平家物語 二十 小教訓
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『平家物語』第二十回「小教訓(こぎょうくん)」。
鹿ケ谷事件の首謀者、新大納言成親(なりちか)の処罰について、清盛が長男の重盛から教訓(説教)される。
内容
鹿谷事件で捕らえられた大納言成親は西八条の一室に軟禁される。そこへ清盛があらわれ、成親をさまざまに非難する。
成親はしらばっくれるが、清盛は西光法師の自白状を持ってこさせ、よみきかせると、西光の顔に投げかけ、出ていった。
入道相国はまだ怒りが収まらない。妹尾太郎兼康と難波次郎経遠を呼び出し、大納言成親を庭にひきずり落とせと命じる。
妹尾・難波は小松殿(重盛)をはばかって躊躇するが、清盛は「お前たちは内大臣の命を重んじて私の命令を軽んじるのだな」とすごむので、
やむをえず、大納言成親を庭に引き落とした。清盛が「ねじふせてわめかせろ」というので、妹尾・難波は大納言に気をつかいつつ、命じられたとおりにした。
成親は子息丹波少々成経以下の幼い子供が心配である。「いくらなんでも小松殿はお見捨てにならないだろう」と期待をかけるが、小松殿に連絡をつける方法もわからない。
小松殿はしばらくして、嫡子維盛を車の後に乗せて、護府の官人45人、随身23人をつれて兵士は一人も連れず西八条邸に参上した。
貞能が参って「これほどの大事にどうして軍兵を一人もつれていないのです」とたずねると、
「大事とは天下の大事を言うのだ。このような私事を大事という者があるか」と。
小松殿は大納言が軟禁された部屋を見つけ出し、大納言と対面。
大納言は「地獄に仏」と喜び、助命を請う。重盛は大納言を慰め、出ていく。
重盛は、父清盛に教訓(説教)する。大納言を死罪にするには及ばない、ただ都の外へ追放すれば足りると。
いにしえの賢王ですら讒言により無実の臣下を流罪に処してしまった事例を引き、また、
保元の乱の時長年間行わていなかった死罪を復活させた信西入道が、その二年後、自身が死罪になった最近の例を引き、清盛に教訓し、納得させる。
重盛は侍たちに、大納言に手を出さぬよういい含め、自分の屋敷(小松殿)に帰っていった。
重盛の侍たちが中御門烏丸の成親邸に行き、このことを報告すると、大納言の北の方は若宮・姫宮を連れて、雲林院へと退避した。
見送りの人たちはわが身惜しさに去っていった。北の方のもとに残ったのは幼子たちだけであった。
かつての繁栄は一夜にして変わった。盛者必衰の道理が、目の前に現出したことであった。
大事とは天下の大事をこそいへ。かやうの私事(わたくしごと)を、大事と伝ふ様やある。
積善(しゃくぜん)の家に余慶(よけい)あり、積悪(せきあく)の家に余殃(よおう)とどまる
原文
新大納言は一間(ひとま)なる所におしこめられ、あせ水になりつつ、「あはれ是(これ)は、日比(ひごろ)のあらまし事のもれ聞(きこ)えけるにこそ。誰(たれ)もらしつらん。定めて北面の者共が中にこそあるらむ」なンど、思はじ事なう案じつづけておはしけるに、うしろのかたより、足音のたからかにしければ、すはただいま、わが命(いのち)をうしなはんとて、武士(もののふ)共が参るにこそと、待ち給ふに、入道みづから、板敷(いたじき)たからかにふみならし、大納言のおはしけるうしろの障子(しやうじ)を、ざツとあけられたり。素絹(そけん)の衣のみじからかなるに、白き大口(おほくち)ふみくくみ、ひじりづかの刀、おしくつろげてさすままに、以(もつ)ての外(ほか)にいかれるけしきにて、大納言をしばしにらまへ、「抑御辺(そもそもごへん)は平治にもすでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、内府(だいふ)が身にかへて申しなだめ、頸(くび)をつぎ奉ツしはいかに。何の遺恨(ゐこん)をもツて、此一門(このいちもん)ほろぼすべき由(よし)の結構は候ひけるやらん。