平家物語 二十五 阿古屋之松
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『平家物語』巻第ニより「阿古屋之松」。
丹波少将成経は備中妹尾(岡山県妹尾)へ流される。父成親の配所が備前ときき会いたく思うが、預かりの武士・瀬尾太郎兼康は遠く離れていると嘘を教える。
そこで成経は備中・備前・備後が以前は一国だったことから、陸奥国に流された藤原実方の「阿古屋の松」の故事を思い出す。
あらすじ
新大納言成親卿一人ではなく、鹿谷事件に連座した多くの人々が処罰された。
その頃入道相国(清盛)は、福原の別邸にいたが、門脇の宰相(平教盛)のもとへ使いを送り、 「丹波少将成経を福原へよこせ」と命じた。
門脇の宰相が(娘婿である)丹波少将成経にこの事を伝えると、少将は泣く泣く福原へ出発した。
門脇の宰相は、「たとえどの浦に流されようともお訪ねするつもりだ」と少将に伝える。
成経は元服前の幼い息子に別れを告げる。
七歳になったら元服させて法皇へお仕えさせようと思っていたが、今はどうすることも できない。もし命があれば僧になって後世を弔ってくれと語る。
意味はわからないながら、成経の子はうなずく。それを見て、その座に並み居る人々は皆涙を流した。
福原からの使いが急かすので、その夜のうちに 鳥羽へ向かい、同二十二日、福原に到着した。
清盛は、瀬尾太郎兼康(せのおのたろう かねやす)に命じて、成経を備中の国まで下させた。
瀬尾太郎兼康は門脇の宰相に伝わることを恐れて、道すがら成経を慰したが、 成経の気持ちは晴れない。
一方成経の父新大納言成親は、備前の児島から備中の有木の別所(別院)に移されていた。
成経のいる備前の瀬尾と、父成親のいる有木の別所とは、わずか五十町(5.6キロメートル)の距離である。
しかし成経が瀬尾太郎兼康に備中の有木の別所までの距離を尋ねると、「片道十二三日」という。
その時成経は涙を流して言う。
備中、備前、豊後はもとは一国であった。また、陸奥と出羽ももとは一国であった。
そこで、藤中将実方が陸奥に阿古屋の松を尋ねた時の故事を思い浮かべる。
その昔、藤中将実方が陸奥国に流された時、歌枕として有名な阿古屋の松を探しまわった。
実方が地元の老人に「阿古屋の松はどこですか」と 尋ねると、「出羽の国」という。
実方は、「時代か経って、誰も名所のことは覚えていないのだな…」と 虚しく去ろうとする。
老人は実方を呼びとめて言う。
「あなたは、「みちのくの 阿古屋の松に 木がくれて いづべき月の いでもやらぬか」 という歌で阿古屋の松を知ったのでしょう。
それは出羽と陸奥が一国であった時代に詠まれた歌です。
今、阿古屋の松は出羽の国にあります」
実方は老人の言葉のとおり出羽の国に超え、阿古屋の松を見ることができた。
……
成経のいる備中瀬尾と、父成親のいる備前有木はわずか五十町たらず。そんなに時間がかかるわけがない。
成経は瀬尾太郎が嘘をつくのは、父の在所を知られまいという意図だろうと悟り、 以後この話題には触れないようにした。
阿古屋の松の伝承
陸奥守として赴任した中納言藤原豊充の娘阿古耶姫は、地元の若者と恋に落ちる。
しかし若者の正体は千歳山に生える松の古木の精だった。正体を明かし、阿古耶姫のもとを立ち去る。
その後、名取川が氾濫し、橋を新造するため千歳山の松が切り倒されるが、 どうしても動かすことができない。
占い師が「阿古耶姫に頼め」というので、村人はそうする。
阿古耶姫は切り倒された千歳山の松を見て、涙にくれるが、村のために 橋になってくださいと頼む。
木は自然に動き出し、橋のところまで移動し、橋をかけることができた。
……
現山形県千歳山万松寺内の松と言われています。 謡曲「阿古屋松」は、平家物語の「阿古屋之松」に基づき、実方に阿古屋松の所在を 教えた老人は塩釜明神の化身だというアレンジが加えられています。
