平家物語 二十ニ 教訓状

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『平家物語』巻第ニより「教訓状」。

清盛は鹿谷事件にくみした関係者たちを多数捕らえたが、まだ気持ちがおさまらず、後白河法皇の御身をも拘束しようとする。そこに重盛があらわれて、清盛に切々と教訓(説教)する。

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あらすじ

清盛は鹿谷事件に加わった人たちを大勢捕らえたが、まだ気がすまない。

鎧を着込むと家人の筑後守貞能を召して、後白河法皇への恨み言を述べる。

保元・平治の昔から、平家一門がいかに後白河法皇に奉公してきたか。にもかかわらず、法皇が成親や西光法師の口車に乗って平家を滅ぼそうと計画されたことの恨み。

こうなったら世の中を静める間、法皇を鳥羽の北殿か西八条へお移りいただこうという計画を述べ、武士どもに準備を命じる。

主馬判官盛国が重盛に知らせると、重盛は急ぎ西八条にやってくる。

門内にはすでに平家一門の公卿殿上人以下、大勢集まっていた。

清盛は重盛を叱りつけてやろうと構えるが、五戒を守り礼儀を正しくする重盛に対して鎧姿で対面することはばつが悪い。法衣の下に鎧を隠して対面した。

無言で向かい合う清盛と重盛。

やがて清盛は、法皇を鳥羽の北殿か西八条に移そうと思うと切り出すと、重盛は涙を流して一門の運の尽きたことを嘆く。

重盛は清盛に対して太政大臣かつ出家の身でありながら鎧をまとうことの非道を指摘し、君主の恩がいかに深く尊いか、平家一門は十分に恩を受けていること。にも関わらず一門のふるまいは傍若無人であることを難じ、

聖徳太子の十七条憲法を引用して、たとえ腹が立ってもまず自分の非を恐れるべきであることをいい、

謀反はすでに発覚したのだから、これ以上の心配はない。君主に使え民をいつくしむことが神仏の心にかなったことだと、切々と説く。

原文

太政入道(だいじやうのにふだう)は、か様(やう)に人々あまた警(いまし)めおいても、なほ心ゆかずや思はれけん、既(すで)に赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし)の腹巻の、白(しろ)かな物うツたる胸板(むないた)せめて、先年安芸守(あきのかみ)たりし時、神拝(じんぱい)の次(ついで)に、霊夢を蒙(かうむ)ツて、厳島(いつくしま)の大明神より、うつつに給はられたりし、銀(しろがね)の蛭巻(ひるまき)したる小長刀(こなぎなた)、常の枕をはなたず立てられたりしを脇(わき)ばさみ、中門(ちゆうもん)の廊へぞ出でられける。その気色(きそく)、大方ゆゆしうぞみえし。貞能(さだよし)を召す。筑後守貞能(ちくごのかみさだよし)、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に、緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、御まへに畏(かしこ)まつてぞ候(さうら)ひける。ややあツて、入道宣ひけるは、「貞能此事(このころ)いかが思ふ。保元(ほうげん)に、平右馬助(へいうまのすけ)をはじめとして、一門半(なかば)過ぎて、新院のみかたへ参りにき。一宮(いちのみや)の御事は、故刑部卿殿(ぎやうぶきやうのとの)の養君(やうくん)にてましまいしかば、かたがたみはなち参らせがたかツしかども、故院の御遺誡(ゆいかい)に任せて、みかたにて先をかけたりき。是一つの奉公なり。次に平治(へいぢ)元年十二月、信頼(のぶより)、義朝(よしとも)が院内(ゐんうち)をとり奉り、大内(だいだい)にたてごもり、天下(てんか)くらやみとなツたりしに、入道身を捨てて凶徒(きようと)を追ひ落(おと)し、経宗(つねむね)、惟方(これかた)を召し警(いまし)めに至るまで、既(すで)に君の御ために命をうしなはんとする事度々(どど)に及ぶ。縦(たと)ひ人何(なん)と申すとも、七代までは此一門(このいちもん)をば争(いか)でか捨てさせ給ふべき。それに成親(なりちか)と云ふ無用のいたづら者、西光(さいくわう)と云ふ下賤(げせん)の不当人(ふたうじん)めが申す事につかせ給ひて、この一門亡(ほろぼ)すべき由、法皇の御結構こそ、遺恨の次第なれ。此後も讒奏(ざんそう)する者あらば、当家追討の院宣、下されつと覚ゆるぞ。朝敵となツては、いかにくゆとも益(えき)あるまじ。世をしづめん程(ほど)、法皇を鳥羽(とば)の北殿(きたどの)へうつし奉るか、しからずは是(これ)へまれ、御幸(ごかう)をなし参らせんと思ふはいかに。其儀(そのぎ)ならば、北面の輩(ともがら)矢をも一つ射てンずらん。侍(さぶらひ)共に其用意(ようい)せよと触(ふ)るべし。大方は入道、院がたの奉公思ひきツたり。馬に鞍(くら)おかせよ。着背長(きせなが)とり出(いだ)せ」とぞ宣(のたま)ひける。

