやらん。昔大唐(だいたう)の一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)は、玄宗皇帝(げんそうくわうてい)の御寺僧(ごぢそう)にておはしけるが、玄宗の后(きさき)、楊貴妃(やうきひ)に名をたち給へり。昔もいまも、大国(だいこく)も小国(せうこく)も、人の口のさがなさは、跡かたなき事なりしかども、其疑(うたがひ)によツて、果羅国(くわらこく)へながされ給ふ。件(くだん)の国へは、三(み)つの道(みち)あり。輪池道(りんちだう)とて御幸道(ごかうみち)、幽地道(いうちだう)とて雑人(ざふにん)のかよふ道、暗穴道(あんけつどう)とて重科(ぢゆうくわ)の者をつかはす道なり。されば彼(かの)一行阿闍梨は、大犯(だいぼん)の人なればとて、暗穴道へぞつかはしける。七日七夜(しちにちしちや)が間、月日(つきひ)の光をみずして行く道なり。冥々(みやうみやう)として人もなく、行歩(かうほ)に前途(せんど)まよひ、深々(しんしん)として山ふかし。只$#x6f97谷(かんこく)に鳥の一声(ひとこゑ)ばかりにて、苔(こけ)のぬれ衣(ぎぬ)ほしあへず。無実の罪によツて、遠流(をんる)の重科をかうむる事を、天道(てんたう)あはれみ給ひて、九曜(くえう)のかたちを現じつつ、一行阿闍梨をまぼり給ふ。時に一行(いちぎやう)右の指をくひきツて、左(ひだん)のたもとに九曜のかたちをうつされけり。和漢両朝に、真言(しんごん)の本尊たる九曜の曼陀羅(まんだら)是なり。                                       

現代語訳

その時、西塔(さいとう)の僧侶で、戒浄坊(かいじょうぼう)の阿闍梨裕慶(あじゃりゆうけい)という荒法師がいた。

丈七尺ぐらいあったが、鉄の札(さね)を混ぜた黒革威(くろかわおどし)の鎧(よろい)を草摺長(くさずりなが)に着て、甲(かぶと)を脱ぎ、法師等に持たせながら、白柄(しらえ)の大長刀(おおなぎなた)を杖につき、

「おあけなさい」と言って、衆徒の中を押し分け押し分け、前座主のおられる所へつっと参った。

大きな眼(まなこ)を見張り、怒った様子で、しばらくお睨み申して、

「そういう御心ですから、このような目にお会いになるのです。早くお乗りになるべきです」

と申したので、明雲は恐ろしさに急いでお乗りになる。

衆徒は迎え取ることができた嬉しさに、卑しい法師等ではなく、貴い修学者どもが御輿を担ぎ奉り、おめき叫んで登った。

担ぎ手は交代しながら登ったが、裕慶は変らず輿の前方の轅(ながえ)を担いで、長刀の柄も、輿の轅も砕けよと握りしめながら、あれほど険しい東坂を平地を行くようであった。

