平家物語 二十四 大納言流罪

『平家物語』巻第ニより「大納言流罪(だいなごんるざい)」。

鹿谷の陰謀の首謀者として身柄を拘束された新大納言成親(なりちか)は、備前の児島へ流罪となる。

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あらすじ

治承元年(1177)六月二日、新大納言成親は鹿谷事件の首謀者として車に乗せられる。

新大納言は「今一度小松殿(重盛)に会わせてくれ」と頼むが、聞き入れられない。

道すがら、牛飼い、雑人にいたるまで涙を流した。

鳥羽殿を過ぎるにつけても、法皇がこの御所へ御幸の時はいつもお供をしたのにと思われ、わが山荘州浜殿もよそながら見て通っていく。

新大納言は警護の武士難波次郎経遠に「このあたりに私の知り合いがあれば、ことづけを頼みたい」と頼むが、名乗り出るものは一人もなかった。

新大納言はかつて一二千人もの人を従えていたことを思い、状況がかわったことを あらためて実感した。

その日は、摂津の国大物の浦(現兵庫県尼崎市の海岸)に着いた。

新大納言が死罪を流罪に減ぜられたのは、重盛のとりはからいであったが、新大納言は中納言の時にも流罪になりかけたことがある。

嘉応元年(六年前)、新大納言が中納言として美濃国(事実は尾張国)を知行していた頃のこと。

目代(代官)右衛門尉正友が地元の神人(じんにん。神社に奉仕する人)ともめごとを起した末に十余人を殺害した。

山門の大衆は、国司成親と目代正友の処分を求め、朝廷へ訴えた。

成親は備中国へ流罪と決まり、 すでに配所へ向かっていたところ、後白河法皇から赦免の書状がとどき釈放となった。

山門の大衆は成親らを呪詛した。

しかし成親は罰せられることはなく、順調に出世し、当然そのポストにつくべき人々をも追い越して、出世した。それは、三条室町殿を造営して法皇に寄進したためであった。

人々は山門の呪詛のあてにならないことを嘲ったが、今になってその呪詛が 功を奏し、流罪となったのだろうか。

同三日、新大納言を備前の児島に流せとの使いが京から届く。また、重盛から文があった。

「都近い山里にととりなしたのですが、こんな結果となって 申し訳ない。しかし、命ばかりはお助けできました」と、文があった。

新大納言は嘆き悲しむ。

長い船旅の末、一行は備前の児島に着いた。

原文

同(おなじき)六月二日(ふつかのひ)、新大納言成親卿(しんだいなごんなりちかきやう)をば、公卿(くぎやう)の座へ出(い)だし奉り、御物(おんもの)参らせたりけれども、うねせきふさがツて、御箸(おはし)をだにもたてられず。御車(おんくるま)を寄せて、とうとうと申せば、心ならず乗り給ふ。軍兵(ぐんぴやう)共、前後左右(ぜんごさう)にうちかこみたり。我方(わがかた)の者は一人(いちにん)もなし。「今一度小松殿に見え奉らばや」と宣(のたま)へども、それもかなはず。「縦(たと)ひ重科(ぢゆうくわ)を蒙(かうぶ)ツて、遠国(ゑんごく)へゆく者も、人一人(いちにん)身にそへぬ者やある」と、車のうちにてかきくどかれければ、守護の武士共も、皆鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらしける。西の朱雀(しゆしやか)を南へゆけば、大内山(おほうちやま)も今はよそにぞ見給ひける。としごろ見なれ奉りし雑色牛飼(ざふしきうしかひ)に至るまで、涙をながし袖をしぼらぬはなかりけり。まして都に残りとどまり給ふ北の方、をさなき人々の心のうち、おしはかられて哀れなり。鳥羽殿(とばどの)を過ぎ給ふにも、此(この)御所へ御幸(ごかう)なりしには、一度も御供(おんとも)にははづれざりし物をとて、わが山庄(さんざう)すはま殿とてありしをも、よそにみてこそとほられけれ。南(みんなみ)の門(もん)に出でて、舟おそしとぞいそがせける。「こはいづちへやらん。同じううしなはるべくは、都ちかき此辺(このへん)にてもあれかし」と宣ひけるぞ、せめての事なる。ちかうそひたる武士を、「たそ」と問ひ給へば、「難波次郎経遠(なんばのじろうつねとほ)」と申す。「若(も)し此辺に我方(わがかた)さまの者やある。舟に乗らぬ先にいひおくべき事あり。尋ねて参らせよ」と宣ひければ、其辺(そのへん)をはしりまはツて尋ねけれども、我こそ大納言殿の方と云ふ者一人(いちにん)もなし。「我世(わがよ)なりし時は、したがひついたりし者ども、一二千人もありつらん。いまはよそにてだにも、此有様を見送る者のなかりけるかなしさよ」とて、泣かれければ、たけきもののふ共も、みな袖をぞぬらしける。