主馬判官盛国(しゆめのはんぐわんもりくに)、いそぎ小松殿へ馳(は)せ参ツて、「世は既(すで)にかう候(ざうらふ)」と申しければ、おとど聞きもあへず、「あははや、成親卿(なりちかのきやう)が首(かうべ)をはねられたるな」と宣へば、「さは候はねども、入道殿、着背長(きせなが)召され候、侍共みなうツたツて、只今法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ寄せんと出でたち候。法皇をば鳥羽殿(とばどの)へおしこめ参らせうど候が、内々は鎮西(ちんぜい)のかたへながし参らせうど擬せられ候」と申しければ、おとど争(いか)でかさる事あるべきと思へども、今朝(けさ)の禅門の気色(きそく)、さる物ぐるはしき事もあらむとて、車をとばして西八条へぞおはしたる。

門前にて車よりおり、門の内へさし入ツて見給へば、入道腹巻を着給ふ上は、一門の卿相雲客数十人(けいしやううんかくすじふにん)、おのおの色々の直垂(ひたたれ)に、思ひ思ひの鎧(よろひ)着て、中門の廊(らう)に、二行(にぎやう)に着座せられたり。其外(そのほか)諸国の受領(じゆりやう)、衛府諸司(ゑふしよし)なンどは、縁に居こぼれ、庭にもひしとなみ居たり。

現代語訳

太政入道は、このように人々を多く処罰しても、やはりまだ安心できないと思われたのだろうか、早くも赤地の錦の直垂に、黒糸縅の腹巻の、銀の飾り物をうった胸板をぴっちりと着て、先年安芸守であった時、神社に参拝したついでに、ありがたい夢を受けて、厳島の大明神より、現実にいただかれた、銀の蛭巻した小長刀で、いつも枕からはなさず立てられているのを脇にはさみ、中門の廊へ出られた。

その様子は、まったくものすごくみえた。貞能を召す。筑後守貞能は、木蘭地の直垂に、緋縅の鎧着て、御まえにかしこまってひかえていた。

しばらくして、入道がおっしゃったことは、

「貞能、この事をどう思う。保元の乱では、平右馬助(平忠正)をはじめとして、一門の半分以上は、新院(崇徳院)のみかたへ参った。一宮(崇徳院の皇子、重仁親王)の御事は、故刑部卿殿(平忠盛)の養いの君でいらしたので、あれこれお見捨て申しずらかったが、故院(鳥羽上皇)の御遺言のままに、(後白河方に)みかたとなって先駆けした。これは一つの奉公である。

次に平治元年十ニ月、信頼、義朝が院(後白河上皇)と、内(二条天皇)をとらえ申し、大内裏にたてこもり、天下がくらやみとなった時、入道は身を捨てて悪人を追い落とし、(信頼に味方した)藤原経宗、惟方を召し捕らえたことに至るまで、君のためにほとんど命をうしなおうとすること度々になる。

たとえ人が何と申すとも、七代まではこの一門をどうしてお捨てになってよいものか。それなのに成親という無用のロクでもない者、西光という身分卑しい道理に反した奴が申すことにおつきになり、この一門滅ぼすという事、法皇の御計画こそ、残念の次第だ。

この後も讒奏する者があれば、当家追討の院宣を下されると思えるぞ。朝敵となっては、どれだけ悔やんでもどうしようもない。

世をしずめる間、法皇を鳥羽の北殿へうつし申すか、そうでなければここ西八条へでも、御幸をなし申そうと思うがどうか。

そうすれば、北面の連中が矢の一本も射てくるだろう。侍共にその用意せよと触れよ。総じて入道は、院がたに奉公することは思い切ったぞ。馬に鞍おかせよ。着背長とり出せ」とおっしゃった。