大講堂の庭に輿を据えて評議したのは、

「そもそも我等は粟津に出向いて、座主を奪いお止め申した。すでに帝のお咎めをこうむり流罪に処せられた方を、お引き取りして座主におつけするのはどうであろう」

と評議する。

戒浄房の阿闍梨が又前のように進み出て議論するには、

「そもそも当比叡山は、日本に二つとない霊地、国を鎮め護る道場であり、山王の御威光が盛んで、仏法・王法は並んで優劣がない。

だから衆徒の意向に至るまで並ぶものは無く、卑しい法師等までも世間で軽んじない。

まして座主は、智恵が高貴で、三千人の衆徒の束ねである。今は徳行が重くて一山の受戒の師である。

そういう座主が罪なくして罪を蒙る。これは、この山上と都の憤慨するところであり、興福寺・園城寺の嘲りを受けるところではないか。

いま顕教・蜜教の座主を失って、大勢の学問を修める僧たちが勉学を怠るというのは悲しい事だ。

結局のところ、この裕慶が首謀者と呼ばれて、牢獄につながれ流罪にも処せられ、首を刎ねられるのは、今生での面目を保ち、冥途への思い出となろう」

と言って、両眼からはらはらと涙を流す。

衆徒は尤も尤もと賛同した。それ以来裕慶は、いかめ房と言われたのだった。その弟子の恵慶(えけい)律師を、当時の人はこいかめ房と申した。

衆徒は前座主を東塔の南谷、妙光房へお入れ申した。

一時の不慮の災難は、神仏の生れ変りといわれる人もお逃れになれないのであろうか。

昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗(げんそう)皇帝の護寺僧であられたが、玄宗の后、楊貴妃(ようきひ)と浮名をお流しになった。

昔も今も、大国も小国も、人の口のうるさい事は同じことで、跡かたのない事だったが、その疑いによって、果羅国へ流されになる。

その果羅国へ行くには三つの道がある。

輪池道といって行幸の道、幽地道といって雑人の通う道、暗穴道といって重罪の者をつかわす道である。

そこであの一行阿闍梨は、大犯罪者だということで、暗穴道へ行かせた。七日七夜の間、月日の光も見ずに行く道である。

真っ暗で人も通らない、歩行するのに行く先もわからないほどで、樹木が生い茂り、山は奥深い。

ただ谷間には鳥の一声だけが聞こえて、露に濡れた僧衣も乾くことがない。

無実の罪によって、遠流の罪を科せられた事を、天は哀れに思われ九曜の星の形を現して一行阿闍梨をお守りになる。

その時、一行は右の指を食い切って、左の袂(たもと)に九曜の形を移された。

日本・中国両国で、真言宗の本尊である九曜の曼陀羅(まんだら)がこれである。

語句

■大荒目 幅の広い札(さね)を革や緒で荒く綴ったもの。 ■かねまぜたる 鉄の礼を革ではさんだもの。 ■草摺なが 草摺は鎧の銅の前後左右に垂れたスカート状の部位。それを長く垂らしていること。 ■法師原 法師ども。 ■見いからし 見はって。起こった様子で。 ■前輿(さきごし) 輿の前方の轅(ながえ)。 ■東坂(ひんがしざか) 東坂本から比叡山東塔に登る坂道。 ■大講堂 東塔根本中堂の隣の堂。僧侶が法華経の講義をきき、問答する学問修行の道場。大日如来坐が本尊。 ■牛角 牛の角のように仏法(仏の教え)と天子の定めた法(王法)がならんで優劣ないこと。 ■一山の和尚(わじょう) 比叡山全体の和尚(戒律を授ける僧)。天台座主のこと。和尚は律宗の読みに準じて「わじょう」と読む。 ■数輩の学侶 たくさんの学問を修める僧たち。 ■蛍雪のつとめ 勉学。中国晋の車胤(しゃいん)が蛍の光を集めて勉強し、孫康(そんこう)が雪の明かりで勉強したという『晋書』の故事から。 ■張本 張本人。首謀者。 ■いかめ房 いかめしい僧。 ■時の横災(おうざい) 一時の災難。思いがけない災難。 ■権化の人 仏が人の姿をとってあらわれたもの。座主のこと。 ■一行阿闍梨 大慧禅師。真言八祖の一。 ■玄宗皇帝 唐の六代皇帝。前半は貞観の治とよばれる善政をしいたが後半は楊貴妃におぼれ国を傾けた。 ■さがなさ うるささ。 ■果羅国 『大唐西域記』に見える覩貨邏(トカラ)国か。現在のアフガニスタンの北部にあった国ともされる。 ■澗谷(かんこく) 谷。「澗」は谷。 ■苔のぬれ衣(ぎぬ) 苔の衣は僧衣。ぬれ衣は無実の罪をこうむること。 ■九曜 日・月・火・水・木・金・土の七曜星に羅睺星(らごせい)、計都星(けいとせい)を加えたもの。 ■九曜の曼荼羅 九曜およびその眷属の神像を配した曼荼羅図。

次の章「十九 西光被斬

朗読・解説:左大臣光永

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