身にそふ者とては、ただつきせぬ涙ばかりなり。熊野詣(くまのまうで)、天王寺詣(てんわうじまうで)なンどには、二(ふた)つがはらの三棟(みつむね)につくツたる舟に乗り、次の舟(ふね)二三十艘漕(さうこ)ぎつづけてこそありしに、今はけしかるかきすゑ屋形船(やかたぶね)に大幕(おほまく)ひかせ、見もなれぬ兵(つはもの)共にぐせられて、今日(けふ)をかぎりに都を出でて、波路(なみぢ)はるかにおもむかれん心のうち、おしはかられて哀れなり。其日(そのひ)は摂津国大物(つのくにだいもつ)の浦に着き給ふ。

新大納言既(すで)に死罪に行(おこな)はるべかりし人の、流罪(るざい)に宥(なだ)められけることは、小松殿のやうやうに申されけるによツてなり。此人(このひと)いまだ中納言にておはしける時、美濃国(みのくに)を知行(ちぎやう)し給ひしに、嘉応(かおう)元年の冬、目代右衛門尉正友(うゑもんのじようまさとも)がもとへ、山門(さんもん)の領(りやう)、平野庄(ひらのしやう)の神人(じんにん)が、葛(くず)を売ってきたりけるに、目代酒に飲み酔(ゑ)ひて、葛に墨をぞ付けたりける。神人悪口(あくこう)に及ぶ間、さないはせそとて、さむざむに陵轢(りようりやく)す。さる程(ほど)に、神人共数百人(すひやくにん)、目代が許(もと)へ乱入す。目代法(ほふ)にまかせて防ぎければ、神人等十余人うちころさる。

現代語訳

同年(治承元年(1177))六月二日、新大納言成親卿(なりちかのきょう)を、賓客用の座敷へお通し申して、お食事を差し上げたが、大納言は胸がふさがって、お箸さえもおつけにならない。

御車を寄せて、はやくはやくと申せば、不本意ながらお乗りになる。軍兵どもが、前後左右にうちかこんだ。自分のほうの者は一人もない。

「今一度小松殿にお目にかかりたい」とおっしゃったが、それもかなわない。

「たとえ重い罰を受けて、遠国へゆく者も、人一人も身にそえない者があろうか」と、車のうちで繰り返し訴えられたので、守護の武士たちも、皆鎧の袖をぬらした。

西八条の西の朱雀大路を南へゆけば、大内裏も今はよそにご覧になる。長年見なれ申した雑色牛飼にいたるまで、涙をながし袖をしぼらないものはない。

まして都に残りとどまりなさる北の方、幼い人々の心のうちが推量されて、哀れである。

鳥羽殿をお過ぎになる時も、この御所へ法皇が御幸される時には、一度も御供にははずされなかったのにといって、自分の山荘すはま殿といってあったのも、よそにみて通られた。

鳥羽殿の南門に出てると、「舟が着くのが遅い」といって武士たちが急がせた。

「これはどこへ連れて行かれるのだろう。同じ死罪になるなら、都にちかいこの辺りでやってもらいたい」

とおっしったのが、せめての大納言の願い事だった。

ちかくお供している武士を、「誰か」とご質問になると、「難波次郎経遠(つねとお)」と申す。

「もしこの辺りに私の召し使っている者があるだろうか。舟に乗る前に言いおかなければならない事がある。尋ねてここに参らせよ」

とおっしゃったので、その辺りをはしりまわって尋ねたが、自分は大納言殿の召使であるという者は一人もない。

「わが権勢さかんであった時は、したがいついた者ども、一ニ千人もあったろう。いまはよそながらさえも、この様子を見送る者のなかったことのかなしさよ」

といって、泣かれるので、勇猛な武士たちも、みな袖をぬらした。身にそえる物といっては、ただ尽きることない涙ばかりである。

熊野詣、天王寺詣などには、竜骨二本入れて三段の屋形をしつらえた立派な舟に乗り、つづく舟がニ三十艘こぎつれたのに、今は不格好な簡単な屋形をすえつけた舟に大幕をひかせ、見なれない兵どもにつれられて、今日を最後と都を出て、波路はるかにおもむかれる心のうちが、推量されて哀れである。