原文
大納言一人(いちにん)にもかぎらず、警(いまし)め蒙(かうぶ)る輩(ともがら)おほかりけり。近江中将入道蓮浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)、佐渡国(さどのくに)、山城守基兼(やましろのかみもとかね)、伯耆国(ほうきのくに)、式部大輔正綱(しきぶのたいふまさつな)、播磨国(はりまのくに)、宗判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)、阿波国(あはのくに)、新平判官資行(しんぺいはんぐわんすけゆき)は美作国(みまさかのくに)とぞ聞えし。
其比入道相国福原(そのころにふだうしやうこくふくはら)の別業(べちげふ)におはしけるが、同廿日(おなじきはつかのひ)、摂津左衛門盛澄(もりずみ)を使者で、門脇(かどわき)の宰相の許(もと)へ、「存ずる旨あり。丹波少将(たんばのせうしやう)いそぎ是(これ)へたべ」と宣(のたま)ひつかはされたりければ、宰相、「さらば、只(ただ)ありし時、ともかくもなりたりせば、いかがせむ。今更(いまさら)物を思はせんこそ、かなしけれ」とて、福原へ下り給ふべきよし宣へば、少将泣く泣く出(い)で立(た)ち給へり。
女房達は、「かなはぬ物ゆゑ、なほもただ宰相の申されよかし」とぞ、嘆(なげ)かれける。宰相、「存ずる程の事は申しつ。世を捨つるより外(ほか)は、今は何事をか申すべき。されども縦(たと)ひいづくの浦におはすとも、我命のあらんかぎりは、とぶらひ奉るべし」とぞ、宣ひける。
少将は今年(こんねん)三つになり給ふをさなき人を持ち給へり。日ごろはわかき人にて、君達(きんだち)なンどの事もさしもこまやかにもおはせざりしかども、今はの時になりしかば、さすが心にやかかられけん、「此(この)をさなき者を、今一度見ばや」とこそ宣ひけれ。めのといだいて参りたり。少将膝(ひざ)の上に置き、髪かきなで、涙をはらはらとながいて、「あはれ汝(なんぢ)七歳にならば、男になして君へ参らせんとこそ思ひつれ。されども、今は云ふかひなし。もし命いきて、おひたちたらば、法師になり、我後(わがのち)の世(よ)とぶらへよ」と宣へば、いまだいとけなき心に、何事をか聞きわき給ふべきなれども、うちうなづき給へば、少将をはじめ奉ツて、母上、めのとの女房、其座(そのざ)になみゐたる人々、心あるも心なきも、皆袖(そで)をぞぬらしける。福原の御使(おんつかひ)、やがて今夜鳥羽(とば)まで出(い)でさせ給ふべきよし申しければ、「幾程(いくほど)ものびざらむ物ゆゑに、こよひばかりは、都のうちにてあかさばや」と宣へども、頻(しき)りに申せば、其夜(そのよ)鳥羽へ出でられける。宰相あまりにうらめしさに、今度は乗りも具し給はず。
同じき廿二日、福原へ下りつき給ひたりければ、太政入道(だいじやうのにふだう)、瀬尾太郎兼康(せのをのたろうかねやす)に仰せて、備中国(びツちゆうのくに)へぞ下されける。兼康は宰相のかへり聞き給はん所をおそれて、道すがらもやうやうにいたはりなぐさめ奉る。されども少将なぐさみ給ふ事もなし。よる昼ただ仏の御名を(みな)をのみ唱(とな)へて、父の事をぞ嘆(なげ)かれける。
新大納言は備前(びぜん)の児島(こじま)におはしけるを、預(あづかり)の武士、難波之次郎経遠(なんばのじらうつねとほ)、「これは猶船津(なほふなつ)近うて、あしかりなん」とて、地(ぢ)へわたし奉り、備前(びぜん)、備中(びツちゅう)両国の堺(さかひ)、庭瀬(にはせ)の郷(がう)、有木(ありき)の別所(べつしよ)と云ふ山寺におき奉る。
現代語訳
