平家物語 十九 西光被斬

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『平家物語』第十九回「西光被斬(さいこうがきられ)」。

多田蔵人行綱の密告により打倒平家の計画が発覚し、清盛は首謀者を次々と逮捕。西光法師は清盛の前に引っ立てられると、清盛を成り上がり者とののしる。

あらすじ

流罪になった天台座主明雲が、山門の大衆に奪い返されたことに法皇は怒る。

西光法師は、「こんなことを許せば世の乱れです」と法皇に説く。

天台座主明雲は延暦寺大衆の意見が割れているのを見てわが身の行く末を案ずるが、院から流罪の処分はなかった。

一方、多田蔵人行綱(ただのくらんど ゆきつな)は、平家の繁盛を見るに打倒平家の計画に実現性は無いと判断し、密告することを決意。

西八条の屋敷で、清盛に謀反の計画と、参加者の名前を、洗いざらい話す。

清盛はおおいに怒り、一門に号令をかけ、侍どもを召集。

明くる六月一日、清盛は院の御所に遣いをやり、平家に対する謀反の計画があり、法皇もそれに参加していることを報告させる。

法皇はあわてふためく。

報告をきいて清盛は、行綱の話が事実だと確信し、各地に人をつかわし、謀反に加担したものを捕らえる。

首謀者、新大納言成親卿に呼び出しをかける。計画がばれたとは夢にも思わぬ成親卿が西八条へ向かうと、屋敷のまわりは軍馬がひしめいている。

盛親卿は取り押さえられ、西八条の屋敷の一室に押し込められる。

俊寛僧都、平判官康頼など、謀反の参列者が捕まる中、西光法師は身の危険を感じ、院の御所へ向かうが、途中、平家の侍にからめとられ、清盛の前に引き出される。

清盛は、西光を恩知らずとなじるが、西光はひるむことなく、清盛を成り上がり者と罵る。

怒った清盛は西光に苛烈な拷問を加え、計画を白状させ、口を割いた後、斬首する。西光の子息らも、それぞれに斬首された。

原文

さる程(ほど)に山門の大衆、先座主(せんざす)をとりとどむるよし、法皇きこしめして、いとどやすからずぞおぼしめされける。西光法師申しけるは、「山門の大衆、みだりがはしきうツたへ仕る事、今にはじめずと申しながら、今度は以(もつ)ての外(ほか)に覚え候(さうらふ)。これ程の狼藉(らうぜき)、いまだ承り及び候はず。よくよく御いましめ候へ」とぞ申しける。身のただいまほろびんずるをもかへりみず、山王大師の神慮にもはばからず、か様(やう)に申して、宸襟(しんきん)をなやまし奉る。讒臣(ざんしん)は国を乱るといへり。実(まこと)なる哉(かな)、叢蘭茂(そうらんも)からんとすれども、秋風(あきのかぜ)これをやぶり、王者(わうしや)明らかならんとすれば、讒臣(ざんしん)これをくらうすとも、かやうの事をや申すべき。此事新大納言成親卿以下(このことしんだいなごんなりちかのきやういげ)、近習(きんじゅ)の人々に仰せあはせられて、山せめらるべしと聞(きこ)えしかば、山門の大衆、「さのみ王地(わうぢ)にはらまれて、詔命(ぜうめい)をそむくべきにあらず」とて、内々院宣(ゐんぜん)に随(したが)ひ奉る衆徒もありなンなど聞えしかば、前座主(せんざす)明雲大僧正は、妙光房(めうくわうぼう)におはしけるが、大衆二心(ふたごころ)ありと聞いて、「つひにいかなる目にかあはむずらん」と、心ぼそげにぞ宣(のたま)ひける。されども流罪の沙汰(さた)はなかりけり。