恩を知るを人とはいふぞ。恩を知らぬをば畜生とこそいへ。しかれども当家の運命つきぬによツて、むかへ奉ツたり。日比(ひごろ)のあらましの次第、直(ぢき)に承らん」とぞ宣ひける。大納言、「まツたくさる事候はず。人の讒言(ざんげん)にてぞ候らむ。よくよく御尋ね候へ」と申されければ、入道いはせもはてず、「人やある、人やある」と召されければ、貞能(さだよし)参りたり。「西光(さいくわう)めが白状参らせよ」と仰せられければ、もツて参りたり。是(これ)をとツて、二三遍(べん)おし返しおし返し、読みきかせ、「あなにくや。此(この)うへをば何と陳ずべき」とて、大納言のかほにざツと投げかけ、障子をちやうどたててぞ出でられける。入道なほ腹をすゑかねて、「経遠(つねとほ)、兼康(かねやす)」と召せば、瀬尾太郎(せのをのたらう)、難波次郎(なんばのじらう)参りたり。「あの男とツて、庭へひきおとせ」と宣(のたま)へば、これらは左右(さう)なくもし奉らず、「小松殿(こまつどの)の御気色(ごきしよく)、いかが候はんずらん」と申しければ、入道相国大きにいかツて、「よしよしおのれらは、内府(だいふ)が命(めい)をばおもうして、入道が仰せをばかろうしけるごさんなれ。其(その)上は力(ちから)およばず」と宣へば、此事あしかりなんとや思ひけん、二人の者共たちあがツて、大納言を庭へ引きおとし奉る。其時入道、心地(ここち)よげにて、「とツてふせてをめかせよ」とぞ宣ひける。
二人の者共、大納言の左右(さう)の耳に口をあてて、「いかさまにも御声のいづべう候(さうらふ)」と、ささやいて、ひきふせ奉れば、二声三声(ふたこゑみこゑ)ぞをめかれける。其体冥途(そのていめいど)にて、娑婆世界(しやばせかい)の罪人を、或(あるい)は業(ごふ)のはかりにかけ、或は浄頗梨(じやうはり)の鏡にひきむけて、罪の軽重(きやうぢゆう)に任せつつ、阿房羅刹(あほうらせつ)が呵責(かしやく)すらんも、これには過ぎじとぞ見えし。蕭樊(そうはん)とらはれとらはれて韓彭(かんはう)にらぎすされたり。兆錯戮(てうそりく)をうけて、周魏(しうぎ)つみせらる。喩(たと)へば、簫何(せうが)、樊噲(はんくわい)、韓信(かんしん)、彭越(はうゑつ)、是等(これら)は、高祖(かうそ)の忠臣なりしかども、少人(せうじん)の讒(ざん)によツて、過敗(くわはい)の恥をうくとも、か様(やう)の事をや申すべき。
新大納言は、我身のかくなるにつけても、子息丹波少将成経以下(たんばのせうしやうなりつねいげ)、をさなき人々、いかなる目にかあふらむと、思ひやるにもおぼつかなし。
さばかりあつき六月に、装束(しやうぞく)だにもくつろげず、あつさもたへがたければ、むねせきあぐる心地して、汗も涙もあらそひてぞながれける。「さりとも小松殿は、思食(おぼしめ)しはなたじ物を」と思はれけれども、誰(たれ)して申すべしともおぼえ給はず。
小松のおとどは、其後遥(そののちはる)かに程へて、嫡子権亮少将(ごんのすけせうしやう)維盛を車のしりに乗せつつ、衛府(ゑふ)四五人、随身(ずいじん)二三人召しぐして、兵(つはもの)一人も召しぐせられず、殊(こと)に大様(おほやう)げでおはしたり。入道をはじめ奉ツて、人々皆思はずげにぞ見給ひける。車よりおり給ふ処(ところ)に、貞能(さだよし)つツと参ツて、「など是程(これほど)の御大事(おんだいじ)に、軍兵(ぐんぴやう)共をば召しぐせられ候はぬぞ」と申せば、「大事とは天下(てんか)の大事をこそいへ。かやうの私事(わたくしごと)を、大事と云ふ様(やう)やある」と宣(のたま)へば、兵仗(ひやうぢやう)を帯したる者共も、皆そぞいてぞ見えける。「そも大納言をば、いづくにおかれたるやらん」とて、ここかしこの障子、引きあけ引きあけ見給へば、ある障子のうへに、蜘手(くもで)結うたる所あり。ここやらんとてあけられたれば、大納言おはしけり。