大納言一人にもかぎらず、処罰を受ける連中は多かった。近江中将入道蓮浄(あふみのちゆうじやうにふだうれんじやう)は佐渡国(さどのくに)へ、山城守基兼(やましろのかみもとかね)は伯耆国(ほうきのくに)へ、式部大輔正綱(しきぶのたいふまさつな)は播磨国(はりまのくに)へ、宗判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)は阿波国(あはのくに)へ、新平判官資行(しんぺいはんぐわんすけゆき)は美作国(みまさかのくに)ということだった。
そのころ入道相国は福原の別荘にいらしたが、同月(六月)二十日、摂津左衛門盛澄(もりずみ)を使者として、門脇の宰相(平教盛)のもとへ、
「思うところがある。丹波少将をいそいでこちらへお送りください」
と使者を遣わしておっしゃったので、宰相は、
「そういうことなら、いっそ自分のもとに少将があった時に、どうにでもなっていたら、仕方がないが、いまさら女房たちに物思いをさせることが悲しいことよ」
といって、福原へお下りになるべきことをおっしゃると、少将は泣く泣くご出発された。
女房たちは、「かなわない事でしょうけれど、それでもやはり宰相から入道に申してください」と、嘆かれた。
宰相は、
「思っているほどの事は申した。俗世を捨てて出家するほかは、今は何を申し上げることができよう。それでも、たとえどこの浦にいらっしゃっても、わが命のあるかぎりは、ご訪ね申しましょう」と、おっしゃった。
少将は今年三つになられる幼い人をお持ちである。日ごろは若い人なので、君達などのこともそれほどこまやかに愛情をそそいでいるのでもあられなかったが、今は最後の時になったので、それでもやはり心にかかられたのだろうか、「このおさなき者を、今一度見たい」とおっしゃった。
乳母が幼子を抱いて参った。
少将は膝の上に置き、髪をかきなで、涙をはらはらと流して、
「ああお前が七歳になったら、元服させて法皇さまにお仕えさせようと思っていたのだ。しかし今は言っても仕方がない。もし命いきて、成長したら、法師になり、わが後世をとむらってくれ」
とおっしゃると、まだ幼い心に、何事を聞き分けなさることはないだろうけれども、うなづきなさるので、少将をはじめ、母上、乳母の女房、その座になみいる人々、分別のある人もない人も、皆袖をぬらした。
福原の御使が、すぐに今夜鳥羽までご出発されることを申したので、
「どれほども日数がのびるわけではないので、今夜だけは、都のうちであかしたい」
とおっしゃったが、しきりに申すので、その夜鳥羽へご出発された。
宰相はあまりの恨めしさに、今度は一緒にお乗りにもならない。
同月(六月)二十ニ日、福原へ下りつきなさったので、太上入道は、瀬尾太郎兼康(せのおのたろう かねやす)に仰せになって、備中国へ下された。
兼康は宰相が伝え聞かれることをおそれて、途中も、さまざまに少将をいたわりなぐさめ申し上げる。
しかし少将はなぐさまれる事もない。よる昼ただ仏の御名だけを唱えて、父の事を嘆かれた。
新大納言は備前の児島にいらしたのを、預かりの武士、難波次郎経遠(なんばのじろう つねとお)は、「ここはやはり港が近くて、まずいだろう」といって、陸地へお渡し申して、備前・備中の境、庭瀬の郷、有木の別所という山寺におき申し上げる。
語句
■福原の別業 摂津国武庫郡福原庄。今の神戸市兵庫区の辺。「雪見御所跡」の碑が立つ。 ■存ずる旨 考える事。 ■只ありし時 西八条に呼び出された時。 ■ともかくもなりたりせば どうにかなっていたら。 ■いかがせむ どうしようか。どうにもできない。 ■物を思はせんこそ 丹波少将の北の方や幼き子に悲しい思いをさせることを言っている。 ■かなはぬ物ゆゑ かなわないものですが。「物ゆゑ」は逆説。ものですが。ものながら。 ■宰相の申されよかし 宰相から丹波少将になぐさめの言葉を伝えてくださいの意? ■さしも それほど。 ■今はの時 いよいよお別れという時。 ■男になして 元服させて。 ■心あるも心なきも 思慮分別のあるのもないのも。 ■幾程ものびざらむ物ゆゑに たいして日程が伸びるわけではないので 「ゆゑ」はここでは順接ととる。 ■乗りも具し給はず 一緒にお乗りにもならない。 ■かへり聞き給はん所をおそれて 宰相が伝え聞くことを恐れて。 ■舟津 舟を泊める港。 ■地 ぢ。陸地。 ■庭瀬の郷 備中国賀陽郡。現岡山県庭瀬。 ■有木の別所 「有木」は岡山県高松。羽柴秀吉が城攻めをした「備中高松城」で有名。「別所」は寺本体と別にある僧坊。
原文
備中の瀬尾(せのを)と、備前の有木の別所の間は、纔(わづか)に五十町にたらぬ所なれば、丹波少将(たんばのせうしやう)そなたの風もさすがなつかしうや思はれけむ、或時兼康(あるときかねやす)を召して、「是(これ)より大納言殿の御渡(おんわたり)あんなる、備前の有木の別所へはいか程(ほど)の道ぞ」と問ひ給へば、すぐに知らせ奉ツては、あしかりなんとや思ひけむ、「片道十二三日で候」と申す。其時(そのとき)少将涙をはらはらとながいて、「日本(につぽん)は昔三十三ケ国にてありけるを、中比(なかごろ)六十六ケ国に分けられたんなり。さ云ふ備前、備中、備後(びンご)も、もとは一国にてありけるなり。又あづまに聞(きこ)ゆる出羽(では)、陸奥両国(みちのくりやうごく)も、昔は六十六郡が一国にてありけるを、其時十二郡をさきわかツて、出羽国(ではのくに)とはたてられたり。されば実方中将(さねかたのちゆうじやう)、奥州(あうしう)へながされたりける時、此国(このくに)の名所に、あこ屋(や)の松と云ふ所を見ばやとて、国のうちを尋ねありきけるが、尋ねかねて帰りける道に、老翁(ろうをう)の一人逢(あ)うたりければ、『やや御辺(ごへん)は、ふるい人とこそ見奉れ。当国(たうごく)の名所に、あこやの松と云ふ所や知りたる』と問ふに、『まツたく当国のうちには候(さうら)はず。出羽国にや候らん』。『さては御辺知らざりけり。世はすゑになツて、名所をもはやよびうしなひたるにこそ』とて、むなしく過ぎんとしければ、老翁、中将の袖をひかへて、
『あはれ、君は、
みちのくのあこ屋の松に木(こ)がくれていづべき月のいでもやらぬかといふ歌の心をもツて、当国の名所、あこやの松とは仰せられ候か。それは両国が一国なりし時、読み侍る歌なり。十二郡をさきわかツて後は、出羽国にや候らん』と申しければ、さらばとて、実方中将も、出羽国にこえてこそ、あこ屋の松をば見たりけれ。筑紫(つくし)の太宰府(だざいのふ)より、都へ鰚(はらか)の使(つかひ)ののぼるこそ、かち路(ぢ)十五日とはさだめたれ。既(すで)に十二三日と云ふは、これより殆(ほとん)ど鎮西(ちんぜい)へ下向ござむなれ。遠しと云ふとも、備前、備中の間(あひだ)両三日にはよも過ぎじ。近きを遠う申すは、大納言殿の御渡(おんわたり)あんなる所を、成経(なりつね)に知らせじとてこそ申すらめ」とて、其後は恋しけれども問ひ給はず。
現代語訳
備中の瀬尾と、備前の有木の別所の間は、わずかに五十町にたらない所なので、丹波少将は父のいる有木の別所から吹いてくる風もやはりなつかしく思われたのだろうか、ある時兼康を召して、
「ここから大納言殿のおいでになっているという、備前の有木の別所へはどれほどの道か」とご質問になると、すぐに知らせ申しては、まずいとおもつたのだろう、
「片道十ニ三日でございます」と申す。
その時、少将は涙をはらはらと流して、
「日本は昔三十三ケ国であったのを、中頃六十六ケ国に分けられたという。備前、備中、備後とそのようにいう三国も、もとは一国であったのだ。
また東国で有名な出羽(では)、陸奥(みちのく)両国も、昔は六十六郡が一国であったのを、その時、十二郡を分割して、出羽国として立てられたのだ。