新大納言成親卿は、山門の騒動によツて、私の宿意をば、しばらくおさへられけり。そも内儀(ないぎ)したくはさまざまなりしかども、義勢(ぎせい)ばかりでは、此謀反(むほん)かなふべうも見えざりしかば、さしもたのまれたりける多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)、此事無益(むやく)なりと思ふ心つきにけり。弓袋(ゆぶくろ)の料(れう)におくられたりける布共をば、直垂(ひたたれ)かたびらに裁ちぬはせて、家子郎等(いへのこらうどう)どもに着せつつ、目うちしばだたいてゐたりけるが、倩(つらつら)平家の繁昌(はんじやう)する有様をみるに、当時たやすくかたぶけがたし。よしなき事にくみしてンげり。若(も)し此事もれぬる物ならば、行綱まづうしなはれなんず。他人の口よりもれぬ先に、かへり忠(ちゆう)して、命(いのち)いかうど思ふ心ぞつきにける。

同(おなじき)五月廿九日のさ夜(よ)ふけがたに、多田蔵人行綱、入道相国(にふだうしやくこく)の西八条(にしはつでう)の邸(てい)に参ツて、「行綱こそ申すべき事候間、参ツて候へ」といはせければ、入道、「常にも参らぬ者が参じたるは、何事ぞ。あれ聞け」とて、主馬判官盛国(しゆめのはんぐわんもりくに)をいだされたり。「人伝(ひとづて)には申すまじき事なり」といふ間、さらばとて、入道みづから中門(ちゆうもん)の廊(ろう)へ出でられたり。夜ははるかにふけぬらむ。ただ今いかに、何事ぞや」と宣へば、「昼は人目のしげう候間、夜にまぎれて参ツて候。此程院中(このほどゐんぢゆう)の人々の、兵具(ひやうぐ)をととのへ、軍兵(ぐんぴやう)を召され候をば、何とかきこしめされ候」。「それは、山攻めらるべしとこそ聞け」と、いと事もなげにぞ宣(のたま)ひける。行綱ちかうより、小声になツて申しけるは、「其儀(そのぎ)では候はず。一向御一家(いつかうごいつけ)の御上(おんうへ)とこそ承り候へ」。「さてそれをば法皇もしろしめされたるか」。「子細(しさい)にや及び候。成親卿(なりちかのきやう)の軍兵召され候も、院宣とてこそ召され候へ」。俊寛(しゆんくわん)がとふるまうて、康頼(やすより)がかう申して、西光(さいくわう)がと申してなンどといふ事共、はじめよりありのままにはさし過ぎていひ散(ちら)し、「暇(いとも)申して」とて出でにけり。入道大きに驚き、大声をもツて、侍(さぶらひ)共よびののしり給ふ事、聞くもおびただし。

現代語訳

そのうちに山門の大衆が先座主(明雲)を奪い留めたことを、法皇がお聞きになり、たいそうお怒りになった。

西光法師が申したのは、

「山門の大衆はがみだりに訴え事を起こしますことは、今に始まったことではないと申しながら、今度はとんでもないことと思います。これほどの狼藉、いまだうかがいおよびません。よくよく御いましめなさってください」

と申した。わが身がただいま滅びようとしているのも気づかず、山王大師の神慮にもはばからず、このように申して、宸襟をなやませ申し上げる。讒言を言う家臣は国を乱すという。その通りであるよ。蘭が群生しようとしても、秋風がこれを破り、君主が聡明であろうとすれば、讒言を言う家臣がその御目を暗くするというのも、このようなことを申すのだろう。

法皇がこの事を新大納言卿(成親)以下、側近として仕えている人々に仰せあわせられて、比叡山をお攻めになるにちがいないと噂になったので、山門の大衆は、

「天子の地に生まれて、そういつも勅命をそむくべきではない」

といって、内々院宣に従い申し上げる衆徒もあるなどと聞こえたので、前座主明雲大僧正は、妙光房にいらしたが、大衆にニ心ありと聞いて、「最後にはどんな目にあうだろう」と、心ぼそげにおっしゃった。しかし流罪の処罰が下されることはなかった。

新大納言成親卿は、山門の騒動によって、個人的な(平家を倒そうという)長年の望みを、しばらくおさえられた。それも内々の準備はさまざまに行っていたが、勢いだけでは、この謀叛がかなうだろうとも見えなかったので、あれほど頼みにしていた多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)は、この事はばかげていると思う心が出てきた。

弓袋の料としておくられた多くの布を、直垂とかたびらに裁ちぬわせて、家子郎党に着せて、目をしぱしぱさせていたが、つくづく平家の繁盛する有様をみるに、今たやすく傾けることは難しい。