その日は摂津国(つのくに)大物(だいもつ)の浦におつきになった。

新大納言はすでに死罪にされるはずだった人が、流罪に減刑されたことは、小松殿がさまざまに申されたことによってである。

この人がいまだ中納言でいらした時、美濃国を知行なさっていた時、嘉応元年の冬、目代右衛門尉(うえもんのじょう)正友(まさとも)のもとへ、山門(延暦寺)の領土である平野庄の神人(じんにん=神社に奉仕する神職)が、葛織物を売ってきたときに、目代は酒を飲んで酔っていて、葛織物に墨をつけた。

神人が悪口におよぶので、そんなことは言わせないぞと、さんざんに踏みにじった。そのうちに、神人数百人が、目代のもとに乱入した。目代が法のままに防ぐと、神人ら十余人がうちこれされた。

語句

■公卿の座 貴人のための座敷。 ■御物 お食事。 ■心ならず 不本意ながら。 ■西の朱雀を南へゆけば 西八条から八条通りを西へ、朱雀通りで左に折れて南へ。 ■大内山 大内裏の別称。 ■すはま殿 新大納言成親の山荘。鳥羽殿のち近くにあった。 ■南の門 鳥羽殿の南の門。 ■せめての事なる せめてもの望みである。 ■我世なりし時は 自分が世にときめいて繁昌していた時は。 ■熊野詣 紀伊国熊野に参詣すること。 ■天王寺詣 大坂の四天王寺に参詣すること。 ■ニつがはらの かはら(竜骨)が二本入った船。竜骨は船底をつらぬいて船全体を支える柱。それが二本あるということで、大きく立派な船。 ■三棟つくつたる舟 三層の屋形になった船。 ■けしかる 異しかる。異様な。変な。 ■かきすゑ屋形船 簡単な屋形につくった船。 ■摂津国大物浦 兵庫県尼崎市の南東部。ここから船を出す。 ■やうやうに 様々に。あれこれと。 ■嘉応元年… 『百練抄』嘉応元年(1169)十二月十三日条に神人が日吉の神輿を掲げて都に強訴に及んだ、その理由は中納言成親の知行する尾張国の目代、右衛門尉政友が神人と不慮の乱闘があったせいであるとある。本文の「美濃」は「尾張」、「正友」は「政友」が正しい。 ■平野庄 『玉葉』に尾張目代が比良野神人と総論あったと記す。平野は美濃国安八郡神戸(ごうど)町周辺の地。大垣の北。 ■神人 じんにん。じにん。神社に奉仕する下級の神職。 ■葛を売つてきたりけるに 「葛」は葛の繊維で編んだ布。 ■陵轢す りょうりゃくす。暴行を加えること。 

原文

是(これ)によツて、同年(おなじきとし)の十一月三日(みつかのひ)、山門の大衆(だいしゆ)、夥(おびただ)しう蜂起(ほうき)して、国司成親卿(なりちかのきやう)を流罪に処せられ、目代右衛門尉正友(うゑもんのじようまさとも)を禁獄せらるべき由、奏聞(そうもん)す。既(すで)に成親卿備中国(びツちゆうのくに)へながさるべきにて、西(にし)の七条(しちでう)までいだされたりしを、君いかがおぼしめされけん、中五日あツて召しかへさる。山門の大衆夥(おびただ)しう呪詛(しゆそ)すと聞えしかども、同(おなじき)二年正月五日(いつかのひ)、右衛門督を兼(けん)じて、検非違使(けんびゐし)の別当になり給ふ。其時資賢(すけかた)・兼雅卿(かねまさのきやう)こえられ給へり。