主馬判官盛国は、いそいで小松殿へ馳せ参って、「世はすでにこのようになりました」と申したところ、おとどは聞くやいなや、「ああはやくも、成親卿が首をはねられたのだな」とおっしゃると、「そうではございませんが、入道殿は、着背長をお召しになってございます。侍共は皆出発して、ただ今法住寺殿へ攻め寄せようと準備してございます。法皇を鳥羽殿へおしこめ申そうとしてごさいますが、内々は鎮西の方へ流し申そうと考えておられます」

と申したところ、おとどはどうしてそのような事があるだろうと思ったが、今朝の禅門の様子、そのような物ぐるわしい事もあるだろうと、車をとばして西八条へいらした。

門前にて車からおり、門の内へさし入ってご覧になると、入道腹巻をお召になっている上は、一門の公卿殿上人数十人、おのおの色々の直垂に、思い思いの鎧着て、中門の廊に、二行に着座なさっていた。

その他諸国の受領、衛府、さまざまな役人などは、縁側に座れずあふれており、庭にもびっしりと波をなして座っている。

語句

■心ゆかず 気がすすまなく。 ■既に 早くも。 ■直垂 鎧の下に着る衣。鎧直垂。 ■白かな物 銀の飾り金具。 ■胸板 鎧全面の最上部の板。一の板。 ■せめて 胸板が胸にぴったり着くように着て。 ■神拝 新任の国司が領内の神社にはじめて参詣すること。 ■銀の蛭巻したる 刀などの柄を銀で蛭が巻いたように巻き付かせて装飾したもの。 ■大方ゆゆしうぞ見えし まったく恐ろしいほどに見えた。 ■木蘭地 むくらんじ。赤みのある黄を帯びた茶色。 ■平右馬助 清盛の叔父、忠正。保元の乱で崇徳院方についた。 ■新院 崇徳院。 ■一宮 崇徳院の第一皇子、重仁親王。父崇徳は重仁を即位させ自らが院政を行おうと思ったができなかった。 ■故刑部卿殿 清盛の父、忠盛。 ■ましまいしかば 「ましまししかば」の音便。 ■かたがた いろいろと。 ■がたかッしかども 「がたかりしかども」の音便。 ■故院 鳥羽法皇。 ■みかたにて先をかけたりき 保元の乱において清盛が後白河方に味方したことをいう。 ■平治元年十二月… 以下、平治の乱のこと。 ■信頼、義朝が院内をとり奉り 藤原信頼と源義朝が後白河法皇と二条天皇を拉致したことをいう。 ■大内 たいだい。平安京大内裏。 ■経宗、惟方 平治の乱において信頼方に取り込まれ二条天皇を拉致するが、清盛の懐柔により信頼を裏切り、二条天皇を六波羅へ逃した。 ■召し警(いまし)め 召し捕らえること。 ■不当人 ふとうじん。ロクでもないやつ。 ■世をしずめん程 世を静めるまでの間。 ■鳥羽の北殿 鳥羽殿は白河法皇、鳥羽法皇が造営した離宮。院政の拠点。平安京の南、鳥羽にあった。城南の離宮とも。北殿、南殿、田中殿など、いくつかの御殿があった。 ■是へまれ 法皇をここ西八条におしこめようか、の意。 ■大方は ほとんど。総じて。 ■着背長 きせなが。鎧のこと。 ■かう候 このようになりました。 ■擬人せられ あらかじめ考え計画する。 ■卿相雲客 卿相は公卿。雲客は殿上人。 ■縁に居こぼれ 縁側まであふれて座っている。

原文

旗ざを共ひきそばめひきそばめ、馬の腹帯(はるび)ををかため、甲(かぶと)の緒(を)をしめ、只今皆うツたたんずるけしきどもなるに、小松殿、烏帽子直衣(えぼしなほし)に大文(だいもん)の指貫(さしぬき)そばとツて、ざやめき入り給へば、事の外(ほか)にぞみえられける。入道ふし目になツて、「あはれ例の内府(だいふ)が、世をへうする様(やう)にふるまふ。大きに諫(いさ)めばや」とこそ思はれけめども、さすが子ながらも、内には五戒(ごかい)をたもツて慈悲を先とし、外(ほか)には五常(ごじやう)を乱らず礼儀をただしうし給ふ人なれば、あのすがたに、腹巻を着て向(むか)はむ事、おもばゆう恥づかしうや思はれけむ、障子(しやうじ)をすこし引きたてて、素絹(そけん)の衣を、腹巻の上に、あわて着(ぎ)に着給ひたりけるが、胸板(むないた)の金物(かなもの)のすこしはづれて見えけるを、かくさうど、頻(しき)りに衣の胸を引きちがへ引きちがへぞし給ひける。