つまらない計画に加わったものだ。もしこの事が発覚したら、行綱が最初に処罰されるだろう。

他人の口からもれない先に、返り忠して、命を生きようと思う心が出てきた。

同年(安元三年、1177年)五月九日の夜更けがたに、多田蔵人行綱は、入道相国の西八条の邸宅に参って、

「行綱が申すべきことがございますので、参ってございます」

と人に言わせたところ、入道、

「いつも参らぬ者が参じたのは、何事か。行って聞いてこい」

といって、主馬判官盛国をお出しになった。

「人づてには申したくない事です」

というので、それならと、入道みずから中門の廊に出られた。

「夜はすっかりふけよてしまったろう。こんな時間にどうした、何事か」

とおっしゃると、

「昼は人目が多くございますので、夜にまぎれて参ってございます。このほど院中の人々が、武具をととのえ、軍勢を召集されてございますのを、なんとお聞きでございますか」

「それは、比叡山を攻められるのだろうと聞いている」

と、まったく何でもないようにおっしゃった。

行綱はちかく寄り、

「その事ではございません。まったく平家御一門の御事とうかがってございます」

「さあそれを法皇もご存知なのか」

「あれこれ言うまでもございません。成親卿が軍勢を召集なさってございますのも、院宣ということで召されてございますのです」

俊寛がこのようにふるまって、康頼がこう申して、西光がこう申してなどという事ども、はじめからありのままに、事実より大げさに言い散らし、「失礼します」といって退出した。

入道は大いに驚き、大声で、侍たちをよびさわぎなさる事、聞くのも大変である。

語句

■宸襟 天子のお心。 ■讒臣は国を乱る 出典不明。 ■叢蘭茂(も)からんとすれども… 「叢蘭」は群生する蘭。「叢蘭欲茂、秋風敗之、王者欲明、讒人蔽(おおう)之」(『貞観政要』)。 ■さのみ そうそういつも。 ■はらまれて 生まれて。 ■ニ心 座主を奪い奉ろうという心と、院宣に従って座主を流罪にしようという心。 ■内義 内々の話し合い。 ■義勢 見せかけの勢い。 ■多田蔵人行綱 清和源氏。源満仲七代の孫。頼盛の子。摂津国多田庄(兵庫県川西市)に住んだ。 ■かたびら 直垂の下に着る白い衣。 ■目うちしばたたいて 目をぱちぱちさせて。精神が動揺しているさま。 ■かへり忠 裏切り。 ■命いかうど 命生きようと。 ■主馬判官は 主馬寮の頭で判官を兼ねる者。主馬寮は乗馬や馬具を司る役所。判官は検非違使尉(検非違使の第三等の官)。 ■中門の廊 寝殿造の中門あたりの廊(渡り廊下)。 ■一向 ひたすら。まったく。 ■子細にやおよび候 あれこれ細かいこと言うまでもない=もちろんでございます。 ■とふるまうて …というふうに振る舞って。 

原文

行綱(ゆきつな)なまじひなる事申し出(いだ)して、証人にやひかれんずらんと、おそろしさに、大野(おほの)に火をはなツたる心地(ここち)して、人もおはぬにとり袴(ばかま)して、いそぎ門外へぞにげ出でける。入道まづ貞能(さだよし)を召して、「当家かたぶけうどする、謀反(むほん)のともがら、京中(きやうぢゆう)にみちみちたんなり。一門の人々にもふれ申せ。侍(さぶらひ)共もよほせ」と宣へば、馳せまはツてもよほす。右大将宗盛経(うだいしやうむねもりのきやう)、三位中将知盛(さんみのちゆうじやうとももり)、頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、佐馬守行盛以下(さまのかみゆきもりいげ)の人々、甲冑(かつちう)をよろひ、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)し馳(は)せ集(あつま)る。其外軍兵(そのほかのぐんぴやう)、雲霞(うんか)の如くに馳(は)せつどふ。其夜のうちに、西八条には、兵(つはもの)共六七千騎(ぎ)もあるらむとこそ見えたりけれ。