資賢卿(すけかたのきやう)はふるい人おとなにておはしき。兼雅卿は栄花(えいぐわ)の人なり。家嫡(けちやく)にてこえられ給ひけるこそ遺恨なれ。是は三条殿造進(ざうしん)の賞なり。同(おなじき)三年四月十三日、正二位(じやうにゐ)に叙(じよ)せらる。其時は中御門(なかのみかど)の中納言宗家卿(ちゆうなごんむねいへのきやう)こえられ給へり。安元(あんげん)元年十月廿七日、前中納言(さきのちゆうなごん)より権大納言(ごんだいなごん)にあがり給ふ。人あざけツて、「山門の大衆にはのろはるべかりける物を」とぞ申しける。されども今はそのゆゑにや、かかるうき目にあひ給へり。凡(およ)そは神明(しんめい)の罰も人の呪詛(しゆそ)も、ときもあり遅きもあり、不同なる事共なり。

同三日(おなじきみつかのひ)、大物(だいもつ)の浦へ京より御使(おつかひ)ありとてひしめきけり。新大納言、「是(これ)にて失へとにや」と聞き給へば、さはなくして、備前(びぜん)の児島(こじま)へながすべしとの御使なり。小松殿より御文(おんふみ)あり。「いかにもして、都ちかき片山里に(かたやまざと)におき奉らばやと、さしも申しつれども、かなはぬ事こそ世にあるかひも候はね。さりながらも、御命(おんいのち)ばかりは申しうけて候」とて、難波がもとへも、「かまへてよくよく宮仕(みやづか)へ、御心(おんこころ)にたがふな」と仰せられつかはし、旅のよそほひこまごまと沙汰(さた)しおくられたり。

新大納言は、さしも忝(かたじけな)うおぼしめされける君にもはなれ参らせ、つかのまもさりがたう思はれける北の方、をさなき人々にも、別れはてて、「こはいづちへとて行くやらん。二度(ふたたび)故郷に帰ツて、妻子(さいし)を相見ん事もありがたし。一年(ひととせ)山門の訴訟によツてながされしを、君惜しませ給ひて、西(にし)の七条(しつでう)より召し帰されぬ。これはされば君の御警(いましめ)にもあらず、こはいかにしつる事ぞや」と、天にあふぎ地にふして、泣きかなしめどもかひぞなき。明けぬれば既(すで)に舟おしいだいて下り給ふに、みちすがらもただ涙に咽(むせ)んでながらふべしとはおぼえねど、さすが露の命は消えやらず、跡の白浪(しらなみ)へだつれば、都は次第に遠ざかり、日数(ひかず)やうやう重(かさな)れば遠国(ゑんごく)は既に近付きけり。備前(びぜん)の児島(こじま)に漕(こ)ぎ寄せて、民(たみ)の家のあさましげなる柴(しば)の庵(いほり)におき奉る。島のならひ、うしろは山、前は海、磯(いそ)の松風浪(なみ)の音、いづれも哀れはつきせず。

現代語訳

これによって、同年(嘉応元年)の十一月三日、山門の大衆が、大勢、蜂起して、国司成親卿を流罪に処せられ、目代右衛門尉正友を牢獄へ入れられるべきことを奏上した。

すでに成親卿は備中国に流されることになって、西の京の七条まで出されたのを、法皇はなにを思われたのだろう、中五日あって召しかえされる。

山門の大衆がひどく呪ったと聞こえたが、同(嘉応)二年正月五日、右衛門督(うえもんのかみ)を兼任して、検非違使の別当になられた。

その時、源資賢・藤原(花山院)兼雅卿の官位をこえられた。資賢卿は長老でいらした。

兼雅卿は摂家につぐ清華(せいが)の家柄(花山院家)の人であった。

名家の嫡男でありながらこえられなさったのは恨み深いことであった。

これは成親卿が三条室町殿を造営して法皇に寄進したことの賞である。

同三年四月十三日、正ニ位に叙せられた。その時は中御門(なかのみかど)の中納言宗家卿の官位をお超えになった。

安元元年十月二十七日、前中納言から権大納言にご昇進された。人はあざけって、「山門の大衆に呪われるべきなのに」と申した。

しかし今はその呪いせいだろうか、このような悲しい目にもあわれることになった。いったい神罰も、人の呪いも、速いこともあり遅いこともあり、定まらない事どもである。

同月(十月)三日、大物の浦から京へ御使ありといってさわぎあった。

新大納言は、「ここで殺せということか」とお聞きになると、そうではなくて、備前の児島へ流せとの御使である。小松殿から御文がある。

「どうにかして、都にちかい片山里にとどめ置き申さねばと、そのように申しましたが、かなわなかった事は世に生きているかいもございません。そうはいっても、御命ばかりは請いうけてございます」