おとどは舎弟宗盛卿(むねもりのきやう)の座上(ざじやう)につき給ふ。入道も宣ひいだす旨もなし。おとども申しいださるる事もなし。良(やや)あツて入道宣ひけるは、「成親卿(なりとかのきやう)が謀反(むほん)は、事の数にもあらず。一向(いつかう)法皇の御結構にてありけるぞや。世をしづめん程(ほど)、法皇を鳥羽(とば)の北殿へうつし奉るか、しからずは是(これ)へまれ、御幸(ごかう)をなし参らせんと思ふはいかに」と宣へば、おとど聞きもあへず、はらはらとぞ泣かれける。入道、「いかに、いかに」とあきれ給ふ。おとど涙をおさへて申されけるは、「此仰(このおほ)せ承り候に、御運ははや末になりぬと覚え候。人の運命の傾(かたぶ)かんとては、必ず悪事を思ひたち候なり。又御有様(おんありさま)、更にうつつともおぼえ候はず。さすが我朝(わがてう)は、辺地粟散(へんぢそくさん)の境と申しながら、天照大神(てんせうだいじん)の御子孫、国の主(あるじ)として、天(あま)の児屋根(こやね)の尊(みこと)の御末、朝(てう)の政(まつりごと)をつかさどり給ひしよりこのかた、太政大臣(だいじやうだいじん)の官に至る人の、甲冑(かつちう)をよろふ事、礼儀を背くにあらずや。就中(なかんづく)御出家の御身(おんみ)なり。夫三世(それさんぜ)の諸仏、解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ)をぬぎ捨てて、忽(たちま)ちに甲冑をよろひ、弓箭(きゆうせん)を帯しましまさむ事、内には既(すで)に破壊無慙(むざん)の罪をまねくのみならず、外(ほか)には又、仁義礼智信の法にもそむき候ひなんず。かたがた恐(おそれ)ある申事(もうしごと)にて候へども、心の底に旨趣(しいしゆ)を残すべきにあらず。まづ世に四恩(しおん)候。天地の恩、国王の恩、父母(ぶも)の恩、衆生の恩、是なり。其(その)なかに尤(もつと)も重きは朝恩なり。普天(ふてん)の下、王地(わうぢ)にあらずと云ふ事なし。

されば彼潁川(かのえいせん)の水に耳を洗ひ、首陽山(しゆやうざん)に蕨(わらび)を折(を)ツし賢人も、勅命そむきがたき礼義をば、存知(ぞんぢ)すとこそ承れ。何(いか)に況哉(いはんや)、先祖にもいまだ聞かざツし、太政大臣をきはめさせ給ふ。いはゆる重盛(しげもり)が無才愚闇(むさいぐあん)の身をもツて、蓮府槐門(れんぷくわいもん)の位にいたる。しかのみならず、国郡半(なか)ば過ぎて、一門の所領となり、田園(でんをん)悉(ことごと)く、一家(いつけ)の進止(しんじ)たり。これ希代(きたい)の朝恩にあらずや。今これらの莫太(ばくたい)の御恩を思召(おぼしめ)し忘れて、みだりがはしく法皇を傾(かたぶ)け奉らせ給はん事、天照大神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)の神慮にも背(そむ)き候ひなんず。日本(につぽん)は是神国(これしんこく)なり。神は非礼を享(う)け給はず。しかれば君のおぼしめし立つところ、道理なかばなきにあらず。なかにも此一門(このいちもん)は、代々の朝敵を平げて、四海の逆浪(げきらう)をしづむる事は、無双(ぶそう)の忠なれども、其(その)賞に誇る事は、傍若無人(ぼうじやくぶじん)とも申しつべし。聖徳太子(しやうとくたいし)十七ケ条の御憲法(ごけんばふ)に、『人皆心あり。心おのおの執(しゆ)あり。彼(かれ)を是(ぜ)し、我を非し、我を是し、彼を非す。是非の理、誰かよくさだむべき。相共に賢愚(けんぐ)なり、環(たまき)のごとくして端(はし)なし。ここをもツて設(たと)ひ人いかると云ふとも、かへツて我とがをおそれよ』とこそみえて候へ。しかれども、御運つきぬによツて、御謀反既にあらはれぬ。其上(そのうへ)仰せ合せらるる成親卿(なりちかのきやう)、召しおかれぬる上は、設(たと)ひ君いかなる不思議をおぼしめしたたせ給ふとも、なんのおそれか候べき。所当(しよたう)の罪科おこなはれん上は、退(しりぞ)いて事の由を陳じ申させ給ひて、君の御ためには、弥(いよいよ)奉公の忠勤をつくし、民のためにはますます撫育(ぶいく)の哀憐(あいれん)をいたさせ給はば、神明(しんめい)の加護にあづかり、仏陀(ぶつだ)の冥慮(みゃうりよ)にそむくべからず。神明仏陀感応(かんおう)あらば、君もおぼしめしなほす事などか候はざるべき。君と臣とならぶるに、親疎わくかたなし。道理と僻事(ひがごと)をならべんに、争(いか)でか道理につかざるべき」。