あくれば六月一日なり。いまだくらかりけるに、入道、検非違使安倍資成(けんびゐしあべのすけなり)を召して、「きツと院の御所(ごしよ)へ参れ。信業(のぶなり)をまねいて、申さんずるやうはよな、『近習(きんじゆ)の人々、此一門をほろぼして、天下を乱らんとするくはたてあり。一々(いちいち)に召しとツて、尋ね沙汰(さた)仕るべし。それをば、君もしろしめさるまじう候』と、申せ」とこそ宣ひけれ。資成いそぎ御所へはせ参り、大善大夫信業(だいぜんのだいふのぶなり)よびいだいて、此由申すに色をうしなふ。御前(ごぜん)へ参ツて此由奏聞(そうもん)しければ、法皇、「あは、これらが内々はかりし事のもれにけるよ」とおぼしめすにあさまし。

「さるにても、こは何事ぞ」とばかり仰せられて、分明(ふんみやう)の御返事(おんへんじ)もなかりけり。資成いそぎ馳(は)せ帰ツて、入道相国に此由申せば、「さればこそ、行綱はまことをいひけり。この事行綱知らせずは、浄海安穏(じやうかいあんをん)にあるべしや」とて、飛騨守景家(ひだのかみかげいへ)、筑後守貞能(ちくごのかみさだよし)に仰せて、謀反(むほん)の輩(やから)からめとるべき由下知(げぢ)せらる。仍(よつ)て二百余騎三百余騎、あそこここにおし寄せおし寄せからめとる。

太政入道(だいじやうのにふだう)、まづ雑色(ざふしき)をもツて、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかのきやう)の許(もと)へ、「申しあはすべき事あり。きツと立寄(たちよ)り給へ」と、宣(のたま)ひつかはされたりければ、大納言我身(わがみ)のうへとは露知らず、「あはれ是(これ)は、法皇の山攻めらるべきよし、御結構あるを、申しとどめられんずるにこそ。御いきどほりふかげなり。いかにもかなふまじき物を」とて、ないきよげなる布衣(ほうい)たをやかに着なし、あざやかなる車に乗り、侍(さぶらひ)三四人召し具して、雑色牛飼(ざふしきうしかひ)に至るまで、常よりもひきつくろはれたり。そも最後とは後にこそ思ひ知られけれ。

西八条(にしはつでう)ちかうなツてみ給へば、四五町(ちやう)に軍兵(ぐんぴやう)みちみちたり。あなおびただし。何事やらんとむねうちさわぎ、車よりおり門のうちにさし入ツて見給へば、うちにも兵共(つはものども)、ひまはざまもなうぞみちみちたる。中門(ちゆうもん)の口におそろしげなる武士共あまた待ちうけて、大納言の左右(さう)の手をとツてひツぱり、「いましむべう候やらん」と申す。入道相国簾中(にふだうしやうこくれんちゆう)より見出(みいだ)して、「あるべうもなし」と宣へば、武士共十四五人、前後左右に立ちかこみ、縁(えん)の上(うへ)にひきのぼせて、一間(ひとま)なる所におしこめてンげり。大納言夢の心地(ここち)して、つやつや物もおぼえ給はず。伴(とも)なりつる侍(さぶらひ)共、おしへだてられて、ちりぢりになりぬ。雑色牛飼(うしかひ)いろをうしなひ、牛車(うしぐるま)をすてて逃げさりぬ。

さる程に、近江中将入道蓮浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)、法勝寺執行俊寛僧都(ほつしようじのしゆぎやうしゆんくわんそうづ)、山城守元兼(やましろのかみもとかね)、式部大輔正綱(しきぶのたいふまさつな)、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)、宋判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)、新平判官資行(しんぺいはうぐわんすけゆき)もとらはれて出で来たり。                                      

現代語訳

行綱はなまじっか余計なことを申し出して、証人として引かれるのではないかと恐れて、大野に火をはなった心地がして、人も追いかけてこないのに袴のももだちをつかんで、いそいで門外へ逃げ出した。

入道まず貞能を召して、

「わが家をかたむけようとする、謀叛人どもが、京中にみちみちているという。一門の人々にも触れてまわれ。侍どもを召集しろ」

とおっしゃると、走りまわって触れてまわる。右大将宗盛卿(むねもりのきょう)、三位中将知盛(とももり)、頭中将重衡(しげひら)、左馬頭行盛(ゆきもり)以下の人々、甲冑をよろい、弓矢を帯して馳せ集まる。