涙にむせびうつぶして、目も見あはせ給はず。「いかにや」と宣へば、其時みつけ奉り、うれしげに思はれたるけしき、地獄にて、罪人共が、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)を見奉るらんも、かくやとおぼへて哀れなり。「何事にて候やらん、かかる目にあひ候(さうらふ)。さてわたらせ給へば、さりともとこそたのみ参らせて候へ。平治にも既(すで)に誅(ちゆう)せらるべかりしを、御恩をもツて頸(くび)をつがせ参らせ、正二位(じやうにゐ)の大納言にあがツて、歳既(としすで)に四十にあまり候。御恩こそ生々世々(しやうじやうせせ)にも報じつくしがたう候へ。今度も同(おなじく)はかひなき命をたすけさせおはしませ。命だにいきて候はば、出家入道して、高野粉河(かうやこかは)に閉(と)ぢ籠(こも)り、一向後世菩提(いつかうごせぼだい)のつとめをいとなみ候はん」と、申されければ、大臣、「誠にさこそはおぼしめされ候はめ。さ候へばとて、御命うしなひ奉るまではよも候はじ。縦(たと)ひさは候とも、重盛(しげもり)かうて候へば、御命にもかはり奉るべし」とて、出でられけり。父の禅門の御まへにおはして、「あの成親卿(なりちかのきやう)うしなはれん事、よくよく御(おん)ぱからひ候べし。先祖修理大夫顕季(しゆりのだいぶあきすゑ)、白川院(しらかはのゐん)に召しつかはれてよりこのかた、家に其(その)例なき正二位(じやうにゐ)の大納言にあがツて、当時君無双(きみぶさう)の御いとほしみなり。やがて首(かうべ)をはねられん事、いかが候べからん。都の外へ出(いだ)されたらんに事たり候ひなん。北野の天神は、時平(しへい)のおとどの讒奏(ざんそう)にて、うき名を西海の浪(なみ)にながし、西宮(にしのみや)の大臣は、多田(ただ)の満仲(まんぢゆう)が讒言(ざんげん)にて、恨(うらみ)を山陽(さんやう)の雲に寄す。おのおの無実なりしかども、流罪せられ給ひにき。これ皆延喜(えんぎ)の聖代(せいたい)、安和(あんわ)の御門(みかど)の御(おん)ひが事とぞ申し伝へたる。上古猶(しやうこなほ)かくのごとし、況哉(いはんや)末代においてをや。賢王猶御(なほおん)あやまりあり、況(いはん)や凡人においてをや。既(すで)に召しおかれぬる上は、いそぎうしなはれずとも、なんの苦しみか候べき。『刑の疑はしきをばかろんぜよ、功の疑はしきをばおもんぜよ』とこそ、みえて候へ。事あたらしく候へども、重盛、彼(かの)大納言が妹(いもと)に相具して候。維盛(これもり)又聟(むこ)なり。か様(やう)にしたしくなツて候へば申すとや、おぼしめされ候らん。其儀では候はず。
世のため、君のため、家のための事をもツて申し候。一年故少納言入道信西(ひととせこせうなごんにふだうしんせい)が、執権の時にあひあたツて、我朝(わがてう)には嵯峨皇帝(さがのくわうてい)の御時、右兵衛督藤原仲成(うひやうゑのかみふぢはらのなかなり)を誅(ちゆう)せられてよりこのかた、保元(ほうげん)までは君廿五代の間、行はれざりし死罪を、はじめてとり行ひ、宇治(うぢ)の悪左府(あくさふ)の死骸(しがい)を、ほりおこいて、実検(じつけん)せられし事なンどは、あまりなる御政(おんまつりごと)とこそおぼえ候ひしか。さればいにしへの人々も、『死罪をおこなへば、海内(かいだい)に謀反(むほん)の輩(ともがら)たえず』とこそ申し伝へて候へ。此詞(このことば)について、中(なか)二年あツて平治に又、信西がうづまれたりしをほり出(いだ)し、首(かうべ)をはねて大路(おほち)をわたされ候ひにき。保元(ほうげん)に申し行ひし事、幾程(いくほど)もなく、身の上にむかはりにきと思へば、おそろしうこそ候ひしか。是(これ)はさせる朝敵にもあらず。かたがたおそれあるべし。御栄花(えいぐわ)残る所なければ、おぼしめす事あるまじけれども、子々孫々までも繁昌(はんじやう)こそあらまほしう候へ。父祖の善悪は、必ず子孫に及ぶと見えて候。積善(しやくぜん)の家に余慶(よけい)あり、積悪の門(かど)に余殃(よあう)とどまるとこそ承れ。いかさまにも今夜、首(かうべ)をはねられん事、しかるべうも候はず」と申されければ、入道相国げにもとや思はれけん、死罪は思ひとどまり給ひぬ。