なので実方中将が奥州へながされた時、この国の名所に、あこ屋の松というて所を見たいといって、国のうちを尋ねまわったが、尋ねかねて帰った道に、年老いた翁に一人逢ったので、
『あの、あなたは、古老とお見受け申します。当国の名所に、あこやの松という所を知っていますか』と質問すると、
『まったく当国のうちにはございません。出羽国にございますそうです』。
『それではあなたは知らないのだ。世は末になって、名所をもはや呼び忘れているに違いない』といって、空しく過ぎようとしたところ、老人が、中将の袖をひかえて、
『ああ、あなた様は、
みちのくの…
(みちのくのあこ屋の松の梢に隠れて、出るべき月がまだ出てこないのだろうか)
という歌の意味によって、当国の名所、あこやの松とは仰せになられますか。それは両国が一つであった時、読みました歌です。十二郡を割き分けて後は、出羽国にございますのでしょう』
と申したので、それならといって、実方中将も、出羽国にこえて、あこ屋の松を見たのだった。
筑紫の大宰府から、都へ鰚(はらか) の使ののぼるのは、徒歩で十五日と決まっている。さっき十ニ、三日と言ったのは、ここからほとんど鎮西へ下向する日数であるよ。
遠いといっても、備前、備中の間両は三日よりまさかかかるまい。
近いのを遠く申すのは、大納言殿の流されなさっている所を、成経に知らせまいということで申すのだろう」
といって、その後は恋しかったがご質問にならなかった。
語句
■妹尾 備中妹尾。岡山県妹尾。 ■六十六ケ国 『延喜式』に六十六ケ国ニ島としるす。 ■備前、備中、備後 もと吉備国といい、持統天皇の時三国に分かれた(『松の落葉』藤井高尚(たかなお))。 ■昔は六十六郡が一国にてありけるを 陸奥国五十四郡と出羽十ニ郡、あわせて六十六郡が「陸奥国」としてかつて一国であったのを、和銅5年(712)十ニ郡を「出羽国」として分けた。 ■実方中将 藤原実方。平安時代中期、主に一条天皇の時代に活躍した官人、歌人。殿上で藤原行成の冠をはたき落としたため一条天皇のお怒りを買い、陸奥に左遷された。そのまま任地で没した。 ■あこ屋の松 『古事談』巻ニ。阿古屋は山形市の東南、千歳山のあたり。 ■よびうしないたる 呼び名を失った。伝承が忘れられたこと。 ■みちのくの… みちのくのあこ屋の松の木陰に隠れて、出るべき月が出ないでいるのだなあ。「か」は詠嘆。「イヅベキ月ノイデヤラヌカナ」(『古事談』)。 ■筑紫 九州あるいは築後、筑前をあわせた言い方。 ■大宰府 九州・壱岐対馬を管轄する役所。福岡県太宰府市。 ■鰚(はらか) の使 「鰚(はらか)」は腹の赤い魚。毎年正月に大宰府から京都に届けられた。 ■かち路 徒歩による道のり。 ■下向ござむなれ 「下向にこそあんなれ」の転。下向するのだな。
……
鹿谷事件に連座した罪で丹波少将成経が捕らえられ、備中瀬尾(岡山県妹尾)に流される、
一方、丹波少将の父、新大納言成親は備前の有木の別所に流されていました。
ある時、丹波少将成経が「父の配所まではどれくらいか」と、預かりの武士にきくと、「十二三日です」と、嘘を答えたんですね。
嘘を答えられたことを、丹波少将は気づきました。なぜならば、備前・備中・備後は昔は吉備国というひとつの国だった。だからどんなに遠いといっても、せいぜい2-3日だろう。
それをわざわざ遠く嘘をついたのは父子の間で連絡させないようにしてるんだと、丹波少将はさとって、それ以上聞かなかったという話です。
で、備前・備中・備後が昔はひとつだったということから、やはり陸奥国と出羽国も一つの国だったということを連想し、
遠く陸奥に流された実方中将の故事が引用されています。
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