そのほか軍勢が雲霞のごとくに馳せあつまる。その夜のうちに、西八条には軍勢六七千騎もあるだろうと見えたのだった。

あければ六月一日である。まだ暗いうちに、入道は、検非違使(けんびゐし)安倍資成(あべのすけなり)を召して、

「すぐに院の御所へ参れ。信業(のぶなり)をまねいて、申し上げることはだな、『近臣の人々がこの一門をほろぼして、天下を乱そうとするたくらみがある。一人ひとり召し捕って、尋問し処罰します。それを、君(後白河法皇)も干渉しないでください』と申せ」とおっしゃった。

資成はいそいで院御所へはせ参り、大膳大夫(だいふぜんのだいぶ)信業(のぶなり)をよびだして、このこと申すと顔色をうしなう。

御前へ参ってこの事を奏上すると、法皇は、

「ああ、われわれが内々計画していた事がもれてしまったのだ」

と思われて、呆然とされた。

「それにしても、これは何事か」

とだけ仰せになって、筋の通った御返事もなかった。資成はいそいで馳せ帰って、入道相国にこのこと申せば、

「それでは、行綱はほんとうのことを言ったのだ。この事行綱が知らせなかったら、浄海は無事でいられなかった」

といって、飛騨守景家(かげいえ)、筑後守貞能(さだよし)に仰せになって、謀叛をおこした連中をからめとるべきことを下知される。

よって二百余騎三百余騎、あちこちに押し寄せ押し寄せからめとる。

太上入道は、まず雑色に命じて、中御門烏丸(なかみかどからすまる)の新大納言成親卿(なりちかのきょう)のもとへ、「相談しなければならない事がある。すぐにお立ち寄りください」と、仰せ遣わされたので、大納言はわが身の上とはまったく思わず、

「ああこれは、法皇が比叡山を攻められることを、ご計画されているのを、申し止めようとしているにちがいない。法皇の御いきどおりはふかそうだ。どうやってもかなわないだろうに」

といって、しなやかな法衣をすんなりと着こなし、あざやかな車に乗り、侍三四人召し連れて、雑色牛飼にいたるまで、常よりも着飾って行かれた。

それも最後とは後に思い知られたのだった。

西八条ちかくなってご覧になると、四五町に軍兵がみちみちている。ああ大勢いる、何事だろうとむねうちさわぎ、車からおりて門のうちにさし入ってご覧になると、邸内にも軍兵がすきまもなくみちみちている。

中門の口におそろしそうな武士たちが大勢まちうけて、大納言の左右の手をとってひっぱり、「こらしめるべきでございましょうか」と申す。

入道相国は御簾の内から外を見て、「そんな事はしなくてよい」
とおっしゃると、武士ども十四五人、前後左右に立ちかこみ、縁の上にひき上がらせて、一間の部屋におしこめてしまった。

大納言は夢のような心地がして、まったく物もお考えになられない。供をしていた侍たちはおしへだてられて、ちりぢりになった。雑色牛飼は顔色をうしない、牛車をすてて逃げ去った。

そのうちに、、近江中将入道蓮浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)、法勝寺執行俊寛僧都(ほつしようじのしゆぎやうしゆんくわんそうづ)、山城守元兼(やましろのかみもとかね)、式部大輔正綱(しきぶのたいふまさつな)、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)、宋判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)、新平判官資行(しんぺいはうぐわんすけゆき)もとらはれて出て来た。        