其後(そののち)おとど中門に出でて、侍(さぶらひ)共に宣(のたま)ひけるは、「仰せなればとて、大納言左右(さう)なう失ふ事あるべからず。入道腹のたちのままに、ものさはがしき事し給ひては、後に必ずくやしみ給ふべし。僻事(ひがごと)して、われうらむな」と宣へば、兵(つはもの)共皆舌をふツておそれをののく。「さても経遠(つねとほ)、兼康(かねやす)が、けさ大納言に情(なさけ)なうあたりける事、返すがえすも奇怪(きツくわい)なり。重盛(しげもり)がかへり聞かん所をば、などかははばからざるべき。片田舎(かたゐなか)の者共は、かかるとぞよ」と宣へば、難波(なんば)も瀬尾(せのを)も共におそれ入ツたりけり。おとどはか様(やう)に宣ひて、小松殿へぞ帰られける。
さる程(ほど)に大納言のともなりつる侍(さぶらひ)共、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の宿所へはしり帰ツて此由(このよし)申せば、北の方以下の女房達、声も惜しまず泣きさけぶ。「既(すで)に武士のむかひ候。少将殿をはじめ参らせて、君達(きみたち)も皆とられさせ給ふべしとこそ聞え候へ。いそぎいづ方へもしのばせ給へ」と申しければ、「今は是程(これほど)の身になツて、残りとどまる身とても、安穏(あんをん)にて何にかはせん。
ただ同じ一夜(ひとよ)の露とも消えん事こそ、本意(ほんい)なれ。さても今朝(けさ)をかぎりと知らざりけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞ泣かれける。既(すで)に武士共のちかづくよし聞(きこ)えしかば、かくて又恥ぢがましく、うたてき目を見んもさすがなればとて、十になり給ふ女子(によし)、八歳の男子(なんし)、車にとり乗せ、いづくをさすともなくやり出(いだ)す。さてもあるべきならねば、大宮をのぼりに、北山(きたやま)の辺(へん)、雲林院(うんりんゐん)へぞおはしける。其辺なる僧坊におろしおき奉ツて、送りの者どもも、身々(みみ)の捨てがたさに、暇(いとま)申して帰りけり。今はいとけなきをさなき人々ばかりのこりゐて、又こととふ人もなくしておはしけむ北の方の心のうち、おしはかられて哀れなり。
暮れ行く陰を見給ふにつけては、大納言の露の命、此夕(このゆふべ)をかぎりなりと思ひやるにも消えぬべし。宿所には女房侍(さぶらひ)おほかりけれども、物をだにとりしたためず、門(かど)をだにおしも立てず。馬(むま)どもは厩(むまや)になみたちたれども、草かふ者一人(いちにん)もなし。夜(よ)明くれば馬車門(くるまかど)にたちなみ、賓客(ひんかく)座につらなツて、あそびたはぶれ、舞ひをどり、世を世とも思ひ給はず、ちかきあたりの人は、物をだにたかくいはず、おぢおそれてこそ昨日(きのふ)までもありしに、夜(よ)の間(ま)にかはる有様(ありさま)、盛者必衰(じやうしやひつすい)の理(ことわり)は、目の前にこそ顕(あらは)れけれ。「楽しみつきて悲しみ来(きた)る」と書かれたる江相公(がうしやうこう)の筆の跡、今こそ思ひ知られけれ。
現代語訳
うしろの方から、足音がたからかにしたので、さあいよいよ、わが命を損なおうということで、武士どもが参ったのだと、お待ちになっていると、入道みずから、板敷をたからかにふみならし、大納言のいらっしゃるうしろの障子を、ざっとお開きになった。
素絹(そけん)の衣のみじかめであるのに、白い大口を袴ま裾をふんで丸め込め、柄に飾りのない方なをゆるゆかにさすままに、たいそう怒っておられる様子で、大納言をしばしにらまえ、