といって、難波がもとへも、「注意して、よくよく大納言にお仕えして、御心に違うことをするな」

と仰せつかわし、旅のしたくを細々と指示して送られた。

新大納言は、あれほど畏れ多くも自分のことを思ってくださった法皇にも離れ申して、ほんの少しの間でも別れがたく思っていた北の方と、おさなき人々にも、別れてしまって、

「これはどこへ行くのだろうか。ふたたび故郷に帰って、妻子と会うことも難しい。

先年、山門の訴訟によって流されたのを、法皇は惜しまれて、西の京の七条から召帰された。これはそれでは、法皇の御戒めでもない、これはどうした事か」

と、天にあおぎ地にふして、泣き悲しんでもどうにもならない。

夜が明けるとすでに舟をおしだしてお下りになるのだが、途中も、ただ涙にむせぶばかりで、このまま生きていられるとも思われないが、も露のようなはかない命とはいっても消え行くことなく、漕ぎゆく舟の跡の白波が距離をへだてるので、都は次第に遠ざかり、日数がだんだん重なると、遠国はもう近づいた。

備前の児島に漕ぎよせて、民の家のみすぼらしい芝の庵に、大納言をおき申し上げる。

島の常として、うしろは山、前は海、磯の松風波の音、いづれも哀れはつきない。

語句

■西の七条 西の京の七条。 ■右衛門督を兼じて、検非違使の別当に… 「正月五日兼右兵衛督別当」(公卿補任)。文中「右衛門督」は正しくは「右兵衛督」。 ■資賢・兼雅卿こえられ給へり 「資賢」は源(庭田)資賢。兼雅は藤原(花山院)兼雅。 ■ふるい人おとな 年寄りの長老。 ■栄花の人 清華(せいが)に同じ。清華家は五摂家につぐ公家の家柄。花山院家は七清華の一。 ■家嫡 けちゃく。名家の嫡子。 ■三条殿 三条室町御所。三条よ北、室町東にある。 ■中御門の中納言宗家卿 藤原(中御門)宗家。嘉応3年(1171)従二位、中納言。 ■安元元年 安元元年(1175)十一月二十八日(『玉葉』)。 ■前中納言より権大納言にあがり給ふ 正しくは権中納言。 ■備前の児島 岡山県児島郡。当時は離れ小島だった。 ■申し受けて候 お命ばかりはもらいうけました。 ■かまへて 注意して。 ■宮仕へ 動詞「宮仕ふ」の連用形。 ■忝うおぼしめされける君 勿体なくも自分のことを心にかけてくださった君(後白河)。 ■こはいかにしつる事ぞや これはいったいどうしたことだ。慣用句。『足摺』『僧都死去』にも類句。 ■跡の白波へだつれば 船の立てる白波が都と自分の間をへだてるので。「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白波」(拾遺・哀傷 沙弥満誓)。「足摺」にも引用。 ■あさましげなる みすぼらしい。 ■柴の庵 柴葺きの庵。

ゆかりの場所

草津港跡

草津港跡 羽束師橋からのぞむ
草津港跡 羽束師橋からのぞむ

『平家物語』に、大納言成親は「鳥羽の南の門」を出て舟に乗ったとある。そこには昔、草津港があった。西国へ流される罪人は草津港から舟に乗るのが常だった。

その後、草津港は水上交通の要所として大いに発展する。

桃山時代から草津港付近には多くの鮮魚業者が軒をつらね、淀川の三十石舟が行き交った。

江戸時代には幕府の命令により公営の魚市場が設営された。これが現在の京都中央卸売市場のルーツとされる。卸したばかりの魚を「走り」とよばれる問屋の仲買人が京都はじめ畿内各地にはこんだ。

魚市場遺跡魚魂碑
魚市場遺跡魚魂碑

明治10年(1877)京都~神戸間に鉄道が敷設されると、物資の集積地は京都駅へ移った。交通の要所としての草津港の役割は減り、しだいに廃れていった。

朗読・解説:左大臣光永

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