語句

■なまじひたなる事 なまじっかなこと。言わなくてもいい余計なこと。 ■とり袴して 袴の裾を手で持ち上げて。あわて急いでいるさま。 ■貞能 平貞能。左兵衛尉家貞の子。 ■三位中将知盛 清盛の四男。仁安3年(1168)権左中将、安元3年(1177)従三位。 ■頭中将重衡 清盛の五男。治承4年(1180)蔵人頭、同5年左近衛中将。 ■左馬頭行盛 清盛の孫。基盛の子。 ■きっと すぐに。急いで、の意と確かに、確実にの意。 ■信業(のぶなり) 後白河院の近臣、大膳大夫平信業。 ■よな …はな。念を押す言い方。 ■尋ね沙汰仕るべし 尋問して処罰いたします。 ■しろしめさるまじう候 干渉なさらないでぐたさい。 ■あは ああ。おお。 ■飛騨守景家 藤原忠清の弟。悪七兵衛景清の叔父。 ■雑色 蔵人所や院の御所で雑役をつとめる無位の役人。あるいは公家や武家で下働きをした下男。 ■中御門烏丸 中御門大路と烏丸小路の交差するところ。現京都御苑から東南、烏丸丸太町あたり。 ■ないきよげなる 「なえ清げなる」の転か。「なえ」はなよなよした。しなやかな。 ■ひきつくろはれたり 正装なさって。飾り立てて。 ■あるべうもなし 「さあるべくもなし」の略「あるべくもなし」の音便。そんなことはしなくていい。 ■一間なる所 一間四方の部屋。一間は柱と柱の間の距離。6尺5寸(約2メートル)。 ■つやつや 全く。 ■近江中将蓮浄… 以下の名は「鹿谷」末尾に見える。

原文

西光法師此事(さいくわうほふしこのこと)きいて、我身(わがみ)のうへとや思ひけん、鞭(むち)をあげ、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ馳(は)せ参る。平家の侍(さぶらひ)共、道にて馳(は)せむかひ、「西八条(にしはちでう)へ召さるるぞ。きツと参れ」といひければ、「奏(そう)すべき事があツて、法住寺殿へ参る。やがてこそ参らめ」と、いひけれども、「にツくい入道かな。何事をか奏すべかんなる。さないはせそ」とて、馬よりとツてひきおとし、ちうにくくツて、西八条へさげて参る。日のはじめより、根元与力(こんげんよりき)の者なりければ、殊(こと)につよういましめて、坪の内にぞひツすゑたる。入道相国、大床(おほゆか)にたツて、「入道かたぶけうどするやつが、なれるすがたよ。しやつここへ引き寄せよ」とて、縁(えん)のきはにひき寄せさせ、物はきながら、しやツつらをむずむずとぞふまれける。「本(もと)よりおのれがやうなる下臈(げらふ)のはてを、君の召しつかはせ給ひて、なさるまじき官職をなしたび、父子(ふし)共に、過分のふるまひすると見しにあはせて、あやまたぬ天台の座主、流罪(るざい)に申しおこなひ、天下の大事ひき出(いだ)いて、剰(あまつさ)へ此一門ほろぼすべき、謀反(むほん)にくみしてンげるやつなり。ありのままに申せ」とこそ宣(のたま)ひけれ。西光(さいくわう)もとよりすぐれたる大剛(だいかう)の者なりければ、ちツとも色も変ぜず、わろびれたるけいきもなし、ゐなほりあざわらツて申しけるは、「さもさうず。入道殿こそ過分の事をば宣へ。他人の前は知らず、西光が聞かんところに、さやうの事をばえこそ宣ふまじけれ。院中に召しつかはるる身なれば、執事(しつし)の別当、成親卿(なりちかのきやう)の院宣とてもよほされし事に、くみせずとは申すべき様(やう)なし。それはくみしたり。但(ただ)し耳にとどまる事をも宣ふ物かな。御辺(ごへん)は、故刑部卿忠盛(こぎやうぶきやうただもり)の子でおはせしかども、十四五までは出仕もし給はず、故中御門藤中納言家成卿(こなかのみかどのとうぢゆうなごんかせいのきやう)の辺(へん)に、たち入り給ひしをば、京童部(きやうわらんべ)は、高平太(たかへいだ)とこそいひしか。保延(ほうえん)の比(ころ)、大将軍(たいしやうぐん)承り、海賊の張本(ちやうぼん)、卅余人からめ進ぜられし勧賞(けんじやう)に、四品(しほん)して、四位(しゐ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)と申ししをだに、過分とこそ時の人々は申しあはれしか。殿上(てんじやう)のまじはりをだにきらはれし人の子で、太政大臣までなりあがツたるや過分なるらむ。侍(さぶらひ)品(ほん)の者の、受領(じゆりやう)、検非違使(けんびゐし)になる事、先例傍例(はうれい)なきにあらず。なじかは過分なるべき」と、はばかる所もなう申しければ、入道あまりにいかツて物も宣(のたま)はず。しばしあツて、「しやつが頸(くび)、左右(さう)なうきるな。よくよくいましめよ」とぞ宣ひける。松浦太郎重俊(まつうらのたろうしげとし)承つて、足手(あして)をはさみ、さまざまにいため問ふ。