「そもそもあなたは、平治の乱のときもすんでに殺されるはずだったのを、内府(重盛)が身にかえて申しなだめ、首をつなぎ申し上げたのはどう思われるか。何の遺恨をもって、この一門ほろぼすような事の計画を立てられるのだろう。恩を知るを人というのだ。恩を知らないのを畜生という。しかし当家の運命はつきていなかったので、お迎え申し上げたのだ。日頃の計画の次第を、直接うかがおう」
とおっしゃった。
大納言、
「まったくそのような事はございません。人の讒言でございましょう。よくよく御尋ねください」
と申されたので、入道は最後まで言わせず、
「人はあるか、人はあるか」
とお召しになると、貞能が参った。
「西光めらが白状をもって参れ」
と仰せになったので、貞能はもって参った。これを取って、ニ三遍くりかえし、読みきかせ、
「ああ憎いこと。この上何と言い訳するのか」
といって、大納言の顔にざっと投げかけ、障子をちょうとたてて出ていかれた。
入道はそれでもなお腹立ちがおさまらず、
「経遠、兼康」
とお召しになると、瀬尾太郎、難波次郎が参った。
「あの男をとって、庭へ引き落とせ」
とおっしゃると、二人は簡単には引き落とすことをし申し上げないで、
「小松殿のご機嫌は、どうでございましょう」
と申したところ、入道相国は大いにいかって、
「そうかそうか、お前たちは、内府の命令をおもんじて、入道の仰せを軽くするということであるな。それならば仕方がない」
とおっしゃるので、これはまずいと思ったのだろう、二人の者どもは立ち上がって、大納言を庭へ引き落とし申し上げた。
その時入道は、心地よげに、「取り押さえてねじ伏せてわめかせよ」とおっしゃった。
二人の者どもは、大納言の左右の耳に口をあてて、
「どうとでも、御声をお出しください」
と、ささやいて、ねじ伏せ申すと、ニ声三声わめかれた。
その様子は冥途にて、娑婆世界の罪人を、あるいは業のはかりにかけ、あるいは浄玻璃の鏡にむけて、罪の軽い重いにしたがって、地獄閻魔庁の獄卒が、拷問するというのも、これよりは酷くないだろうと見えた。
(漢の高祖に仕えた)蕭何(しょうか)・樊噲(はんかい)がそれぞれ捕らえられて、韓信(かんしん)・彭越(ほうえつ)は殺されて骨肉を塩漬けにされた。
(漢の孝文・孝景帝に仕えた)鼂錯(ちょうそ)は殺されて、(漢の高祖に仕えた)周勃、(漢の孝文・孝景帝に仕えた)竇嬰は罪を受けた。
詳しく言うと、蕭何、樊噲、韓信、彭越、これらは、高祖の忠臣であったが、つまらない人間の讒言によって、過失失敗の恥をうけるとも、このような事を申すのだろう。
新大納言は、わが身がこのようになるにつけても、子息丹波少将成経以下、をさない人々は、どんな目にあうだろうと、思いやるにも何もわからない。
ひどく暑い六月に、装束さえ整えられず、暑さもたえがたいので、胸せきあげる心地がして、汗も涙もあらそって流れた。
「そうはいっても小松殿は、お見捨てにならないだろう」
と思われたが、誰にたのんで申せばよいかもおわりにならない。
小松のおとどは、その後はるかに時がたって、嫡子権亮少将(ごんのすけじょうしょう)維盛を車のしりに乗せて、衛府の役人四五人、随身ニ三人召しつれて、兵士は一人もおつれにならず、たいそう落ち着いたかんじでいらした。
入道をはじめ、人々は皆、意外そうにご覧になる。
車から降りられたところに、貞能がすっと参って、
「どうしてこれほどの御大事に、軍兵どもをお召しつれにならないのですか」
と申せば、
「大事とは天下の大事のことを言う。このような私事を大事ということがあるか」
とおっしゃると、武器をおびている者どもも、皆しりごみして見えた。
「いったい大納言を、どこに置かれているのだろう」
といって、あちこちの障子を引きあけ引きあけご覧になると、ある障子の上に、板を十字に打ち付けた所がある。
ここであろうといってお開けになると、大納言がいらした。