現代語訳

旗ざおどもを引き寄せ引き寄せ、馬の腹帯をかため、甲の緒をしめ、只今皆出発しようとする様子であるのに、小松殿は、烏帽子直衣に大紋のはいった指抜のももだちをとって、さやさやと衣擦れの音をたててお入りになるので、意外のように思われた。

入道はふし目になって、「ああいつもの内府が、世を軽んじるようにふるまう。大いに諌めなくては」とは思われたようだが、やはり子でありながらも、仏教の道においては五戒をたもって慈悲をなにより優先し、儒教の道においては五常を乱さず礼儀をただしくなさる人であるので、あのすがたに、腹巻を着て向かう事は、恥ずかしいとでも思われたのだろう、ふすまをすこし閉めて、素絹の衣を、腹巻の上に、あわてて着られたが、胸板の金物のすこしはみだして見えているのをかくそうと、しきりに衣の胸を引き合わせ引き合わせなさった。

内大臣は弟宗盛卿の座上におつきになる。入道も言い出されることもなし。内大臣も言い出されることもなし。しばらくして入道がおっしゃったのは、

「成親卿の謀反は、ものの数でもない。一切は法皇のご計画であったのだ。世をしずめる間、法皇を鳥羽の北殿へうつし申し上げるか、そうでなければ西八条へでも、御幸をなし申そうと思うがどうか」

とおっしゃると、おとどは聞くやいなや、はらはらと泣かれた。

入道は、「どうしたどうした」と呆然となさる。

おとどは涙をおさえて申されたのは、

「この仰せをうかがいましたところ、一門の御運ははやくも末になったと存じます。人の運命の傾こうというときは、必ず悪事を思い立つものでございます。

また父上のご様子は、まったく正気とも思われません。なんといってもわが国は辺鄙なところに粟が散らばったような小国といいながら、天照大神の御子孫、国の主として、天の児屋根の尊(みこと)の御子孫(藤原氏)が、朝廷の政治をつかさどりなさって以来、太政大臣の官に至る人が、甲冑をよろう事は、礼儀を背くものでないでしょうか。ましてご出家の御身です。

いったい過去・現在・未来の仏たちが、出離解脱のあかしである法衣をぬぎ捨てて、急に甲冑をきて、弓矢を持たれる事は、仏教の道においては戒をやぶって恥じないという罪をまねくのみならず、儒教の道においても、仁義礼智信の法にもそむくことになりましょう。

どちらにしても恐縮な申し事でございますが、心の底に思っていることを残すべきではありません(ぜんぶ言ってしまいます)。

まず世に四つの恩がございます。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩、これらです。

そのなかにもっとも重いのは天子の恩です。広い天の下はすべて王の地です。なので、皇帝から全国の長官になれときいて潁川の水で耳を洗ったという許由、周の武王をいさめて用いられず首陽山でわらびをとって食べていたという伯夷・叔斉のような賢人も、勅命にはそむけないという礼儀をわきまわえていたときいています。

ましてや、先祖にもいまだ聞かなかった、太政大臣の位をお極めになりました。才学なく愚かであると言われている重盛の身をもって、内大臣の位に至りました。

それだけではなく、国郡なかば以上が一門の所領となり、荘園はことごとく、一家の思うがままです。これは世にもまれな天子の恩でないでしょうか。

今これらの莫大な御恩を思い忘れられて、無法にも法皇の滅亡をもくろみ申される事は、天照大神、正八幡宮の神慮にも背くことでございましょう。

日本は神国です。神は非礼をお受けになりません。であれば君(法皇)の思い立たれるところは、道理がなかばないわけではありません。

なかにもこの一門は、代々の朝敵を平定して、天下の反乱をしずめる事は、ならびなき忠ではありますが、その賞に誇る事は、傍若無人とも申すべきです。

聖徳太子十七条の御憲法に、『人には皆心がある。心にはおのおの固執するところがある。彼を是とし、我を非とし、我を是し、彼を非す。是非の道理は、誰がよく決められよう。互いに賢かったり愚かだったで、輪のように端がない。だから、たとえ人が怒っても、かえって自分の非を恐れよ」とみえてございます。