もとよりあらがひ申さぬうへ、$#x7cfa問(きうもん)はきびしかりけり。残りなうこそ申しけれ。白状四五枚に記(き)せられ、やがて、「しやつが口をさけ」とて口をさかれ、五条西朱雀(にしのしゆしやか)にしてきられにけり。嫡子前加賀守師高(さきのかがのかみもろたか)、尾張(おはり)の井戸田(ゐどた)へながされたりけるを、同国の住人、小胡麻郡司惟季(をぐまのぐんじこれすゑ)に仰せてうたれぬ。次男近藤判官師経(こんどうはうぐわんもろつね)、禁獄せられたりけるを、獄より引きいだされ、六条河原(ろくでうがはら)にて誅(ちゆう)せらる。其弟左衛門尉師平(そのおととさゑもんのじやうもろひら)、郎等(らうどう)三人、同じく首(かうべ)をはねられけり。これらはいふかひなき者の秀(ひい)でて、いろふまじき事にいろひ、あやまたぬ天台座主(てんだいざす)、流罪に申しおこなひ、果報やつきにけん、山王台志(さんわうだいし)の神罰冥罰(みやうばつ)立ちどころにかうぶツて、かかる目にあへりけり。

現代語訳

西光法師はこの事をきいて、わが身の上と思ったのだろう、鞭をあげ、院の御所法住寺殿に馳せ参る。

平家の侍ども、道にて馳せむかい、「お前は西八条へ召されるのだ。すぐに参れ」と言ったところ、「奏上しなければならない事があって、法住寺殿へ参るのだ。(西八条へは)すぐに参る」

といったが、「憎い入道であるよ。何事を奏上するのというのか。そのようなことは言わせるな」といって、馬よりとってひきおとし、宙にくくって、西八条へさげて参る。

陰謀の最初から、首謀者として加わった者であるので、特に強くいましめて、坪庭の内にひっすえた。

入道相国、大床に立って、「入道をかたむけようとするやつの、成れの果てよ。そやつをここにひき寄せよ」といって、縁のきわにひき寄せさせ、履物をはいたまま、その顔めをむずむずと踏まれた。

「もともとお前らのような下臈のはてを、君が召しつかはれて、任ぜられるはずもない官職に任じられ、父子共に、分にすぎたふるまいをすると見ていたが、それに加えて、過失もない天台の座主を流罪に申告して処罰し、天下の大事をひき起こして、その上この一門を滅ぼそうという謀反に与したしまったやつである。ありのままに申せ」とおっしゃった。

西光はもとよりきわめて腹のすわった者であったので、ちっとも顔色も変えず、悪びれた様子もなく、居直りあざ笑って申したのは、

「それは違います。入道殿こそ過分の事をおっしゃられるのです。他人の前ではどうか知らんが、西光が聞いているところに、そのような事をおっしゃられまい。

院中に召しつかわれている身であるので、執事の別当(院庁の総務をつとめる長官)成親卿が院宣として命じられた事に、くみしないとは申し上げるわけがない。それはくみした。ただし聞き捨てならぬ事をおっしゃる物であるな。

あなた様は、故刑部卿忠盛の子であられたが、十四五までは出仕もなさらず、故中御門藤中納言家成卿(かせいのきょう)の邸宅のあたりに、立ち入られていたのを、京童(きょうわらべ)(口さがない若者ども)は、高平太(たかへいだ)といったとか。

保延のころ、大将軍を拝命して、海賊の首領、三十余人からめ取って進上した勧賞に、四品にされ、四位の兵衛佐(ひょうえのすけ)と申したのをさえ、過分であると時の人々は申し合われたではないか。