涙にむせびうつぶせになって、目もお合わせにならない。「どうされました」と重盛がおっしゃると、その時(重盛を)みつけ申し上げ、うれしげに思われた様子は、地獄にて、罪人共が、地蔵菩薩を拝するのも、こうであろうと思われて哀れであった。
「何事でございましょうか。このような目にあってございます。こうしてお来しくださったので、そうはいっても頼みにしております。平治の乱にもすんでのところで殺されるところだったのを、御恩をもって首をつながれまして、正二位の大納言に出世して、歳はもう四十すぎでございます。御恩は未来永久にわたってつくしがたくございます。今度も同じことなら今に失われようとしている命をお助けください。命さえ助かりましたら、出家入道して、高野山、粉河寺にこもって、ひたすら後世菩提のつとめを営みましょう」
と申されたので、大臣は、
「まことに、そのようにお思いでしょうね。そうだからといって、御命まで奪い申し上げることはまさかございませんでしょう。たとえそうなりましても、重盛がこうしてございますなら、御命にもかわり申しましょう」
といって、出ていかれた。
父の禅門の御前にいらして、
「あの成親卿を死刑になさることは、よくよく御考えなさるべきです。
先祖修理大夫(しゅりのだいぶ)顕季(あきすえ)が白河院に召しつかわれて以来、家にその例のない正ニ位の大納言にあがって、現在、後白河院は、なみなみならずご寵愛されています。
すぐに首をはねられるのは、どうでございましょうか。都の外へ追放されれば事たりましょう。
北野の天神(菅原道真公)は、左大臣藤原時平の讒奏によって、悲しい汚名を西海の浪にながし、西宮の大臣(左大臣源高明)は、多田満仲の讒言によって、恨みをいだきながら山陽道から九州に下りました。
お二人とも無実でしたが、流罪になされたのです。
これは皆、延喜の聖代(醍醐天皇)、安和の帝(冷泉天皇)のあやまちと申し伝えています。
上古でもやはりそうなのです。まして末代において言うまでもございません。
賢王もやはり間違われることがある。まして凡人は、必ず間違う。
すでに召し置かれている上は、いそいで死罪にせずとも、なんの問題がございましょう。
『刑の疑わしいのを軽く扱え。功の疑わしいのを重く扱え』と、古典の言葉にみえてございます。
いまさらですが、重盛は、かの大納言の妹と夫婦になってございます。維盛もまた(大納言の娘の)婿です。
このように私が大納言と親戚関係になってございますから申すのだと、思われますのでしょう。
そういう事ではございません。
世のため、君のため、家のために申すのでございます。
先年、故少納言入道信西が、権力をふるっていた時に、わが国では嵯峨天皇の御代、右兵衛督(うひょうえのかみ)藤原仲成(ふじわらのなかなり)を死罪にしてからこのかた、保元までは天皇二十五代の間、行われなかった死罪を、はじめてとり行い、宇治の悪左府(藤原頼長)の死骸を、ほりおこして実地に検査された事などは、あまりにひどいご政治と思いますぞ。なので昔の人々も、『死罪をおこなえば国中に謀反の者どもがたえない』と申し伝えてございます。
この言葉について、中ニ年あって平治にまた、信西が地面に埋まっていたのをほり出し、首をはねて大路をわたされました。
保元に申し行った事、幾程もなく、身の上にめぐり向かってきたと思えば、おそろしく思いましたぞ。
(信西などにくらべれば)これ(藤原成親)はたいした朝敵でもございません。
御栄花は十分で残るところないのですから、思われる事はないでしょうが、子々孫々までも繁盛してほしいものでございます。父祖の善悪は、必ず子孫に及ぶと見えてございます。善行を積んだ家にはその余りとして慶事があり、悪を積んだ家にはその余りとしてわざわいがとどまると承っています。
なにんがなんでも今夜、首をはねられることは、やるべきでないことでございます」
と申されたところ、入道相国はもっともと思われたのだろうか、死罪は思いとどまられた。