しかし一門の御運がまだつきていないので、御謀反はすでに発覚しました。その上法皇とご相談されていた成親卿を召しおかれている上は、たとえ法皇がどのような理不尽を思い立たれたとしても、なんのおそれがございましょう。

それぞれに相当する処罰が行われる上は、退出して事の次第をお述べになり、法皇の御ためには、いよいよ奉公の忠勤をつくし、民のためにはますますいつくしみ育てる哀れみをほどこしなされば、神明の加護にあずかり、仏陀の冥慮にもそむくことはないでしょう。

神明仏陀が心に感じてしるしを示されるなら、君も思い直されることがどうしてございませんでしょう。

君と臣とを並べて親しい疎いという区別をしてはならず君に従うべきです。

道理と間違いをならべるに、どうして道理につかないことがありましょう」。

語句

■ひきそばめ 引きよせて。 ■大文の指貫 大きな模様の入った袴。 ■そばとって 袴の股立(ももだち)をとって。「股立」は袴の側面の切れ込み。動きやすくするために股立を帯にはさみこむのを「股立を取る」という。 ■ざやめき入り ざわざわと衣擦れの音を立てる。 ■例の内府 重盛。 ■へうする 僄する。軽んじる。 ■諌めばや 叱責しなくては。 ■内には… 仏教の経典を内典、儒教の書を外典という。 ■五戒 仏教の説く五つの戒め。不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒(ふおんじゅ)。 ■五常 儒教の説く人の守るべき五つの道徳。仁義礼智信。 ■おもばゆう 恥ずかしく。ばつが悪く。 ■素絹(そけん)の衣 素絹(練っていない生糸で織った絹)で作った白い僧服。 ■さすが なんといっても、やはり。 ■辺地粟散 粟散辺地。辺鄙なところに粟が散らばったような小国。日本の別称。 ■天の児屋根の尊 カムムスヒノミコトの子。藤原氏の祖。天孫降臨に際し、ニニギノミコトの案内をした。 ■三世 さんぜ。過去・現在・未来。 ■解脱幢相の法衣 出離解脱をしたことの旗印(幢相)としての法衣。 ■破戒無慙 仏の戒めを破り恥じるということがない。 ■旨趣 しいしゅ。心の中に思っていること。 ■普天のした、王地にあらずと伝ふ事なし 広い空の下はすべて王の土地であるの意。『詩経』による。 ■かの潁川の水に耳を洗い 堯帝が許攸に九州の長(全国の長官)になれと言うと、許攸は耳が汚れたといって潁川で耳を洗ったという故事(高士伝)。 ■首陽山に蕨を折ッし賢人 伯夷・叔斉は周の武王が殷の紂王を討つのを諌めたが聞き入れなかった。周の世になつてから周王に招かれるのを嫌って首陽山(山西省西南部の山)に隠れ蕨を食って生活した(『史記』伯夷伝)。 ■何に況哉 まして。「況や」の強調。 ■いわゆる 世間に言われているところの。 ■蓮府槐門 れんぷかいもん。大臣。南斉の大臣王倹が蓮を愛し庭に植えたことから。『徒然草』114段にも。 ■田園 荘園。 ■進止たり 進退。好きに扱えるということ。 ■神は非礼を享け給はず 「神ハ非礼ヲウケズ」(『論語集解義疏』八佾第三)。 ■聖徳太子十七条憲法 推古天皇12年(604)制定。役人のまもるべき心構えを示した。その第十条に「人皆心有リ、心各執有リ。彼是ナレバ則チ我非、我是ナレバ則チ彼非。我必ズシモ聖に非ズ、彼必ずしも愚に非ズ。共ニ是凡夫ノミ。是非の理詎カ能ク定ムベケム。相共に賢愚ナリ、鱞(みみかね)ノ端無キガ如シ。是(ここ)を以テ彼人ハ瞋(いか)ルと雖モ、還ツテ我ガ失ヲ恐レヨ」(『日本書紀』)。

朗読・解説:左大臣光永

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