殿上のまじわりをさえ嫌われた人(忠盛)の子で、太政大臣までなりあがったのは過分でないだろうか。

侍の身分の者が、受領、検非違使になる事は、先例、慣例がないわけではない。どうして過分であろう」

と、はばかる所もなく申したので、入道はあまりにいかって物もおっしゃらない。しばしあって、

「こやつの首、かんたんには斬るな。よくよくこらしめよ」とおっしゃった。

松浦太郎重俊(まつらのたろう しげとし)が命令を受けて、足と手をはさみ、さまざまに傷めつけ尋問する。

もともと抵抗し申し上げない上に、尋問はきびしかった。残りなく申した。供述書四五枚にしるされ、すぐに、

「そやつの口をさけ」

といって口をさかれ、五条西朱雀できられた。嫡子前加賀守師高は、尾張の井戸田(いどた)へ流されていたのを、同国の住人、小胡麻郡司維季に仰せつけて討たれた。

次男近藤判官師経は、牢獄に入れられていたのを、獄から引き出され、六条河原で処刑された。

その弟左衛門尉(さえもんのじょう)師平(もろひら)、郎党三人も、同じく首をはねられた。

これは取るに足らない者がたまたま地位を得て、関わってはならないことに関わり、過失もない天台座主を流罪に申告し処罰して、因果応報がつきたのだろうか。

山王大師の神罰冥罰をたちどころに受けて、このような目にあったのだ。

語句

■奏すべかんなる 「奏すべくあるなる」の転。何事を奏上しようというのか。 ■さないはせそ な~そは禁止。そんなことを言わせるな。 ■ちうにくくッて 宙にくくって。 ■日のはじめより 最初から。 ■根源与力の者 陰謀の中心人物。 ■坪 中庭。 ■大床 寝殿造の大庇。 ■なれるすがたよ なれの果てよ。 ■しやつ あやつ。相手を罵っていう言葉。 ■しやッつら 「しやッ」は罵り嘲る意味の接頭語。 ■下臈のはて 下臈の中にも最低の。下臈は官位の低い者。卑しい者。 ■なさるまじき官職をなしたび 本来与えられるはずもない官職をお与えになり。 ■過分のふるまい 身に過ぎたふるまい。 ■見しにあはせて (浄海は)見ていたがそれに加えて、 ■あやまたぬ 過失のない。無実の。 ■流罪に申しおこなひ 流罪を申告し、実際に流罪に処させ、 ■けいき 様子。 ■ゐなほり 座り直して。 ■さもさうず 「さも候はず」の転。そんなことはない。 ■執事(しっし) 院庁の政務を行う長官。別当も同じ。 ■耳にとどまる事 耳に聴いて注意を起こされること。 ■故中御門藤中納言家成卿 藤原家成。大富豪。清盛が少年時代、家成のもとに仕えた。 ■高平太 高下駄をはいた平家の太郎。「中御門中納言家成卿の播磨守にておはせし時受領の鞭を取り、朝夕に柿の直垂に縄緒の足駄はきて通ひ給ひしかば、京童部は高平太と言ひて咲(わら)ひしぞかし」(『源平盛衰記』五)。 ■保延の比 保延元年(1135)忠盛が海賊を討った功績により清盛は従四位下となる。 ■侍品(さぶらひほん) 侍の身分。 ■傍例 慣例・しきたり。 ■左右(さう)なう 簡単には。 ■松浦太郎重俊 『平治物語』に信頼を斬る。 ■白状 自白の状。 ■前加賀守師高 師高が尾張の井戸田へ流された経緯は「内裏炎上」にある。 ■小胡麻郡司維季(をぐまのぐんじこれすえ) 小胡麻は小熊、小隈とも。美濃と尾張の境。岐阜県羽島市小熊町の辺。 ■いふかひなき者 口に出して言う価値もない、どうしようもない者。 ■いろふ 関わる。 ■果報 因果応報。前世の報い。西光らは前世でよい行いをしたために現世で身分高くなったが、それも尽きたということ。 ■神罰冥罰 神と仏が人知れず下す罰。

……

平清盛の苛烈な性格がよく出ている回です。西光法師のとうとうと清盛を罵る長台詞もすばらしいです。

次の章「二十 小教訓

朗読・解説:左大臣光永

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