その後おとどは中門に出て、侍どもにおっしゃったのは、
「仰せであるからといって、大納言を簡単に死なすことはあってはならない。入道が腹を立てるにまかせて、軽はずみな事をなさっては、後に必ず後悔なさるだろう。(お前たちも)間違ったことをして(後で後悔して)、われを恨むな」
とおっしゃると、兵どもは皆舌をふるふるさせておそれおののく。
「それにしても経遠、兼遠が、けさ大納言に情けなくあたった事、返す返すもけしからん。
重盛が伝え聞くことを、どうして気兼ねしないのか。片田舎の者どもは、こうであるからな」
とおっしゃると、難波も瀬尾も共におそれ入った。おとどはこのようにおっしゃって、小松殿へ帰られた。
そのうちに大納言の共をした侍どもが、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の宿所へはしり帰ってこのこと申せば、北の方以下の女房たちは、声も惜しまず泣きさけぶ。
「もう武士がむかってございます。少将殿をはじめ申し上げ、君達も皆とらえられなさるに違いないと聞いてございます。いそいでどこへでも、しのんでお逃げください」
と申したところ、
「今はこんな身になって、残りとどまる身といっても、無事でいてどうしようか。ただ同じ一夜の露とも消えることこそ、願いだ。それにしても今朝を最後と知らなかったかなしさよ」
といって、うつぶしてもだえ泣かれた。
今にも武士どもの近づくことが聞こえると、このように又恥ずかしいような、情けない目を見てもやはりつらいといって、十になられる女子、八歳の男子を車にとり乗せ、どこへともなく送り出す。
そうはいってもどこかに子供らを預けないといけないので、大宮大路を北へ、北山の辺、雲林院へいらっしゃった。
その辺にある僧坊におろしおき申して、送りの者どもも、それぞれの身の捨てがたさに、暇申して帰った。
今はあどけない幼い人々だけが残っていて、そのほかは言葉をかける人もなくていらっした北の方の心のうちが、おしはかられて哀れである。
暮れゆく夕日をご覧になるにつけても、大納言のはかない命が、この夕かぎりだと思いやると、消え入るような心地だっただろう。
宿所には女房侍が多かったが、物をさえ片付けず、門をさえ閉めず、馬どもは厩に並んで立っていたが、ま草を与える者は一人もない。
夜が明ければ馬車が門のところに立ち並び、賓客が座につらなって、遊び戯れ、舞い踊り、世を世とも思われず、近くに住んでいる人は、物をさえ高く言わず、おびえおそれて昨日まであったのに、夜の間にかわるありさまは、盛者必衰の道理が目の前にあらわれたことであった。
「楽しみつきて悲しみ来る」と書かれた参議大江朝綱公の文章が、今こそ思い知られたことであった。
語句
■あらまし事 予定・計画。 ■素絹 そけん。素絹でつくった白い衣。僧が着るもの。 ■大口 大口袴。裾の広い袴。 ■ふみくくみ 足で袴の裾を内側に踏みいれて。 ■ひじりづか 柄に飾りのない刀。 ■おしくつろげて ゆるやかに。 ■平治にも 平治の乱のとき信頼に加担して首斬られるところだったが、小松殿に助けられた。 ■内府 だいふ。小松内大臣重盛。 ■結構 計画。 ■いかさまにも どのようでも。 ■娑婆世界 人間界。 ■業のはかり 地獄の閻魔大王の前にある秤。生前の罪の重さをはかる。 ■浄玻璃の鏡 地獄の閻魔庁にあり生前の行いを映し出す。 ■阿防羅刹 牛頭馬頭など、地獄閻魔庁の獄卒。 ■呵責 拷問。 ■蕭樊とらはれて 蕭何・樊噲・韓信・彭越は漢の高祖劉邦の臣。高祖なき後、蕭何・樊噲は讒言により捕らえられ、韓信・彭越は讒言によって殺された。 ■にらぎす 葅醢(そかい)の訓読。葅は野菜の塩漬け、醢は肉の塩漬け。転じて、人を殺して骨肉を塩漬けにする刑。 ■鼂錯 ちょうそ。漢の孝文・孝景帝に仕えたが讒言によって殺された。 ■周魏 周は周勃。漢の高祖の臣。魏は竇嬰。魏共侯。漢の孝文、孝景帝の臣。ともに罪を受け、周は獄につながれ、魏は殺された。 ■少人 つまらない者。小人。 ■過敗 過失、失敗。 ■衛府 宮中を警護する役所「六衛府」。ここではその官人。 ■思はずげ 意外に思うこと。 ■そぞろいて ぞわぞわして落ち着かないさま。 ■蛛手 材木を十文字にあわせたもの。 ■さてわたらせ給へば それでもやはり小松殿あなたがいらっしゃったので(ひとまずは安心です)。 ■正二位の大納言 大納言は三位相当だが二位でつとめたのでとくに言う。成親は承安3年(1173)正二位、安元元年(1175)権大納言。 ■生々世々にも 未来永劫にわたって。 ■かひなき命 生きているかいのない命。はかない命。 ■高野粉河 高野山金剛峯寺と和歌山県紀の川市の粉河寺。 ■後世菩提 死後、極楽往生できるように。 ■修理大夫顕季 成親の曽祖父で白河院のとき修理大夫をつとめた。修理大夫は宮城の修理造営を監督する。 ■君無双 きみぶそう。後白河院のならびなきお気に入り。 ■北野の天神 菅原道真公。 ■時平のおとど 左大臣藤原時平。菅原道真を讒言した。 ■西宮の大臣 左大臣源高明。醍醐天皇皇子。讒言により大宰権帥に左遷された。 ■多田の満仲 六孫王経基の子。摂津国多田庄を拠点とした。 ■山陽の雲に寄す 山陽道を通って大宰府に護送されたから。 ■延喜の聖代 醍醐天皇の御代。 ■安和の御門 冷泉天皇。安和は冷泉天皇、円融天皇の時代の元号。 ■ひが事 まちがった行い。醍醐天皇・冷泉天皇のような賢王にすら過ちがあったという意味合い。 ■刑の疑はしきをばかろんぜよ 『尚書』 ■事あたらしく候へども 今更だが。 ■執権 信西が鳥羽法皇の寵をかさにきて権力をふるったこと。 ■嵯峨皇帝の御時… 嵯峨天皇の大同5年(810)藤原仲成とその妹薬子が平成上皇をかついで事を起こそうとした事件。仲成は射殺され、薬子は自害(平成太上天皇の変)。 ■宇治の悪左府 左大臣藤原頼長。保元の乱で崇徳方の総帥。 ■実検 実地に検査すること。 ■信西がうづまれたりしを 信西は平治の乱に敗れて逃げて、宇治田原のあたりで穴をほって隠れていたのを掘り出されて首斬られたという。 ■むかはりにき 自分の身にめぐり向かってきた。 ■かたがた あれこれ。 ■積善の家に余慶あり、積悪の家に余殃とどまる 『易経』文言伝。よい行いを積んだ家には子孫によいことがあり、悪事をつんだ家には子孫に悪いことが起こる。 ■ものさわがしき事 せっかちな事。大納言成親をはやまって死罪にすること。 ■くやしみ給ふべし 後悔されるにちがいない。 ■舌をふッておそれをののく 非常におそれるさま。 ■奇怪 けしからぬこと。 ■かへり聞かん所 聞き伝えること。 ■安穏にて何かはせん 自分だけ無事でいてどうしようか。 ■恥ぢがましく 恥となるような。 ■うたてき いやな。 ■さすがなれば やはりつらいから。 ■大宮をのぼりに 大宮大路を北に。 ■雲林院 京都市北区紫野にあった寺院。もとは淳和天皇の離宮だったものを仁明天皇皇子・常康親王が貰い受け、さらに常康親王から僧正遍昭が貰い受けて寺とした。 ■身身 それぞれの身。 ■暮れゆく陰 暮れていく夕日の光。 ■物をだにとりしたためず 物をさえ取片付けず。 ■草かふ者 馬にまぐさを与える者。 ■世を世とも思わず 世間をはばからず。おごり高ぶっているさま。 ■ちかきあたりの人は 権力者の近くにすむ貧しい者どもが、権力者をはばかって発言も満足にできないさま。 ■楽しみつきて悲しみ来る 「生ある者は必ず滅す、釈尊未だ栴檀之煙免れたまはず、楽しび尽きて悲しび来る、天人猶五衰之日に逢へり」(和漢朗詠集下・無常 後江相公)。 ■江相公 参議大江朝綱。相公は参議の唐名。祖父大江音人を江相というので区別して、後江相とよぶ。
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